第9話 棘と地雷とあなたの声と


 数センチ積もった雪の道。

 寒い地方の人からしたら信じられないかもしれないが、その数センチの雪でこの辺りの交通は崩壊する。多くの車はスタッドレスに履き替えて居ないし、チェーンも積んでいない。道すがら、走れなくなってしまったらしい車が数台、路肩に寄せてあった。

 俺達も慣れない雪道に苦戦しながらコンビニに寄り、吹雪みたいな雪で震えながら、何とかカナタさんのアパートまで辿り着いた。

「着いた……」

 白い息を吐きながら、カナタさんが呟く。

 俺はカナタさんの後に続いて、アパートの階段を登った。雪が積もっていて、転がり落ちそうで怖い。

「……アキラくん」

「はい?」

「…………驚かないでね」

 はあ、と曖昧に返事をしてみる。カナタさんは凍えているのか、震える手で、酷く苦戦しながら家の鍵を開けた。

「入って」

「お邪魔します」

 パチッと電気がついた。ドアを閉めると、吹き付ける様な外気を遮断されて少しほっとする。

 驚かないでと言われたが、普通の1Kのアパートだった。玄関を入るとキッチン、左手にバスルームと室内洗濯機置場。奥に居間に続く引き戸。

 ドン引きするとか驚くなとか言われたから、まさかとんでもないゴミ屋敷なのかと身構えたが、今の所そんな気配は全く無い。……というか、洗濯機と冷蔵庫しかない。

 あんまり生活感が無い。

「靴脱いでちょっと待ってて」

 言うが早いか、カナタさんは簡素なキッチンの引き出しから何故かタオルを取り出して、俺に渡してくれた。

 キッチンからタオル?

 料理をしないから収納にしている、という事だろうか。とは言え独身男性だ、料理をしなくても違和感は無いか。

 カナタさんはササッと奥の扉に入っていき、ちょっとガタガタやっていたかと思うと、カラカラと扉を引いて、顔だけちょこっと出した。

「……どうぞ」

「すいません、お邪魔します……?」

 そして、シンプルな引き戸を開ける。


「……………………え?」

「だから言ったじゃん! だから言ったじゃん!!」


 部屋の中は殆ど空っぽだった。

 収納とかテレビとか生活雑貨とか、とにかく何も無い。強いて言うなら部屋の隅に敷かれた布団と、低い小さなテーブル。

 それだけが家具の全てだ。

「……え? 夜逃げかなんかするんですか?」

「しないよ! ……だから嫌だったんだ……」

 ずん、と声のトーンが下がる。カナタさんはズンと思い空気を纏ったまま、テーブルの上にあったリモコンでエアコンを点けた。どよん、と影を背負って、ボソボソと喋り始める。

「どうせ俺は家に帰って寝るだけのつまらない社畜さ……」

「いやそんな事思ってないですよ!? どうしたんですか急に」

「未来ある少年には見られたくなかったんだ……」

 カナタさんはクローゼットの中からシンプルなクッションを取り出して、俺に座るよう勧めた。

「……何もないけど……お風呂準備するからちょっとゆっくりしてて」

「あっ、はい、ありがとうございます……」

 言いながら、俺のアウターを緩慢な仕草でハンガーでカーテンレールにかけてくれる。自分もコートと背広を脱いでそれぞれハンガーにかけた。暖房をかけているから明日には乾くだろう。

 カチャ

 ん?

 見ると、ベルトを引き抜いて、スラックスも脱いでいる。

 ワイシャツの裾から黒のボクサーがちらりと見えて、スラリとした白い足が顕になった。

 んん? ……いや、男同士だから気にしていないのか? いやでも一応‪α‬とΩだぞ? いや、カナタさんは女の人が好きなタイプだから気にしないと言う事だろうか……

「……飲み物飲んでて良いですか……?」

 思わずサッと目を逸らし、コンビニの袋をガサガサと漁った。ペットボトルの飲み物を何本かと、朝に食べるパンと、俺の夜食のそぼろ弁当。カナタさんの片手間の返事を聞きながら気をそらそうとするが、目に焼き付いた透き通る様な肌の白さに戸惑った。それに……

 この部屋、……微かに甘い匂いがする。

 普段はそんなに意識しないのだが、プライベートな空間の「彼」は、どうしようもなくΩだった。本来隠す必要が無いのだから仕方ない。そう言えば、二人きりの時にΩの香りが気になる事は無かった。もしかすると、俺と出掛ける時は抑制剤ピルを飲んでいたんじゃ無いだろうか。

 なんとなくそわそわとしながら待っていると、浴槽に湯を貯める音が聞こえ始める。

 戻ってきたカナタさんはやはりワイシャツに素足だったが、クローゼットから出したスウェット履いてくれたので、少しほっとする。

 たぶん、俺が気にし過ぎなだけなのだ。

「お風呂沸いたら先入ってあったまって。俺のパジャマで入るかなあ……アキラくんLサイズだよね」

「スウェットだったら多分Mでも着れると思います」

「ちょっとゆるめのやつあるからコレで……」

「あの、……」

 ガサゴソとクローゼットを漁っていたカナタさんは、パッと顔を上げて首を傾げる。大きなアーモンド型の目が、きょとんと疑問符を浮かべている。ちょっと可愛い。が、問題は手に持っているモノだ。

「な、なんで寝袋用意してるんですか……?」

 そうである。カナタさんの手の中の物は、明らかにアウトドア用の寝袋だった。キャンプか。キャンプ場なのかここは。ていうか無趣味と言いつつキャンプには行くのか。

「お布団一つしか無いからアキラくん使いなよ」

「いやいやいや!? 家で寝袋はちょっと面白すぎるって言うか……! あとその薄さだと下にマットとか敷かないと痛いでしょ!?」

 テントで寝袋を使う時は、寝心地が良くなるように、また底冷えするのを防ぐために折りたたみの専用マットを敷いたりするものなのだ。外では無いとは言え、フローリングの上じゃ疲れが取れないだろう。

「いや大丈夫だよ、慣れてるから」

「……なんで慣れてるんですか?」

 カナタさんはふへっとあどけなく笑った。

「女の子泊まりに来た時とか俺寝袋なんだよね。布団もう一組買うと嵩張るからさあ」

 女の子。

 この部屋に入っていったあの人を思い出す。というか、女の子が泊まりに来て自分は寝袋?

「えっと……カナタさん、彼女居ます?」

 カナタさんはちょっと照れたように笑ったが、答えは予想だにしないものだった。

「居ないよ、彼女って居たことないや」

 俺は色々勘違いしているのだろうか。

 脳裏に初めて見た時の景色が蘇る。そうだ、なんで忘れていたんだろう。詳細は思い出せない。でも、一つ鮮明に思い出せる会話があった。

 

『ねえ、ちょっと前にカレシいたじゃん、アレ結局何で別れたの?』


 そうだ。あの会場の食堂で。ギャルっぽい社員さんと、まだ俺を知らないカナタさんと、窓際の明るい席で。


『もっと大事にしてくれる人探しなよ』

『そんな人居ないよ、俺こんな体だもん』


 カナタさんは彼女は居なくて、大事にしてくれない彼氏と別れている。女の子が泊まりに来るけど、布団には一緒に入らない。


「……泊まりに来る女の子って、好きになったりしないんですか?」

 セックスをしようとは思わないんですか、とは流石に口にできない。

 俺の混乱を他所に、カナタさんは穏やかに笑った。

「ならないよ。女の子は皆友達だし、家に来るような友達は俺に恋愛感情とか持ってないから」

 そうか、カナタさんは同性愛者なのか。

 ならば、家に招かれた俺の事はどう思っているんだ? 

「えっと……俺が泊まって嫌じゃないですか?」

 ふ、と時間が泊まった気がした。俺はとんでもない事を聞いたんじゃないか?

 あどけなくも見える視線が、すうっと細められる。何を言われるんだ。俺は、俺は、この人と、この人の……

「だってアキラくんは子供だから」

 低くて優しい、穏やかな声だった。大人から子供に向けられる、無条件の慈しみ。そんなもので構成された、性の匂いのまるでしない音だった。

「子供……」

「こんなおじさんとどうこう無いでしょ?」

 年齢的には五歳しか離れていない。いや、五歳も離れているとカナタさんは思っているから、俺を子供として可愛がってくれている。

 それで良かった筈だ。俺はカナタさんに可愛がられていたかった筈だ。だからちょっとしたたかに甘えたし、今日だって部屋に上げて貰えた。

 なのに、先程見た肌の白さが、胸に棘のように突き刺ささって、ジクジクと傷んでいる。

 カナタさん、俺が大人になったら、俺達はどうこうなるんでしょうか。

 言葉を飲み込んで、なるべく自然に笑ってみせる。何か地雷を踏みそうだ。逃げろ。逃げなければ。

 踏み抜けば、この人と一緒に居られなくなってしまう。

「……おじさんじゃなくてお兄さんですよ」

「えーありがと」

「あと、寝袋は俺が使いますから」

「風邪引くと困るからダメ。あ、お風呂見てくる」

 風呂場に向かった背中を見送って、俺は深い溜息を吐いた。

 何かが変わりそうで怖いと思った。こんな気持ちは初めてだった。





 暗闇の中、意識が戻る。

 甘い匂いがする。

 透き通る様な白い裸体が目の前にある。

 声は聞こえない。

 彼は何かをずっと言っている。

 甘い匂いがする。


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