第10話 まよなか

 甘い匂いがする、ゆるりと香る蜂蜜みたいな、ミルクに花びらを浮かべたみたいな。

 くらやみ。

 ぼうっと光るみたいに、白い人影が膝を抱え、ぺたりと座っている。

「■■■さん」

 とろりとした黒い瞳が見上げる。ぞろりと胸が舐められた様な気がする。

 あらましは分からず、心は見出せず、ただただ喉が渇いた。甘い匂いがする。性の匂いだ。雄を誘う雌の匂いだ。

 支離滅裂な光景。白い肌を晒す様に、■■■さんはゆるりと身体を横たえる。線で描いた様な無駄の無い体だ。引き寄せられる。さらり。黒い髪が流れ落ちる。

 例えば、この人のお腹に注ぎ込めば、この真っ直ぐな身体はお腹が膨らんで、そうしたら、お腹の子ごと俺の物になるだろうか。

 見たい。

 噛み付くように唇を吸う。何か言おうとしている気がする。聞こえない。分からない。何も考えたくない。白い手を押さえ付けると、潤んだ目が縋るように見上げた。興奮が湧き上がる。そうだ、俺の物にしてしまおう。だって、そうしたらずっと一緒に居られる。

 女とも男とも違う構造だ、この奥に子宮があるのだ。

「■■■■■■、■■■■■■」

 何か言っている。分からない。聞こえない。

 一番奥に届くだろうか。薄い腹をゆるりとなぞった。この辺まで、入る。ゾクゾクと背筋が震える心地がした。

 ぱさり、黒い髪がかぶりを振って、散らばる。

 今更遅いさ、誘ったのはあんただ。

 唇を舐める。ゆるりと湿って、生温い。

 白い身体がびくびく痙攣するのが楽しい。 

 カレシと何で別れたの? 

「初めてじゃないだろ?」

 息を詰めるのを見て、嫉妬心が吹き上がった。

 声にならない声。嬉々として腰を押さえ付けた。

 抵抗のような求めるような、白魚のような手。桜貝の爪を口に含む。牙を立てれば苦痛に喘ぐ。

 他所の男になんて渡さない。

 声は聞こえない。でも、何か言っている気がする。涙で黒い瞳が濡れていて、綺麗だと思った。

 は、と浅い呼吸をして、耐えるような、哀れむような目で、俺を見上げている。

「アキラくんは」

 鼓膜が震えた。やめてくれ。聞きたくない。聞きたくないんだ。

「こどもだから」


 暗闇の中目が覚めた。まだ甘い匂いがしていた。いや、ずっとしているのだ。

 目の前に、静かに目を伏せた顔が見えた。

 近い。

 結局寝袋にもそもそと入ったカナタさんに、せめて布団の上で寝てくれと言ったのは俺だ。狭いからと言って渋るのを無理やり引っ張りあげて、俺はなるべく端に寄って布団を被っていた。

 シングルの布団の幅なんかたかが知れてる。男二人で寝たらそりゃ狭いさ、こんな距離にもなる。 

 冷や汗が全身から吹き出していた。

 今しがた見た夢の生々しさと、目の前の彼の静かな寝顔が交差する。何故か唇から目が離せなくなった。夢の中で、そこは唾液でしっとりと濡れて、温かかった。

 恐る恐る、指先を伸ばす。

 指先で微かに触れたそこは、乾いてさらさらとしていた。むず、と眉根を寄せて少し身じろいたが、起きる気配は無い。

 腹の奥に熱が溜まっている。苦しい。吐き出したい。

 ……どうしよう……

 まさかカナタさんの、あんな夢を見るなんて思いもしなかった。しかしこの甘い匂い……布団に染み付いたカナタさんのフェロモンの匂いが、恐らく強烈にαの本能に働きかけているから、こんな事になったのだ。

「……ぁ、抑制剤……」

 財布の中にまだある筈だ。俺はカナタさんを起こさないようにそっと布団を抜け出して、暗い部屋の中アウターのポケットをまさぐり、錠剤を何とか見付ける。

 バレないように……どうか見つからないように。

 水を借りようとキッチンに行くと、ガラスのグラスと一緒に、瓶の錠剤が置いてあるのが目に入った。

 手に取ってみる。Ω用の抑制剤だ。俺の薬の様な頓服では無く、毎朝飲むタイプの。

 グラスを借りて、自分の薬を流し込む。

 そのままトイレに篭もり、硬く主張するものに手をかけた。

 思い出すな。

 吐き出すだけで良い。

「……ッ……」

 壁一枚隔てた所にあの人が眠っていると思うだけで、罪悪感と背徳感と、どうしようも無い欲動が脳を焦がした。

 あの人に、カナタさんに、欲情出来る事が分かってしまった。

 怖い。

 息を殺すのが上手くいかない。

 自分に焼き付いた本能が、恐ろしくて堪らない。

 なのに。

『アキラくん』

 

 欲を吐き出すと、驚くくらいに頭が冷えた。

 どうしよう、このままじゃ、このままでは、カナタさんと一緒に居られなくなる。

 欲望だけで繋がった相手と長く居られた試しは無いし、カナタさんは俺が子供だから家に上げてくれたのだ、俺が子供だから可愛がってくれるんだ。

 ティッシュペーパーで手を拭く。水を流し、タンクに付けられた蛇口で必死に手を洗った。

 彼を心の中で汚した罪悪感は、洗い流されてはくれない。

 一度分かってしまった事は無かったことにならない。

 俺は、カナタさんと、セックスをする事ができる。

 簡単に欲情出来た身体が、堪らなく怖くなった。

 カナタさんは、俺が「子供」でなくても傍に居てくれるだろうか。

  

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