■7

 ――そうして、所変わって病棟内の処置室。

 看護師に連れられて入ってきたクトウさんの足を見て、私は首をひねっていた。

「うーん、これは……」

 元々白癬などもあったのだろう。足の皮膚は厚くなっていて、爪はぼろぼろ。

 だがそれは、お年寄りの場合は決して珍しいものでもない。

 奇妙なのは――彼女の足の甲のあたり。両足ともに、足の甲の一部が分厚い角質で覆われていたのだ。

 例えるなら鱗……いや、どちらかというと老木の樹皮のような。

「クトウさん、ちょっと触りますよ」

 ディスポーザブルの木べらで軽くつついてみると、見た目通りに硬い。軽くこすってみるが、しっかりと皮膚と一体化しているようで剥がれる様子はない。

「痛かったり、痒かったりはしないですか?」

「んー、あぁ、えぇ」

 にこにこしながら返すクトウさんの表情からは、今ひとつ症状は読み取れそうになかった。

「普段から、引っ掻いたりはしてないと思います。……何なんでしょうか、先生?」

 尋ねてくる看護師に、私は腕を組んで唸る。

 そもそも皮膚科は専門外だというのもあるが――少なくともこれまでの医者人生の中で、こんな皮膚症状は見たことがない。

「気づいたのは、今日ですか? 三日前にも入浴はあったと思いますけど」

「そうですね……その時の介助のナースからは申し送りはなかったと思うので、本当にここ最近だと思います」

「となるとなおさら謎ですね……」

 と、私が首をひねっていると。今まで沈黙していたクトウさんが、不意に私を見て口を開いた。

「くとりぎさまがぁね、いらっしゃったのよ。さわられちゃったんだ」

「……くと?」

 聞き返す私に、看護師が「ああ」と挟んでくる。

「最近、よく言ってるんですよ。くとりぎ? さまがどうのって」

「……そうだったんですか」

 この二、三日は恥ずかしながら、他の患者さんたちが慌ただしかったものでクトウさんのことは看護師からの申し送りで聞くのみだった。

 その間に、若干とはいえ変化があったとは――恥ずかしさを覚えながら、私は看護師に尋ねる。

「それで、そのくとりぎさま、っていうのは?」

「さあ。訊いても、クトウさん教えてくれないんです」

 クトウさんを見ても、彼女はそんな私と看護師の会話を聞きながらにこにこしているばかり。

 気にはなったが、とはいえそれ以外に申し送りの限りでは状態の変化はない様子。一旦置いておいて、私は少し考えた後看護師に指示を出した。

「……まあ、それはさておき。足の方は私ではなんとも言えないので……皮膚科の先生の往診日に、一度診てもらいましょう。それまでは、保湿剤を塗ってあげてください」

「わかりました。……あ、ちょうど切れてる。軟膏取ってきますね」

 処置用のカートを見てそう言うと、看護師はいったん私とクトウさんを置いて処置室を出ていく。

 二人取り残され、しばらくお互い沈黙していると――不意にクトウさんが私を見て、不意に声を上げた。

「ああ、先生、先生」

「はい、何でしょう?」

 するとクトウさんは、首を傾げる私の肩の辺りを指差して、

「先生も、ねきりせんといかん。これあげるよ」

 しゃがれた声でそう言ったかと思うと、彼女は着ているちゃんちゃんこのポケットから何か取り出して私に差し出してきた。

 それは――いつぞや作業療法で作っていた、あの組紐だった。

 両側にループが作られた、犬のリードのような、あるいは手錠のような形の赤い組紐。たしか以前、クトウさんはこれを「おくさまひも」と呼んでいた。

「くれるんですか?」

「えぇ、えぇ。もっときなぁ」

 珍しく、しっかりとした様子で頷くクトウさん。私は少しばかり迷った後――結局、素直に受け取ることにした。

 ……長さは二十センチ程度。アクセサリーにするにしては、少しばかり長すぎる。……一体何に使うものなのだろうか。

「ありがとうございます、クトウさん」

「うん、うん」

 満足げに頷くクトウさんにお辞儀をすると、ちょうど看護師が軟膏を持って戻ってきた。

「あ、先生。お待たせしました。……と、それと先生。患者さんが窓口で先生のこと呼んでましたよ」

「おや、どなたですか?」

「ムロノヤマさんです。処置は私がやっておくので、お話してあげてもらってもいいですか?」

「ええ、分かりました」

 そう告げると、私はクトウさんを残してナースステーションへ。

 すると窓口のところに、草色のセーターを着たムロノヤマさんが立っていた。

 普段から表情はやや固いが、今日は少しばかり落ち込んでいるようにも見える。何かあったのだろうか?

「ムロノヤマさん、お待たせしました。どうされました?」

「ああどうも、先生……。あの、そんなに大したことではないんですけど」

「大丈夫ですよ。おっしゃってください」

 そう頷いてみせると、ムロノヤマさんはおずおずと切り出した。

「その、家族と電話をしていて。今度一度外泊ができればと、思っておりまして……まあ、外泊といってもすぐそこみたいなものですけど」

 ムロノヤマさんの自宅は、病院から数百メートル程度のご近所。なんなら院外外出のついでに立ち寄れるくらいの距離で、それゆえにご家族もよく面会に来てくれている。

「外泊ですか。いいですね、確かに頃合いかもしれません」

 患者さんや家族の意向にもよるが、自宅退院を目指す場合は通常は退院前に一度外泊をして家での様子を見てもらってから、という流れが多い。

 ムロノヤマさんの場合は症状も安定しているため、私としてもそれを切り出す機会を伺っていたところではあった。

 私が了承すると、ムロノヤマさんの表情が和らぐ。どうやらこれを言い出すことで緊張していたようだ。

「ありがとうございます、先生。そうしたらまた、家族と相談してお伝えします」

「ええ、お願いします」

 小さくお辞儀をするムロノヤマさんを見て、私は内心でほっとしていた。ムロノヤマさんまで例の「根っこ」の話をしだしたら……と密かに不安に思っていたのだ。

「ムロノヤマさんは、最近お変わりないですか」

「ええ、先生のおかげで。病棟は少し騒がしいみたいですけど……クトウさんから頂いたお守りのおかげですかね」

「お守り?」

 首を傾げる私に、彼はポケットから何かを取り出して見せる。

 それは――先ほどクトウさんからもらったものと同じ、あの「おくさまひも」だった。

「作業療法を一緒にやっていた時に、作ってくれて。クトウさんが言うには、お守りらしいですよ」

「そうなんですね。私もさっきもらいました」

 そう言って自分の分を見せると、ムロノヤマさんは「おぉ」とわずかに笑顔を見せる。

「なんでこれがお守りなのかは分かりませんけど……なんとなく、持ってると安心する気がするんですよね。作りもすごく、綺麗ですし」

「そうですね。クトウさんがこんなに手先が器用だったなんて、私も驚いてます」

 そんなやり取りを最後に、「では」と別れを告げて去っていくムロノヤマさん。その背中を見送りつつ、私は手に握った赤い組紐を見つめる。

 お守り。精神科医がそんなものに頼っていたら、院長先生は嫌がりそうだけど。

 手放すのはクトウさんにも悪いから、しばらくはポケットの中にでも入れておこうと思った。


     ■


3月9日カルテ記載

 イヌカイ ユズル 四十歳男性

<所見>

 自室でシャドーボクシングをしているが、明らかな易怒性や暴力性は認められない。

 睡眠も良好。

<現状評価、今後の方針>

#統合失調症(親族不明のため、市長同意による医療保護入院)

 依然として体系的な妄想(自分をボクシング漫画の主人公と思い込み、「ジョー」と名乗っている)は認められるが、他者や物品に対する暴力などは見られず個室内で安定している。

 とはいえ隔離の解除には慎重にならざるをえないか。

 以前からある「コーチからの叱責」などの幻聴は続いているが、病棟内他患にて認められるような類の幻聴・幻視の訴えはない。



3月15日カルテ記載(皮膚科)

 クトウ ヨシノ 九十歳女性

 精神科・天川先生よりご紹介。認知症で入院中の患者さん。

<所見>

 両足の甲に3cm×5cm程度の角質状変化を認める。自覚症状はなし。

 性質は樹皮状。踵部などの角質と比較しても固い。顕微鏡確認では白癬菌の存在は認める。

<現状評価、今後の方針>

 白癬菌(+)であるため足白癬(=いわゆる水虫)による変化とも考えられるが、白癬でここまでの角質化を見ることは稀である。

 掌蹠角化症なども一応鑑別としては考えうるが、本来先天性の疾患であり発症の経過と合致しない。

 保湿および白癬に対する抗菌薬を塗布し、経過を追う。


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