■11
クトウさんが離院し、発見された夜。
怯えきって何もできなくなっていた私の代わりにムロノヤマさんが病院に連絡してくれたおかげで……応援のスタッフと、ちょうど到着していた警察官たちがほどなくして駆けつけてくれた。
クトウさんはその間、ただぼんやりと立ちすくむだけで何もせず。
警察官に連れられて病院へと戻る間もまた、彼女は一切抵抗しようともしなかった。
それから病院に戻ると、狂犬病ワクチンを取り寄せたりとできる範囲の感染症対策を行った後、クトウさんは保護室に移送され隔離、拘束の処遇で収容されることになった。
その段階ではにこにこして、普段と全く変わらない様子であったが……それでも無断離院した挙げ句にあんなことをしていたのだ。この処遇は妥当と言わざるを得ない。
憔悴しきっていた私は恥ずかしながらその日は使い物にならず、結局、駆けつけてくれた院長先生が家族への連絡や警察官とのやり取りなどを引き受けてくれていて。
結局、その日は私は一人になるのも恐ろしくて――病棟の看護師用の休憩スペースに引きこもり、そこで気を失うように眠っていた。
――。
「……せい。先生」
泥のような倦怠感に包まれながらまどろむ私に、誰かが何度も話しかけていた。
「天川先生。天川先生。おーい」
呼びかけとともに軽く肩を叩かれたあたりで、私はようやくゆっくりと目を覚まし――重い瞼を開けながら前を見る。
そこにいたのは……無精髭の生えた垂れ目気味の男性。鏑木先生だった。
「かっ、鏑木先生!?」
「よう、おはようさん」
状況が呑み込めずに目を白黒させる私に、彼は普段どおりの気の抜けた笑みを返す。
辺りを見回してみると、そこは最後に記憶にあるのと同じく、看護師控室のパイプ椅子の上だった。
「昨日はずいぶんと大変だったみたいだな。院長先生から聞いたぜ」
「昨日……院長先生……あっ、そうだ――」
鏑木先生の言葉を鍵に、おぼろげながら記憶が蘇ってくる。
あの林の中で見た光景がショッキングすぎたせいで、あれから私は本来すべき作業をすべて放り投げてここで震えたまま眠りに落ちていたのだ。
それを実感すると、今度は別の恐怖がせり上がってくる。
「い、院長先生はっ……?」
「ああ、さっきまでこの辺で仕事されてたけど――監視カメラの映像を確認しにいくっつって、警備室の方に行かれたな。昨日は眠れてなかったみたいで、だいぶお疲れって感じだったが」
「……どうしよう。私、本当は私が当直として色々、しなきゃいけなかったのに……」
それなのにあの光景に正気を喪って、こんなところで引きこもってしまっていた。
果たすべき責任を何ら果たそうともせず、子供のように震えて眠り込んでいたのだ。
とめどない後悔の波が押し寄せようとしていたその時、しかし鏑木先生の言葉がそれを押し留める。
「まあ気にすんなって。聞いた限りじゃ、だいぶとんでもない状況だったみたいじゃないか。……院長先生もおっしゃってたぜ、『あんなものを見たのではしょうがない』ってさ」
あんなもの。私が見たあの光景は、夢ではなかったのだ。
思い出すだけで怖気が走るのを感じていると、鏑木先生はそれを鋭敏に察した様子で「あー」と頭をかく。
「まあ、なんだ。ともかくそういうわけだから、無理はしなくていいとさ。家族が今日面談に来るってことだが、天川先生の体調次第じゃ俺か院長先生が代理でやろうってことになってるし」
そんな気遣いに満ちた発言は素直にありがたかったが、とはいえ――私は首を横に振る。
研修医の時分ならともかく、今の私は一人前の医者なのだ。担当の患者さんのことくらいは、しっかりと面倒を見てあげたかった。
「大丈夫です。昨日はよく寝たので」
そう返した私に、鏑木先生は少しだけ沈黙を挟んでじっとこちらを見つめた後。
「……了解だ。じゃあ、昼前くらいには家族が来るらしいから任せたぜ」
「はい」
頷いて、気合を入れ直す私。
と、そんな時のこと――控室の戸がノックされて、入ってきたのは昨晩の夜勤リーダーだった。
「あ、先生がた、お話中すみません」
「いえ、大丈夫です。……その、昨日はお手数おかけしてすみませんでした」
「いやいやそんな。しょうがないですよ、現場駆けつけたスタッフ、他にも気持ち悪くなっちゃった子いましたし」
あれじゃあねえ、と苦笑しながら、夜勤リーダーは続けた。
「……それで、その関連なんですけど。さっき監視カメラを院長先生と確認していまして」
「どんなふうに抜け出しちゃったか、分かりましたか?」
「それが……そのですね。なんて言ったらいいか分からないんですが――」
妙に歯切れの悪い様子で言葉を選んだ後、夜勤リーダーはこう続けた。
「クトウさん、病棟の出入り口から出てはいないんです」
「……はい?」
何を言っているのか分からず、思わず訊き返してしまった。
そんな私の隣で鏑木先生も同様に怪訝な顔をしながら、問いを発する。
「出てないって、どういうことだい。実際離院して、野良犬を殺してたんだろう」
「それは……そうなんですけど。その……院長先生からは他言しないようにとは言われてるんですが――あの時間帯の映像をいくら見ても、クトウさんが出ていく姿が映ってないんです」
「……そんな、馬鹿な」
思わずそう呟いてしまう。だがそれも、仕方のないことだ。
閉鎖病棟から外へ出る出入り口は、病棟内にあるふたつのオートロック扉のみ。そこを通らずして外に出るなんて芸当は、できっこないのだ。
顎に手を当てて思案しながら、鏑木先生が口を開く。
「病棟内で、破損してる窓とかはなかったんだよな」
「ええ。一応朝のうちにすべての窓を点検してます。無理やりこじ開けられた様子もありませんでした」
こうなってくるとなおさら、わけが分からなくなってくる。確かに昨日、クトウさんは夜の間に病棟を抜け出していて――なのに抜け出せそうな場所がどこにもないというのだから。
「するってーと、何だ。クトウさんは瞬間移動でもしたってわけか?」
「警察の人も、頭をひねってました。院長先生も……このことは口外しないようにと。天川先生は昨晩の当事者ではあるので、お伝えした方がいいと思ったんですが」
そういうわけで教えてくれたらしい。だが確かに、そんな事実となると院長先生が他言無用を言い渡すのも頷けた。
最近のオバケ騒ぎに加えて、病棟から瞬間移動した患者――そんな話が立て続けに起きたとなればさすがに、職員の中でも色々な憶測を生んでしまうだろうから。
少し黙考した末に、席を立ち上がった私に少し驚いた顔で鏑木先生が口を開く。
「天川先生?」
「顔を洗ってきます。それと――ご家族が来る前に、クトウさんの様子を見ておこうかと」
――。
そう宣言した後、スタッフ用のトイレで軽く顔を洗って私はすぐに保護室へと向かった。
犬山さんの様子も通りすがりにのぞき窓から観察しつつ、見た限りでは特に変わった様子もないためそのまま通過してクトウさんの入っている205号室へ。
この部屋は確か、先日一度ヤナカさんが入った部屋だった。その後は別の患者さんが入っていたのだが、昨晩急遽クトウさんを保護室に入れなければならなくなったこともあり、部屋を移動してもらっていたのだ。
鍵を開けて、夜勤リーダーとともに中に入る。
病衣に着替え、四肢と胴をベルトで拘束された状態で、クトウさんがこんこんと眠っていた。
そんな彼女の様子をざっと見て、即座にひとつの異変に気付く。
それは……彼女の両手足。数日前にはかさぶた程度の広がりだったあの樹皮のような病変が……今は病衣からのぞく二の腕の辺りに至るまで、びっしりと覆い尽くしていたのだ。
昨晩は暗かったこともあったし、何より血まみれの彼女や辺りに散乱していた犬の死骸に目を奪われていたせいで気付きもしなかった。
だが――これは、一体なんだ?
「クトウさんの手足、これは……いつの間に、こんなに進んでいたか分かりますか?」
「え、いや……昨日の夜勤帯への申し送りでは特に何も言われてなかったと思うんですが」
そうだろうと思う。私だって、あれから毎日クトウさんとは顔を合わせ診察していたのだ。手足の病変がこんなに急激に進んでいたとなれば、気付いたはずだ。
だが――記憶の限りでは昨日の午前中の段階では、確かにこんなことにはなっていなかったと思う。
こんな……それこそ枯れ木の枝そのもののような尋常ならざる状態になっていれば、専門外とはいえ絶対に気付いたはずだ。
近くのラックに置かれていたゴム手袋を取り出してはめると、私はおそるおそる、クトウさんの手に触れてみる。
感触はやはり、固い。表面のささくれた部分を軽く撫でると、それだけでかさかさと鱗片のように表面が削げ落ちていく。
それに……なんということだろうか。指の末端に至っては鋭く尖っていて、もはや人の指の形を成してはいない。
完全に、彼女の手足から生えているのは……木の枝あるいは根そのものとしか思えなかった。
「信じられない」
こんな病気は、私の知る限りでは思い当たらない。血の気が引くのを感じながら、私はクトウさんへと呼びかける。
「クトウさん。手や足、痛くないですか」
そんな私の問いかけに、クトウさんは少し濁った眼球だけをぎょろりと動かしてこちらを見つめると。
「ぎゃ、ぎゃ、ぎゃ」
と、金属が擦れ合うような奇妙な笑い方をして、手足をもぞもぞと動かし始める。
その細い体のどこからそんな力が出ているのかと思うほどの強さで拘束帯が引っ張られ、ベルトの留め金がかちかちと鳴る。
「クトウ、さん……」
そんな彼女を見て、私は……どうしてか分からないが、無意識のうちにポケットから例の「おくさまひも」を取り出していた。
彼女がお守りとしてムロノヤマさんに渡したもの。だからだろうか、私もそれに縋りたくなったのかもしれない。
手首に巻き付けるようにしてそれを握り込む私。するとその時、クトウさんがくわっと目を見開いた。
「あ、う、がぁ。ご、ぐが」
痰が詰まったみたいな不明瞭な声とともに、彼女が浮かべたのは怒りの形相。
歯をがちがちと鳴らしながら、彼女は再び強い力で手を動かそうともがく。
私を……いや、私の手に巻かれた組紐を睨みつけながら。
「ねぎり、ねぎり、ねぎり――」
しきりに叫び出すクトウさんに、私は問う。
「クトウさん、どうしたんですか? 昨日は一体、何があったんですか。どうしてあんな風に、犬を……」
それ以上は言葉にできず、私は口を濁して。だがどのみち、クトウさんはそれに答える気はなさそうだった。
「きは、くき、きけけけ」
でたらめな調子で急に笑い始めたかと思うと、そのまま全身をばたばたと揺すり出す。
そんな彼女の様子に私と夜勤リーダーとがすっかり気圧されていると……後ろから「ちょっといいか」と声を掛ける者があった。
鏑木先生だ。
彼は入ってくるなりクトウさんの様子を見て「うおっ」と驚いた後、私に向かって小さく手招きをした。
「天川先生、取り込み中のところすまん。クトウさんのご家族がいらっしゃったみたいだ」
「あ、分かりました……」
とは言ったものの、目の前で今まさにかたかたと笑い続けているクトウさんを見て、私は逡巡する。彼女をこのまま置いていって、よいものか。
そんな私の葛藤を見て取ったのだろう。鏑木先生はベッドサイドまで来ると、私を見てこう告げた。
「クトウさんは俺が見てるから、君はご家族への説明をしてくるといい」
「……分かりました、ありがとうございます」
その厚意を素直に受け取ることにして、私は鏑木先生に小さくお辞儀をした後、保護室を出て病棟の面談室へと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます