第26話 羽化

「二人一時間で」

 引っ張られて辿り着いたのはカラオケの受付だった。おろおろしている俺を放置して、アキラくんは淡々と手続きを済ませている。

「ワンドリンク制ですので、お飲み物この中からお願いします」

「コーラ二つ」

 オーダーすら聞いてくれない。いやコーラで良いんですけど。好みが分かっていても、心が遠いとこんなに距離を感じるものだろうか。

 少し見ない間に筋肉のついた四肢は、もう子供と言うより青年のそれだ。笑顔で居てくれれば大型犬の様な愛らしさだが、無言になると途端に重苦しく、他人のような威圧感を感じる。

 部屋番号の書かれた伝票を受け取って、俺には何も言わずに先に歩いていってしまう。流石にもう手は掴まなかったが、今度は歩調が早くて置いていかれそうだ。

 見れない背中。知らない人の後ろについて行っているような不安感。

 このままどうなってしまうんだろう。 

 どうしようどうしようと思っていると、あっという間に部屋に着いてしまった。

 L字のソファーとテーブルと機材。三人くらいしか入れない小さな部屋だ。

 薄暗いまま入ってしまったので、慌てて照明の摘みを捻って明るくする。

 ガラスの扉を閉めると、アキラくんは溜息をつきながら、一番奥にドサッと座った。戸惑いながらコートをハンガーにかけて一番離れた入口近くのソファーに座ると、何とも言えない沈んだ表情で俺にデンモクを渡してきた。

「えっと……?」

 いや、この状況下で何を歌えと……!?

「……なんか落ち着く歌歌ってください…………」

 小さな声には覇気がないし、俯いたままだ。

 落ち着く歌と言うからにはとりあえず落ち着きたいんだろうか。しかし子守唄とか入れるのも変だし、でも何とか関係を保ちたいし、歌えと言われたら歌わない訳にもいかない。

 俺は店員さんが持ってきたコーラを受け取りながら、心の中のデータベースを掘り返す。

 ドアが締まり、俺は迷いつつも曲名を検索した。


 自分でもものすごく子供っぽい事をしている事は分かっている。要するにカナタさんが会計した事に勝手に拗ねて、相手を困らせる事で拗ねた自分を誤魔化そうとしているのである。良くない事は分かるのに、感情をコントロール出来ない。

 何か話さないとと思うのにどうしていいか分からず、カラオケなんかに連れ込んで。

 俺は子供で、カナタさんは追いつけないくらい大人で、もう自分ではそのギャップをどう埋めていいのか分からなくて、それが情けなくて、でも上手く伝えられないのだ。

 カナタさんは高校を中退して、アルバイトから社員になったと言っていた。今の俺くらいの頃は、もうとっくに大人の世界で生きていたのだ。

 比べれば、ただただ情けなくて、恥ずかしくて

「……なんか落ち着く歌歌ってください…………」

 当てつけみたいにしたオーダーに、カナタさんはおずおずとデンモクを受け取った。

 断っても良いしむしろ普通は断りそうなものだが、律儀に困った顔で考えている。

 カナタさんは何処までも優しくて、大人で、そして非常に謎が多い人だ。

 仕事は出来るけど体質には悩んでいる様で、俺と居る時は子供みたいな時もあるけど実際は大人で、女の人と居る時はびっくりするくらい「格好良い男」という姿をしていて、でも恋愛感情は無いみたいで、それでいて暴力団の人間を俺から引き離す人脈を持っている。そして、友達だったであろう男の電話番号をゴミ箱に捨てたりもした。

 一体何枚顔を持っていて、俺に見せるのは何枚目の顔なんだろう。

 一番好きな人にはどんな顔を見せるんだろう。

 悔しかった。カナタさんの一番になりたいのに、ちょっと背伸びしても全然上手くいかない。

 四方さんの声を思い出す。

『あんたみたいなクソガキが思い付く事なんかたかが知れてんのよ。本人とちゃんと話しな、それが出来ないならもうカナタに近寄るな』

 話せば何か分かるのだろうか。話せないなら離れなければならないのだろうか。

 カナタさんは迷いつつ、曲を送信してマイクを取った。

 歌い始めたのは洋楽だった。

 テンポはそんなに早くないが、もちろん全て英語の歌詞だ。

 驚いて、画面を食い入るように見つめた。

 和訳は出ない。落ち着いた曲調だが、ゆっくりという訳でも無い。

 英文の羅列から何とか読み取れた歌詞を拾うと「Because of you」。結構このフレーズが入っている。直訳すると「理由はあなただから」だろうか。

 歌は上手というか、歌い慣れている感じがする。変に肩肘張っていない、穏やかで静かで、言ってみれば子守唄みたいな歌い方だった。

 そして、そういう所がまた大人っぽい。それを呆然と聞く俺はやはり子供だった。

 そうだ俺は、子供を止めて大人になって、隣に立ちたかった。だから初任給で格好をつけたくて、上手くいかなくて八つ当たりなんかして。

 歌が終わって、カナタさんはマイクを置いた。

「……今の何ていう曲ですか」

「Because of you」

「どういう曲なんですか」

「どういう……? なんだろう、『自分が色々やらかすのは、結局全部あなただからです』、みたいな感じ。……言い訳みたいに聴こえるか、ごめんなさい」

 そうだ、全部カナタさんだから、俺はこんなにも浮き足立って落ち込んで、情けなくて、でも離れたくなくて。

 カナタさんは少し笑ったが、それでも依然として困った顔である。完全に心が繋がらず、互いに困惑して、このまま離れ離れになるしか無いんだろうか。

 そんなのは嫌だ。

『本人とちゃんと話しな』

 話さなくてはいけない。ちゃんと、何からどう言えばいい。

「俺は……」

「うん」

「カナタさんとこれからもずっと、こういう……今日みたいな感じじゃなくて、できれば……ずっと仲良くしてもらえたらって、思ってるんです」

「……俺もそうだったら嬉しい」

 静かに言ってくれる言葉に少しほっとした。言葉を選び、自分の気持ちを探る。何とか感情的にならず、ちゃんと伝えないと。ちゃんと話し合わないと。

「ずっと奢ってもらってると、……俺もその、やっぱり負い目があるし、今日は初めから俺が全部するつもりで、予約したりもしてて」

「……勝手にレジに行ってごめんなさい」

 しゅんとした顔は叱られた子猫みたいである。

 俺は俺で、さっきまでたぶん拗ねた犬みたいな顔をしていただろう。

「知り合いに、カナタさんと一緒に居るならちゃんと話し合えって言われて……」

 カナタさんは四方さんと俺が会った事をたぶん知らない。後を追けたのは良くなかったと思うし、言ったら怖がられてしまいそうだ。後ろめたいが、そこは伏せさせてもらう。

「話し合い……そうだね、もう上司と部下でも無いもんね」

 関係は徐々に変わっている。これからも変わっていく。ずっと今のままではいられない。

 でも、やっと自覚が芽生えてしまったのだ。俺はこの人に可愛がられたら嬉しいけれど、もっともっと欲しい。一番近くまで。深い所まで。

「カナタさん、俺と……」

 黒い猫みたいな瞳が、緊張で震えている。これで終わるかここから始まるか。俺たちはどうなっていくんだろう。

 どうなるかでは無い。

 もうとっくにわかっている。

 俺はこの人を独り占めしたいのだ。

「フラットな『友達』から、やり直してくれませんか……?」

 必死になってしたたかにやるさ、ゴミ箱に捨てられた紙切れにならないように。

「友達……」

 カケルは「自分も好きになって、好きになってもらえばいい」と言っていた。正直正しいし、性欲が沸くなら恋だってできるはずだ。というかこんなに会いたいならそれはもう「好き」という感情で良くないか?

 少なくともこの人の横に他所のαが立つのは死んでも嫌だった。

 そんな事は許せないし、この人が俺から離れるのも許し難い。

 俺が子供である事はある種貴重なアドバンテージであり、カナタさんは俺が子供だから可愛がってくれる。

 だがそれじゃダメだ、「可愛い高校生」はいくらでも代わりが居る。俺の後に入ってくる「子供達」がカナタさんのお眼鏡に叶ったら、これからどんどん大人になる俺は自然と意識から薄れるだろう。

 そんな事は許せない。

 この人は俺のものにする。

 家に泊まった時に心底思い知ってしまった。どんなに目を背けたところで、俺は番とを欲する傲慢なαで、カナタさんはαが奪い合うΩなのだ。

 他の奴に取られるなんて許せない。

 拙く幼くワガママな、初めて自分から好きになった恋だった。

「十月のライブ、約束通り一緒に行ってくれますよね?」

 この人に、俺に恋をしてもらう。今のままじゃだめだ、俺が子供なのもいけない。守られる子供から、Ωを守るαにならないと。

「……友達として?」

 カナタさんは少し困惑した表情で首を傾げる。

 何としてでも俺を意識させる。リョージさんの件で俺はカナタさんに守ってもらったが、今度は俺が守る番だ。αであるアドバンテージを使うまたと無い機会である。

「そうです」

「受験は大丈夫なの?」

「一日くらい平気です」

 カナタさんは一瞬潤んだ目をした。俯いて、小さな声で語り始める。

「俺、男の友達って全然居なくて、その、勝手が分からないから、アキラくんに迷惑かけるかも知れないんだけど……」

 男の友達は居ない。あのメモを渡して来た客は、やはりカナタさんに存在ごと捨てられている。

 俺はそうはならない。

「アキラ」

「え?」

「フラットに、って言いました。俺の事は呼び捨てでお願いします」

 明らかに困惑しているのが見て取れる。詰問している様な雰囲気になってしまったが致し方ない。

 緊張した面持ちで、カナタさんは小さな声で言う。

「アキラ……」

「はい」

「フラット……な関係なら、俺に敬語使うのもなんかおかしくない……?」

「そうですね。止めましょうか?」

「いや止めて欲しいとかじゃないんだけど……アキラくん、じゃないや、アキラの好きにしてもらえば……」

「じゃあ止める」

 ギクッと顔を上げたあなたの、心の中を教えて欲しい。俺はあなたを俺のものにしたい。あなたは俺をどうしたい?

「カナタ」

 初めて呼び捨てにしてしまった。心のスイッチが切り替わった様な気がする。今日から俺は守る存在に変わるのだ。強引くらいで丁度いい。

「うん」

「ライブ一緒に行こう」

「分かった」

「ライブ行くのに心配な事とか、当日俺が準備した方が良いものとか、なるべく教えて。言っとくけど抑制剤はもう飲んでる」


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