第53話 露呈

たった一日移動するだけでこれほど疲弊することが過去に会っただろうか。

慣れ親しんだ仮面の一つである対外的な微笑みを維持するのに、どれだけ精神力を要しただろう。


(トーカに会いたい、トーカに会いたい、トーカに会いたい……)


無意識のうちに癒しを求めている自分に気づいて、フィルは深々と息を吐いた。

まだ到着したばかりであるし、トーカの不調が改善されなければ滞在を延長する可能性もある。弱音など吐いていられないのに、不愉快なことばかりで現実逃避のようにトーカの笑顔を思い出して心の平穏を保とうとしてしまう。


護衛を理由に移動には馬を使っていたが、ナナカから馬車への同乗を求められたり、逆に馬に乗ってみたいと駄々を捏ねられたりとそのたびに辛抱強く言い聞かせて、宿に到着した頃には日が暮れる頃だった。


また何かにつけて身体を寄せられるのは不快でしかなく、天真爛漫を装っていたが時間が経つにつれて何人かは眉を顰めていた。

胸を押し付けてきたり、ドレスの裾を短くして必要以上に足を晒すのは淑女としてあるまじき行為だ。それとなく侍女が窘めても、まだこの世界に不慣れであることを理由に耳を傾けている様子もない。


王城を離れ周囲に人が少なくなったせいか、可憐で健気な少女の仮面が剥がれて始めている。このままいけば自滅するのも時間の問題かもしれない。


とはいえフィルはトーカからそう長い間離れているつもりはなかった。側にいたいという気持ちもあるが、不穏な動きを見せる貴族たちに付け入る隙を与えたくない。


夕食の席に着くと、ナナカから町の特産品である果実酒を勧められた。


(何か入っているな……)


流石に王族を毒殺するとは思えないため、死ぬことはないだろう。口を付けるとナナカは勝ち誇ったような笑顔を浮かべている。

憶えのあるほのかな風味は媚薬の一種のようだ。毒殺に備えて耐性は付けているものの、必要以上に摂取して良いものではない。王族に対して薬を盛るなど御子であっても罪に問われるとは思わないのだろうか。


(それよりも、どうやって薬を入手したかを調べないとな)


王城で普通に過ごしていて手に入るものではないのだ。周囲の侍女や騎士には心優しい少女を演じているため、彼らに依頼したとは考えにくい。


怪しまれない程度に料理と酒に手を付けて、疲労を理由に食事の途中で退席した。向こうが仕掛けてくるつもりなら、少しは準備をしておく必要がある。

部屋に戻るとフィルは直属の部下に命じて、身体を休めるため目を閉じた。



「フィル様、大丈夫ですか?」


心配しているというには愉悦が滲んだ声に、フィルは眉を顰めた。薬が効いていると確信しているのだろう。確かに弱い薬ではなかったので身体は熱を帯びているが、制御できないほどではない。


「お会いした時から私はずっとフィル様のことを……」


ベッドが軋む音に不愉快さを覚えていると、のんびりとした声が聞こえてきた。


「あー、申し訳ないですが俺、婚約者いるんで離れてもらっていいですか?」

「は?あんた誰よ?!フィル様はどこにいるの!」


一転してきつい口調で問い詰めるナナカは、取り繕う余裕もないほど動揺しているようだ。


「フィル殿下の護衛をしてますロイと申します。殿下の所在は警備上の理由で教えられないんですよ。とりあえず身嗜みを整えてくれますか?部屋までお送りしますので」

「っ、いらないわよ!覚えてなさい!」


苛立ちを抑えることもなく吐き捨てたナナカが出て行くと、部屋に静けさが戻る。


「はあ、おっかない方ですね。フィル殿下、特別手当をお願いしますよ」


クローゼットから出て行くと、ロイは飄々とした口調ながらうんざりとした表情を浮かべている。目を付けられれば厄介なことは重々承知していたので、フィルは鷹揚に頷いた。

念のためその晩、フィルはベッドではなく従者用の小部屋で休んだ。


幸いナナカが再度訪れることはなかったが、その翌朝に体調不良を理由に部屋からでてこなかったのは意趣返しのつもりだろう。

その間フィルは泉について聞き込みを行えば、僅かに水位が下がっているらしい。


(あまり良い傾向ではないかもしれない……)


女神の恩寵を授かる場所に異変が生じるのは、何らかの予兆である可能性もある。街の人々も不安だったのか御子の訪れを喜び、泉に足を運ぶことを心待ちにしているようだ。

だがその翌日もナナカは部屋から出てこない。体調不良だと言うのに食事は菓子類は変わらず運ばれているため、恐らくは仮病だろう。


子供じみた振る舞いに辟易とするが、最終日である明日までは放っておくことにした。ナナカが我儘に振舞うほど求心力が勝手に低下していくのだ。

フィルがその判断を深く悔いることになることは、この時は思いもよらなかった。


最終日もナナカは部屋に籠ったまま出てこない。仕方なくフィルが重い腰を上げようとした時、ガラスを鳴らす音が聞こえて窓を見ればジョナスの鷹が窓枠に止まっている。

足首に付けられた紙片を外すと、ロイを呼んで世話を頼む。


緊張しながら紙を広げれば、トーカの魔力が戻ったという朗報にフィルは安堵の息を漏らした。トーカ自身も気に病んでいただろうし、回復したということはやはりナナカとトーカの魔力に影響があるのではないかという確信がますます強くなる。


最終通告として、これ以上泉への訪問を先延ばしにするのであれば、代わりにトーカに浄化を依頼すると伝えれば、不貞腐れたような表情でようやくナナカは部屋から出て来た。

泉の浄化はあくまで遠ざけるための理由だが、トーカのいない状態でナナカの魔力に変化があったかどうかの確認にもなる。


御子を一目見ようと町の人々が駆けつけ、大勢から憧憬の眼差しを向けられていることに気づいたナナカは機嫌が上向いたようで、堂々とした足取りで泉の縁に近づき、胸の前で手を重ねて瞳を閉じる。


その直後の光景をフィルは信じられない思いで見つめていた。

その場にいた人々は全員同じような気持ちだったのだろう。声にならない衝撃から覚めると、ささやき声が徐々に広がっていく。


「っ、何よこれ!」


目を開けたナナカが驚きの声を上げたが、それは当然だろう。水位が僅かに下がったとはいえ、滔々と透明な水を湛えていたはずの泉が急激に枯れて、今や半分ほどの量しかないのだ。


「ナナカ様をお連れしろ」


これ以上留まるのは混乱しか生まないと判断したフィルの声で、騎士たちが動き出す。


「女神様の御怒りに触れてしまった」


誰かが呟いた一言が気になったが、フィルは民衆の不安を宥めるべくこの場を収めることに集中せざるを得なかった。


宿に戻ればナナカがひどく荒れていると騎士からの報告が上がる。トーカに呪いを掛けられたなど妄言を吐いているようだが、それを信じる者はほとんどいないのだろう。白けた空気が漂っており、ナナカに好意的だった者も不快そうな表情を隠そうとしない。


護衛と称した見張りだけは厳重に行うよう指示し、翌日の帰路に備えることにした。

帰ったら一番にトーカに会いに行こう、そう思っていたのだ。


早朝、コツコツと窓を叩く音に目が覚めて伝令用の鷹を見てもフィルは何の予感も覚えなかった。乱れた文字を何度も読み返すが、なかなか頭に意味が入ってこない。


「……トーカが、攫われた?」


声に出してようやくその意味を理解するや否や、フィルは部屋を飛び出していた。

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