■8
それからまた、さらに数日ほどが経ち。
病棟で「オバケ騒ぎ」があったのはちょうど、このあたりのことだった。
詳しいことは看護師の噂を小耳に挟んだ程度だけれど、なんでも、夜勤中の看護師が病棟内で奇妙なものを見たらしい。
とはいえ語弊を恐れずに言うならば、精神科の入院病棟で夜中に誰かが歩いている……というだけならば決して珍しい話ではない。
その話が「オバケ騒ぎ」になった所以は、その目撃されたものが人ではなく――「木」だったからだ。
木が、真っ暗な病棟の廊下に一本生えていた。
そう言ったっきり、それを見たという看護師は体調不良を訴え休んでしまっているという。
もちろん、看護師が目撃したという場所にはそんなものはなかったし、それらしい痕跡だってありはしなかった。
看護師という仕事は得てしてストレスの掛かるものである。日々のストレスと夜勤の疲れが合わさって、奇妙な幻を見せたのだろう――そんな見解がひとまず院長先生によってもたらされ、一旦の騒ぎは沈静化。
けれど多くのスタッフは、この話を聞いた途端に同じものを連想してしまった。
すなわち、具合が悪くなった患者さんたちが言っていた幻視の内容。
「根っこが壁を這っている」――そんなイメージを。
――。
「先生はどう思います、例の話」
田井中さんにそう振られて、ナースステーション片隅の椅子に座っていた私は思わず顔をしかめていた。
私はというとカルテを入力するでもなく、一見するとサボっているようにも見えるがそうではない。
犬山さんの鼻管の入れ替えのために呼ばれて、今は道具の準備をしている看護師を待っているだけなのだ。
「……やめてくださいよ、今日私当直なんですよ」
そう呻く私に「あら」と笑いながら田井中さんは話を続ける。
「ってことは先生も、けっこうそういうの信じる方なんですか?」
「『も』?」
「鏑木先生、こういうオカルトな話好きなんですって」
その言葉であの上級医の顔を思い浮かべる。意外……というほどではないが、少し驚きではあった。
「あとね、亡くなった前の院長先生もそういうことを大事にする方だったから――昔からここに勤めてる私みたいな年寄りは、ああいう話がけっこう気になっちゃうんですよね」
「前の院長先生って、確か病院のどこかに鳥居を立てたっていう」
そう返すと、田井中さんは「ご存知でしたか」と笑った。
「鳥居って言っても、小さな置物みたいなものだったんですけどね。先生が来た時には……そっか、ちょうど撤去された後だったんでしたっけ」
「そのようです」
「私はどうかと思ったんですけどねぇ。撤去しちゃうのは。患者さんもよくお参りしたりしてましたし」
頬に手を当てて小さく肩をすくめる田井中さん。そんな彼女に、私はふと気になったことを質問する。
「その鳥居は、何のために置かれたんですか?」
普通、病院にわざわざそんなものは置かないだろう。それを設置したというなら、理由があったのではないか。
そんな私の疑問に、田井中さんは少し考えた後で声を潜めながら口を開く。
「あんまり、大声で言うような話じゃないんですけどね。十年くらい前に、院内で立て続けに何人か……自殺騒ぎがあったんです」
思わず顔がこわばるのを感じる。確かにそういうことは、なくはない。
所持品の管理などでリスクを減らそうとしてはいるが――それでも起こる時には起きてしまうものなのだ。
だが、とはいえやはり滅多にあるものではない。それが「立て続けに」というのはあまり気分の良い話ではなかった。
「……何人も、ですか」
「ええ。それで前の院長先生、騒ぎの後に……なんだかお祓いを頼んだらしくて。その時に来た除霊師さんだか神主さんだかが、鳥居を立てるようにって言ったんだそうです」
「そうだったんですね……」
確かに、そんなことが立て続けに起こったならそういうものに縋りたくなるのもわからないでもないが。
「それで、効果はあったんですか?」
「どうかしら。とはいえそれ以降は、病棟内での自死は出てないと思うので――ひょっとしたら効いてたのかもですけど」
ふふ、と笑う田井中さんだったが、対する私は苦笑いを浮かべていた。
「効いてたんなら、撤去されてる今は良くない状況ってことになりますけどね」
「だから幽霊騒ぎなんかが出たのかもしれませんね」
洒落にならない冗談を言う田井中さんに、私は「勘弁してください」とぼやく。
するとちょうど、話に一区切りついたところで介助の看護師が声をかけてきた。
「先生。犬山さんの胃管、準備できました」
「あ、分かりました。ありがとうございます」
立ち上がって保護室の方へと向かう私に、田井中さんが声を投げかける。
「それじゃ、先生。今日は当直がんばってくださいね」
――。
204号室。
昏迷で身動きひとつとらずにいる犬山さんを前にして、私はじっと彼女の体を見る。
身体拘束はとっくに解除していたが、その後一度たりとも彼女は自発的に動こうとはしない。入院してから二週間近くが経って、結局彼女は今でも食事ひとつ取れない状況にあった。
経鼻栄養も、あくまで間に合せの処置でしかない。人間が最低限生きるのに必要なカロリー程度しか投与できないため、体重はどんどん減っていくし……体を動かさないから筋肉も衰えていく。
結果として、受診時にはまだ肉がついていた手足も今では老婆のように細く、干からびてしまっていた。
――木のオバケ。近頃病棟スタッフを賑わせたその話を、不意に思い出す。
そんな連想を我ながらに不謹慎だと嫌悪しながら、私は犬山さんに声をかけた。
「犬山さん。分かりますか?」
「……」
視線すら合わない。目やにのついた眼球は天井をじっと見つめるばかりで、何の感情も浮かんではいない。
ベンゾジアゼピン系薬剤も抗精神病薬も試してはいる。一般的な精神病性の昏迷であればそれで何らかの反応が出てくることがほとんどだが、しかし彼女は一向に反応を見せない。
ならば脳の方に物理的な何らかの障害があるのではないか? そう考えて出来得る限りの検査は行ったが、画像所見、脳波も含めて異常と思われる点はない。
こうなってくるともはや、打つ手はなかった。
「今からお鼻の管を入れ替えます。ちょっと気持ち悪いかもしれませんが、少しの間だけ我慢してくださいね」
ひとまずそう声を掛けながら、私は介助の看護師に体位を整えてもらいながら、挿入用の鼻管の準備をする。
事前に看護師が入れ替え前の鼻管は抜いてくれていたのでその手順は省略。手袋をはめながら先端に麻酔のゼリーを付け、座った体勢の犬山さんの鼻にひと思いに入れていく。
嚥下反射の手応え。正しく食道内に入っていったことを確認しながら四十センチほど入れたところで、聴診器で胃内の音を聴取。
問題なく胃に入っていることを確かめたところで、看護師がテープで固定――すんなりと一連の作業が済んだところで、看護師が処置用カートを押しながら部屋を出ていく。
「それじゃあ、確認のレントゲン呼んできますね」
「お願いします。私はこのまま、ちょっと診察してますので」
胃管が胃ではなく肺の方へと入ってしまうという事故がごく稀に起こることがある。
それを防ぐため、胃管留置後はレントゲンで先端を確認することが通例となっていた。
看護師が去り、二人だけになった保護室の中。
これだけの作業の後でも無表情のまま、再びベッドに横たわっている犬山さん――そんな彼女に私は改めて声を掛ける。
「犬山さん。お疲れ様でした」
「……」
「何を見ているんですか?」
虚空を見つめたままの瞳は、何も物語らない。返答などないことは分かっている。
胃管の再留置の作業中ですら、苦悶の表情ひとつ浮かべなかったのだ。彼女の昏迷は依然としてかなり高度なもので、外界の刺激への反応などおよそあるはずもない。
だが、それでも。
この保護室の中、張り詰めたような静寂に包まれていると――自分の無力を痛感するようで嫌だったのだ。
そんな自己満足じみた、壁打ちのような問いかけ。
だがしかし、そこで私は目を疑う。
点滴の刺さった犬山さんの右手が、ぴくりと動いたのだ。
見間違いかと思ったが、そうではない。痙攣するような動きでまず枝のような指がかちりと動いて。
それから次に、腕全体が……ゆっくりと、上に持ち上がったのだ。
「……え?」
思わず間の抜けた声をこぼす私の前で、枯れ木のような腕はゆっくりと屹立し。それはやがて一点を指差す。
――ベッドサイドに立つ、私の方を。
瞬間。
「……!?」
ふと寒気がしたような気がして、私は思わず振り返る。だが当然、そこには保護室の白い壁しかない。
「犬山さん……?」
彼女に視線を戻すと、筋力の限界だったのか――腕は人差し指を伸ばした格好のままベッドの上に落ち、代わりに彼女の視線だけが、私を見つめ続けていた。
そんな彼女を見返して、そこで私は奇妙なことに気付く。
いつの間にか……人差し指を伸ばした彼女の手の甲に、クトウさんと同じようなあの樹皮様の角質ができていたのだ。
大きさは、手の甲をびっしりと覆い尽くすほど。表面もクトウさんのものより起伏に満ちていて、もはや人の肌には見えない。
数日前に受診したクトウさんの皮膚科診察でも、原因は不明となっていた。皮膚科疾患で、急激にこんな症状を呈するものは考えがたいと。
「なんで……」
ついさっきまで、こんなものはなかったはずだ。今この瞬間、私が後ろを振り向いていた時にできた?
馬鹿な。急性と言っても、そんなのはあまりにもナンセンスだ。
ぐるぐると混乱する頭。だが間髪入れず、私はさらに困惑することになる。
「……と、り、ぎ」
――昏迷状態になってから一度も発されることのなかった言葉が、犬山さんの口から出たのだ。
「……犬山さん? 犬山さん、今なんて?」
「く……と、り、ぎぃ」
くとりぎ。その言葉をどこかで聞いたような気もするけれど、この時の私にそこまで検討する余裕はなかった。
とにかく彼女の症状に何らかの変化があったということの方が重要だったのだ。
だが……
「犬山さん、手を握ってくれますか?」
何度かそう言葉をかけるが、彼女の視線は再び虚空を見つめてしまう。
当然手を握り返してもくれないし、言葉だってそれきり一言も紡ぐことはない。
今のことは全部、私の見た白昼夢だったのではないか。そんなふうに思ってしまうが――けれどひとつだけ、確かなものがあった。
枯れ木のような彼女の手。そこに生えていた、樹皮のような皮膚症状。
それだけが……確かにそこに、存在していた。
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