スカイハイ アンド アンダードッグ
縦縞ヨリ
第一部
第1話 青空のカナタ
俺が生きるという事は、ガラスの破片の散らばる道を、一人ぼっちで、裸足で歩いてゆく様なものだ。
そう思っていた。
君に出会うまでは。
「やめてください!」
更衣室に響いた小さな怒声に、制服に着替えていた参加者の何人かが振り向く。
自分も思わず目を向けると、さりげなく首筋の匂いを嗅いでいた男がぱっと離れた。
「自意識過剰なんだよ」
気まずそうに目を背けて、足元に置いてある鞄なんかを避けながら、そそくさと知り合いであろう男の所に向かう。そうしたらたまたま、自分の近くに来てしまった。
「匂い分かった?」
「わかんねぇな」
下卑た小声が聴こえる。
それも、匂いを嗅いだ相手には聞こえていたのだろう。更衣室の奥でもそもそと着替えていた彼は、ただでさえ肩身が狭そうなのに、俯いて小さくため息をつくのが見えた。
首筋の匂い、フェロモンだろうか。
(もしかしてオメガか……?)
思わずまじまじと見てしまう。細身で、身長は170センチちょっとだろうか。体格も華奢だし、少なくとも
紺のスーツをロッカーに掛けて、薄いブルーのネクタイを引き抜き、ワイシャツのボタンに手がかかる。
男性の
するりと袖を抜いたワイシャツ。その下にはしっかりと長袖の黒いインナーを着込んでいた。
俺はそこで初めて、彼の裸が見たいと思っていた事に気がついた。
(オメガでも更衣室分けて貰えないのか、可哀想だな……)
まじまじと見ていた自分の事は棚に上げて、俺も制服のエプロンに袖を通した。
名札もきちんと着いているか確認する。
『
ふう、とひとつため息をついた。一日長そうだ。
今日は会社主催の技術コンテストである。
業態は関東から九州までに分布している大手のスーパーマーケットで、今日はその中でも精鋭を集めて、各々しのぎを削って技術の向上に生かしましょうというイベントだ。
場所は本社横にある自社の研修センターで、各部門合わせておおよそ百名程がエントリーしている。
ピリピリしている出場者に紛れて、俺はロビーのソファに座って時間を潰していた。
腹減ったなあ。
なんせ学校の寮からで二時間近くもかかったので朝も簡単にしか食べれなかったのだ。
自分の競技は前座みたいなものだったので早々に終わり、午前中はあちこち自由に見学しつつ、昼食まで時間を潰す予定である。
「志津くん、トレーナーさんが一階の展示見てきても良いって」
「んー……俺は良いかな、あんま興味無いし」
そう? と返事をして、同じ競技に出ていた女の子はパタパタと階下に降りていった。バイト先の会社の成り立ちとか、多分この先一生使わん知識だ。
ほんと、一日長そうだなあ。
と言うのも、俺は社員ではなくアルバイト部門のノミネートで、競技自体も各々決められたものを決められた手順で陳列する単純なものだった。
早かったとは思うが、丁寧さみたいなものは減点を取られそうだなあ。
とは言え、別に順位には興味が無く、ほんの少しのお手当てと、帰りに山と持たされると噂の土産目当てに来ただけなので、終わってしまえばあとはどうでも良いのだ。
ふと、何処かで、場の雰囲気に似つかわしくない声がした。なにやら切羽詰まった、若い男の声だ。
何となく興味が湧いて近付く。
見ると、薄く扉の空いた控え室の奥で、さっきのΩらしき彼と知らない男が揉めていた。
「今どういう時間だと思っているんですか!? 妨害行為ですよ!?」
やはりさっきの彼だ。ブルーのエプロンは俺と同じグロサリー部門のものだが、もちろん店も違うし、会ったことは無い。
何歳くらいだろう、若く見えるが、バイトで無ければ自分より一つ二つ年上かも知れない。高卒で正社員になった口だろうか。
艶のある少し長めの黒髪を、襟足から刈り込みツーブロックにしていて、清潔感もあるが、どちらかと言えば幼さが滲み出ている。口元は白いマスクをしているが、猫のように丸く切れ長の目が印象に残る。
「競技なんかどうでもいいんだよ……! 俺と付き合ってくれ、あんた、俺の運命の番だ!」
「はあ?」
思わず小さな声が出てしまったが、気付かれてはいないようだ。眉唾な話に彼も顔を顰めた。
「俺に運命だって言ったのは、あんたで十一人目だ」
忌々しげに吐き捨てる。やはりΩなのは確定らしい。
男は一瞬動揺したが、食い下がる。
「俺が運命だ! あんたの匂いで一瞬で分かった」
「クソめんどくせぇな」
彼の口調が荒くなってドキッとする。見た目には大人しそうな人に見えるのだが。
「あんた俺と競技一緒だろ? 俺より上位に着けたら話だけ聞いてやる。俺より下だったら二度と絡んでくんなよ」
「は、上等だ。俺が勝ったらその身体に嫌ってほど言い聞かせてやるよ」
運命というからには、男はαなのだろう。αは総じて知能指数も高いし、身体能力も高い。負ける気の無い勝負なら臨むところという事だ。
「覚えてろよクソセクハラ野郎」
ふん! と踵を返して、肩を怒らせたΩの彼がこちらに向かってくるのに気が付き、慌てて扉を離れて、近くのソファーに陣取って何食わぬ顔をする。
そんな俺の前を、部屋から出てきた彼がイライラしながら横切って行った。確かに、一瞬甘い匂いが鼻を掠めた。
大丈夫かよあの人。
そうは思ったが、啖呵を切ったならもう自分の責任としか言いようが無いし、俺の知った事では無い。
素知らぬ振りをして立ち去ろうとしたが、どうにもあの彼が心配で、後ろ髪を引かれる思いがしたことに自分で驚いた。
「八代くん、また虐められたのかい?」
振り向くと、中澤ゾーンマネージャーがひょいと手を上げて挨拶してくれた。談笑の輪を抜けてわざわざ声をかけてくれた様だ。
一瞬さっきの自称運命の番の件かと思ったが、多分誰にも見られてはいないし、恐らく更衣室でちょっかいを出された件だろう。
「いえ、慣れてますんで」
「そうかい。まあ、君は見世物でここにいるんじゃないからね。精々実力で捩じ伏せなさい」
にっこりと笑うが、ゾーンマネージャーは各エリアの長。もちろん自分のエリアのトロフィーは多いに越したことはない。
見世物、と煽られても平気なのはこの人の人柄を良く知っているからだ。俺だって、実力でここに呼ばれた自負はある。
「はい」
きっちり仕事はこなしてみせなければ。自称運命なんてのはどうでも良いが、会社に見放されては、俺のようなはぐれ者は生きて行けない。
「これからだろう? がんばってね」
「はい! ありがとうございます!」
午前の競技が全て終わったらしく、やっと食堂が開いた。意気揚々と食券を渡し、テキパキとトレーを惣菜で埋める。揚げたてのチキン南蛮。最高である。
早く座って食べたいが、生憎と近くの席は混みあっていた。さてどうしようかと辺りを見回すと、偶然にもさっきのΩの彼が居た。
トレーを持ってやはり席を探していた用だが、ふと誰かを見つけて駆け寄っていく。
「エナ!」
振り返った女性は彼と同い年位で、髪色こそダークブラウンのボブにしているが、目はしっかりとアイシャドウで彩られ、派手なメイクの目立つタイプだった。一言で言えばギャルっぽい。
女性はぱっと顔を輝かせて両手を広げた。
「カナタ! 超久しぶり!」
「来てたんだ! ご飯一緒しよう」
「今どこだっけ?」
「青空店だよ」
トレーを持っていたので胸に飛び込んだりはしなかったが、手ぶらだったら抱きついたのでは無いかと言う勢いだった。
「なんだ彼女か?」
近くに居た見知らぬ社員が誰にともなく言うのが聞こえる。超久しぶり、という言葉からするに彼女ではなさそうだ。しかし付き合っていてもおかしくない距離感。
何となく気になる。
二人は窓際の小さなテーブルを取る事にしたらしい。
素知らぬ振りをしてその背後のテーブルに陣取り、昼食を食べ始める。
窓際の席は明るいが、奥まっているのもあり比較的静かだ。
オメガの彼とは丁度背中合わせになっていて、微かに甘い香りがするような気もする。気の所為かもしれないが。甘くて優しい良い香りだ。ミルクに蜂蜜を溶かし込んだのに、薔薇の花弁を一枚浮かべたみたいな。
……たしかに、これは運命を感じなくも無い。先程のイザコザを見ていなければ、危うく十二番目の運命になりそうだった。そういう甘い魅力のある香りだった。
「ねえ、ちょっと前にカレシいたじゃん、アレ結局何で別れたの?」
ひそひそと聞いてはいるが、地の声が大きいためか割と聴こえる。
「えっと……」
彼は人目を気にしているのか、小声でぽそぽそと何か言っているが聞き取れない。
「……何かに……の…………いから……」
「はあ!? 意味わからん! サイコ野郎じゃん!」
「俺も悪いんだけどさ」
「最悪だわ……別れて正解だよ、もっと大事にしてくれる人探しなよ」
「そんな人居ないよ、俺こんな体だもん」
寂しそうに言うのが聴こえる。流れしか分からなかったが、酷い男に引っかかって別れたらしい。
馬鹿だなあと思う反面、自分だったらどうするかなとも考えてしまう。
「あのね、今日私の友達も仕事で来てて、女の子なんだけど、前にカナタの話したら会いたいって言ってて……」
しばらくそうして聞いていたが、話が興味のないものに逸れた頃、ちょうど食べ終わったので席を立った。
正直に言えば、Ωの身体に興味がある。しかし男となると話は別で、バイでも無いので流石に抵抗があるか。
正直貞操観念は薄い方で、お付き合いとなれば早々にやる事はやるし、付き合うまで至らない相手でもお誘いがあれば喜んで乗る方だ。
俺も所謂だらしない男らしいが、女の子に関しては向こうから来るので自分は悪くないと思う。
しかしながら歴代の彼女達は皆「思っていたのと違う」と言って去っていった。付き合う以前は大して話した事も無かったのに、どう思われていたのだろう。
彼女達はαというステータスとαの男のセックスに興味を引かれているのであって、俺自身を好きになっている訳では無いのだ。
なのに懲りずにお付き合いを重ねているのは、情けない話だが性欲を適当に発散したいからに他ならない。
元々両親とは折り合いが悪く、素行が悪すぎて遠方の学校の寮に叩き込まれた身である。孤独は思春期の心を容赦なく苛んでいたし、セックスに慣れることは自己肯定感を上げることにも一役買っている気もする。
俺はもう子供では無いから、ちょっと寂しくても大丈夫なのだ。きっと。たぶん。
続
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