■20

『犬山早苗さんという女性が、そちらに以前入院されていたということですが――その方の行方が分からなくなっているという通報を受けておりまして』

 警察からの診療情報提供の依頼を受けて折り返しで電話を掛けると、告げられたのはそんな信じがたい事実だった。

 細かい状況は教えてくれなかったが――分かったのは、犬山さんが行方不明となっていてマネージャーから通報があったこと。

 現時点では、彼女の足取りはまったく掴めていないらしいということだ。

 彼女の入院中の治療状況や診断、内服のないことなどを告げると、『また連絡させて頂くかもしれません』と言い残して警察は通話を切った。

 私は――半ば、放心状態だった。

 ちゃんと来ますと、彼女はそう言った。あの時の笑顔は、何かを隠しているようには到底思えなかった。

 それなのに……なぜこんなことが?

 一体彼女の身に、何があった?

 一気に体中から血の気が引いて、私はたまらず、外来診察室の椅子に座ったまま動けなくなる。

 幸いに今日はもう外来の患者さんは来ない。このコンディションではまともに診察が出来たかどうか――そういう意味では幸運だった。

 だが、外来はともかく入院は別だった。

 憔悴しきっていた私の胸元で、ポケットに入れていたPHSが鳴り響く。

「もしもし、天川です……」

『あ、天川先生! 外来中にすいません、ちょっと至急でご相談したいことがありまして』

 相手は病棟の田井中さんだ。いつになく余裕のない声に、私は眉をひそめながら問う。

「どうしたんですか?」

『それがですね、ヤナカさんが……なんだか今朝から急に八度台の熱発があって。それとまた、前みたいに『襲われる』とか変なことを言い始めていて』

「熱発に、幻覚……!?」

 ただごとではない話だった。強制的に自分の中でスイッチを切り替えながら、頭を巡らせる。

「他に症状は? お通じや食欲なんかは、最近はどうでしたか」

『お通じは毎日順調で、ご飯もよく食べてらっしゃいました。お酒だってもちろん呑んでないですし……ああ、すみません、ちょっと』

 電話口の向こうで、誰かに話しかけられているらしい。何やら大きな声でやり取りをした後で、田井中さんは『すみません』とこちらの会話に戻ってきた。

『昨日も熱は出てませんでしたし、そんなわけでお元気だったんです。ただ、一点気になるのが――実は今日、同じような熱発者が何人も病棟で出ていまして。それで今、病棟担当の院長先生にご対応頂いているんです』

「熱発が、何人も?」

 その情報を聞いて、私は頭の中で想定していた鑑別診断を変える。入院という閉鎖環境内で同時多発的に起こった発熱症状。嫌な予感しかしない。

「流行感染症の可能性などもあります。抗原検査、お願いできますか」

『それなら、実は院長先生が熱発者全員やれって言うのでもう。ちなみに全員陰性でした』

「そうですか……」

 だがそれで安心していいものでもない。例の流行感染症の可能性が低くとも、病棟全体的に同じ症状が出ているのだとすればやはり感染症と考えるのが妥当だ。

むしろこの段階で特定できていない分、厄介であるとすら言える。

 考え込んでいると、その時電話口でまた田井中さんが誰かと話していた。その後で、

『あの、天川先生。すいません、院長先生が代わってほしいということだったのでお電話代わります』

 そう告げられた直後、院長先生が電話口を代わってこう切り出した。

『天川先生。桜野です、田井中師長からあったかと思いますが、病棟内で発熱患者が何名か出ておりまして……今日の病棟担当が私でしたので、先生の患者さんも含めて差し出がましいようですが検査オーダーなどを入れさせて頂きました』

「そんな、とんでもないです、ありがとうございます……。ちなみに先生、他の患者さんもって聞きましたが、何人くらい発熱が出ているんですか?」

『そうですね。現段階では、八人です』

 そう告げた後で、院長先生は該当患者の名前を読み上げる。

 その羅列を聞いて――私は思わず、目を見開いていた。

 なぜなら、告げられた患者さんたちは全員……「くとりぎさま」の騒動の時に症状が出た患者さんと一致していたからだ。

 だが院長先生はそれに気付いてはいないらしい。

『どうされました、天川先生』

 黙り込んだ私に怪訝そうな声で問う彼に、私は「いえ」と返した。

「それで、その……これからどうしたらいいでしょうか」

『ひとまず、発症した患者さんに関しては一旦個室で待機してもらうようにしています。あとは感染対策部と協議しながら検査の結果を待とうかと。先生も、病棟に入る時は感染防御を徹底して下さい』

「……分かりました。ありがとうございます」

 それを最後に通話を切ると、私は深く息を吐き出しながら机に突っ伏した。

 何が起こっているのか、まるで分からない。ただ――私の中である直感めいたものが警鐘を鳴らし始めていた。

 その直感に従って私が外線を掛けた先は……鏑木先生の緊急連絡先。

 彼はまだ退院できていないということで、職場へは復帰していなかった。だとしたら、まさか。

「……っ」

 コール音だけが何度も何度も響いて、しかし一向に、応答はない。

 やがて留守番電話の自動音声が聞こえたところで、私は通話を切るとPHSを握りしめる。

 どうして。確かに何もかも、解決していたはずなのに。なのに何で急に、こんなことになってしまったのか。

 考えようにも思考がまとまらない。ただ焦りだけがかさんでいって、どんどん胸の奥底に暗い淀みのようなものが沈殿していく。

 そんな混乱の中にあった、まさにそんな時のことだった。

 こんこん、と、診察室の扉をノックする音があったのは。

「……?」

 電子カルテで患者さんの待ち状況を見てみるが、もう私の担当分は終わっている。

 他の部屋と間違えているのだろうか。

 こんこん。

 再びノックする音がして、私は仕方なく重い腰を上げて扉へと向かう。

「あの、お部屋を間違えていらっしゃるのでは――」

 開けると同時にそう告げようとして、その時私はそこにいたものを見て思わずのけぞる。

 なんてことはない、人間であった。

 ただし、見上げるほどに背の高い、がっしりとした体格の男性である。

 年齢は五十台ほどだろうか。眼力の強い厳つい顔立ちに、整えられた立派な顎髭もあってまるで昭和の軍人の写真か何かのよう。

 服装は上下揃いの真っ黒なスーツにケープ付きのコートという古典的な探偵みたいな出立ちだが、これもまた男の持つ独特の雰囲気と相まって不思議と似合っている。

 手に握ったステッキをこん、と床に軽く突きながら、男は私をじろりと睨みつけて、

「天川先生、だな」

 と、私の名前を呼んだ。

 腹の奥まで響くような重々しいその声に、私はすっかり圧倒されながらも小さく頷く。

「は、はい……ええと、貴方は」

「黒騎もとい。柊絢沙の身元引受人だ」

 その名乗りで、私は「あっ」と声を上げる。「黒騎さん」――この男こそが、柊が言っていた人物。

 こんな人だったのかという思いでつい、しげしげと眺めていると……黒騎氏は厳しげな表情のまま私を再び睨む。

「何か」

「あ、いえ、すいません。……それより、柊さんの保護者の方ということですが、どんな御用でしょうか」

 すごすご後ずさりしつつそう訊ねると、彼は表情をまるで変えないままにこう告げた。


「あの馬鹿弟子が、どうやら仕損じたようなのでな。その後始末のために来た」


――。

 診察室の椅子に窮屈そうに座ると、黒騎氏は改めて私に会釈をした後に重々しく口を開いた。

「前後するが……予約もなしに急に押しかけたことは、ご容赦願う。なにぶん事が急を要するのでな」

「それは、構いませんけど……その、どういうことですか。柊さんが仕損じたっていうのは。それは――今起こっていることと何か関係があるんですか」

 思わずそう言ってしまって、「しまった」と後悔する。だが私の言葉の意味するところを黒騎氏はすぐに察知したらしい。

「やはり、もう影響が出始めているか」

 一人納得するようにそう呟いた後、彼は淡々と話を始めた。

「この病院の除霊を請け負ったと、絢沙から聞いた。その時にはあれに任せておいたのだが……数日ほど前に、あれが急に高熱を出して寝込んだのだ」

「柊さんも……!?」

 頷きながら、黒騎氏は眉間のしわを深くする。

「その段階で、あれの除霊が失敗したことは分かった。本当はもっと早くに来たかったのだがな、段取りに手間取ったせいでこの有様だ」

 そう言うと黒騎氏は小さく舌打ちし、不機嫌そうに眉根を寄せる。

 厳つい顔や声もあって、一見するとカタギの人間とは思えない。内心で怯えながらも、私は彼に恐る恐る問う。

「それより、柊さんは無事なんですか?」

「ふん、あれの心配には及ばん。『くとりぎ』の力は中々に厄介なようだが、自分一人の身を守ることに専念していれば死ぬことはないだろう。……今はまだ、としか言えんが」

 その口ぶりからして、あまり安心していい状況でもなさそうだ。

 柊までもがそんなことになっていたと知って、私の中で暗澹たる気持ちが増していく。

 だが――そんな暗雲を払い落とすように、ステッキが床を打つ澄んだ音が響いた。

「天川先生。そう気を落としなさるな。負の心因は穢れを呼び込む。今のところ、『くとりぎ』を祓う手がかりとなるのは貴方だけなのだ――貴方が負けてしまえば、もはや対抗する手を喪ってしまう」

 力強い言葉が、雷のように私を揺さぶる。いつぞや柊が私から「悪いもの」を祓った時のように、胸のつかえが少し和らいだように思えた。

 けれど……

「でも、どうすれば。やれることは全部やったはずです。お祓いもしてもらって、それでもこんなことになってしまって……私なんかじゃ、もう」

 思わず声を荒らげそうになった私に、一転してひどく静かな口調でもって黒騎氏が言葉を挟んだ。

「言ったろう。だからこそ私が来たのだと」

 そう告げると、彼は「申し遅れた」と付け加えながら懐から名刺ケースを取り出し、私に差し出してくる。

 受け取ると、そこにはこう書かれていた。


『国立東都総合大学 人類文化学・民族学科教室教授 黒騎 基』


「……民族学の、教授さん?」

 思わず呟いた私に、そこで黒騎氏――いや、戸草先生が「教授」と呼んでいたその人物は初めて笑みのようなものを浮かべてみせた。


「これまでのことを、話したまえ。……弟子が仕損じた詫びだ。特別に無料で相談に乗らせてもらおう」

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