■10
夜勤看護師の報告を受けて駆け足で病棟に向かうと、ナースステーションでは夜勤の四人の看護師が深刻な表情を浮かべていた。
「天川先生」
「電話ありがとうございます。クトウさんがいないって聞きましたが、本当ですか?」
確かめるように尋ねると、夜勤リーダーの男性看護師が頷く。
「九時の巡回の時に、お部屋にいないのがわかって……それから病棟内を一通り探したんですが、どこにも」
「最後に見かけたのは、いつだかわかりますか?」
「最後は……夕食の介助に入ったのは、いつ?」
夜勤リーダーが別の女性看護師に尋ねると、彼女は少し考えた後でこう返した。
「確か、七時くらいだったと思います。クトウさん、食べるのゆっくりなので……そのくらいの頃に下膳したかと」
「あ、その後確か八時過ぎくらいに、僕がトイレ介助に入ってます」
別の看護師の証言が加わったところで、私は腕を組んで考えを巡らせる。
「だとすると、八時過ぎくらいにはまだ病棟内にいて、そこから九時までの間に出ていってしまったと……。その間、病棟を出入りするようなことはありましたか」
閉鎖病棟には鍵がかかっているため、患者さんが単独で出ていくというのはまず不可能である。
ならば可能性としては、スタッフの出入りのタイミングで密かに一緒に出ていってしまうか、あるいは鍵のかけ忘れ――そのくらいだ。
だが後者に関しては、病棟の鍵はオートロックになっているため自動的に鍵がかかる。
ついさっき私が病棟に来た時はしっかりと鍵がかかっていたのを確認しているので、オートロックが機能していなかったというのは可能性が低いだろう。
私の確認に、夜勤リーダーが手を挙げる。
「私が確か、八時過ぎくらいに頓服薬の不足分を薬局まで取りに行きました。ただ、その時はドアが閉まるのまで確認しているので……一緒に出ていったとは思えないんですが」
「なるほど……とするとあとは、監視カメラの確認しかないですね」
ひとまずそう結論づけると、私は時計に視線を遣る。時刻は、夜の九時二十分を指していた。
正確な時間は分からないが、八時過ぎ頃に出ていったと考えてちょうど一時間と少しが経過したことになる。
クトウさんは年齢も年齢で足腰も相応に弱く、一時間歩き続けられるとは思えないし、距離自体もそう遠くまで行けるとは思えないが――とはいえ万が一、ということがないとは限らない。
クトウさんの場合、症状が激しかった入院前などは夜間の徘徊で家から何キロも離れた場所で見つかった……なんて話も聞いている。
それだけならまだ良いが、もしもその間に何らかの事故に遭っていたりしたら。
そんな悪い想像で胃の奥から戻しそうになるのをこらえながら、私は看護師たちに向き直り。
「ひとまずリーダーさんは警察に一報を。私は、院長先生に連絡します。他の方は敷地内をひとまず探してもらえますか」
そう指示を出すと、皆それぞれに動き始める。それを確認しつつ、私はPHSを取り出して外線に繋ぎ、院長先生の緊急時の番号へと掛けた。
数コールほど待って、院長先生は電話に出てくれた。
『もしもし、桜野です』
普段より少しだけ緊張感のない声。時間を考えれば当然だろう。
「夜分にすみません。天川です。緊急でご報告しなければいけないことがありまして……よろしいでしょうか」
だがそんな私の言葉で、すぐに院長先生はただならぬものを感じたようだった。
『……どうしました?』
「私の患者さんのクトウさん――認知症で入院されているお婆ちゃんが、無断離院されたようで。現在も行方を掴めていないんです」
『無断離院ですか。……警察への連絡は』
「今してもらっています」
『いつ頃離院されたかどうかは、わかりそうですか? 監視カメラの確認などは』
「多分一時間前くらいだろうとは思うんですが、正確なタイミングは分からないです。監視カメラは、まだ……」
『その患者さんは、動けるタイプの方ですか』
「九十歳のお婆ちゃんで、もともと足腰も弱いので……そんなに遠くまで行けるとは、考えづらいんですが」
てきぱきと確認をした後で、院長先生は『分かりました』と、いつも通りの淡々とした調子で呟いた。
『では、今から私も病院に向かいます。その間に、捜索の方も始めていて下さい』
「分かりました。……すみません」
謝ってもどうしようもないことではあるが、思わず謝罪の言葉が溢れる。
だが院長先生は意外にも、怒るでもなく『いえ』と返し、
『完全には防げないことですから。とにかくまずは、患者さんを無事に連れ戻すことを考えて下さい』
普段どおりの柔和な口調でそう言うと『では、また後で』と通話を切った。
院長先生の言葉で少しだけ落ち着きを取り戻した私は、いったん大きく深呼吸をして。
それからすぐに、捜索へと取り掛かることにした。
――。
懐中電灯を片手に、私は病棟の外に出て周囲を照らす。
病院敷地内には入院病棟以外に、外来・デイケア棟と長期療養用の病棟が他に存在しているが――そちらに関してはやはり出入りの扉がロックされているため、職員以外は許可なく立ち入ることはできない。
敷地内の捜索に関しては他の看護師たちに任せている。他病棟の看護師も手の空いている者は手伝ってくれているから、十分だろう。
私はひとまず警察が来るまで、敷地外の捜索に向かうことにした。
病院の正面から出ると、辺りはどっぷりと闇に覆われていて、遠くに見える道路灯がぽつんと寂しく灯っているのが唯一のまともな光源であった。
「クトウさん、いますかー!?」
試しに大声で呼んではみるが、返事はもちろん返ってこない。
一応は都内とはいえ、ほぼ埼玉との県境に近いこの病院。この時間帯ともなると周囲は閑散としていて、車道を通る車もろくにない。
それゆえに車に轢かれているとかそういった心配は少ないが――とはいえありえないわけではない。
念入りに懐中電灯で照らしながら、病院前の車道沿いをしばらく歩く。それらしい痕跡がないことに安堵しつつ、とはいえ手がかりがないことに変わりはなかった。
辺りを見回しながら、途方に暮れる私。
病院は正面が車道に面しているほかは、外周を鬱蒼とした林が取り囲んでいる。その中を探す必要はありそうだが、それはさすがに一人では難しい。
とはいえ……若い人ならばまだしも、クトウさんは九十歳のお年寄りだ。少し暖かくなってきたといえどまだ三月、夜はしっかりと冷え込んでくる。
この状況で外を歩き続けていたとしたら、それが原因で体調を崩すことだって大いにあるだろう。少しでも早く見つけてあげたかった。
再び焦りが頭の中を駆け巡り始めた、その時のこと。
不意に――聞こえたのは、奇妙な音だった。
獣とも人とも判断しかねるような金切り声。
静かな夜の空気をつんざくようにして、そんな異音が病院隣の林の方から聞こえてきたのである。
「……今のは……」
犬の遠吠えとは、全く違う。だとしたらクトウさんが?
クトウさんの細く小さな体からあんな声が出るとは想像もつかなかったけれど、想像もつかないような離院を成し遂げてしまったのだ――可能性として捨てられるものではない。
少しの逡巡の後、私は決心して病院の周囲を囲む雑木林の中へと足を踏み入れることにした。
面積で考えれば「病院が雑木林の端にある」という表現の方がより正しいだろう。それほどまでに、病院の周囲は緑が深い。
一歩踏み込んだだけで、そこはすでにあらゆる光の届かない闇の支配域となっていた。
病状の良い患者さんなどは日中、院外外出のついでに森林浴などをしているともいう――確かに日中に来れば木漏れ日などが清々しそうだが、この真夜中だととんでもない。
自然の青々とした生臭さが立ち込め、その中に何らかの気配を感じてしまう。とにかく一刻も早く出たくなるような、独特の圧迫感に包み込まれるのだ。
おそるおそる、私は暗闇の中で声を発する。
「クトウさん、いたら返事をしてください!」
一人の人間の声なんて、簡単に呑み込まれて消えてしまいそうな闇の中。
足元の枯れ草を踏みつけるわずかな音すらもが妙に大きく聞こえて、歩くたびにぞくりとしたものを感じながら私は進む。
一歩、一歩と、道にもなっていない草むらの中を分け入って。
すると――それは突然のことだった。
目の前に、急に光が現れたのは。
「わっ……!?」
思わず叫ぶ私。すると光の方からも同じように、驚くような男性の声が聞こえてきた。
その声は私の方へと光を向けると――
「だ、誰かいるんですか……って、天川先生!?」
少し怯えた様子でそう言ったかと思うと、なんと私の名前を呼んでくる。
何事かと思って私も光の方を注視すると、そこでようやく理解した。
そこにいたのは……懐中電灯を構えた、ムロノヤマさんだったのだ。
いつも着ているセーターの上にダウンジャケットを着た格好の彼――その姿は今日の昼に外泊に出かけた時と変わらない。違うところと言えば、リードをつけた大きな柴犬を連れていることくらいだ。
「ムロノヤマさん!? どうして、こんなところに……」
思わずそう尋ねる私に、ムロノヤマさんは少しほっとした様子でこう答えた。
「ついさっき、変な声が聞こえて、うちで飼っている犬が大騒ぎしちゃいまして……家内も気にしていたので、見に来たんです。私の家、ちょうどこの雑木林を挟んで向こうなので」
言われてみれば、確かに彼の住所はすぐそこだった。だが、なんという偶然だろうか。
いまだ驚いている私に、ムロノヤマさんの方も問いを返す。
「それより先生は、なんでこんなところに……?」
「ええと、実は――」
この状況ならば、一人でも人は多い方がいい。そう考えた私は、クトウさんが病棟から抜け出してしまったということを端的に伝えることにした。
「……それで、たぶんムロノヤマさんが聞いたのと同じ変な声が聞こえたので、この林を見に来たんですけど……思ったより深くて」
「ええ、そうですね……この林は道とかもないので、地元の人間でも夜に入るとけっこう迷いますから」
頷いて、ムロノヤマさんは懐中電灯を軽く振る。そういう彼はけっこうこの林を歩くのに慣れている様子だった。
「クトウさんには、このお守りももらいましたから……私もお手伝いさせて下さい」
そう言って彼はポケットからあの「おくさまひも」を取り出し、笑い慣れてない笑みを浮かべる。
すると、それと同時に彼のそばで沈黙していた柴犬が何やら鼻を動かし、闇の中を睨んで一声吠えた。
「こっちに、何かあるみたいです」
そう告げるムロノヤマさんについて、私も林の奥へと分け入っていく。
時折おくさまひもを犬に嗅がせ、おそらくクトウさんの匂いを覚えさせているらしい。犬の方もよく訓練されているようで、その意図を理解してしっかりと先導していく。
そこで私はふと、ムロノヤマさんの経歴を思い出す。確か統合失調症を発症する前は、警察犬の訓練などを行っていたはずだ。
どうやらその経験はちゃんと彼自身にも、彼の飼い犬にも根付いているらしい。
淀みない所作でそんな捜索を続けていくと、不意に犬の足が止まった。
「どうした?」
戸惑うムロノヤマさんの前で、飼い犬は急に姿勢を低くして――敵意に満ちた様子で、前方の暗闇に向かって唸り続けている。
と同時に、まず感じたのは……思わず顔をしかめたくなるほどの悪臭だった。
鉄と汚物が入り混じったような、ひたすらに嫌な臭い。ふと思い出したのは、医学生だった頃の解剖実習で腹部を開けた時に嗅いだもの――だがそれよりもよほど新鮮な臭気。
それが意味するところを察知して、私はムロノヤマさんに鋭く告げる。
「ムロノヤマさんは、ここで待っていて下さい」
手で彼を制しながら、私は一歩、一歩と奥へと踏み込んで。
懐中電灯で丹念に辺りを照らすと――まず見えたのは、何かが近くの木の枝にぶら下がっている姿。
ぴちゃり、ぴちゃりと。水滴の音が聞こえる中、それに向かって光を当てて、私はたまらず「ひっ」と声を漏らす。
そこにあったのは――木に吊るされた、何匹もの野良犬の死骸だったのだ。
腹をずたずたに開けられて、中から腸が引きずり出され。その腸管を木の枝に括り付けられた状態で吊られた死体。
風に揺られてかすかに左右に動くそれらがぶら下がる中、私は腰を抜かしそうになるのをぎりぎりでこらえながらさらに奥を見て……
「……っ!!」
今度こそ、叫び出すのを止められなかった。
なぜなら、そんなぶら下がった犬の死骸たちに囲まれるようにして。
――口に犬の頭部を咥えながら、血まみれで満面の笑みを浮かべたクトウさんが、立っていたからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます