■19

 あの当直の夜から、早くも一週間が過ぎて。

 私は今日もいつも通り、病棟の回診に来ていた。

「おはようございます、田井中さん」

「あぁ、おはようございます先生」

 挨拶を交わしながら、私は記録をつけていた田井中さんに患者さんの様子を伺う。

「皆さん、調子いかがですか」

「ええ、特に変わりなくですね」

 手元の申し送り表に視線を落としながら、田井中さんは報告を読み上げた。

「ヤナカさんはもうすっかり落ち着いて、まあまたお酒飲みたいって冗談っぽく言ってるくらいですね。ジョーさんは最近は休憩を促すとシャドーボクシングやめてくれるようになりました。薬が効いてそうです。あとは……で、ムロノヤマさんは――あぁ、昨日退院されてましたね、ええ」

 田井中さんの言葉に頷いて、私はポケットからあるものを取り出す。

「お礼にって、これ頂いちゃいました」

 それは、手のひらサイズの木彫りの犬のキーホルダー。

 退院を前に、「お世話になりました」と言ってムロノヤマさんが私にくれたものだった。

 手作り感こそあるものの、それと分かるくらいに柴犬らしきフォルムが削り出されているのが分かる。それを見て、田井中さんは「あら」と驚いてみせた。

「ムロノヤマさんの手作りですか?」

「作業療法の時間に作ってらっしゃったみたいです。上手じゃないですか?」

「ええ、本当に。元々は犬の調教師をされてたんでしたっけ。ちゃんと特徴捉えてますねぇ……」

 ……と、そんな話をしていると。

 その時ナースステーションの小窓をこんこん、とノックする人があった。

「天川先生、おはようございます!」

 はつらつとした張りのある声と笑顔を向けてくる彼女、犬山さんに会釈しつつ――私は田井中さんに返す。

「犬山さんは、お元気そうですね」

 そんな私の言葉に、田井中さんも嬉しそうに頷いてみせた。

「ええ、すっかり。今じゃ病棟の人気者ですよ」


――。

 あの日の顛末について、振り返って語っておくとしよう。

 あの晩は保護室で何をしていたかなどを看護師に説明するのに非常に苦労したが――泥を被ってくれたのは、柊だった。

 保護室で私が犬山さんを診察していたちょうどその頃、病棟でトイレに行こうとしていた柊がたまたま物音を聞きつけて、悪いとは思いながらも開けっ放しになっていた保護室区画へ立ち入った。

 するとちょうど、犬山さんが急に興奮して私に掴みかかっていたのを見つけて、無我夢中で止めに入ったのだと――まるで最初から台本でも用意していたかのようにすらすらと、そんな風に説明してくれたのだ。

 対する私はというと、恥ずかしながら柊の用意してくれていたシナリオにただそれらしく相槌を打つのみで。

 そんな私の様子に、さすがに病棟の看護師たちも不審に思っていたようではあったものの……とはいえ深く追及を受けることはなかった。

 というのも、そんなこと以上に驚くべきことがあの晩にあったからだ。


 犬山さんが――ずっと昏迷状態で意思疎通ができなかった犬山さんが、いきなり喋れるようになったのである。

「……私、何してたんですか? ここ、どこ……なんですか?」

 声こそ弱々しいものの、その表情には確かに意思の表出が見られた。

 押しかけてきた看護師たちや私を見て驚きこそすれ、興奮することもなく現状の説明を聞き入れてくれた。

 そんな驚きの回復があったがゆえに、病棟の看護師たちも私の関わりが何かしらの治療効果を生んだらしい――ということは納得したようで、一応柊に軽い口頭での注意があったくらいで手打ちとなっていた。


 そして、病棟全体についても、大きな変化があった。

 最終的に二十人近くの患者さんたちが例の幻聴・幻視の症状を訴えていたのだが――あの晩を境に皆が口を揃えて「見えなくなった」というようになったのだ。

 これには院長先生なども驚いたようで、当直だった私に対して「何かしたんですか」と尋ねてきたりもした。

 とはいえ正直に言うわけにもいかず……結局表向きとしては何が原因だったのか、どうして回復したのかについては明確な結論が下されないまま、病院は徐々にかつてのような雰囲気を取り戻しつつあった。


――。

 窓口で私に手を振っていた犬山さんの元へと向かう。

 今はもう入院着ではなく、自前のふわふわしたピンク色のパーカー姿。鼻管も点滴も、すでに外れていた。

「どうも、おはようございます。今日は朝ごはん、食べられましたか?」

 そんな私の問いかけに、犬山さんはアイドルらしい花の咲くような笑顔を浮かべて大きく頷く。

「大丈夫でした! ちょっと味が薄いですけどね」

 彼女はというとこの通り、今ではすっかりテレビ番組に出ていた時のような快活さを取り戻していた。

 夜もしっかり睡眠を取っており、突然興奮するといったこともない。そんな調子ゆえに数日ほどは日中を閉鎖病棟、夜間のみ保護室で過ごすという生活を送った後――問題のないことを確認して隔離を解除し、現在は閉鎖病棟の大部屋で過ごしている。

「あはは、確かに。でもちゃんと食べられたなら、何よりです」

「もうお鼻に管入れられたりしたくないし、それに……さすがにこんなにガリガリじゃ、美容に悪いもん。これでもアイドルだし」

 冗談っぽくそう語ると、犬山さんは包帯を巻いた手の甲を軽くさする。

 そんな彼女の様子を見て、私は尋ねた。

「痛みますか?」

「んー、まだちょっとね。でも、だいぶ良くなってきてるから。ほら」

 そう言うと彼女は包帯を外して手の甲を見せてくれた。

 そこにあったのは、火傷の跡のようなただれた傷跡

 その傷跡は何を隠そう、あの晩――「根」から無理やり手足を引き剥がした際にできたものであった。

「また、軟膏を出しておきます。時間は掛かるかもしれませんけど、だんだんと塞がってはくると思うので」

「うん、分かりました。ありがとうございます、先生」

 そう言って微笑んだ後、犬山さんは少しだけ、表情を翳らせた。

「……でも、びっくりだな。いつの間にか病院に入れられてて、いつの間にかこんなに痩せちゃってて、いつの間にか怪我までしてて」

「……やっぱり、その間のことは思い出せませんか?」

 尋ねると、こくりと頷く犬山さん。

 ――彼女には、入院してからあの晩までの記憶が一切なかった。

 より正確に言えば、入院する直前辺りからすでに靄がかかったようになっていて、ちゃんと覚えているのはあの番組を収録した後くらいまでなのだという。

「……番組のロケ中に変な男の人に手を振られて、『おーい』って呼ばれて。そこまでは覚えてるんですけど――っ……」

 言葉の途中で頭をおさえて、顔をしかめる犬山さん。そんな彼女に私は頷きながら「大丈夫です」と声を掛ける。

「大変なお仕事でしょうから……多分、いろんなストレスが気付かないうちに溜まっていたんだと思います。無理に思い出さなくても、大丈夫ですよ。今はゆっくり休みましょう」

「うん……分かりました」

「頭痛の頓服、飲みます?」

「大丈夫。もう良くなってきたから」

 やや弱々しい笑みを浮かべつつ、彼女は「でも」と呟く。

「休めるのはいいし、看護師さんたちも優しいから困ることはないんだけど……やっぱちょっと暇だなぁ。絢沙ちゃん、もっと入院してればよかったのに」

 残念そうに呟く犬山さんに、私は苦笑を返した。

「柊さんは、あくまで休養入院でしたから」


 柊について。彼女はあの一件の後、二日ほど前には退院していた。

 元々「くとりぎさま」を祓うのが目的だったので、ここまで居残る義理も彼女にはなかったのだが――それが少し遅れたのは、犬山さんが彼女をいたく気に入ったせいだった。

 ついでに言えば柊も柊で、比較的年の近い彼女にそうやって構われるのは悪い気がしなかったらしい。

 そんなわけで予定より少しだけ長く入院を続けた後、柊は犬山さんに別れを惜しまれながら病院を後にしていた。


「ねえ先生、私いつ頃退院できます?」

 そんな犬山さんの質問に、私は少し考えた後でこう返す。

「正直に言えば、後は体力面の問題だけだと思ってます。もうあと一週間くらいご飯をしっかり食べて体重をつけ直して、日常生活に差し障りがなさそうなら――それで退院でもありかなと」

「本当? なら今日のお昼から大盛りにしておいて」

「病み上がりで急にカロリーを増やしすぎてもよくないので、そこは今のままで大丈夫ですよ」

 苦笑しながらそう返すと、犬山さんは「よーし」と意気込んで窓口を離れていく。

 彼女に言った内容は、嘘ではなかった。

 実状を思えば、彼女は「精神病ではない」のだ。原因となるものは、柊が取り去ってくれた。ならばもう、後は体の調子だけ整えればそれで終わり。

 もちろん外来である程度の期間はフォローアップしていく予定ではあるが……内服薬なども必要はないだろう。


――。

 それから他の患者さんの回診も済ませて、私は医局まで戻ると小さく息をつく。

 時間帯的に他の先生方は外来中のようで、誰もいない。

 人気がなく静かだったが、それを薄気味悪いと感じることはもうなかった。

 ふと、視線をうつろわせて鏑木先生の机を見る。

 彼はまだ、出勤できる状況ではないらしい。とはいえ事故の怪我も快方には向かっているらしく、たまに病院に電話を掛けてきては自分の患者さんの具合を確認したりはしているようだった。

 ……何もかも、解決した。

 驚くほどにあっさりと。綺麗さっぱり。

 その安心感を噛み締めながら、私はふと思い出して私用のノートパソコンを開く。

 ここ最近、めっきりメールチェックなどをしていなかったことを思い出したのだ。

 案の定、広告などの通知が勢いよく流れてくる。とはいえ私のようなヒラの医者は外部と業務上のメールのやり取りをしたりすることはほとんどないので、見逃して困るようなメールは概ねなさそうであった。

 ……一件を除けば。

「……戸草先生?」

 私が目を留めたのは、三日ほど前に送られてきていた一件のメールだった。

 差出人は戸草先生。鏑木先生の仲介で知り合った、民俗学教室の助教の先生だ。

 そう言えば彼にはまだ、あらましを報告できていなかったことを思い出す。

 慌ててメールを開いたところで私は、その文面にいささか驚いた。

 というのも……どうやら戸草先生はありがたいことに、Y県まで足を運んで現地での調査を行ってくれていたようなのだ。

『天川先生

 国立東都総合大学 文化人類学・民俗学科の戸草です。

 その節は貴重なお話を聞かせて頂きありがとうございました。鏑木先生のこと、こちらも伺っていてとても驚いています。

 鏑木先生が入院中ということですので、天川先生のご連絡先を伺い、突然ですがメールの方させて頂いております。

 内容としては、当方でもその後Y県の方へ現地調査に向かったため、その件でのご報告となります。

 結論としましては、以前にお見せした論文の内容以上のことはほとんど掴めませんでした。

 境座市の供借山周辺地域が恐らく「くとりぎさま」信仰があった辺りかと推測されるのですが、その辺りにあった集落は高齢化が進んでいて、地元の役所などに訊いた限りでも今ではもう誰も住んでいないようなのです。

 数年前までは火事のあった神社を管理する神職の方が住まわれていたということですが、その方も今は亡くなっていて、さらにはその息子さんが例の病院無差別殺人事件の犯人であったということで……結局話を聞けるような方は残っていないようでした。

 ただ、それでも少しだけ、踏み込んだ話を地元の資料館で伺うことはできました。

 古来より、この地域では時折特殊な精神病を患う人がいたそうです。

 その症状というのが、『犬食い』――急激に発症し、なにかに怯えるようになり、末期には野犬を襲ってそのはらわたを食うのだと』

 そこまで読んだところで、私はクトウさんのことを思い出す。

 亡くなる寸前の彼女の奇行――あれはまさしく、メールにある通りのものだ。

 当時の光景を思い出して気分が悪くなるのを感じながら、私は読み進める。

『そうした病状を発症した人を、当時の集落の人々は『くとりぎさまに宿られた』と表現しました。そして例の『お狗様紐』は、そうした人々を縛って動けないようにするために使っていたのだそうです。そうしないと、『くとりぎさま』に誘われて山へと行って、二度と帰ってこなくなるのだ……と』

 山へ行って、帰ってこない。

 どこかへと行こうとしていたクトウさん。ともすれば犬山さんも、あの晩に柊によって祓われなければ同じ顛末になっていたかもしれない。

 その事実に空恐ろしさを感じながらも、私は振り払うように首を横に振る。

 犬山さんは、守り通すことができたのだ。今はそれを、素直に喜ぶべきなのだ。

『長くなりましたが、天川先生にお伝えしたかったことは以上になります。また状況に変化がありましたら、お教え頂ければ幸いです。僕で力になれることであれば、喜んでご協力致します。

 戸草 昌孝 拝』

 結びのところまで読み終えたところで、私は少しの間考えた後、手短にメールの返信を済ませることにした。

 くとりぎさまの一件が解決し、患者さんたちも快方に向かっていること。独自に調査を行ってくれたことへの礼などを書き連ね、送信する。

 そうだ、もう終わったのだと……それを自分に言い聞かせる意味も込めて。


――。

 それからさらに、一週間が経った。

 その間も当然妙なことは起こらなかったし、病棟は平穏そのものだった。


「それじゃあ先生、お世話になりました」

 病棟の前で、迎えに来たマネージャーと一緒に笑顔で頭を下げる犬山さん。

 今日で彼女は晴れて退院だ。いまだ少しやつれてはいるが、いっときに比べれば見違えるほどに健康的な肌つやを取り戻しつつある。

 その他採血検査などでも問題は見当たらず、栄養状態も良好なまま保てていたため、こうして予定通りの退院が実現したわけである。

「ああ、本当にありがとうございました。一時はどうなることかと思いましたが……」

 気弱そうなに頭を何度も下げるマネージャーに、私は笑顔を浮かべながら頷く。

「私としても、本当に安心しました。これも犬山さんの頑張りのおかげだと思います」

「えへへ、食べて寝てただけですけどね」

「それが一番大事なことですから」

 そんな言葉を交わした後で、私は彼女の手を一瞥する。

 まだ包帯が巻かれたままの手。皮膚の状態は日に日に改善はしていたが、とはいえまだ包帯を外すのは難しそうだった。

 往診の皮膚科の先生にも診てもらってはいたが、精神科病院では揃えられる薬剤などにも限りがあるため、大きな総合病院で診てもらった方がいいだろうとのこと。

「……その手については、力不足ですみません。紹介状をお渡ししたと思うので、早めに大学病院の皮膚科で診てもらえればと」

「分かりました。何から何までありがとうございます、天川先生」

 頭を下げる犬山さん。と、その隣でマネージャーがちらりと時計を見る。

「あぁ、ではその、そろそろ」

「あ、お引き止めしてしまってすみません。……それじゃあ犬山さん、また外来で」

 そう別れの挨拶を告げると、犬山さんは元気そうに大きく頷いてみせた。

「はい、ちゃんと来ますから!」

 そう言って、急かすマネージャーと一緒に病院を後にする犬山さん。

 彼女の背中を、私は車が出ていくまでずっと見送って――やがて、ひと仕事終えた充足感とともに病棟へと踵を返す。

 病棟の玄関口には、いつの間にか桜の花弁が数枚舞い込んでいた。もうそろそろ四月も近く、すっかり春の陽気――病院の外には桜が植えられているから、そこから飛んできたのだろう。

 特に気にせずそれを一瞥しながら病棟に入ろうとして、けれどそこで私はふと、床の上に視線を惹きつけられる。

 花弁に混じって、床に落ちていたもの。

 それは……かさかさに干からびた、小さな木の根のようなものだったのだ。

 不意にフラッシュバックするあの夜の記憶を振り払い、私はその根をつまみ上げると近くのゴミ箱に投げ捨てる。

 ただの考え過ぎだと、そんなふうに嫌な気持ちを振り払いながら。


――犬山さんの退院後外来日は、その一週間後。

 そこに犬山さんは姿を見せず。

 彼女が自宅から姿を消したと所轄の警察から連絡が入ったのもまた、それと同じ日のことだった。

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