第16話 新たな関係

夜の静けさを破るような自分の靴音がどこか不穏で、胸騒ぎさえ感じさせる。そろそろ就寝という時間は異性の部屋を訪れるのにはいささか不適切な時間帯だろう。


ただの偶然かもしれないし、さらに嫌われてしまうかもしれない。それでも明日に改める気にはなれなかった。

廊下を曲がるとちょうど御子の部屋からミレーが出て来るところだった。

薄暗い中でもはっきりと沈痛な表情を浮かべているミレーだが、フィルに気づくと安堵が浮かぶ。


「力及ばず申し訳ございません」


ただ深々と謝罪するミレーに、フィルは自分が間違っていなかったことを知った。


「いや、目を曇らせていたのは私のほうだ。お前の機転で助かった」


チグリジアの花言葉は『私を助けて』

御子の意向に背かないためには、あのような形で伝えるしかなかったのだろう。御子は間違いなく何かしらの問題を抱えているが、フィルにそれを知られたくないらしい。

フィルの行動はそんな御子の願いに反することだ。


(だが、それがトーカ様ご自身を損なうようなものであれば見過ごすことは出来ない)


不安と緊張を覚えながら、フィルは御子の部屋をノックすると入室を許可するか細い声が聞こえた。


「ミレーさ……?!」


フィルの姿に絶句する御子だったが、フィルも別の理由で言葉を失っていた。

生気のない顔は青白く、目元には隈が浮かんでいる。驚きに見開かれた瞳も、すぐに翳りを帯びた不安そうな色に変わったかと思うと、御子はそのまま俯いてしまった。


「トーカ様」


フィルが近づくと、怯えたように後ろに下がったがもう遠慮などしていられない。

そのまま抱え上げると小さな悲鳴を無視して、寝台へと運ぶ。出会った当初に抱き上げた時と変わらないほどの軽さに、見過ごしていた自分に呆れを通り越して怒りを覚える。


「……ごめんなさい」


そんなフィルの気配を感じ取ったのか、寝台の上で身を竦めた御子が小さな声で告げる。


「何に対しての謝罪ですか?」


貴女は何も悪くないのだ、と言って休ませてあげたいところだが、問題が解決しなければ御子の状態は改善されない。

押し黙ってしまった御子をフィルは辛抱強く待つことにした。そんな沈黙に耐え切れなくなったように、御子は様子を窺うように言葉を途切れさせながら言った。


「偽者の御子だから。本当は菜々花が、双子の姉が御子だったのに…………私が逃げだしたいと思ったから、きっと菜々花の代わりに………菜々花が来られなかったら私のせい……っ、だから」

「貴女にそのような妄言を吹き込んだのは誰ですか?」


該当する人物は一人しか思い至らなかったが、御子の口から直接名前を聞かなければフィルの想像でしかない。

だがフィルの質問に御子は口を噤んだ。


不安を示すように側にある枕を握り締めていることに気がついてはいないのだろう。ただ俯いたまま耐えるように口を引き結んでいる。


「お答え頂けないのであれば、トーカ様に接触した全ての人物に罰を与えることになります。もちろんミレーも同様です」

「――っ、駄目!ミレーさんは何も悪くないの!」


弾かれたように顔を上げた御子の必死な様子に胸が痛むが、これは流石に放置できない。何よりも御子を守るためには必要な措置だった。

無言のフィルに説得できないと悟ったのか、御子の目から涙が零れる。


「私が……消えるから。わ、私がいなくなれば……本物が……きっと現れるから――」

「トーカ様、僕はそんなに信用できませんか?」


泣きじゃくりながらも顔を上げて、フィルの言葉の意味を捉えようと懸命にフィルを見つめている。

不安そうなに揺れる瞳は怯えを含んでいるのに、それでも目を逸らさずにいるのはミレーを守るために何とかしたい一心なのだろう。


「ごめんな……さ……わたし……御子に……なれな……」


大粒の涙がとめどなく溢れるのを見て、フィルは半ば無意識に御子を抱きしめていた。驚く気配とともに逃げ出そうとする御子の背中を、赤子をあやすようにゆっくりと、とんとんと叩く。

泣き止まないものの、抵抗をやめてフィルの腕の中に収まった御子にフィルは最初から間違えていたのだと反省する。


彼女に必要なのは忠誠を誓う騎士ではない。御子を敬い最上の礼節をもって遇することは女神の愛し子たる御子への敬意を払うためだが、それは彼女を不安にさせるだけだった。


(思い至れなかったのは僕の責任だ。突然押し付けられた身分に彼女が戸惑うことも、立場以外で見てほしいと望むことも当然のことだ)


第一王子として生まれ相応しい教育を受けてきたフィルでさえ、そう望んだことがある。そのことがジョナスと出会うきっかけになったのだ。


「トーカ様、最初に会った時に貴女の下僕にして欲しいと言ったことを撤回させてください」


胸の中で小さく身じろぎした彼女を安心させるため、優しく髪を撫でた。


「僕はトーカと友達になりたい」

「…………とも、だち?」


まるで初めてその言葉を聞いたかのように、まだ涙が残る瞳を瞬いている。


「御子であっても、そうじゃなくても僕はトーカと友達でいたいと思う」


だから怖がらないで、僕を頼って。言葉にはせず眼差しに想いを込めて見つめていると、トーカは無言で、だが確実に頷いてくれた。


「ありがとう。僕は絶対にトーカを守るから。もう心配しなくていいからね」


まだ混乱しているようだったが、もともと顔色が優れない上に泣き疲れてしまったのだろう。徐々に力が抜けていくトーカが眠りにつくまでフィルは言葉を掛け、頭を撫でた。


(優しいトーカを苦しめた者には相応の報いを受けてもらわないと)


トーカから証言は引き出せなかったものの、これ以上彼女に負担を強いる気はない。

部屋を出るとそのまま待機していたミレーに、フィルはいくつかの指示を与えたのだった。

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