第50話 違和感
「遠征……?」
朝食後、フィルと菜々花がセルリシアの泉という場所に向かったことをジョナスが淡々と報告してくれた。
「泉の浄化のため三日ほど滞在する予定ですので戻ってくるのは五日後です。それとフィル様からお手紙をお預かりしております」
胸がざわつくが仕事なのだから仕方がない。ジョナスから手紙を受け取って封を切ると、何枚も折り重なった紙に思わず笑みがこぼれた。
顔を出せないことへの謝罪から始まり、透花を気遣う言葉が端々に込められていて心が温かくなる。何処に行くにも必ずジョナスを連れて行くこと、夜は温かくして眠ることなど細やかな注意まで書き連ねているのがフィルらしいと思う。
『またトーカと一緒に出掛けたい。連れて行きたい場所があるから楽しみにしていて』
そんな誘いの言葉が嬉しくて透花は何度も読み返してしまった。
顔を上げるとジョナスがいつもより穏やかな瞳でこちらを見ていた。
「トーカ様は随分と成長なさいましたね」
思いがけない言葉に透花は目を瞬かせた。ただ手紙を読んでいただけなのにと戸惑う透花にジョナスは僅かに口元を綻ばせる。
「以前はよく不安そうにされておりましたから。ミレーを庇い姉君に対しても冷静な対応をなさいましたし、何よりも笑顔でいらっしゃることが増えました。お強くなられましたね」
「――ありがとうございます!」
普段お世辞など言わないジョナスだからこそ、そんな言葉を掛けられるのは珍しい。胸に迫る思いに声を詰まらせそうになりながら、透花はお礼を言うのが精一杯だ。
「俺が言うのもなんですが、トーカ様がいらっしゃったことでフィル様も随分と感情が豊かになりました」
透花の行動に一喜一憂するフィルの様子を思い浮かべて、それは果たして良いことなのだろうかと透花は首を傾げる。
「穏やかで優秀な王子はあの方がそうあろうと努力した結果です。時折間違った方向に暴走しますが、トーカ様といる時のフィル様は活き活きとしてとても幸せそうですから」
第三者からの指摘に透花は思わず頬を押さえた。
フィルの愛情に満ちた眼差しや声を思い出すだけで顔が熱くなる。
「ですがフィル様がご不在の間は少々身の回りにお気をつけください。不安にさせるつもりはありませんが、一部の貴族にはトーカ様を快く思わない者もおります。トーカ様に何かあればフィル様が狂乱しかねませんから」
珍しく冗談を付け加えたジョナスに透花は笑いかけたが、その表情は真剣そのものだ。菜々花と一緒にいた侍女や騎士の敵愾心を孕んだ視線を思い出す。菜々花がいないからと油断してはいけない。
「あ……れ?こんな色だっけ?」
それに気づいたのはフィルが遠征に出掛けて三日後のことだった。目に入ったゴミを洗い流した透花はしげしげと鏡に映る自分の瞳を覗き込んだ。やはり瞳の色が濃くなった気がする。
フィルに宝石のようだと讃えられても、透花は過分なリップサービスだとあまり本気に捉えていなかったのだ。だが艶やかでとろりとした蜂蜜のような琥珀色と、涼やかなブルートパーズのように透明感のある青を見れば、少しだけ納得するような気持ちになった。
「……それが本来のお色ですよ。体調が悪い時もそうですが、色褪せて見えるのは魔力が足りない時の指標の一つですから」
今更気づいたのかとジョナスから呆れたようにため息を吐かれてしまった。
長年の癖で自分の顔をじっくり見ることなどなかったのだが、堂々と言えることではないので言わない方がいいだろう。
魔力が戻らなかったらどうしようと密かに心配していたが、これで一安心だ。
早速魔力操作の訓練を再開し、充足した気分でベッドに入った透花だが、鋭いノックの音で起こされることになった。
「トーカ様!」
「リラ?」
顔見知りではあるが、公式行事などで身支度を整える時しか部屋に来ることがないリラの登場に驚きながらも、切迫した雰囲気に透花は疑問を呑み込む。今は状況を確認するほうが優先だ。
「建物の一部に火が放たれたそうです。幸いすぐに消し止められましたが、トーカ様のご無事を確認に参りました」
リラが入ってきた時に、微かだが物が燃えた後の乾いた匂いが鼻を掠めた。嫌がらせにしては物騒だし、何だか嫌な予感がする。加えて透花は先ほどから違和感を覚えているが、それが何かは分からずもどかしい。
「陽動の恐れがありますので、念のため安全な場所に避難いたしましょう」
そう言うとリラは透花の返事を待たずに、クローゼットの方へと歩いていく。
「リラ?」
追いかけていくと、リラがドレスをかき分け壁に手を這わせている。しばらくするとカタリと音がして壁が奥へと動いた。
「いざという時の避難通路です。狭いですが、少しの間だけですから」
扉の奥は一人ずつしか進めないほど狭く、風が通り抜ける音が聞こえてくる。敵から逃げるために用意されているのだから外に繋がっていなければ意味がない。
(でも……どうしてリラがそんなことを知っているの?)
ふと頭をよぎる疑問に、違和感がますます強くなる。
「トーカ様?」
優しい声音には、どこか有無を言わせない圧力のような物を感じられて、昔の記憶を思い出す。聞き分けのない子供に言い聞かせるような、そして自分の都合の良いように動かそうとする時の声。
(そうだ……。リラはいつも私のことを御子様と呼んでいた)
ようやく思い至った違和感にぞっとした。リラの振りをした別人なのか、それとも透花を御子と認めないことの意思表示なのか。
「……リラも一緒?」
声が僅かに震えたが、心細さのせいだと捉えられたのだろう。
透花を安心させるように微笑んだリラが何かを言う前に透花は不意を突いて脇をすり抜けようととしたのだが、一歩前に出た途端に強い力で引き戻された。
「……っ!」
息が詰まり無意識に喉元を押さえたことで、誰かが襟元を掴んでいることに気づいた。いつの間に背後にいたのだろうと驚きつつも、まずは助けを呼ばなければならない。
喉と服の間に手を入れて気道を確保し声を上げようとしたが、そんな透花の行動を読んだかのように顔に布を押し付けられる。
つんとした匂いに必死で抵抗したものの、透花の意識はそこで途切れた。
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