第55話 最愛の子
※7/6タイトル変更しました。
眩い光が収まると霧が晴れたように、陽光が木々の合間を照らしている。先ほどまでの薄暗さや重苦しい瘴気が嘘のようだ。だが同時に目の届く場所にいたはずのトーカの姿がどこにも見当たらない。
「トーカ……?」
いくら呼んでも返事はなく、フィルは森の中に一人取り残されていた。
ふわふわとした心地よさと温かさが、何だかとても懐かしい。
(ずっとこうしていたいな……)
充足感にそんなことを思っていると、誰かが優しい手つきで髪を撫でてくれる。大切にされていることが伝わってきて、ふっとフィルの顔が浮かび、透花の意識は完全に覚醒した。
「フィー!!」
「あら、起きたの?まだ休んでいていいのよ?」
慈しむような優しい女性の声に顔を向ければ、見たことがないほど美しい女性の姿があった。黄金色の髪は陽光を帯びたように輝いており、ガーネットとサファイアのような瞳は慈しむような色を讃えている。
「あの、ここは……?」
森で全ての魔力を使い果たしたところまでしか記憶がない。身体が軽く魔力が枯渇したとは思えないほど体調が良かった。
「ふふ、ここは女神である私の領域よ。もう誰にも傷付けさせはしないから安心してちょうだい」
目の前の女性が女神だと告げられて、透花は慌ててベッドから下りて頭を下げた。
「た、大変失礼いたしました!」
「まあ、他の人間ならいざ知らず、トーカは私の大切な子なのだからそんな風に畏まらなくていいのよ。それに貴女には大変な苦労をさせてしまったのだから、ここでゆっくりとその傷を癒して欲しいの」
土下座する勢いで床に膝を付いた透花の手を取って、女神は立ち上がらせてくれた。見た目は華奢なので、何か魔法のようなものを使ったのかもしれない。
「トーカはお菓子が好きなのよね?準備をさせるから一緒にお茶をしましょう」
にこにこと嬉しそうに両手を重ねる姿は無邪気な少女のようで、凄絶な美貌が少しだけ和らぎ緊張が解ける。
「ありがとうございます。女神様、お伺いしたいことがあるのですが」
「何かしら?何でも聞いてちょうだい」
慈愛に満ちた表情に、透花は気に掛かっていたことを訊ねた。
「森の浄化はどうなったのでしょうか?」
その瞬間、女神の表情が固まった。動揺する透花に、女神は表情を消して短く答えた。
「そんなことは知らなくていいわ」
何故かは分からないが、女神の機嫌を損ねたことだけは分かった。冷淡な口調から重ねて質問することなど到底出来ない。
森の浄化を訊ねたことが原因なのだとしたら、それは透花が御子の役目を果たせなかったからではないだろうか。あの時、透花は女神に祈りフィルを助けるために森を浄化しようとした。
(女神の力を借りながら失敗したのならそれは私の力不足だったから。私、フィーを助けられなかった……?)
「トーカ?ごめんなさい、怖かったかしら?貴女に怒っているわけではないのよ。泣かないで、私の大切な子」
「も……申し訳……ござ……せ」
フィルを護れなかったと思ったら、涙が溢れて止まらない。女神の前でこんな醜態を晒してはいけないと思うものの、絶望感に目の前が真っ暗に染まる。
「ああ、もう!森は完全に浄化されたわ。貴女がその命を賭してまで頑張ったおかげでね!」
「っく、フィーは……フィル王子は、無事ですか?」
女神の怒りに触れたとしても、それだけは聞いておきたかった。たった一人で透花を助けに来てくれた大切な人だから。
「あの役に立たない王子も無事よ。あんな愚かな人間たちのことなんて忘れなさい。私の大切な子を傷付ける輩などもう知らないわ」
ぎゅっと抱きしめられると安心感があり、この世界に来る前に見た夢を思い出した。辛そうな声で謝っていたのは、女神の声と似ている気がする。
女神が怒っていたのはどうやら透花が理不尽な扱いを受けていたことらしい。
心配してくれることは嬉しいが、女神の言動は重大な影響を及ぼしかねないのではないかという危機感が働いた。フィルに関しても何だか評価が手厳し過ぎるし、好意的でない感情がこもっている。
「女神様、心配してくれてありがとうございます」
涙を拭ってお礼を言うと、女神は嬉しそうに口元を綻ばせた。
「いいのよ、貴女は私の大切な子だもの。生死に関する働きかけは出来ないけど、トーカが望むなら何かしらの罰を与えることは出来るから何でも言ってね」
(……何だかちょっと物騒)
どこか闇を感じさせる笑顔に、透花は慌てて首を振った。彼らはきっと法によって裁かれるだろうし、女神自ら罰を与えるのは行き過ぎだろう。
ここでようやく透花は自分自身の扱いについて疑問を抱いた。
「女神様、私は……ハウゼンヒルト神聖国に戻れるのでしょうか?」
責任感が強く優しいフィルのことだ。透花がいなくなったことで心配しているに違いない。そう思った途端にそわそわしてしまう透花だったが、女神の言葉で思わず動きを止めてしまった。
「まあ、貴女をあんな場所に戻したりしないわ。私の庭で一緒に暮らしましょうね。トーカは好きなことだけしていればいいのよ」
トーカが消えて八日目、物言いたげなジョナスやロイの視線を無視して、今日もフィルは森へと足を運んでいた。
あれから大勢の騎士を投じてトーカの捜索を行ったが、その姿はおろか何の痕跡も発見することが出来なかった。それでも諦めることなど出来なくて、フィルは一人で森を彷徨い、最後にトーカの姿を目撃した場所で懺悔を繰り返す。
「トーカ、君のおかげで大勢の命が救われたよ。だけど……」
感謝の言葉を掛けながらも、その不在に胸が締め付けられる。
(女神よ、貴女の大切な愛し子を護れなかった愚かな僕への罰なのでしょうか?)
透花を失ったこと以上に耐え難いことはない。いっそ自分の命を絶ってしまうことも考えたが、透花が守ってくれた命を無下にすることはどうしてもできなかった。
「フィー!」
幻聴まで聞こえるようになったのかとぼんやり思っていると、温かく柔らかなものが身体に触れた。
「トーカ……トーカ、トーカ!」
切望し続けたトーカの姿がそこにあった。薄っすらと涙が浮かぶ瞳は輝いていて、抱き締めれば生きている温もりが伝わってくる。
「フィー、すぐに戻れなくてごめんね。私……っ、フィー!」
驚いたように目を瞠るトーカにどうしたのか問いかける前に、その手がフィルの頬を優しく拭う。そこでようやく自分が泣いていることに気づいた。
みっともないとは思うものの、トーカがここにいることがまだ信じられない。目を離してしまった瞬間に消えてしまうのではないかという不安に駆られたフィルは、トーカを抱きしめたまま懇願した。
「トーカ、もう絶対に離れない。どうしようもないぐらいに愛してるんだ。どうか僕の側にいて」
触れあっているため、みっともなく震えていることに気づかれているだろう。そんな自分を抱きしめ返してくれたトーカに、縋りつくように掻き抱く。
「フィー、助けにきてくれてありがとう。私もずっと一緒にいたいよ。フィーのこと、好きだから」
嬉しさと愛おしさに胸が苦しい。目が眩みそうなほどの幸福感にフィルはしばらくその場から動けずにいた。
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