■5

 翌日。出勤した私が出会ったのは、目の下にひどいクマを作っていた鏑木先生だった。

「おはよう、天川先生」

「おはようございます……どうしたんですか、その顔」

「昨日の夜は色々と激しくてなぁ」

 冗談めかして笑うが、眠れていないのだろう。いつもよりも若干元気がない。

「細かいことは当直日誌とカルテを見てもらうとして――天川先生。いい話と悪い話、どっちから聞きたい?」

 その発言からいくと、どうやら彼の睡眠不足の原因は私の患者さんのようだった。

 申し訳無さを感じつつ、私は少し逡巡した後こう返す。

「じゃあ、いい方から……」

「犬山さんな、昨晩は静かだったよ。……とはいえ改善したってわけじゃなくて、単にまた昏迷状態に戻っただけって感じだけどな」

「そうですか……」

 いい話の段階ですでにあまり気持ちが明るくなるような内容ではなかった。胃が重たくなるのを感じつつ、私は覚悟を固めてさらに問う。

「それじゃあ、悪い話というのは……」

「天川先生のヤナカさん。昨晩は大荒れで、急遽保護室に入ってもらった」

「……ヤナカさんが?」

 鏑木先生の言葉を、私はしばし受け止めきれずにいた。

 ヤナカさんが急性期だったのはもうひと月以上は前のこと。今では離脱症状の起こりうる時期も抜けて、すっかり落ち着いていたはずなのだ。

 家族の同意による医療保護入院の形態は維持していたものの、最近は大部屋にも慣れてきて、院外外出だって許可を出していた。退院の相談だってそろそろしようとおもっていたくらいだ。

 それが……よりにもよって保護室?

「何があったんですか」

「いやな、真夜中に急に閉鎖のホールで暴れ出してな……椅子持って病棟のドアぶっ叩き始めて、あのままじゃ物損か怪我人が出かねなかったんで、とりあえず一旦落ち着いてもらえるように隔離させてもらった。今朝はまだ見に行ってないが……普段見てる限り、あの人はあんなことする人じゃねえからな。もし落ち着いてたら解除してあげてくれ」

「そうですか……分かりました、ありがとうございます」

 深々と頭を下げる私に、「いいって」と笑う鏑木先生。

 とはいえやはり、自分の患者さんが予想外の行動に出てしまったというのは自分の治療が至らなかったがゆえ。

 どんどん落ち込んでいく私の顔を見て、鏑木先生は肩をすくめた。

「おいおい、精神科医がそんな真っ青になってちゃしょうがないぜ」

「……すみません。本当に」

「だから気にするなって。精神科にいりゃこんなこと、しょっちゅうなんだ。俺の患者だって当直帯で何度も君に世話になってるし、お互い様さ」

 あっけらかんとそう告げる鏑木先生。その温かい笑顔に、私は少しだけ心が落ち着いてくるのを感じて「はい」と頷いた。

「ま、この俺のおかげで結果的には大事なく済んだってことで良しとしようぜ」

「はい。……お疲れ様です、本当に」

「おうとも。当直手当分の仕事はしたし、今日はさっさと帰って美味いメシでも食うとするさ」

 じゃ、頑張れよ――と最後に言って、鏑木先生は医局内の給湯室へと向かっていく。

 その背中を見送った後、私は自分のブースへ向かうと白衣に着替え、それから早速デスクの電子カルテを立ち上げる。

 まず探したのは、昨晩のヤナカさんに関する記載。記録の時間は、午前二時頃のことだった。

 最近はずっと陽気な様子であったヤナカさんが、昨晩はひどく不安そうな様子で夜中にナースステーションの窓口までやってきたのだという。

 そこで彼が語ったのは、「声が響く」という旨の内容。看護師が話を聞いて頓服の薬を提案するとヤナカさんも内服を希望、看護師がその準備をしていた矢先――いきなりホールで大絶叫して、椅子を抱えて出入り口の扉まで走っていった。

「……『追いかけてくる』?」

 記載によれば、彼はそんなことを言いながら半狂乱で扉を叩き続けたとある。

 幻聴、幻視――それらはアルコール離脱症状としては高頻度で見られるもの。だが、ヤナカさんはもう一ヶ月以上はアルコールを摂取していない。

 病棟の出入りの際にはしっかりアルコールのチェックを行っているから、勝手に買ってきてしまうことこそ何度かあれど、実際に呑んではいないと断言できる。

 なら……この症状は一体、何なのか。

「……考えてても、埒が明かないか」

 呟くと、私は急いで席を立ち、病棟へと向かうことにした。


――。

 ヤナカさんが入っている保護室は、犬山さんの隣室だった。

 通りがかりに確認すると、犬山さんは昨日と同様、目をじっと見開いたままベッドに横たわっている。ひどく静かな様子。

 だが一方で……ヤナカさんの部屋はというと、扉を開ける前からでも分かるくらいの大絶叫が中から響いていた。

 言葉としてまとまっていない、もはや音の塊とでも言うべき叫び。

 それに若干気圧されながらも、私は扉をノックして鍵を開ける。

「ヤナカさん、おはようございます」

 すると――私が部屋に入った瞬間、ヤナカさんはぴたりと叫ぶのを止めて私をじっと見つめていた。

「あぁ、先生……」

 ……ひどい顔だった。ここ最近の陽気なヤナカさんと同一人物とは思えないくらいに、一晩で老け込んでしまっている。

 一睡もしていないのか目は血走っていて、唇はわなわなと震えていて。ひどくなにかに怯えているような……そんな様子に思えた。

「すんません、先生。俺……オトギ先生にえらい迷惑かけちまって」

「大丈夫ですよ、鏑木先生は全然気にしてなかったですから。それよりどうしたんですか、昨日は」

 こうして話している分には、ちゃんと会話は通じている。だからこそ、なおさらあのカルテの内容が不思議だった。

 そんな私の疑念に、彼自身もまた困り果てた様子で首を横に振る。

「わかんねえんだ。昨日の夜くらいからいきなり、耳鳴りってか変な……声みたいなのが部屋にいると聞こえてきて。最初は隣の部屋の患者さんがラジオでもつけてんのかと思ったけど、違うみたいで――」

「声、ですか? それは……どういう声なんです?」

 幻聴は、病気によってその内容や性質が変わってくることがある。だからこそ、それを聞き取ることが病状の理解に繋がるかもしれない。

 だが、ヤナカさんはやはり首を横に振るばかりだった。

「何言ってるのかはさっぱりだけど、なんかずっと『ねぎり』だかなんだか、そんな感じのことをぶつぶつ言ってるのが聞こえて気味が悪くて……聞いてるだけで怖くて怖くてたまらなくてよぉ。しかも――そのうちに変なものまで見えてきて」

「変なもの……小さな動物とか、虫みたいなものですか?」

 アルコール離脱による幻視では、小動物のような幻視の割合が比較的多いとも言う。

 だが――ヤナカさんの答えはやはり否定。

「先生。俺ぁ誓って呑んじゃいません。信じてくださいよぉ」

 彼自身、今までに何度も離脱症状を経験しているからだろう。私の質問の意図を察していたようだった。

 すがるような目で私を見るヤナカさんに、私は大きく頷く。

「大丈夫。毎回ヤナカさんの外出の時は呼気チェックしてますから、呑んでないのは分かってます。でも――だからこそ、ちゃんと確認しておきたいんです」

 実際、アルコールによる離脱症状の線は薄いと考えていた。代わりに思いつくのは、脳の器質的な病気。

 精神症状が急激に悪化した時、得てしてその裏には体そのものの病気が隠れている場合があるのだ。

「ヤナカさん。体の方に何か異常がないか調べるために、これからいくつか検査をしようと思います。よろしいですか?」

「ああ、ああ。そりゃあ普段もよくやってるから、全然構わねえよ。けどよ……それはいいけど、この部屋から出してくれねえかい」

「それは……」

 即答はできなかった。今はこうしていつも通りに話せているとはいえ、昨晩の状況の原因が特定できていない。

 その状況で隔離を解除して、また同じことが起こってしまわないとも限らないのだ。

「……検査の結果などを見てから、判断させてください。何事もなければ、早めに解除できればと思うので」

「そりゃあねえよ! 前の部屋もうるさかったけど、この部屋に移ったらもっとうるせえんだ……」

「うるさい……その、『声』がってことですか?」

「そうだよ! 分かるだろ、そのくらい……!」

 不眠もあってか、苛立ちが押さえきれなくなっている様子のヤナカさん。声を荒らげて険しい表情を浮かべながら、彼はさらに、壁を指差して「それに」と続ける。

「なんなんだよ、この部屋……こんな汚え部屋にいたら、それだけでおかしくなっちまうよ!」

「汚い……ですか?」

 ヤナカさんの言葉に、私は思わず首を傾げる。この保護室はしばらく誰も入っていなかったから、掃除されて綺麗な状態のままだ。

 けれど、ヤナカさんは指をぶるぶる震わせながら「見ろよ!」と声を上げ、

「壁も、天井も……どこもかしこも、根っこみてぇなのが這いずり回ってて……気持ちわりい!」

 何もない、真っ白な壁を指してそんなことを言うのだ。

「……根っこ?」

 根っこ。木の根? それとも、「猫」のことだろうか? ともあれそれが彼が見ている幻覚の正体らしい。

 当然、私の目には何も見えない。だが否定することはせず私は「そうですか」とだけ頷いて、怒りの形相を浮かべつつあるヤナカさんから距離を取る。

「……また後で、検査で呼ばれると思います。それ次第で、お部屋の移動は考えますから」

「あぁ、あぁ。絶対だぞ、絶対だからな、先生!」

 もちろん、状況次第ではそうならない可能性はある。なので肯定も否定も控えて、私はただ「失礼しました」とだけ言い残して保護室の扉を閉めた。

 すると――ちょうど保護室の廊下にいた田井中さんが、私に「先生」と声をかけてきた。

「どうでした、ヤナカさん」

「うーん、やっぱり落ち着かないみたいです。部屋が気になるみたいで」

「まあ、開放度上げてた方がいきなり保護室だと……そうですよねぇ」

「そういう意味でも、ないっぽいんですけどね」

 そんな私のぼやきに田井中さんは不思議そうな顔をして、けれど特に追及はせずに話を続けた。

「あの調子だと、ヤナカさんはまだ保護室ですか? 先生が来るまで、だいぶ大声出てましたし」

「そうですね……ただ、この部屋だとかえって変な刺激になってしまうかもしれないので、検査をしてみて体の異常がなければ閉鎖病棟の個室に移してあげたいなぁと」

「検査?」

 一足飛びに話してしまっていたことに気付いて、私は「ああ」と付け加える。

「器質の精査をしておいたほうがいいかなって。昨日急にですし、何かしら体の病気で精神症状が出てたら大変なので。とりあえず、頭のCTと採血を」

「分かりました。じゃあオーダー出しておいてくださいね」

 そう頷いてナースステーションへ戻っていく田井中さん。私も一緒にナースステーションに向かうと、電子カルテ端末を開いてオーダーの入力を始める。

 すると――不意に私の背後から、投げかけられる声があった。

「お忙しそうですね、天川先生」

「わっ」

 後ろからカルテ画面を覗き込んでいたのは落ち着いた、上品そうな老齢の白衣の男性。

 この病院の現在の院長――桜野善吉先生であった。

 にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべる彼に、私は小さく会釈を返す。

「おはようございます、桜野先生」

「ええ、おはようございます」

 うんうん、と軽く頷きながらそう返すと、院長先生は改めて私のカルテ画面を指差しながら呟いた。

「先生の患者さん、昨晩は大変だったようで。どうされたんですか?」

「それが……安定していたアルコール依存症の患者さんなんですけど、急に幻覚症状が出てしまったみたいで。なのでしっかり体の検査を取っておこうかなと……」

「ははぁ、それで検査項目を色々と入れてらっしゃったわけですね」

 笑顔だが、微妙に目が笑っていないように見えたのは気のせいではないだろう。

 ぽん、と私の肩を軽く叩くと、院長先生は笑顔のままこう続ける。

「検査はけっこうなことですが、あんまり余分な項目まで取らないでくださいね。保険で収まらないと病院の経営に響いてしまうので」

「は、はい……」

 どうやら言いたかったのはそれだけらしく、院長先生は「では」と告げて離れていく。

 ……悪い人では断じてないのだが、やはり院長ともなると経営にも気を遣うらしく、たまにあんな調子で釘を差してくるのだった。

 微妙な心境でその背中を見つめていると、院長先生は田井中さんに用事があったらしく、何やら話している。

 聞いてみると――どうやら空床の相談のようだった。

「師長さん、今個室か保護室の空きはありますかね?」

「保護室はちょうど昨日のヤナカさんで埋まっちゃいましたけど、どうしました先生?」

「いえね、天川先生の患者さんにあてられたのか、ちょっと私の患者さんも調子が悪くて。大部屋のままだと難しそうなもので、できれば個室に移動できると良いのですが」

 そんな院長先生の言葉を小耳に挟みながら、私はカルテでその患者さんについて確認する。

 すると――どうやらその人はヤナカさんがいた大部屋にいるようだった。

 ……同室の患者さんに変化があれば、それが他の患者さんに影響するということは珍しいことではない。精神の病というのは、そういうものだ。

 けれど――記録を追っている限りだと院長先生の患者さんも、これまでずっと安定していた人のようだった。

 こういうことも、あるものなのか。若干の腑に落ちなさを感じつつも、私は結局それを単なる一過性のものとして考えることにした。

 だが……その目論見の甘さを、私はすぐに痛感することになった。

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