第12話 夢の足音

「じゃ、俺行くけど気を付けて帰ってね」

「はい、行ってらっしゃい」

「あはは、なんか慣れないね。行ってきます」

 ドアの外から刺すような冷気が吹き込んで、ぴしりと目が冴える。

 カナタさんは黒のコートに紺のマフラーを巻くと、トレードマークみたいになっている黒いマスクをして、朝早くに出勤して行った。

 雪は止んでいるが、外はまだ暗い。冬とは言え日も出ないうちから働いているのか。これなら夕方早く上がってしまうのも納得だ。

 背中を見送るついでに見た景色は、やはりまだ暗闇の中に白く雪が積もっている。

 今日は暖かいらしいが、やはり昼くらいまでは待機した方が良さそうだ。なんせ帰りはずっと登り坂なので、雪がある程度溶けてから、車が作った轍を頼りに帰るしか無い。

 時間つぶしに二度寝でもしようか。

 なんだかほっとしたような、疲れた様な気持ちで、再び布団に横になってみる。やっぱりふわっと甘い優しい匂いがした。

 ホットミルクに蜂蜜を溶かして、花弁を一枚浮かべた様な香り。

 最初に彼を見た時も感じた。その後は感じなかったから、薬を変えたか、またはヒートが近かったか……

「そっかあの時もヒート来たもんな……」

 女の子も精神状態で生理がズレたりすると聞くし、あの時も緊張とかそういうもので急に来てしまったのかも知れない。

 布団に包まると、宵闇の中に見た虚ろな瞳を思い出し、なんだか酷く居た堪れない気持ちになる。

 罪悪感だ。

 夢の中でカナタさんを汚してしまった。あんなに優しくしてくれたのに。αとΩの関係では無く、人間としてちゃんと大切にして貰っているのに、性の対象にしてしまった。

「俺、最悪だ……」

 しばらくぐるぐると考えていたが、やがて瞼が重くなり、再び微睡みの中へと落ちていった。


『一緒にライブに行こう、私らが一緒なら平気だから!』

 誘ってくれたのはエナだった。人混みを渋る俺に、ちゃんと自分達がついているから大丈夫だと言ってくれた。

 嬉しかった。

 全席指定のホールツアー、会場は二千人規模のホールでそんなに広くも無かったから、びっくりするくらい舞台が近く見えた。

 夢みたい。

 幕が開いた時の歓声。嬌声。スモークを切り裂くレーザー、舞台の上で踊る彼を必死に目で追った。慣性の法則が消え去ったような力強いロックダンス、暗闇にスポットライトで撃ち抜かれた優美で筋肉質な身体。

 六人居るメンバーの中、ずっとトーリさんを目で追いかけていた。輝く笑顔から、世界を切り裂くような真剣な表情まで、見逃さない様に必死に。

 彼を前にした時の気持ちは殆ど恋みたいだっただろう。

 結果、俺はとんでもない失態を犯すことになった。

 大盛り上がりのアンコール、メンバー一人一人の挨拶に涙ぐみ、最後にリーダーが舞台袖に消える前、優雅に投げキッスをして去って行った。四方八方から耳を劈く悲鳴が上がる中、俺はふわふわした頭で呆けていた。

『めっちゃ楽しかったー!』

 エナが俺の手を握ってぶんぶん振り回す。俺は若干まだ涙ぐみながら、小声で、

『ほんとに居たんだ』

みたいなバカなことを言って、他の女友達に笑われて。

 ホールを出て、何かご飯を食べて帰ろうかと言いながら歩いていた所に、ふと嫌な臭いを感じた。

『ねぇ、おねーさん達ライブ帰り?』

 そこから先は最悪だった。

『ちょっとどっか入って皆で飯でも食べない? 男だけじゃつまんなくてさあ』

 媚びるように近付いて来た男三人、うち一人がαだった。そいつはスンスン鼻を鳴らしていたと思ったら、無遠慮に俺に視線をぶつけてきた。

『なんだ、絶対ぇΩ居ると思ったらオニーサンなんだ?』

 思わずバッと項を隠す。錠剤に加えてシートタイプの抑制剤も貼ってきたが、それでも足りなかったらしい。

 ニタァ、と‪α‬が笑った。何とも言えない嫌なフェロモンの臭いがしていた。腐りかけた魚みたいな臭いだ。俺と相性が悪いのだろう。

『俺男のΩ見るの初めてだわ』

『……すいません、急いでるので』

『はあ?』

 ザワっと空気が逆立った気がした。無意識に友達を背中に隠したが、何の意味も無い。空気が一気に重さを増す。威吠グレアだ。

『……じゃあオニーサンだけでいいからちょっと付き合ってよ』

 ヒュ、と息が詰まった。

 目の前に居る軽薄そうな男と、かつて自分をぐちゃぐちゃに犯した男が重なる。

 真っ暗な雨の日、濡れた地面、コンクリートに打ち付けられた頭、剥がされる衣服。

 覆いかぶさる、獣の様な息遣い。

 その時、背後からエナの叫びが響き渡った。

『変態クソ野郎!! ちょっと、警察呼ぼう!?』

『スマホ出すから待って〜110番でいいのかなあ』

『カナちゃん大丈夫? 具合悪い?』

 柔らかい手をぺたりと額に当てられて、滝のような冷や汗をかいている事に気がついた。息が整わない。落ち着かないと。どうしよう、どうしよう……

『カナタ、大丈夫だから座ってていいよ……おい、手前ぇ等のせいだぞ? どうしてくれんだよ』

『エナ、けーさつ呼んだよ〜』

 ‪α‬含めて、男達が目に見えて動揺した。

『は!? 声かけただけだろ! ふざけんなよ!』

『大体そのΩがフェロモンで誘ってんだろ!?』

 そうか、俺が悪いのか……

 友達は皆冷静だ。接客業故に変な客の相手には慣れているし、βは‪α‬のフェロモンの影響を受けにくい。

『手前ぇなんか誘ってねぇよ、鏡見てみろよブス』

『私ら世界で一番カッコイイ人達見た後だもんねえ』

『生きてる次元が違うのよ、推しはあんたらと違う画風で生きてんのよ』

『わかりみが強い』

『ほんと好き』

『世界が求めてる』

『わかる』

『今日も推しが尊い』

『は? お前まだ居たの?』

 ブス、と言われて硬直していた‪α‬は、一般的に見ればまあまあ見れる見た目だろう。しかしプロのパフォーマーのステージを見た後であるし、目の前に居るのは何の魅力も無い痩せた男だ。

『けーさつ呼んだし捕まえてもらお』

『おい、行こうぜ』

 ‪α‬以外の男達が、我先にと走り出した。‪α‬が意図的に威吠で相手を傷つけようとすると、傷害罪に当たる場合もある。‪α‬同士なら案外お咎めも無いらしいが、Ωに対してはやはりそれなりに厳しい対応もされるらしい。それだけ影響力があるのだ。

 行き交う人にもジロジロと見られて、‪α‬は忌々しげに舌打ちをすると、バツが悪そうに友人を追いかけて行った。

『カナちゃん、けーさつは嘘だよ』

『よしよし、大丈夫だからね』

『私らがちゃんとついてるから、心配しないで良いよ。ねぇ、カラオケでも何でも良いから入って休む?』

 女友達は優しい。けど、俺はどうしょうもなく悲しくて、ボロっと涙が零れた。

『ごめんね、本当にごめんね、さっきまであんなに楽しかったのに、凄くライブ良かったのに……』

 自分のせいで、ライブの後の幸せな余韻を台無しにしてしまった。

 グズグズと泣く俺の頭を撫でて、エナは酷く優しく言った。

『大丈夫だよ、カナタのせいじゃないよ』

  

 切ない、酷く申し訳ない、情けない記憶だった。

 もう何年も前の話だ。それからも何度か誘ってもらったけど、またあんな事があると申し訳無くて、結局一度もライブ会場には足を運ばなかった。だけど。

「ふふ」

『じゃあ俺と行きましょう!』

 優しいあの子は、俺をあの夢の空間に連れて行ってくれると言ってくれた。

 そりゃあもうただの口約束だし、ライブだって良いタイミングでやるかは分からない。アキラくんの受験もあるし、自分の繁忙期にかかるととても行けたものでは無い。大学に入ったら、俺の事など忘れて新しい交友関係を築くのは分かっている。

 でも、言ってくれただけでも嬉しかったのだ。

 未来と今の境も定まらない彼は、無垢な約束を覚えていてくれるだろうか。

 忘れてしまったっていい。俺はついさっきの口約束だけでも十分だ。

 ただ、Ωという負い目を背負った自分の手を引いてくれる。その優しさがたまらなく嬉しかった。

 同時に、切なくもある。

 アキラくんも、女友達も、俺を守ろうとしてくれた。

 俺に出来る事は少ない。

「……俺もがんばらないと」

 守られる存在ではなく、守る存在になりたい。

 

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