第6話 未来の君の隣
「……それ、捨てて良いんですか?」
振り返った表情は、青ざめ、心配になるほど強ばっていた。無理に笑おうとして失敗している。こんな事は初めてだ。
「……良いんだ、必要のないものだから」
「そんなに辛そうなのに……?」
我ながら無神経だが、聞かずには居られない。
だって、あの男はカナタさんを傷つけようとしている風ではなかったし、カナタさんだって、紙切れ一枚を捨てるという態度では無い。
どうしてそんな風になっちゃったんだろう。
「……大人になるとさ、子供の時の人間関係は希薄になるものだし、それを無理に掘り返したりしなくていいんだ。……俺は、……今目の前にある事だけで手一杯だから」
カナタさんはもう少し何か言おうとして、首を振る。俺には言えない話なんだろう。もどかしい。苦しい。
俺は子供だ。カナタさんが相談する相手でも、甘えられる相手でも無いのだ。
「……俺とも……いつか話してくれなくなるんですか?」
子供だから、こんなに甘ったれた事ばっかり言ってしまう。
カナタさんは少し肩の力を抜いて、困った様にふっと笑った。寂しそうな笑顔に見えた。
「アキラくんはね、これからいっぱい勉強して、どんどん大人になって、お仕事もしてね、その間に人間関係も変わって、俺以外にも色んな人と仲良くなれるよ」
「だから、カナタさんは俺と一緒に居てくれなくなるんですか?」
ワガママを言っている自覚はあった。母親に縋り付く子供のように、この人に愛してくれと強請っている。だってこんなに愛おしいと言う目で俺を見てくれるのに、あんなに苦しそうに電話番号を捨てたのに、時間と共に離れていくなんておかしいじゃないか。
「俺がアキラくんから離れるんじゃなくて、アキラくんが俺のいない所に行くんだよ。それでいいんだ。新しい場所に飛び込んで、色んな人と関わって、君も自分の人生を生きるんだよ」
穏やかに、窘めるように言う内容は変な事では無い。大学に行ったらそこで新しい経験をして、友達を作って、色々な経験をする中で古い人間関係が希薄になっていくのは想像が付く。高校の友達で卒業しても会うのは、殆どカケルくらいのものかもしれない。
でも。
「嫌です! ……俺はバイト辞めても大学行ってもカナタさんに遊んでもらうんです!」
食堂の壁に大きく響く。結構大きい声で言ってしまった。カナタさんも目を丸くしている。
迷惑か? 迷惑なのか? 知ったことでは無い、俺はこの人と一緒に居たいのだ。
「えっ……いや、俺はもちろんいいけど、嬉しいけど、友達と遊ぶ方が楽しいでしょう?」
「友達は別腹です!」
カナタさんだって彼女とも俺とも遊ぶはずだ、まだ先の未来のことをそんなにバッサリ切らなくても良いじゃないか。
カナタさんは真ん丸な目をして俺を見ていたが、やがてふへっと顔を崩して笑った。強ばっていた空気が、一気に溶けてなくなった気がした。
「ほんとにアキラくんは可愛いなあ」
何時もの優しい笑顔だった。内心倒れそうなくらいほっとしたが、態度には出さずにむくれて見せる。
「こんなに可愛い俺と最近遊んでくれない癖に……!」
昔の彼女に「何で彼氏の癖に全然遊んでくれないの!?」と詰め寄られて、面倒になって振った事がある。今にして思うと本当にごめん。俺が悪かったわ、普通に寂しいや。
カナタさんは「うーん」と唸り、額に手を当てた。
「ちょっと忙しいんだよね本当に……あっでも、八月の頭過ぎたら終わるから大丈夫。お盆は忙しいけど」
「えっ本当に何かあるんですか……!?」
「やだ、嘘だと思ってたの!?」
二人でびっくりしてしまった。どうやら俺の被害妄想だったらしい。ちょっと恥ずかしい。
「何か気に障ることしたのかと思ってて……心当たりがありすぎるって言うか……」
年末年始のゴタゴタで呆れられて避けられたのかと思っていたのだ。しかし忙しいのも期間限定という事は、そういう訳でも無いらしい。
「俺三月に辞めますけど、辞めた後も会ってくれるんですか……?」
カナタさんはなんだかムズムズするような、ニヤニヤする様な変な顔をした。内心どう思っているかは分からないが、先程までの暗い雰囲気は和らいでいると思う。
「またそんな可愛い顔をして……」
そりゃもう、あなたに好かれるためなら、捨て犬みたいな潤んだ目もするし、子供みたいに拗ねた顔だってしてみせますよ。
今はでかくて無愛想な高校生だが、小さい頃はこれでも末っ子としてしたたかに可愛がられていたのである。
「だって、一緒に居ると楽しいから」
「可愛さの暴力め……!」
カナタさんが頭を抱えた。勝ったな、こりゃ。
俺はゴミ箱に捨てられた紙切れにはならない。忘れられないくらいずっと近くに居たらいい。そうしたら思い出にならずに一緒に居られる。たぶん。きっと。
アキラくんは廊下をパタパタと走り、仕事に戻って行った。俺も溜息を一つ吐いて、またパソコンに向かう。社内システムのシフト表を睨みながらも、頭の中はアキラくんの言葉がぐるぐるしている。
可愛い子なのだ、本当に。
でもね、アキラくん。これからきっと君には楽しい事が沢山あるし、そうして忙しくしてたら、こんな社畜のつまらないお兄さんの事は、少しずつ過去の事になって忘れてしまうんだよ。
現に、俺は家出してからアイツの事なんて思い出しもしなかった。足枷になるものは殆ど全部捨ててしまった。
腹に宿った子供を無事に産むために、退路を絶って進むしか無かった。当時十六歳、堕ろせと怒鳴る父の元から逃げて、自立して生きる為にはそうするしかなかったのだ。
アイツは近所に住んでいた幼なじみで、幼稚園も小学校も中学校も一緒だった。クラスは一緒だったり離れたりだったけど、仲の良い友達だったとは思う。……それでも俺がΩなのは言っていない。
一応、心配してくれていたらしい。しかし、アイツだって俺が居なくなった直後は気を揉んでも、しばらくしたら俺の事なんて忘れて自分なりに過ごしていた筈だ。
人間、抱えていられるものの量なんてたかが知れている。今日だって、たまたま見かけたから驚いて声を掛けた、その程度のものなのだ。
俺が抱えていられるのは、娘のヒカルと、社会人になってからの友達が少し、仕事の関係の人、あとはアキラくん。そのくらいだろう。
親は絶縁。未成年だった頃は多少書類のやり取りが有ったが、成人になってからはそれも必要が無い。今現在は俺の住所すら知らない。
「……いずれ、俺も昔の人になるんだろうなあ」
アキラくん、信じられないかも知れないけど、本当にそうなるんだよ。
彼は一体どんな人生を生きるのだろう。俺の存在はきっと徐々にフェードアウトしていく。現に、彼はもうすぐ退職するから、あっという間に疎遠になる筈だ。
それなのに。
『俺はバイト辞めても大学行ってもカナタさんに遊んでもらうんです!』
「いや可愛すぎるだろ」
思わず口に出てしまった。
実際の所どうなるのかは分からないが、彼の言葉で心は温かい。本当にそうなるといいな、なんて、柄にもない事を思った。
あとほんの一月ちょっとで、アキラくんはバイトを辞める。仕事に追われていたら直ぐだろう。
「……辞める時くらいご飯誘っても良いかな……」
家に帰ると疲れた体にムチを打ってテキストに齧り付いているのだが、一日くらいは良いかもしれない。
そんな甘い考えを俺に持たせるくらいに、アキラくんは甘え上手で可愛いのだ。
ふとゴミ箱に視線を落とす。中にはアイツの電話番号が入っている。今ならまだ拾える。
「……ごめんね」
しかし俺は席から立つこと無く仕事を続け、やがて委託会社の清掃員の老婦人がそれを袋ごと回収して行った。
それでいいのだ。話す事なんて無い。だって言えないだろう?
見ず知らずのαに強姦されて妊娠して、何とか産むために保護を求めて家を出て、そのまま実家に帰らなかったから高校も中退しました。なんて。
続
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