■23
懐中電灯の明かりだけを頼りに、私と教授はトンネルを進む。
夜の冷気が空気すら停滞させているかのような静寂の中、遠くから聞こえてくる鳥の鳴き声が妙に大きく、鋭く耳に響く。
出口までどれくらいあるのかすら、夜闇のせいで判然としない。ひょっとしたらこのままずっとトンネルの中から出られないのでは……なんて馬鹿げた妄想が鎌首をもたげるほどに。
そんな不安を払拭したくて、私は声を少し張り上げながら教授に問うた。
「このトンネルって、どのくらいの長さなんですか?」
数歩前を進む教授は振り返るでもなく一旦足を止めると、
「そう大した長さではない。もう折り返しくらいだろう」
それだけ返し、再びステッキの音を響かせながら進んでゆく。
それを聞いて少しだけ安堵しつつも、とはいえやはり、ひどく嫌な暗闇だった。
こう何も見えないと、色々なことへの不安がまた湧いて出てくる。
病棟の患者さんたちは、どうしているだろう。鏑木先生は。
それに――
「……柊さん、今頃どうしているでしょうか。無事、でしょうか」
病棟の患者さんたちと同じように発熱したという彼女。教授は「大丈夫だ」と言っていたけれど、心配なものは心配だった。
彼女に関しては、私が巻き込んだようなものなのだ。そういう意味では保護者である教授に対して否応なしに責任を感じてしまう。
だが、前を歩く教授の答えはそっけなかった。
「言っただろう。あれはこの程度のものに障られた程度でどうこうなるような、ヤワな鍛え方はしていない。それに……これはあれの力不足が招いたことでもある」
「そんな言い方……っ」
反射的に語気が強くなってしまったことをすぐに悔いて、口をつぐむ。
そんな私に、少しだけ黙った後で教授が再び口を開いた。
「あれの足のことは、聞いているか」
唐突な話に少し戸惑いながらも、私は小さく頷いて答える。
「……はい。ご両親が宗教にかぶれて、それがエスカレートして、自分たちの娘である柊さんを生贄に捧げようとしたって。その時の名残で、ああなってしまったと」
「ああ、そうだ」
淡々と肯定する教授に、私はさらに言葉を重ねた。
「でも、それならなおさら。なんで教授は、この件を柊さん一人に任せたんですか? 『くとりぎさま』のことを知っていたなら、柊さんを止めることだって……」
「お前では力不足だからしゃしゃり出るなと――そう告げるべきであったと、言いたいのだな」
その言葉に、怒気はない。ただ変わらず淡々とした調子で……けれどどうしてか、それゆえにひどく重々しく感じる。
そんな教授の言葉に、私が返答に窮していると――彼は小さく鼻を鳴らして、どうやら笑ったらしかった。
「……いや、すまない。確かにそうだったのかもしれんな。余計な心配を掛けられるくらいならば、その方が手っ取り早かったかもしれん」
そう言って再び小さく笑った後、教授は少しだけ角の取れた口調で続けた。
「だがあれは、やると言った。ならば独り立ちしようというその思いを信じて任せるのもまた、師の務めというものよ。そして……しくじった弟子の後始末をつけるのもな」
その言葉に、私は何も言い返すことはできなかった。柊があの時言っていた言葉を思い出したのだ。
「自分も黒騎さんのように誰かを助けられる」――彼女はどこか誇らしげにそう語っていた。
そんな彼女の思いを知っていたがゆえに、教授は彼女に任せたのかもしれない。ならば……そこに口を挟むのは野暮にも思われた。
沈黙する私の前で、教授がかすかに肩を揺らす。
「ふん。主治医が代わったと聞いた時にはどうなるかと思ったが……なに、あれも良い医者と出会えたようで、何よりだ」
「……え?」
思いもよらぬことを言われて戸惑う私に、彼は振り返らぬままに言う。
「これからも絢沙を宜しく頼むぞ。天川先生」
「……はい」
教授の言葉に、私は見えていないと分かっていても頷き返して。
と、その拍子、運悪く足元の――恐らくは石ころか何かだろう。凸凹に蹴躓いて悲鳴を上げた。
「どうした、先生」
「すいません、躓いただけです……」
照らしてみると、拳くらいの大きさのつぶてが足元に点々と転がっている。
「足元には気をつけろ。集落がなくなってからは、ここもロクに手入れされてはいないはずだ」
「わかりました……」
壁面にもかつては明かりがついていたようだが、とっくに電気の供給が途絶えているらしい。人の手が入らなくなって久しいのだろう。
「集落がなくなったのって、ずいぶん昔のことなんでしょうか」
「さあ、どうだろうな。私が最後にここを訪れたのは、二十年ほど前だったか――その頃はまだ、世帯の数も十は超えていたが」
かつん、かつん、とステッキが地面を叩く音。
その音が響くたび、どうしてか少しだけ、闇の気配が薄まるような気がする。ひょっとしたら何かしら魔除けとしての意味合いがあるのかもしれない――なんて思うのは考え過ぎだろうか。
「例の事件のことは、知っているか」
「事件……病院で大量殺人があったっていう、去年の?」
「ああ、それだ。あの犯人も――当時に一度だけ、会ったことがあった」
当時、というのは二十年前のことか。確かあの犯人が三十代くらいだったはずだから、まだ彼が少年だった頃ということになる。
「どんな人、だったんですか?」
職業病というやつだろうか。あるいは単に、暗闇の中で沈黙を恐れたからかもしれない。つい私はそんなことを訊ねていた。
だがそんな私の質問に、教授は淡々と答えてくれた。
「当時、高校生くらいだったか。優しげな少年であったが、少々気弱がすぎるふうでな。麓の高校でも周囲からはいじめられていたらしく、神主が嘆いていたのを覚えている」
「……そうだったんですね」
優しげで、気弱。そんな人物像は、起こした事件の凄惨さとはあまりにも真逆であるように思えた。
「なんで、あんな事件を起こしてしまったんでしょう」
「……分かりかねる。神主は、息子にもしっかりとあの社の重要さを教えていたはずだ。それなのに、よりにもよって社を火の不始末で焼くなど……」
後半は、私に言っているというよりは独り言のようで。
そんな教授の背中を見ながら歩いていると……その時のことだった。
不意に足首の辺りに何かが当たって、盛大に転んでしまったのだ。
「うわっ!」
今度は石ではない。縄か何かが張ってあったみたいな、そんな感覚だった。
「今度は、何……」
左手でなんとか受け身を取りつつ、懐中電灯で足元を照らして……私はそこで絶句する。
そこにあったのは、舗装された地面を割って生えた太い木の根だったのだ。
「……これって」
さあっと血の気が引いて、慌てて体を起こそうとする。だが恐怖ゆえか思うように体が動いてくれない。
そんな私の手をぐいと引き上げてくれたのは、教授だった。
「どうやらここはすでに、『くとりぎ』の領域と見える」
そう言って彼が懐中電灯でトンネルの壁面を照らすと――そこにはこれまたびっしりと、木の根が張り巡らされている。
蛸の足のようにうねり、蠢くそれらがただの自然物でないのは一目瞭然だった。
「走るぞ、天川先生」
そう言いながらステッキを小脇に抱えて駆け出す教授に、私も必死でついていく。
教授が年の割に体力旺盛と見るべきか、私が運動不足すぎると言うべきか。すぐに肩で息をし始める私と対照的に教授は息ひとつ切らせていない。
それどころか横から上からと伸びてくる「根」を、彼はステッキを振るって払いながら進んでいた。
だが……
「きゃっ!?」
何かが足首に絡みついて、私は今度は受け身も取れずに大きく前のめりに倒れる。
手放した懐中電灯が少し遠くに転がって、自分がどういう状況なのかすら分からない。
ただ分かるのは――私の足に絡みついた何かが、凄まじい力で私を何処かに引きずり込もうとしているということだった。
「天川先生!」
教授がこちらに電灯の明かりを向けて駆け寄ってこようとするが、その行く手は壁から伸びてきた「根」に阻まれる。
どうにか地面に爪を立ててでも抵抗しようとするが、どうにもならない。
「嘘っ……」
足だけでなく腕を、腹を「根」に絡め取られ。
それから全身を泥に包まれるような不快な感覚とともに――私の意識は一旦、そこで途切れた。
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