第11話 朝、あなたのためにできること

 何とか頭が冷えた。

 キッチンでもう一杯水を飲み、なるべく静かに引き戸を引いて部屋へと戻る。暖かく暗い空間に、寝袋でうずくまるようにして眠っている人影だけが見える。

 静かに布団に潜り込むと、暗闇に小さな声が響いた。

「……ねむれないの?」

 ぎくりと身体が強ばる。カナタさんはうっすらと目を開けて、虚ろな目で俺を見ていた。

 一気に動悸が激しくなる。まさか自慰をしていた事に気が付いただろうか。……幸いというか、抑制剤が効いているらしく、 甘い匂いを感じても欲動は無い。

 努めて静かに、息を殺す様に言う。

「……目が、覚めちゃって」

 頼むから気が付かないでくれ。俺は何処かおかしくないだろうか。……カナタさんは今まで、俺のαのフェロモンを感じて嫌な思いをしたりしなかっただろうか。

 何も考えて居なかった。あんまり彼が大人で優しくて、Ωである事を大して意識してこなかったのだ。初対面があんなに強烈だったのを忘れて。

 今更だが、俺は無意識にカナタさんを傷つけては居ないか?

「……おれといるとつまんない?」

 虚ろな目は俺を見ているが、瞼は今にも落っこちそうだ。

 まだ寝ぼけてるのか。

 少しほっとする。バレてなさそうだ。

「……なんでですか?」

 つまんない、ってどういう事だろう。

 カナタさんは半分夢に足を突っ込んで、うとうととしながら吐息のように言う。

「おれ、なんにもないから……」

「なんにもって……一緒に居ると楽しいですよ?」

「からっぽだから…………」

 どうにも要領を得ないが、その分本音のようにも聞こえる。からっぽ、という言葉に、俺は部屋を見渡してみた。がらんどうの部屋はたしかに「から」という言葉がしっくりくる。でも。

「からっぽじゃないでしょ? ……好きなものとか、好きな人とか、居るんじゃないですか?」

「すき? ……ふふ」

 少し幸せそうに、だけどなんだか寂しそうに。

「……とどかないから」

「届かない? 何に?」

 返事をしばらく待っていたが、回答は無い。本格的に起きていられないのか、目が殆ど閉じている。

 カナタさんの好きなもの……一つだけ、思い当たるものがあった。鍵についていたアクリルのキーホルダーだ。

「ZA/JAMPは?」

「……ん……? すきだよ……でもだめだから……」

「だめ? 何が?」

 とうとう本当に眠ってしまったらしい。

 穏やかな寝顔がすうすうと寝息を立てている。俺はいつもより余程幼く見える顔を眺めて、やがて目を閉じた。


 翌朝。人の気配に目覚めると、カナタさんが慌ただしくスーツを着込んでいる所だった。

 内心冷や汗をかきながら起き上がる。昨晩の事が頭から離れない。

「おはよ。眠れた?」

「あっ、……はい! おはようございます、眠れました」

 白いワイシャツに紺のスラックスを履いているが、髪はまだ整えておらず、すとんと下ろしているので少し幼く見えた。普段はワックスでかき上げて耳を出しているから、もしかすると子どもっぽく見えないように色々工夫しているのかも知れない。

 前にファミレスに一緒に行った時も思ったが、この人は結構童顔なのだ。目が大きくて他のパーツは控えめで、ラフな格好をしていると本当に高校生みたいだった。

「今日学校もバイトも休みだよね? 俺は仕事行くけど、雪溶けるの待ってから帰りな、今日あったかいみたいだから……あ、学校にもう一度連絡入れようか?」

「いえ、昨日ので大丈夫だと思います。俺も無理せず安全に帰って来いって言われてるんで」

 昨日、カナタさんは寮に電話を入れてくれた。バイト先の上司として保護しているのと、雪で危なくて寮に戻れない旨だ。寮監に謝って貰う形になってしまい申し訳無かったが、他にも悪天候で帰れない生徒もおり、お咎めは無かった。

「昼過ぎには溶けると思うけど、無理しないようにね」

 カナタさんはクローゼットの中をごぞごそしていたかと思うと、俺にキーホルダーの付いたスペアキーを差し出した。やっぱりこれもZA/JAMPのグッズである。

「鍵、ポスト入れといて」

「カナタさん、ZA/JAMPの誰が好きなんですか?」

 途端、大人ぶっている顔がボッと赤面した。そりゃあもう一瞬だった。

「え、ちょ、俺なんか言ったっけ? あ、夜ちょっと起きた時喋った……?」

 あんまり覚えてないらしい。内心ものすごくほっとした。自慰の事も気が付いていないということで間違いなさそうだ。気持ちに余裕が出てきた。

「好きって言ってたから。誰推しです?」

「……トーリさん」

「トーリ……さんですか、めっちゃ上手いですよね」

 ZA/JAMPのトーリはロックダンサーで、世界大会の優勝経験もある有名所だ。国内だと良く大会の審査員なんかも務めている。ダンスの経験があれば知らないということは無い。

 が、カナタさんはびっくりしていた。

「知ってるの?」

「ちょっとだけロックダンスやってたんで」

 見た事ない顔だ。むずむずして、推しについて喋りたくて仕方ないという感じの。しかし出勤前だし、時間はあまり無い。

「また今度ゆっくり話そう」

「八月過ぎですよね? ライブあったら一緒に行きましょうよ」

 ごく自然に誘える理由が出来たことに、内心ガッツポーズを決めた。共通の趣味が出来れば、会う口実を探すのは容易い。

 が、カナタさんはちょっとしゅんとしてしまった。

「ライブ行けないんだ、前行った時友達に嫌な思いさせちゃって」

「……嫌な思いって?」

 そう言えば、昨日の深夜も「だめだから」と言っていた。

「強めの抑制剤飲んでったんだけど、ライブ観たら本当に凄くて……興奮してフェロモン漏れちゃって帰りに変な人に絡まれて、俺動けなくなっちゃって……一緒に行った女の子が追い払ってくれたんだけど……せっかく楽しかったのに帰りに嫌な思いさせちゃったなって……俺一応男なのに申し訳なくて……」

 なるほど、要するに‪α‬に絡まれてグレアで威圧されてしまったのを、多分βの友達が庇ってくれたんだろう。

 だったら俺にもできることがありそうだ。

「じゃあ俺と行きましょう! 俺もちゃんと抑制剤飲んで行くし、‪変なα‬に絡まれたらちゃんと返り討ちにしますから」

 きょとんとして、ちょっと困った顔をして、ふへっと笑う。家の中のカナタさんはいつもより自然で、隠し事が下手で幼い気がする。

 ちょっと可愛いと思った。

「返り討ちにしちゃダメだよ、……でも嬉しい。ありがとう」

 近々にライブの予定がある訳じゃないし、約束までは出来なくても、喜んでくれたのが嬉しかった。

 初めて、‪α‬に生まれて良かったと思った。

 

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