第5話 思い出の中でじっとしていて

 ぞっとする気分を引きずったまま、ダンボールを持ち上げる。気持ちの分だけ余計に重く感じる調味料の箱、まるでカナタさんの冷えきった声が、瓶の底の方に沈んでいるみたいだ。

「すみません……」

 はっと顔を上げると、先程の男が暗い顔をして立っていた。

「なんですか……?」

 お客様に言う言葉では無い。普段だったらまずは「いらっしゃいませ」……お互いそんな余裕は無い様だった。

「……度々すみません……書くものを貸してもらえませんか」

 俺は言われるがまま、ポケットを探ってメモ帳を引っ張り出すと、綺麗なページを破り取り、ボールペンと一緒に渡した。メモ帳も下敷き代わりに添える。

「どうぞ」

「ありがとう……」

 男はサラサラと走り書きをして、紙を二つに折って、少し迷って俺に差し出す。

「……これを、八代奏多に渡していただけませんか?」

 うっすらと透けているのは多分電話番号だ。

 少し迷って、それを受け取る。

『二度と来るな』

 耳元で、カナタさんの冷たい声が聴こえるような気がした。

「渡すだけで良ければ」

「……ありがとうございます」

 男はボールペンとメモ帳も俺に返すと、軽く頭を下げて、踵を返してレジの方へと歩き出した。

 俺はそれを見送り、折られた紙をほんの少しだけ開いて盗み見る。やはり携帯電話の番号だった。

 これを受け取ったカナタさんはどんな顔をするのだろうか。困った顔か、忌々しく顔を顰めるのか。

 そして、この紙は一体どうなるのだろう。ポケットに突っ込まれたままくしゃくしゃになって忘れ去られ、そのうちゴミと一緒に捨てられるのか。それとも番号を辿って電話をかけるのか。

 この紙の行方は、いつか自分に降りかかる未来なのでは無いか?

 そう考えると、心臓が冷たくなる様な、酷く嫌な感覚が襲った。

 誕生日を丁寧に祝ってくれる優しい人。

 難しい局面で立ち回ってくれた頼れる大人。

 一緒にご飯を食べて「美味しいね」と言って、穏やかな笑顔を見せてくれる人。

 その人が、いつかあんな風に、冷たく掌を返して去っていく。

 この紙はどうなるのだろう。

 怖い。

 あの男は、未来の俺かもしれない。

 ……でも、言伝てを受け取ったなら、渡さないといけない。


「カナタさん」

「うん? どしたの?」

 カナタさんは誰もいない食堂で、ノートパソコンを開いていた。バックヤードは廊下を兼ねるから酷く寒いので、冬は暖房のかかる場所で事務作業をしたりするのだ。

 カナタさんはΩだ、体を冷やすのは良くないとも聞く。

 きょとんとした顔で見上げられて、若干罪悪感の様な物が沸いた。多少透けているから電話番号である事は分かるとは言え、メモを開いて盗み見たからだ。……後、二人の話も盗み聞きしてしまった。

 なるべく普通に、何も知らないような顔をしてメモを差し出しす。

「お客様がカナタさんに渡してくださいって」 

 大丈夫、普通に喋れている。カナタさんは一瞬目を見開き、そしてぎこちなく笑った。

「……なんだろう? ありがとうね」

 手が震えているわけでも無いし、怒っている訳でも無い。しかし、酷くゆっくりと俺から紙を受け取り、そっと開く。俺に見えない様にだろう、少し背を丸めて俯き、じっとそれを見ていた。

「あの、……」

 考えるより先に、無意識に声が出てしまった。カナタさんはパッと顔を上げる。その顔は何時もよりほんの少しだけ青ざめて見える。

 その紙、どうするんですか?

 喉元まで出そうになった言葉を飲み込む。

「ちょっと、……カナタさん、体調悪くないですか? 元気無いって言うか……」

「いや、そんな事無いよ?」

「そうですか、すみません、失礼しました。仕事戻ります」

「うん」

 それ以上は何も言えず、俺は踵を返してドアに向かう。扉の前でそっと振り返ると、カタンと音を立てて、カナタさんも席を立った。

 立ち上がり、机の間をすり抜けて、部屋の隅へと歩いていく。

 ゴミ箱だ。

 昔の友人と微かに繋がった縁は、不要なものとしてくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に投げられてしまうのか。

 又は忌々しいとばかりに、乱暴に叩き込まれるのか。

 想像して、胸の奥がぎゅっとした。

 しかし、カナタさんはゴミ箱の前でピタリと足を止めて、まるで祈る様に紙を両手に挟んだ。

 悲しげな、孤独な背中だった。

 そして、教会で懺悔をする信者の様に背を丸め、ゴミ箱の中に、小さな紙をそっと入れる。捨てたと言うよりは、何か大切な物を手放した、又は、埋葬した。……そんな風に見えた。


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