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3月6日カルテ記載

 ヤナカ シンジ 五十三歳男性

<所見>

 疎通性は保たれているがひどく不安げ。看護記録によれば、昨晩は全不眠。

 検査結果では頭部CTで軽度の脳萎縮は認められるものの、アルコールに関連するものと思われ、入院時よりはむしろ若干改善傾向。

 採血上も肝機能がやや悪い以外は特記すべきことはない。

<現状評価、今後の方針>

#アルコール依存症、離脱症状

 離脱症状による精神症状があり入院となった患者さん。だが入院から一ヶ月以上が経過しており、精神症状は消失し落ち着いて過ごせていた。

 今回のエピソードは急性の経過であり、内容としては離脱症状と類似するものの、院外外出の際には必ずアルコールチェックを行っているためその可能性はきわめて低い。

 一方で身体疾患を示唆する検査所見も認められず、あとは考えられるとすればアルコールの長期使用によって脳が脆弱性を来し、なんらかのきっかけで精神症状が出現した可能性はある。

とはいえ一旦は、経過観察とせざるを得ないか。頓服薬のみ追加しておく。


     ■


 ――ヤナカさんの一件から、数日が経って。

 その間、私の担当患者さんに関しては良くも悪くも、大きな変化はなかった。

 入院したての犬山さんは相変わらず昏迷状態のままで、食事もできず今は点滴に加えて経鼻胃管――鼻からチューブを入れて胃に直接栄養剤を投与するという処置だ――を行っている。

 これに伴って経口投与の薬剤も経鼻胃管から入れられるようになったが、とはいえ今のところ効果は見られない。

 精神状態は横ばい。だがこの状況が続けば体の筋肉が衰えたり栄養状態が悪くなったりと、徐々に悪化していくであろうことは火を見るより明らかだった。

 そして、そのお隣になったヤナカさんについては……検査結果で身体的な異常がなかったために保護室からは出し、閉鎖病棟の個室で隔離を続けていた。

 ここで奇妙なのは、幻聴については依然として「聞こえる」と言っているものの、例の幻視については「この部屋なら大丈夫」と言っていたことだ。

 そういう意味ではヤナカさんの症状は若干ではあるが改善している……のかもしれない。もっとも、幻聴が続いているのは事実なので元々から考えれば悪化したままなのだが。


 で、ここまでが私の担当患者さんの話で――問題は、病棟全体だ。

 あの日から、どういうわけか安定していた他の患者さんたちの中からも次々と、不調を訴える者が増えてきたのだ。

 ……もちろん、病気である以上は、特に精神の病気という性質上、色々なことをきっかけに安定していた患者さんが崩れることはある。

 だがそれでも、たった数日の間に八人もの安定期の患者さんが――しかも皆同様の症状を訴え始めたのだ。

 ヤナカさんと同じ幻聴、幻覚。つまりは「ぶつぶつと呟く声」に「根が張っているような幻覚」……というものである。


――。

「いやぁ、最近なんだかおかしいですねぇ」

 週一回、昼過ぎに開催される医師カンファの場で、そうぼやいたのは院長先生だった。

 会議室の机の上で腕を組んで、院長先生はいつもの笑顔のまま、いまひとつ困っているのかどうか分からない様子で続ける。

「私の患者さんもそうですが、落ち着いてた患者さんが急に慌ただしくなっていて――当直帯も連日、いつになく記載が多くなっているようですね」

 そんな院長先生の呟きに、頷きながら答えたのは副院長の女医、守山先生だった。

「あたしの患者さんも、今日やっぱり他の人とおんなじようなこと言い出しててびっくりしちゃいましたよ。元々精神病性の症状なんて何もない、鬱で休養入院してただけのおばちゃんだったのに」

「同じようなことって言うと、やっぱり例の?」

 鏑木先生の問いに、頷く守山先生。

「『根っこが壁に張っている』……ってやつ。今までそんなこと一度だって言ったことないのに」

「この数日で調子悪くなった人、皆ですよね。何なんでしょう」

 呟く私に、守山先生はにやりと笑って返す。

「ひょっとして、幻覚症状じゃないんじゃない? 実際にどこかで……例えばラジオとかが流れてたりして」

「……守山先生、冗談もほどほどに。そんなもの、病棟で聞いたことがある方はいますか?」

 肩をすくめながらそう言って院長先生が一同を見回すが、皆一様に首を横に振る。

 そんな中で、続けて口を開いたのは鏑木先生だった。

「実際聞こえないとしても……元々の疾患も違う患者さんたちが、全員同じような症状を出してるのは何か原因がありそうなもんですがね」

「感染症とか?」

 守山先生の言葉に、院長先生が珍しく渋い顔をする。

「やめてください、守山先生。このご時世に縁起でもない」

「でも入院患者さんの容態がいきなり一斉に変化する――なんて、考えられるとしたら後はそのくらいじゃないですか?」

 あっけらかんと言ってのける守山先生。とにかくオブラートに包まず率直にものを言うタイプのおばちゃん先生なのだが、それゆえに患者さんからの受けは良かったりもする。

 もっとも、院長先生とはそのせいで時に衝突することもあるのだが。

 とはいえ守山先生の言葉に、院長先生も思うところ自体はあるらしく小さくため息をつく。

「とはいえね、感染症を示唆するような症状はないでしょう。確か天川先生の患者さん、色々検査を入れてましたよね。いかがでしたか」

 いきなり話を振られて少し驚いたが、私は慌ててその問いに返す。

「ヤナカさんは画像的にも血液データ的にも、少なくとも目立って入院時からの変化はないです。発熱とかもありませんし」

「そうですか、ありがとうございます。うんうん、ちゃんと細密に検査されていて素晴らしいことですね」

 つい数日前には「余分な検査をするな」と釘を差されたような気もしたが、そこは呑み込んでおくことにした。

 守山先生を見ると、別に彼女もそこまで感染症説には固執していないらしく、「そっか」と頷くと顎に手を当て思案する。

「だとすりゃ、あとの原因は……何か病棟で大きな環境の変化とか、あったっけ」

「環境の変化……最初にヤナカさんの件があったのが、俺の当直の時だったから――」

 そう呟く鏑木先生に、院長先生が「あぁ」と声を上げた。

「たしかその日は、天川先生が新規入院を一人入れていましたね」

「犬山さんですか? ええ、まあ……」

 一応頷くが、とはいえそのことに何か意味があるとは到底思えなかった。だが院長先生はさらに質問を続けてくる。

「その患者さんの症状は? 診断はどう考えているんですか?」

「ええと、元々地下アイドルやってた若い女の子で、最近になって急に『怖い、怖い』って言い出すようになって落ち着かなくなって……それでマネージャーさんに連れられて受診しました。今は昏迷状態が続いているんですが、一応は気分障害圏で考えています」

 私の大雑把なプレゼンテーションを聞いて、守山先生が「ふーん」と何か思いついたように口を開く。

「その子も、ちょっと似てるわね。急に何かを怖がるようになったんでしょ」

「ええ、まあ……」

「また感染症説ですか、守山先生? 恐怖心の高まりなんて、精神症状では珍しくもないことです」

「分かってますよ院長先生。言ってみただけですって」

 手を振りながら苦笑しつつ、守山先生は「でも」と続けた。

「感染症は置いといて……考えられる原因って言ったらもう、だいたい出尽くしちゃいましたよね」

「どれも決め手には欠けますがね」

「いっそお祓いでもしてみますか。神社さんとかに頼んで」

 茶化すように言う守山先生に、院長先生は嫌そうな顔をして「冗談じゃない」と珍しく声を荒らげた。

「我々は精神科医ですよ。呪いだとか、霊だとか――そういったものはどれも精神病に関連する症状の一環に過ぎないと考えるべきでしょう」

「あーはいはい、ごめんなさい。そんなに怒んないでくださいよ」

 何やら逆鱗に触れてしまったらしく、慌てて守山先生はそう言って院長先生をなだめる。

 院長先生の方も少し冷静になって咳払いをした後、「とにかく」と仕切り直すように続けた。

「あくまで我々が相手にしているものは、そんな非科学的なものではなく病気です。いつも通り、安全を第一にやっていきましょう。……ああ、それとなるべく行動制限に関しては踏みとどまるようにしてくださいね」

「この状況でですか? 症状出た患者さん、揃いも揃ってけっこう危険な行動してますよ」

 思わず声を上げた鏑木先生に、「それでもです」と院長先生。

「現在病棟内の入院患者数五十二に対して、隔離人数が十二、身体拘束が六……これは少々多すぎます。監査も近いのでこれでは色々と言われかねません。注意してください」

「注意、ですか……」

 何か言いたげな顔をしつつも呑み込む鏑木先生。それを一瞥しつつ、院長先生は両手を打ち鳴らして告げる。

「では、そういうことで。引き続きの診療のほど、宜しくお願いしますよ」

 そう言って院長先生が会議室を出ていくと、他の医師たちも少し遅れて退出していく。

 残ったのは私と、鏑木先生の二人だった。

「……やれやれ、こりゃあ大変なことになるなぁ」

 疲れたように呟く鏑木先生に、私も苦笑を浮かべながら頷く。

「これ以上増えないといいんですけどね」

「だな。そもそも今の状況だって、隔離に使う個室が足りてないし。……そのせいで新規入院も受けづらくなってるから、院長先生もピリピリしてんだろうけど」

 新規で入院を取るとなると、どうしても入院当初の段階では隔離や拘束を要することも多いため個室や保護室が必要となってくる。

 だが今の病棟の状況だと、悪化した患者さんたちが病棟内の個室や保護室をすべて埋めてしまっているため――症状の比較的軽い患者さんしか受け入れられないのが現状なのだ。

 とはいえそれを加味しても、院長先生の不機嫌さはなかなかのものだった。

「なんだか今日は普段より、守山先生とのバトルが激しかったですね……」

「お祓いとか言ったのが良くなかったんだろうな。前の院長先生がけっこうスピリチュアルなタイプで、そういうの桜野先生は大嫌いだからさ」

「そうだったんですね……」

 前の院長先生のことは知らなかったが、少し意外だった。

 院長先生ほどではないにせよ、精神科医というものはオカルトだとか心霊とか、そういったものに対しては否定的な見方をしがちだ。

 かつて犬神憑きなんて言われたものは解離症状の一種だろうし、「霊感がある」という人の発言もいわゆる統合失調症の前駆状態ではないかと勘ぐってしまう。

 そういう視点を持っていなければ、見逃してはならない「病気」の証拠をそういったあいまいなものの中に投げ捨ててしまうかもしれないからだ。

「ちょうど天川先生が来るより少し前だったかな。前の院長先生が亡くなって、あの人が院長になって一番最初にしたこと――なんだと思う?」

「なんなんですか?」

「前院長先生が病院の敷地の端に置いてた小さな鳥居があるんだけどな、それを撤去しちまったんだ。『患者に悪い影響を与える』って言ってさ」

「それは……激しいですね」

 経営についてなど、時折厳しいことを言う面はあるものの、院長先生は基本的にはあの通り温厚な人間だ。そんなことをするというのはいささか意外だった。


 ……と、そんな無駄話をしていると。不意に私のPHSに着信が入る。番号は、病棟からだ。

 鏑木先生に目配せをすると、「大丈夫だ」とジェスチャーで返ってきた。私は会話を中断し、電話に出る。

「天川です。どうしました?」

『あ、天川先生。今会議中ですか?』

 どうやら相手は病棟の看護師のようだった。

「もう終わりましたので大丈夫です、何か急ぎの用ですか?」

 さっとイヤな予感が頭をよぎる。また誰か、悪化してしまったのだろうか?

 だが相手の看護師の声にそれほどの緊迫感はなく、「いえ」と軽く前置いてこう続けた。

『先生の患者さんのクトウさんなんですけどね、今日お風呂の時見たら、足のところに変な皮疹みたいなのがあって。全然急ぎじゃないので、病棟来たら診てあげていただけるとありがたいです』

 その内容を聞いて、私はほっと胸を撫で下ろす。その程度なら、お安い御用だった。

「分かりました。今から行きますね」

『ありがとうございます、お待ちしてます』

 通話を終了すると、鏑木先生が腕を組みながら「どした」と問うてきた。

「患者さんにちょっと皮疹が出たっていうだけでした」

「そうかい。また一人増えるのかと思って俺までヒヤヒヤしたぜ」

そう言って軽く笑うと、鏑木先生は肩を軽く揉みながらゆっくりと席を立ち、

「じゃ、院長先生に怒られんように、我々も午後の勤労に励むとしようかね」

冗談めかしてそう言いながら、会議室を出ていく。

その後をついて、私も病棟へと向かうことにした。

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