■21
教授の言葉には、魔力のようなものがあったのかもしれない。
気づけば私は彼に、これまでのことをすべて話していた。
時折短い質疑を織り交ぜながらも一通りのことを聞き届けたところで、教授は瞑目して口を開いた。
「それで、病棟では患者の状態が悪化。その犬山という娘は行方知れずと……そういうことだな」
「……はい」
改めて状況の悪さと直面してうなだれる私の前で、教授はかっと目を開いて続ける。
「恐らくその娘は、『くとりぎ』の宿主として連れて行かれたのだろう」
「連れて行かれたって……どこに、ですか」
「『山に』。恐らくは、あれの本体が今も眠っているはずの供借山にだろうな」
その言葉で、戸草先生からのメールに書かれていたことを思い出す。
同じ地域で昔から見られていたという精神病。その末期には「山に連れて行かれる」――だからこそ、地元の人々はあのお狗様紐を使って患者を縛り、守ろうとした。
顔色を青くする私の前で、教授は鋭い表情を変えぬままにさらに一方的に続けた。
「絢沙からも、ことの顛末はある程度は聞いた。恐らくあれが『くとりぎ』を実際追い詰めるところまで行ったのは、間違いないだろう。だが――肝心のところで向こうの方が一枚上手だった。『くとりぎ』は全体を滅ぼされる直前に自己の一部をその犬山という娘の奥深くに潜り込ませ、絢沙にも気取られぬように休眠したのだ」
「それで――柊さんが退院して、犬山さんも自由に出歩けるようになったタイミングで、また動き出した?」
私の言葉に、教授は首肯を返す。
「この病院の立地、そして今の状況も……奴にとっては傷を癒やすには丁度よい環境だったのだろうな。霊脈の淀んだこの場では、負の力をたんまりと蓄えられよう」
彼はステッキを床に軽く打ち付けながら、私ではなく天井や壁に鋭い視線を時折向けている。そんな彼の言葉で、私はふと訊ねる。
「そういえば、柊さんから……教授がこの病院に鳥居を置かれたと伺いましたけど、本当なんですか?」
「ああ。先代の院長からの依頼でな。放っておけば際限なく澱みが貯まる忌み地であったがゆえに、そうしたのだ。だが――そう言えば妙だな。あれがあればここまで霊脈が淀むことはないはず。今の空気は……あの時よりもさらに悪い」
怪訝そうな顔で顎に手を当てる教授に、私はつい、
「実は、今の院長先生が撤去してしまったらしくて……」
そうこぼした瞬間、教授のただでさえ厳つい顔に明らかな怒りが浮かんだ。
「なんだと!?」
大声でこそないが、びりびりと空気が震える。思わず「ひっ」と悲鳴をこぼしながら、私は慌てて言葉を付け加えた。
「今の院長先生は、オカルトが嫌いで……迷信じみたものを病院に置いていては患者さんにも悪影響が出るって言って、撤去されたみたいです」
「……全く、度し難いことをしてくれたものだ」
怒りが冷めやらぬ様子で舌打ちをこぼした後、教授は「まあよい」と頭を振った。
「今となっては後の祭りか。……見たところ、すでにこの部屋も奴の『根』が張り巡らされておる。放置しておけば恐らく犠牲者は尻上がりに増えていくであろう」
「そんな……」
愕然としながら言葉を漏らす私に、教授は不機嫌そうに鼻を鳴らし。
「だからこそ、そうなる前にこちらから打って出るのだ」
――そんな言葉に、私は顔を上げて彼を見返す。
打って出る? どうやって。そんな疑問が顔に出ていたらしく、教授は私の発言を待たずに続けた。
「天川先生。先生が協力してくれるならば、奴を追うことはできる」
「……私が? どういうことですか」
まるで意味が分からず訊ねる私に、教授は厳しげな笑みを口元に浮かべてみせる。
「聞いたぞ。あれが持ってきた『天羽々斬』を使って、『くとりぎ』の根を払ったとな」
その意味は分からなかったが、話の流れからするに柊が病棟に持ち込もうとした例の木刀のことだろう。
「神木を削り出して作った模造品とはいえ、『根』を頂く怪異にとってはよく効いたはず――おかげでどうやら『くとりぎ』は先生のことをよほど危険人物として見ているらしい。二の腕の辺りを見てみろ」
いきなりそんなことを言われて、私は戸惑いながら白衣の袖をまくってみて。
そこにあったものを見て、思わず「ひっ」と引きつった悲鳴を漏らしていた。
右の手首より少し上――そこにはいつの間にか、何かで締め上げられたみたいな真っ赤な跡がついていたのだ。
それらしい痛みも刺激も何もない。だが、だからこそいかにも気味が悪い。
青ざめている私に、教授はしかし何でもないように小さく鼻を鳴らす。
「『くとりぎ』の『根』だ。恐らく、先生が持っているお狗様紐の加護が邪魔をしているから、直接体内にまでは根を張れてはいないのだろう。だが――その護符とて完全に『くとりぎ』を防げるわけではない。ましてや奴がここまで力をつけている状況ではな」
それは、分かっていた。お狗様紐をくれたクトウさん自身が、最期には「くとりぎさま」の餌食となってしまったのだから。
「っていうと、つまり」
「先生も、このままならば数日もしないうちに症状が出てくるはずだ」
ひたすらに無慈悲とも思えるような、淡々とした宣告。だが……ただ私を絶望させるためにそんなことを言っているわけではないだろうというのは、さすがに理解できた。
「私は、どうすればいいんですか」
「私と一緒に来てもらおう。先生に付着しているその『根』の出処を追えば、恐らくは『くとりぎ』の本体まで辿り着けるはず。そうして今度こそ本体を祓うことができれば――すべて解決できるだろう」
なんとも分かりやすい、簡潔な手段だった。
提示されたその希望に今すぐにでも飛びつきたい気分であったが、とはいえ今はまだ昼を少し過ぎた程度。業務時間が終わるまでまだたっぷり五時間はある。
「……仕事が終わるの、待ってからというわけには」
「事態は切迫している。悪いが、そう悠長なことは言っていられんぞ――それでも煮えきらんと言うなら私が話をつけてやる。そいつを貸せ」
そう言ってPHSを指差す教授に、私は若干の不安をつのらせつつも……しかし彼の言うことに納得もしていた。
PHSを取り出して、院長先生の番号へと掛ける。すると応答はすぐにあった。
『桜野です。どうされましたか、天川先生』
「ええと――」
何か言うより先に、私の手から教授がPHSをふんだくって代わりに出る。
「失礼。私は所轄の保健所からの嘱託で来ている黒騎という者だ。こちらの院長先生でいらっしゃるか」
保健所? 私が驚いていると、教授はすらすらと院長先生に何やら告げて――それからほどなくして電話を切ると私に投げ渡してきた。
「問題ない。院長先生も許可してくれた。……鳥居の件は業腹だが、ともあれ院長としては優秀らしいな。職分をしっかりわきまえている」
「……あの。保健所がどうとかって、一体?」
そんなこと、自己紹介の段階では一言も言っていなかったような気がするのだが。
そんな私の疑問に、彼はなんてことのないように告げる。
「偽りではないから安心しろ。立場上、今回のような案件で保健所や警察と関わり合いになることも少なくないのでね。今回も少しツテを使って、そういうことで話をつけてある」
「はぁ……」
なんともめちゃくちゃな話だったが、とはいえ話は私の頭の上でついてしまった。今さら怖気づいてもいられないだろう。
覚悟を決めて、私は教授に向き直る。
「……それで、どこに行けばいいんですか?」
すると彼は少しばかり顎髭を撫で付けながら考えた後、
「そうだな。恐らくは――奴は宿主にした娘を自分の腹の中に運ぶ算段だろう。Y県山中にあるであろう、奴の本体がある場所に」
「Y県……って、今から行くんですか?」
都内からとなると、交通手段にもよるが数時間は掛かるだろう。しかも山の中となると、着いた頃には間違いなく夜だ。
「だから言っただろう、悠長に待てる余裕はないと。……さあ、分かったら準備をして駐車場まで来るがいい」
私の動揺を軽く一蹴すると、教授はそのままステッキを片手に診察室を出ていってしまう。
取り残された私はしばし呆然とした後――己の右腕に視線を落とす。
やはり見間違えなどではなく、これが現実だとばかりにそこには真っ赤な跡が刻みつけられている。
直視せざるを得ない事実を前にして、私は暗澹とした気持ちを抱えながら考える。
ここで行かなくて、それで自分だけが不利益を被るだけならばまだ責任は軽い。だが実際はそうではない。
私が行かなければ――患者さんたちが。柊が、鏑木先生が、恐らく「くとりぎさま」の呪いによって殺されてしまう。
あの時のクトウさんのように。
……正直に言って、私が医者になったのはある種の「逃避」だった。
ただ実家に縛られ、閉じ込められるのがイヤだったから、独り立ちするための手段としてこの道を選んだ――まっとうに医学の道を志す人たちからしてみればとんでもない背教者だろう。
だけど、それでも。こうして何年もやっていると……患者さんたちと向き合っていると、そんな私でも否応なしに思ってしまう。
自分が彼らを助けられるものなら、助けてあげたいと。差し伸べられる手があるならば、伸ばしたいと。
今の私に委ねられているものは、そういったものだ。
ならば……やれる限りのことをやるしかない。
そう腹を決めると、私は診察室を出て一旦、着替えのために医局へと戻ることにした。
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