■22
それから準備を済ませて教授と合流をすると、私たちはそのまま教授の運転する車で一路、東北のY県へと出発した。
新幹線などを使った方が単純な早さでは勝っていたが、向かう先は内陸部の山奥である。自動車で行った方が結果的に小回りが効いて良いだろうという判断である。
東京を出て高速道路へ乗って北上。幸いに渋滞などに巻き込まれることはなく、移動はスムーズだった。
とはいえいきなり東北まで行くとなると、やはり単純に時間は掛かる。
少なくとも五、六時間程度は掛かるだろう――そんな教授の言葉の通り、ようやく高速を降りてY県に入った辺りですでに空は薄紫色になり始めていた。
だんだんと周囲に見える人家がまばらになり、くろぐろとした木々が生い茂る山間の道を進んでいく車内。
「……起きたか」
目を開けると、ルームミラー越しに後部座席の私を一瞥しながら教授がそう呟いた。
どうやら眠ってしまっていたらしい。うすぼんやりとした頭で「すみません」と口にすると、教授は鼻を鳴らした。
「別に構わん。長丁場はむしろ着いてからだからな、今のうちに体力は養っておけ」
「ありがとうございます……」
そんな短いやり取りの後、車内は静寂に包まれる。
別に何かを話さなければいけない道理もないが、とはいえ妙に落ち着かなくて、私は半ば無理やりに話を切り出した。
「あの、教授。教授が書かれた論文、戸草先生に見せてもらいました。教授は……『くとりぎさま』のことを前からご存知だったんですよね」
彼が東総大の民族学科教授ということはつまり、戸草先生が持ってきた例の論文を書いたのは彼だということだ。
そんな私の問いかけに、教授は短く「ああ」と答えた。
「もう二十年以上も前になるがな。当時はあの地域の集落もまだ人が住んでいたから、文献に残っていないような言い伝えなども細かく教えてもらうことができた」
「文献に残っていないような、ですか」
呟く私に、教授はハンドルを握って正面を見つめたまま小さく頷く。
「天川先生。ときに『くとりぎ』――というのは、どのような字を当てると思う」
「字、ですか?」
そういえば、柊も同じことを気にしていたことを思い出す。
「何か、それに意味があるんですか?」
「ああ、あるとも。名にあてられた字、つまり真名はその者の本質を示す。……例えば天川先生。下の名前は確か、綾と言ったな」
「ええ、はい……。祖父がこの名前がいいと言い張ったらしくて」
いきなり振られて戸惑いながらも頷くと、教授は少しだけ愉快そうにこう続けた。
「綾の字、あるいは模様には古くから災いを遠ざける意味合いがある。……ひょっとしたら、先生がまだ『くとりぎ』に直接の被害を受けていないのはそのお狗様紐の力だけでなく、名前の力もあるのかもしれんぞ」
「そう……なんでしょうか」
実家の祖父の顔を、思い出す。いつも厳しく、あまりいい思い出はなかったけれど――良くも悪くも信心深い人ではあった。
そんな祖父ならば、実際にそういう意味合いでつけたのかもしれない。
そんなふうに納得していると、教授はそのままさらに語る。
「ともかく。名には力があり、それを知ることにもまた呪術的には重要な意味がある。だが『くとりぎ』は現存する文献ではその字面は残されていない――その真名が意味することのおぞましさゆえに、恐らく当時の人々がそれを記録として遺すことを忌避したのだろうな」
そんなことを言った後で、教授はそのままこう続ける。
「『供物を取る木』と書いて『供取り木』。かつて話をしてくれた狗見神社の神主は、そう言っていた」
「供物を取る、木……」
意外な字面に少し呆気にとられていると、教授はそんな私にさらに語ってみせる。
「呪術師、軽能子。『義兼記』の記録では、奴は財の略奪のために周囲の村を襲っていたということであったが、それは本質ではない。奴の真の目的は『信仰』にこそあった」
「信仰?」
言わんとすることが分からず訊ね返す私に、頷く教授。
「軽能子という男については謎が多いが……一説によれば彼は修験者であったと伝えられていてな。赤ら顔で長い鼻――そんな奇異な特徴ゆえに『天狗』とも呼ばれていたそうだ」
天狗。それはさすがに私でも聞いたことがあった。
修験者の格好をし、人並み外れた不思議な術を使う者。源義経などが天狗に弟子入りした、なんて話もどこかで聞いたことがある。
そこで私は戸草先生が見せてくれた絵巻を思い出していた。そういえば、あれに描かれていた「軽能子」らしき男――処刑され血まみれになっていたように見えた彼は、真っ赤な顔と長い鼻が特徴的に描かれていたように思う。
ひょっとしたらそれは、彼に充てられた「天狗」の異名ゆえだったのかもしれない。
「奴とその手勢の呪術師たちは山に籠もって自分たちの呪術を研ぎ澄ます中で、ある独特の信仰を作り上げていったそうだ」
「それは、一体……」
「彼らは『死の神』を信仰していたのだ。具体的にそれがなんであるかは、神主も伝え聞いてはいなかったそうだが――彼らはその御神体として一本の『木』を崇めていたらしい。ある種、古代ケルトにおけるドルイドたちと類似した信仰の形であったのかもしれんな――いや、そんな話は今はどうでもよいか」
自ら話の軌道を正しつつ、さらに教授は語る。
「信仰の形は、それぞれだ。それが彼らの内々で完結するものであるならば、人の社会に仇なすものでないのならば、それでも良かっただろう。だが彼らの『死の神』への信仰は、常軌を逸するものだった」
そんな教授の語り口で、私はある連想をする。
死の神。供物。なんとなくそのふたつが頭の中で繋がって、ひとつの仮説が組み立てられていた。
そんな私の気付きを見て取ってか、教授は再び頷いてみせた。
「恐らくは先生の想像の通り。……彼らは自分たちの神のため、あるいは自分たちの力を高めるため――生贄を求めたのだ」
「生贄って……」
「彼らは呪術によって周囲の村を襲い、住民たちを己の信仰する神の贄として捧げるようになった。そしてその骸を御神体である『木』に吊るし、飾り立てたそうだ。恐らくはその凄惨な所業ゆえに『供取り』の『木』――それが奴自身、あるいは奴の遺した呪詛の真名となったのだろう」
淡々と語った教授の言葉で、私はいつぞや見た絵巻の情景を思い出す。
鋭く尖った痩せ木。その枝に貫かれ、血を滴らせながら絶命する犠牲者の姿。
そしてそれを見て大笑する、軽能子――そんな光景が瞼の裏に浮かんでくるような気がして、私は思わず寒気を感じた。
「……その御神体の木っていうのは、今もあるんでしょうか」
私の問いに、教授は首を横に振る。
「それらしいものは、狗見神社にも見当たらなかった。神主も知らぬと言っていたのでな、間違いないだろう」
さすがに室町時代の木ともなると、残っていなくとも不思議はない。……むしろ、そんないわくつきの木が現存していたらそれはそれで薄気味悪いというものだった。
「だが――御神体があろうとなかろうともはや今の奴には関係はないのだ。恐らく奴は『くとりぎ』となった今も、かつての妄執のままに生贄を蒐め続けている。なればこそ……奴と縁の深い例の神社の跡まで向かえば、奴は君に何かしら手を出してくるはず」
「それを逆に掴んで辿れば、本体の居場所が分かるかもしれない……っていうことですね」
「ああ。せいぜい大物を釣り上げてくれることを期待しよう」
まるで釣り餌だが、釣り餌としてでも役に立てることがあるだけマシだろう。
苦笑を浮かべながら「努力します」と答えると、それを最後に再びしばらくの間車内は沈黙に包まれた。
周囲を囲む木々はどんどん濃くなり、すれ違うような車ももはやなく。
空もいよいよ日が沈み、完全に宵の色に塗り潰されたところで――教授が告げた。
「着いたぞ」
長年補修されていないであろう、錆びたガードレールが並ぶ切り立った道。
その中途……山の中をくり抜くようにして、石組みの小さなトンネルが目の前にあった。
車を降りて、教授とともにその前まで歩く。中からはふわりと、肌寒い冷気が漂っている。
「この先へ抜けると、狗見神社のあった集落跡がある」
「……いかにも、通りたくない感じのところですね……」
霊感などはないが、トンネルの中の暗闇を見ているだけで本能がそこに入ることを拒絶していた。
だがそんな私を無感動な目で一瞥しながら、教授はステッキを軽く道に打ち付ける。
「まだ、『根』の繋がりを追うには遠い。先生が来てくれなければ、私もどうすることもできん」
「……ですよね。ええ、分かってます。行きます」
腹はくくったはずだ。今さらここで怖気づいていてもしょうがない。
深く肺の中の空気を吐き出した後、私はポケットからお狗様紐を取り出してぎゅっと握り締める。
「よろしい。では、行こうか」
そうして私たちは、どこまで続くかも分からぬ暗闇の中へと足を踏み入れた。
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