■9
当直帯に入り、夜の九時を回ろうという頃。
誰もいない真っ暗な医局の中、唯一電灯が点いている共用の電子カルテの前で私は行動制限中の患者さんたちの診察記録をしたためていた。
原則として、隔離や身体拘束などを行っている患者さんについては一日に複数回の診察を行うことが義務付けられている。
この病院では日勤帯には主治医が、当直帯には当直の医師が、それぞれ病棟の患者さんの様子を確認して記録をするというのがローカルルールになっていた。
病棟を見回った時の患者さんたちの様子を思い出しながら、私は手短に記載を済ませていく。
だがそんな作業中でも――頭の中にちらつくのは、日勤帯での出来事。
犬山さんの奇妙な行動、そして一言だけ発した謎めいた言葉についてだった。
「くとりぎ」
呟いてみて、聞き覚えがないかどうか確かめてみる。喉元まで出かかってはいるが、どこで聞いたのかが判然としない。
ただ、どうしてだろう。その響きを本能的に、嫌なものとして認識している自分がいた。
かたかたと、自分がキーボードを叩く音だけが無音の医局内に響く。
流れでヤナカさん――アルコール依存症の彼についても隔離中の記載を入れようとして、そこで私は手を止めた。
ヤナカさんは三日ほど前に、隔離を解除していたのだ。
というのも、最初に一通りの検査を行った日。ヤナカさんの強い希望、そしてちょうど院長先生の患者さんで隔離が必要な人が出たこともあって、ヤナカさんは保護室を出て閉鎖病棟内の個室へと移っていた。
場所としては保護室エリアからは対極にある、ジョーさんの並びの個室。
すると――どうしたことか、あれだけ気が立っていたヤナカさんは翌日になるとケロッとした顔をして、いつも通りの気のいいおじさんに戻っていたのだ。
「この部屋は良いや、変な声は聞こえないし、壁も綺麗だ」
そう彼が言っていたのは、今でも覚えている。
ともあれそんな経緯もあって、ヤナカさんはその後数日ほど時間制限で隔離解除を挟んだ後、正式に隔離を終了としていた。
このことを誰かに共有しておこうかとも思ったが――今のところは特に誰にも言ってはいない。
部屋移動をしただけで隔離を要するほどの精神症状がすとんと収まった、なんて。何の解釈もなしにそれだけを伝えたところで、かえって混乱をきたすように思えたからだ。
「……部屋、か」
呟きながら、私は画面を切り替えて病棟の部屋配置図を開く。
私の担当患者さんだと、保護室に現在入っているのが犬山さんのみ。他の患者さんはムロノヤマさんが比較的保護室から近い207号室の大部屋で、その隣の個室にクトウさん。
ヤナカさん、ジョーさんは先ほども書いた通り、病棟内では保護室とはホールを挟んで対岸にある個室に入っていた。
その画面をしばらくじっと見つめながら、私はふと、とある思いつきに至って別の患者さんのカルテを開く。
現在隔離されている患者さんたち――その中でも、ちょうどここ最近になって調子が悪くなった人たちのものだ。
症状の推移などは省いて、私が確認しようと思ったのは彼らの部屋。
何人も見ていくうちに、私は自分の思いつきが的を得ていたことを実感する。
というのも――例の幻覚症状に苛まれていたのは、皆元々は保護室からほど近い病室に入っていた人たちだったのだ。
起点となっているのはやはり、犬山さんが入ってきた3月5日。そこから患者さんによって若干の差はあれど、次々と例の訴えが出てきて、不調をきたしている。
そして……ヤナカさんの発言からも、あるひとつの事実が浮かび上がる。
つまりは犬山さんのいる部屋との距離によって、例の症状が出現したり消えたりしているということだ。
だが――この仮説にはひとつ反例があった。
今日はちょうど外泊で留守にしている、ムロノヤマさんだ。
彼の部屋もまた、保護室からほど近い207号の大部屋。同じ部屋にいる他の患者さんたちが揃って例の幻聴を訴える中で、彼だけがなんともなかったのだ。
症状が安定していたから? そう思って他の患者さんについても調べるが、退院段階の患者さんで発症している人もいる。
ならば入っている薬によって差が出ているのか――それについても明らかな差はみられない。抗精神病薬がムロノヤマさんより多く入っている患者さんでも、例の幻聴に怯えて大暴れして隔離になってしまった人もいた。
「……うーん、偶然なのかな」
少なくとも明確な反例がある以上は、この説は根拠が弱い。
ムロノヤマさんだけが発症していない原因があれば別なのだが……今のところはそれも判然としない。お手上げだった。
はぁ、と小さくため息をこぼしていると、外からかすかに遠吠えが聞こえてくる。野犬のものだろう。当直中は時折こうして聞こえてくるのだ。
遠吠えと言えば、ムロノヤマさんが以前「遠吠えのせいで目が覚める」と言っていたことを思い出す。
外泊中だが、元気にやっているだろうか。……まあ、少なくとも今のところ家族から連絡なども来ていないから、大丈夫なのだろう。
そんなことを考えつつ、私は小さく息を吐いてカルテを閉じる。推理の真似事のようなことをしていたせいで、妙に頭が疲れてしまっていた。
立ち上がって、私は医局の一角にあるラウンジスペースへ移動すると、そこに用意されていた配食のトレーを手に取る。
食べ忘れていたせいですっかり冷めてしまっていたが、わざわざ温め直すのも面倒くさくてそのまま食べ始め――お行儀は悪いが同時にテレビを点けて賑やかしにする。
お湯のような味噌汁とほうれん草のおひたし、薄い豚肉のソテーとお米。患者さんと同じ病院食のメニューなため、健康的である一方で味付けは少々物足りない。
無感動で平らげながらニュース番組をぼーっと眺めていると、見覚えのある話が流れてきた。
いつぞやに見た、どこかの病院で起きたという無差別殺人事件の続報。逃走していたその犯人が遺体で見つかったのだという。
発見されたのは付近の「供借山」という山の中――死亡してからしばらく時間が経っていたようで遺体はミイラ化、さらには野生動物にでも食われたのか、欠損が強い状態だったという。
そんな顛末とともに語られていたのは、犯人の男の背景。
犬飼俊夫、年齢は三十六歳。彼は山火事で燃えた神社の神主の息子で、元々精神科の受診歴があったらしいが――一年前ほど前からそれも途絶えてしまっていたという。
『あの人ねぇ。去年くらいまでは外に出るときはお父さんと一緒だったんだけど、最近は見かけるときはいつも一人でね……なんかあったんじゃないかって、噂してたのよ。なにせ元々――』
そんな周辺住民のインタビューが流れた後で、話題はそんな犯人の動機に移る。
なぜ彼は運ばれた先の病院で凶行に至ったのか。以前の番組と同じように、コメンテーターが色々と答えの出ないような憶測を披露していた。
「よくもまあ、飽きもせず」
呟きながら私は食べ終えたトレーを元々あった金属ラックへと戻し、食後のコーヒーを淹れるためお湯を沸かす。
ケトルのスイッチを入れて待ちながら……なんとなく手持ち無沙汰で、スマートフォンを取り出して私が始めたのはちょっとした調べ物だった。
今しがた聞いたニュースについて、なんとなくもう少し詳細を知りたくなったのだ。
供借山、病院、殺人、というワードで検索すると、すぐに検索結果が表示され――ページ上部には関連のニュース動画などが表示される。
動画一覧を軽く指で流していると、私はそこで意外なものを見つけた。
表示されていたのは少し前の地方局の番組のアップロード。件のニュースとは関係のない、ただ「供借山」というキーワードに関連して出てきただけらしい動画なのだが――目に留まったのは動画のサムネイル画像。
「地方局の観光番組で心霊現象!?」というタイトルとともにサムネイルで映し出されていたのは「犬山まろん」……本名を犬山早苗という、彼女だった。
「犬山さん……だ」
動画サムネイルに映る彼女は健康的な肉付きをしていて、明るい笑顔を浮かべている。
今となっては見る影もないが、とはいえ面影自体は確かにあった。
思わずその動画を開くと、はつらつとした声で犬山さんが何やらレポーターをしている様子が映っている。動画説明を見ると、ひと月ほど前に放送された地方局のバラエティ番組からの抜粋らしい。
そして――タイトルにある通り。なんとこの動画には、ありえないような場所に人が映り込んでいるというのだ。
少し興味を惹かれて、動画を進めていく。例の殺人犯が逃げたのと同じ供借山、そこに犬山さんはレポーターとして訪れていたらしい。
『それよりどうですか~、見て下さい! 冬晴れっていうんですかね~、向こうの山のてっぺんに雪がかかってるのがきれいに見えます――』
こんなふうに話す人だったのか、という驚きとともに眺めていると、編集で注釈が入る。
<レポーターが何かに気付いた様子で、きょろきょろと周りを見回す……>
そんな字幕が示すように、動画の中の犬山さんが不審そうに周りを見回して。
それから彼女は――首を傾げながらこう呟いた。
『あとあと~……え? くづ、るぎ? くとりぎ? なんか言いました?』
発せられたその単語に、私は思わず目を見開く。
くとりぎ。犬山さんが発したその言葉は……今日まさに、彼女の口から聞いた言葉だったからだ。
動揺しながら画面を見ていると、そこでさらに字幕が追加される。
<ここで、画面奥の山林の中からレポーターに向かって手を振っている男がいる。だが他のスタッフはその人物が見えていない様子>
その説明とともに画面の端、くろぐろとした木々の中に赤い○が示されて……囲われた中に、それはいた。
確かに手を振っている、人の形の影が。
……顔立ちなどは動画の画質だと見て取れないが、服装は赤っぽいチェックのシャツとズボン。髪は短いように見え、体格からいっておそらくは男性ではないかと思われた。
……そうと思わなければ、ただそこに人がたまたまいたのかもしれないと思うだろう。それほどに自然な様子で、はっきりとそこに存在しながら手を振る人影。
だが――確かに犬山さん以外のスタッフは、彼女がその人影について触れても困惑した様子を見せていて。
だからこそ、なんとも気味が悪い。
「……嫌なもの見ちゃったな」
――そう呟いて、私が動画の再生を終了しようとしたその時だった。
『おぉい』
と。
どこかから男性が呼びかけるような声が聞こえた気がして――私は画面を二度見する。
だがすでに動画は閉じていた。動画の音声ではない。
ならば病棟から? ……いや、それにしては近すぎる。
明らかに、今の声の大きさだったら医局の中……いや、このラウンジの――
『おぉぃ』
――瞬間。
今まさに耳元で囁かれたかのような大きさで、もう一度そんな声が聞こえて。
私はその瞬間、思わず後ろを振り返っていた。
……もちろん、誰もいるはずもない。とっくに無人になった医局の中、ラウンジ以外は灯りは消えたままだ。
気のせいだ。
そう自分に言い聞かせながらも、心臓は早鐘を打っていた。
かちり、と音がして。見ると電気ケトルのお湯が沸いている。
気のせいだ。
嫌な寒気を背筋に感じながらも、それを無視して私はコーヒーを淹れて――するとその時のことだった。
ぴりりりり、と、急に鳴り出したPHSの着信音で私は思わずコーヒーカップを落としそうになる。先ほどまでの静寂との対比もあって、ことさらに大きく聞こえたのだ。
発信は病棟から。何かあったのだろうか? コーヒーを机に置くと、私は応答に出る。
「天川です。何かありましたか?」
『あ、天川先生……病棟です。至急で、病棟の方に来て頂けませんか!』
切羽詰まった様子の、男性看護師の声。よほどのことがあったのか。身構える私に、彼はこう続けた。
『――クトウさんが。クトウさんが、病棟内にいないんです!』
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