第3話 先週のヒーローと食べる味噌ラーメン
木曜日。まだ夕日の残る山道を、マウンテンバイクで駆け下りた。時刻は六時少し前。蛇行する坂道を猛スピードで下る。もうすぐこの山道も燃えるような紅葉に染まるだろう。ちょっと前まではそれはもう虫だらけで、生きた心地がしなかったが、段々生き物の気配も無くなってきている。
山道を降りきって、突き当たった大きな道路を十分ほど走ると、道沿いにある大きめのスーパーがバイト先だ。
マウンテンバイクを停めて、スマホで時刻を確認する。六時ピッタリ。丁度八代さんもタイムカードを切った頃だろうか。
五分程待っていると、従業員通用口からスーツ姿の従業員が飛び出してきた。
紺色のスーツ、黒い艶のある髪はほんの少し長めだが、襟足をスッキリと刈り込んであってさっぱりしている。すらりと手足が長い。身長は俺と同じくらいか、少し小さいだろうか。
スーツが思ったより板に付いていて、少し面食らった。歳はそんなに離れていないと思うが。
マスクをしているので表情はうかがえないが、こちらに気が付くと、慌てた様子で走ってきた。
「ごめん! 待たせちゃって!」
「あ、いえ、お疲れ様です……」
マスク越しに、ニコリと笑ったのがわかる。目は口ほどに物を言うというか、大きな黒い目がまるで猫みたいで、それが表情豊かに細められて優しい笑顔を作るのだ。
「この間は本当にありがとうございました」
ペコッとお辞儀をするのに連られて、俺もついペコペコしてしまう。
「いえ……あのほんと気にしないでください」
八代さんは困ったように首を傾げたが、それでも優しい顔をしていて、なんだか戸惑ってしまう。本当に身近に居ないタイプだ。
「どうしてもお礼したくて。あ、この道ちょと歩いたとこにラーメン屋さんあるでしょ? 美味しいかな」
「あるのは知ってるんですけど、行ったことないですね」
実はこの通り沿いは、バイト先以外よく知らない。こちらは学校から見て駅と反対側で、友人と何処かで遊ぶとなるとまず駅方面に降りていく。
最寄り駅は駅ビルと、駅前にショッピングモールや飲食店もあり、通常行くならそっちなのだ。もちろん電車に乗って繁華街まで出たりもする。
「レビュー見たらけっこう良さそうなんだ。味噌ラーメンがメインみたいなんだけどどうかな、好きじゃない?」
どうやら事前に調べてくれたらしい。
「ラーメンめっちゃ好きです」
あれ? なんだか俺、とってもスマートにエスコートされてないか?
「じゃあ行こう、お腹すいちゃった」
八代さんはへらっと笑った。ちょっと砕けた調度良い温度感と、好感の持てる優しい口調。それでいて計画に隙のない感じで、妙に居心地が良い。
俺はマウンテンバイクのロックを外し、八代さんと歩き出した。
「木下さん元気? 俺ちょっとだけ一緒のお店だった事あるよ」
「あー……なんかふわふわしてますよね」
「優しいよねー」
少し話してみると、他愛の無い会話が心地いい。フィーリングというかテンポが良いというか、感じの良いお兄さんだ。
……そういえばΩなんだった。全然意識してなかった。そのくらい普通の男の人だった。
そうだ、このまま、あの時の気持ちは忘れよう。この人をめちゃくちゃにしたいなんて思ったのは、フェロモンから誘発された催眠みたいなものだ。忘れてしまえばいい。
ふと、足を止める。何かと思ったら八代さんはバス停の時刻表を確認していた。
「今六時過ぎでしょ、お店混んでるかな……時二十分か、五十分のバスが良いかな……流石に六時五十分のじゃ食べきれないかな」
「あんまり時間ないんですか?」
何かこの後予定があるのだろうか。八代さんは一瞬、翳りのある目をした様な気がした。
「バス、あんまり待ちたくないからぴったり間に合う時間に出たくて」
言っている事は分かるが、内容の割りに声が沈んだような気がした。気の所為かも知れないが、言い淀む様な間が一瞬空いたのだ。
なんでだろう。
「待つの面倒なら駅まで歩いちゃっても良さそうですけど、……こっから二十分くらいだからあんまり変わんないかな」
「うん、でも駅までバス乗って帰るよ、もう暗いし……」
八代さんは、スマホでバス停の時刻表をパシャッと撮る。
「ご飯食べたら何分のにするか考えるよ」
そう言って振り向いたのは、さっきまでの人好きする笑顔だった。
「俺バス来るまで一緒に時間潰しますよ」
そう言ったらびっくりした顔をして、ちょっと照れくさそうに、
「ありがとう、本当に」
と言われてしまった。たかがバスを待つだけの時間だ。なんでこの人はこんなに嬉しそうなんだろう。
幸い、直ぐに席に通された。
事前にリサーチしていたから分かってはいたが、店内は時間帯もあって少し混み合い始めていた。レビューサイトの☆3.8、流石に不味いという事は無いだろう。
少し先にイタリアンもあったが、この年頃の男の子だからラーメンの方が良いかと思いこのチョイスである。吉と出るか凶と出るか。
年頃の男の子こと志津暁くんは、通されたボックス席でメニューを熱心に見ている。
目がキラキラしているのを見逃さない。どうやら当たりだったらしい。内心ほっと胸を撫で下ろす。
なんせ、自分は高校には殆ど行かず退学してしまったものだから、高校生の男の子が何に喜んでくれるか、けっこう真面目に悩んだのである。
「なんでも好きなの食べて?」
「……俺この北海道味噌のチャーシュー麺にしてもいいですか?」
「いいですよ」
大きなチャーシューがドンと乗った、けっこうボリュームのありそうなメニューである。流石。俺は多分食べきれない。
「俺餃子食べたいな、志津くんも食べる?」
なんだろう、可愛いなこの子。餃子、と聞いて本当に子供みたいな目で頷くのだ。会場で見かけた時はクールな正義漢だったのに、今はお腹がペコペコな様子で、一生懸命メニューを見ている。可愛い。なんだこれ。何だこの気持ちは。バチッとハマる言葉が脳裏に閃く。
……これは庇護欲か!
合点がいった。
八代奏多二十二歳、実は六歳の娘が居る。最も諸々の事情で育てられず、今は特別養子縁組をしたご夫婦から、たまにお写真をいただいているくらいしか接点が無い。一応毎年、税金がかからない範囲で送金だけさせてもらっている。
そう、俺は庇護欲を持て余していた。
娘の代わりにする様な失礼な真似はしないにしても、ご飯をいっぱい食べさせるくらい許してもらえるだろうか。
「餃子二枚頼んじゃおっかな」
「……」
嬉しそう。どこか西洋的な雰囲気がある、色白で鼻の高い綺麗な顔立ちの少年なのだが、その子がオネダリしたくてもちょっと恥ずかしくて出来ない、みたいな顔でうずうずとメニューを見ている。視線を辿ってみる。
「ミニチャーハンもつける?ラーメンも大盛りにしちゃう?」
ハッとした顔。その後にちょっとバツが悪そうな、恥ずかしそうな顔をして。
「……大盛りにしちゃいます」
わー! 可愛い!
すっかり楽しくなってしまって、目につく所にいた店員に手を振る。
「餃子二枚と北海道味噌のチャーシュー麺大盛りと、ミニチャーハンと、あと九州味噌ラーメンお願いします。あっ志津くん、飲み物は?」
「……水で大丈夫です」
なんか恥ずかしそうなんだよなこの子。いっぱい食べるからか、俺の奢りだから遠慮してるのか。
店員がオーダーを持って行ったあと、俺は内緒話の大きさで、志津くんに問いかけた。
「ねえ、食べ終わって余裕あったら最後に杏仁豆腐食べる?」
そう言ったら本当に恥ずかしそうな、照れくさそうな顔をするので、俺はもう、この可愛い男の子に夢中になってしまった。
それはもう、もちろん恋愛的な意味では無くて、ただ、思い切り可愛がって、おなかいっぱい食べさせたい存在として。
高校生男子ってのは、とにかく無尽蔵に腹が減る。これは十人に聞いたら八人くらいはそうなんじゃないかと思う。一応、寮では朝食と、夕食が出るし、昼は食堂と購買が開く。
一応親からは食費と、多少の小遣いを毎月仕送りで貰っているのだが、正直全然足りないのでバイトをしていないと持たない。それこそちょっと遊びに行ったら、小遣いなんて吹っ飛んでしまう。
何より、腹が減るのが一番辛い。自分は本当に燃費が悪くて、エネルギー切れを起こすと、すぐだるくなって動けなくなってしまう。なので、日々のバイト代は殆ど食費に消える。
八代さんはテーブルにあったピッチャーを取り、プラスチックのコップに水を注いでくれた。
いつの間にかマスクを取って、テーブルの隅に置いている。中性的で小綺麗な顔で、Ωだからか不思議と雄臭さを感じない顔だった。
年齢はやはりちょっと上、くらいに見えるのに、仕草は完全に社会人のそれというか、何もかもそつが無いのがアンバランスだ。
「あっ、すいません、俺……」
何かした方が良いと思うのに、この人は何でも先にやってしまって、手伝える所が無い。
「お待たせしました〜餃子二枚です」
目の前にことんと置かれた皿は一枚だが、二人前の餃子が十個、パリパリに焼かれた焦げ目を上にして並んでいる。ごま油の香りに、ぶわっと一気に食欲が湧いた。
「志津くんお酢とラー油使う?」
はっと我に帰ると、八代さんが甲斐甲斐しく、小皿に醤油を注いでいた。自分の分には酢とラー油を適度に入れている。そのタレが妙に美味そうに見えた。
「……はい」
「入れちゃって平気?」
「はい」
妙に力強い返事になってしまったが、彼は気にする素振りもない。
俺は割り箸を二膳取って、一膳は八代さんの前に置いた。
「ありがと」
そう言いながら、小皿を俺の前に置いてくれる。ああ、お腹空いた。
「んじゃ、いただきます」
「いただきます」
パシンと割り箸を割る音が重なって、俺は一応、八代さんが手を付けるのを待ってから、餃子に箸をつけた。
「あっつ!結構熱い!気をつけて」
「えっ、はい」
どうやら中が熱そうだが、待っていられない。八代さんが作ってくれたタレにちょんとひたす。
ツヤツヤの皮と、パリパリにの焦げ目が早く食べろと誘っている。一口に頬張ると、それ見た事かとばかりに灼熱の肉汁が溢れた。
「あっつ!うっま!」
肉の旨味とネギの香り、もちもちした厚手の皮と、ゴマ油でパリパリになった焦げ目。正直最高だ。餃子の専門店にも引けを取らないんじゃ無いだろうか。
「だから言ったじゃん」
八代さんはそう言いながらもなんだか凄く嬉しそうだ。餃子が好きなのか。
「いっぱい食べな、俺そんなに量入んないから」
どうしてだろう、優しくて、母親が子供を見守るような目をしている。俺はそんなに子供っぽいのだろうか。
なんだろうこの子。
俺は高校生の男の子にぼうっと見入っていた。目の前には半分くらい減った餃子と、大盛りのチャーシュー麺と、ミニチャーハン。
咀嚼音が心地よい。目の前の男の子は比較的細身だと思うが、それはもう吸い込まれるようにスルスルと体内に入っていく。
「めっちゃ美味しいですね」
照れくさそうな、幸せそうな笑顔が愛らしい。何よりこの子、結構な量をかなりのハイスピードで食べている割に、食べ方がものすごく綺麗なのだ。
なんというか、がっついている感じがしない。美味しそうに、丁寧に、ただし結構早く、心地よいくらいの咀嚼音と共に、極めて上品にラーメンを食べ進めている。
俺はそんなに早く食べれないし、沢山食べれないし、ゆっくり麺を口に押し込みながら、なかば感嘆してそれを見ていた。
「八代さんラーメン啜れない人ですか」
急に話しかけられてびっくりしてしまった。
「うん、なんか啜っても全然入って来ないんだよね」
志津くんは綺麗な弧を描くタレ目を細めてへらっと笑って、
「俺もです」
とはにかんだ。
なんていうか……育ちの良さが滲み出ている。一見ぶっきらぼうというか、立っているだけだとムスッとしているのだが、態度は紳士で、仕草は美しい。見目の良さとも相まって、神様が気合いを入れて作った感じがする。
なんだか本当に、天使みたいな子だなあ。
すっかり捻くれてしまった俺とは大違いだ。
「……志津くん、本当この間、助けてくれてありがとう、あ、食べながらで良いよ?」
何か答えようとしてくれた様だが、食べながらで良いと言ったら素直にそうしている。
「本当にね、怖かったんだ俺。女の子も一緒だったし、本当は俺があの人達を止められたら良かったんだけど、……情けないんだけどね、どうにもならなくて」
志津くんは、むぐむぐしていた麺をこくんと飲み込んだ。
「……失礼かも知れないけど、αの男からしたら、八代さんも女の子も変わんないです。女の子に乱暴な事するやつは最低です」
「いや、俺は一応全力で男の子だよ?」
体格も違うし、力も普通の女の子よりは強い筈だ。でも、αのフェロモンにあてられると途端に恐怖が勝り身体は竦む。これがΩの弱さで、俺はこの身体がやはり好きでは無い。
「男の子ですけど、αは八代さんを守らないといけないんです。だって、その為の
澄んだ瞳は色素が薄くて、メープルシロップみたいだなあとぼうっと考えた。この子の言う事は清らかで正しい。でも、現実において、Ωのフェロモンを前にしたらこの子だって気が狂う。
なんだか少し、お腹の下の方か痛んだ様な気がした。丁度昔、帝王切開で切ったあたり。
「……志津くんは素直で、良い子だね。君に守ってもらえる女の子は本当に幸せだろうなって思うよ」
そう言われた志津くんは、ちょっとびっくりしたように目を見開いて、ぽそりと「ありがとうございます」とだけ言うと、また黙々と箸をすすめはじめた。
顔が少し赤くなっていて、ちょっと照れているのが分かる。褒められるのは恥ずかしいお年頃なのかもしれない。
「餃子全部食べちゃっていいよ。あ、店員さん、杏仁豆腐二つお願いします!」
そう言ったらまたキラキラした目で俺を見るから、俺はもう、この子のご飯係でいいからたまに会ってくれないかなって、そればっかり考えていた。
だって、心が満ちるのだ。
美しい優しい子が、一生懸命、丁寧に、美味しくご飯を食べている。
こんなに満たされる光景って中々無いんじゃないかなあ。
杏仁豆腐はツルツルの方じゃなくてもっちりした方だった!
「俺絶対この店通おう……!」
「ね、杏仁豆腐美味しい……おれも軽いヤツじゃなくて濃いヤツの方が好き」
八代さんは満足そうに言った。結局餃子は二、三個しか食べなくて、後は全部俺が食べてしまった。
比較的小食、甘い物は別腹って感じだろうか。女のコみたいですねなんて言ったら失礼になるだろうが、やはりなんとなく中性的な感じは否めない。
あの、ヒートの時に一緒に居た女の人はどういう関係なのだろう。流石に職場でいちゃついていた訳は無いだろうけど。食堂でも違う女の人と一緒に居たし、やはり異性愛者なのだろうか。
だったら、友達みたいに付き合えないかな。
『志津くんは素直で、良い子だね』
そんな事言ってくれる人は居なかった。
つるんでいる友達は、俺を皮肉屋で何を考えているか分からない奴だって言うし、母親でさえ、
『どうしてあんたは私の言う事が聞けないの!』
悲鳴の様な母の声が脳裏にこだまして、俺は慌ててそれを振り払う。
「あ、八代さん、連絡先交換してくれませんか?」
そう口に出してからしまった、と思った。また食事をたかるつもりかと思われたら流石に悲しい。
恐る恐る表情を伺うと、八代さんはぱっと表情を明るくして、黒いスマホを取り出した。
「しようしよう!またどっかご飯食べに行こうよ」
幸い嬉しそうに返してくれたが、内容はちょっと問題である。
「今度は俺が奢りますんで」
「何言ってんのさ、若いんだから遠慮しなくて良いのに。学生さんに奢らせたら俺が変な感じになっちゃう」
そこまで言われて、違和感を感じた。明らかな子供扱い、この人、そう言えば何歳なんだろう。予想ではギリギリ十代か、行っても二十歳くらいだと思うんだけど。
「あの、八代さんって歳いくつなんですか……?」
「二十二だよ」
ちなみに早生まれだよと、どうでもいい情報が追加された。
二十二歳。
「……え!?俺より六歳も上なんすか!?」
「え、いくつに見えたの?」
ヘラヘラしているが、結構とんでもない。何で若く見えるのか、強いて言うなら透明感みたいなものだろうか。外見と表情に幼さが残っている。なんというか、子供を無理やり大人に仕立てあげたみたいな違和感があった。
「じゅ、十九とか?」
「はは、子供っぽいって良く言われるんだよねー」
「子供っぽいのとも違う気がするけど……」
「志津くんは幾つなの?」
「十六……もうちょっとで十七です」
「若いなあ」
八代さんは腕時計を見た。気がついたら八時を少し過ぎたところだ。随分長居してしまったが、居心地が良くてあっという間に感じた。
「……そろそろ出ようか二十分のバスがあるから。早く来ちゃうこともあるし」
「そうですね……あの、今日はご馳走様でした」
「また一緒にご飯食べてくれる?」
伝票を取りながら、八代さんが控えめに、ちょっと強請るみたいに言った。ご飯も魅力的だが、この人と居ると自然な気持ちで居られるような気がした。
「是非。八代さんが良ければ」
「ほんと? ありがとう」
なんでこの人は、こんなに嬉しそうなんだろう。
それで、どうし俺はこの人と一緒に居たいんだろう。例えるなら、小さい時、まだ母親が大好きだった頃、ずっとそばに居たいと思った様な感情に似ていた。
バス停で五分くらい待っただろうか、街灯はあるが人通りも少ない道は、一人だったら随分心細かっただろう。志津くんはバスが来るまで、自転車をロックして待っていてくれた。
「じゃあね、今日はありがとう」
バスが止まって、油圧の音を立ててドアが開く。
「ご馳走様でした、あの、」
ステップに足をかけて振り返ると、志津くんはちょっと躊躇ってから、
「ほんと、また会ってくれますか?」
そう言った顔があんまり必死で、なんだか抱き締めたくなってしまった。もちろんそんな事はしない。気持ちだけ。
「うん。またどっか行こうね。おやすみ」
プシュー、と音を立ててドアが締まる。色の薄い唇が、「おやすみなさい」と動くのが見えて、バスは走り出した。
席はガラガラだ。駅まで十分くらい。歩いても二十分。ちょっとしか違わないのは、バスが市役所を通るのに少し迂回するからだ。
バスの外の道は暗い。俺は身震いして、明かりを見つめる。
ずっと昔、まだ高校生だった頃、人気の無い暗い道で、死角に引きずり込まれて乱暴された事がある。
俺はそれ以来、とても弱くなってしまった。
暗い道も怖い。逆に人の多い所も怖い。何もかもが恐ろしくて、それでも生きるために人生にしがみついている。
志津くんの言葉を思い出す。
『女の子に乱暴な事するやつは最低です』
どうか彼がずっと、そのまま、真っ直ぐで清潔な心のままで居てくれます様に。
もうすぐ大人になる彼が、あの綺麗な目のままで居てくれますように。
俺は走り去るバスを見送って、マウンテンバイクのロックを外した。ポケットからスマホを取り出す。バスは時間ぴったりに来たらしい。道が空いているからだろう。
メッセージアプリの通知が溜まっている
ついさっき一番上にあった八代さんのアイコンが、随分下に追いやられている。
メッセージはルームメイトの友達と、後は一回か二回、ホテルに行った女の子。が、……何人か。
「……バイト無い日ってバレてんのかな?」
大方暇だから連絡を寄越すんだろう。返信は面倒なので、帰ってからにしよう。
「めっちゃ食べたな、腹いっぱいだわ……」
満ち足りた胃と、楽しかった余韻が心地よくて、俺はマウンテンバイクに乗って、ゆっくりと漕ぎ出す。
バスはもうとっくに見えない。
また近いうちに、八代さんに会えるだろうか。
寮は山の上、心臓破りの坂を、今日はゆっくり歩いて登ろう。
『素直で良い子』の気分に、もう少しだけ浸かっていたいのだ。
俺はあの人が思っている様な可愛い高校生では無い。人も殴るし、女の子と適当に遊ぶし、愛想も悪ければ口も悪い。
でもずっと、『素直で優しくて良い子』になりたかった。
そうしたらきっと、母はあんなに俺に怒鳴らなかっただろう。母を苦しめるのは辛かった。でもどうしても、良い子で居られなかった。
『あんたがちゃんとしないから、お母さんまでちゃんとしてないって叔父様達に怒られるの!』
違うの、母さん。俺はね、親戚のおっさん共がΩの母さんを馬鹿にすんのがどうしても許せなかったの。
母を泣かせない、優しくて良い子になりたい。でもどうしても、俺は良い子になれない。
散々色々あった結果、家を追い出される様に、遠く離れた寮付きの学校に押し込められたのだ。
俺はどうやら、あの家で要らない子。
無性に寂しくなって、そうしたらまた、八代さんに会いたくなった。
都合がいいと思われるだろうが、ただ子供扱いして「良い子だね」と言ってくれる、それだけの事が、どうしようもなく寂しい気持ちを温めた。
続
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