■4


再び病棟にとんぼ返りして、私が足を運んだ先は204と書かれた保護室――今日の午前に入院した犬山さんの病室だった。

 二重扉の小窓から、中を観察。ベッドの上で眠るわけでもなくじっと体育座りで座り込んでいるのが見えた。

 ノックをしつつ、鍵を開けて中へと入る。

「失礼します。天川です」

 そう声を掛けてみるが、視線はやはり合わない。虚空を見つめたまま、彼女は石のように動かず沈黙を貫いている。

 服は病衣に着替えさせてもらったらしい。それとベッド上には食事用のテーブルが渡され、昼食の盆が載っている。

 だが案の定と言うべきか、一切手を付けた様子はない。亜昏迷状態――外部からの刺激に一切反応を見せなくなってしまう、重度精神病の症状のひとつだ。

 一体どんなことがあって、これほどまでの症状を抱えるに至ったのか。

 電話で母親にもざっと本人のことを聴取したが、どうやら田舎を出て一人暮らしを始めてからは滅多に実家には顔を見せてはいないようで、ここ最近のことは母親にも分かりかねる様子。

 聞き出せたのは、とにかく学生時代は何事もなく過ごせていたらしいこと。高校を卒業して都会に出てからは分からないらしいこと――それだけだった。

 そんなプロフィールを頭の中で反芻しながら、私は目の前の犬山さんへと向き直る。

「犬山さん、お水とかは飲めそう?」

「……」

 分かってはいたが、沈黙。

昏迷状態というのは精神運動興奮が活発になりすぎた結果として起こるものと言われているが――だとすればこの静寂の裏で、彼女の精神世界では大きな嵐が今もまさに起こっている最中なのだろう。

 少しでも反応があれば、内服薬などで介入することもできるのだが――こうなってくると注射剤などを使うほかないかもしれない。

 一般的なうつ状態の範疇ならばしばらく何もせずに経過を見る、という戦法も使えるが、亜昏迷が長引けば患者さんはその間、食事も水分摂取も、用を足すことすらできなくなりかねない。

 そうなればその分だけ体も消耗する――だからこそ、こちらも早くに腹をくくる必要はあった。

 改めてベッドサイドでしゃがみ込み、私は目線を合わせながら犬山さんに告げる。

「今は気持ちが落ち着かなくて、食べたり飲んだりが難しいかもしれません。なので、暫くの間は点滴をしたり、注射でお薬を使わせて頂いたりして、サポートさせて頂きます。……また何かお話できるようになったら、看護師でも誰でも大丈夫なのでお伝えくださいね」

 視線は、合わない。だがこれは壁打ちのような作業というわけではない。

 亜昏迷状態にある人は、ただ自分の意志を外側に表出する手段を喪っているだけで、実際はちゃんと刺激を認識はしているのだ。

 だからこそ、こうして話しかけていることもきっと「聞いて」はいるはず――そう思いながら私はさらに、無言の彼女に問いかける。

「……そうだ、今日の診察の時、おっしゃってましたね。何かが来る、とか、怖い、とか。あれは――」

 もちろん答えが返ってくるとは思っていない。一応、何らかの刺激になればと思って尋ねてみただけのこと。

 だが……その瞬間、思いもよらぬ反応が返ってきた。

 大きな目を急に見開いて、彼女が眼球だけぎょろりとこちらを向いたのだ。

「……いや。こわい。こわい、こわい、こわいこわいこわいっ――」

 私の顔を見て。いや、私ではなく、私の後ろの壁を凝視して、目を血走らせながら彼女は歯をがちがちと震わせる。

「犬山さん? どうしたんです、何が――」

「いや……ネキリ、ネキリ、しないとっ」

 よく分からない言葉を叫びながら、彼女は先ほどまでが嘘のようにベッドの上で立ち上がり、私に掴みかかってきた。

 衰弱していたはずなのに、それを感じさせないほどの強い力。体格は同じくらいだが、頭の抑制が完全に外れているのだ。

 痛いほどに肩を掴まれ、床に押し倒される。そして彼女が手を伸ばしたのは、私の胸ポケットにあったボールペン。

 まずい――直感的に察知して、伸びてくる手を掴んで止める。そしてそのまま膠着状態を作りながら、精一杯の大声で叫んだ。

「誰か来てくださいっ、犬山さんの部屋っ!」

 保護室は、何かあった時のためにナースステーションと隣接している。なのでこうして大声を出すだけでも、すぐに救援を呼ぶことはできた。

「天川先生!?」

 一分もしないうちに男性看護師も含め数人のスタッフが駆けつけ、犬山さんを引き剥がす。

 ひとまず解放されて息を整えていると、駆けつけていた田井中さんが私に指示を仰いできた。

「先生、身体拘束とかしますか?」

 そう言いながら、すでに状況を予想していたのだろう。手元には身体拘束に関する患者さん向けの説明文書が用意されている。

「そうですね……行動の予測が全然つきません。何より、今の――自殺の可能性も高いかも」

 彼女はボールペンを奪い取ろうとしてきた。ひょっとしたらあのまま取られていたら、致命的な事態に発展していたかもしれないのだ。

 そのリスクと天秤にかけ、私は決断する。

「胴と両上肢で拘束の用意をお願いします。あと、点滴とフルニトラゼパムの注射の準備も」

「はい、先生」

 指示を受けて早速準備のため出ていく田井中さん。私は肩をさすりながら、職員たちに押さえつけられている犬山さんを見返す。

「やだ、やだやだやだ、くる!! 殺されるッ――」

「犬山さん。聞いてください、今から安全を確保するために、身体拘束を行います」

 そんな彼女の様子に胸が苦しくなるのを感じながら、私は精神科医としての責務を果たすため、身体拘束についての告知を始めた。


     ■


 そんなこんながあった日の、夜。

業務を終えて自宅――一人暮らしのマンションまで帰ると、私は着替えるのも忘れてソファに倒れ込んでいた。

「……今日は疲れたなぁ」

 深い息を吐き出して、私はもぞもぞと仰向けになって天井を眺める。

 このマンションに住み始めたのが初期研修医の頃だから、もうすっかり見慣れた天井である。眺めているだけでも、「家に帰ってきた」という実感とともに緊張がほぐれてくるのが感じられた。

 やはり家はいい。こうしてぐうたらしていても、PHSの着信に叩き起こされることもないのだから。

 だが――人の気配がまるでないというのも、それはそれで別種の心細さはあった。


 私の実家は、細かい事は伏せるが少々堅苦しい、いわゆる田舎の名家というやつだった。

 幼い頃からそれゆえに束縛も多く、将来は当然のように実家の家業を継ぐものとして育てられた私――しかしそんな息の詰まるような空気に耐えかねて、私は一人で生きていくための方策を子供なりに模索した。

 その結果として選んだのが、医者という職業であった。

 もちろん家族にはそんな実状は伏せ、本当はそんなこと思ってもいないのに「人の役に立てる仕事がしたい」とかそんなおためごかしを言って納得させた。

 祖父は非常に渋っていたが、両親は私の言葉に感化されてくれた様子で進学を許してくれた。

 そのおかげで私はどうにか医学部へと進学しおおせ――大学入学と同時にまんまと東京に出て一人暮らしを始めたのだった。


 そんな経緯もあったがゆえに、一人の生活自体は私自身が強く望んだものであったし、もう慣れたものでもあった。

なので普段ならばまかり間違っても寂しいなんて思うこともないのだが……こう疲れていると話は別らしく、久々に人恋しさというものを感じていた。

「洗濯面倒くさい……お風呂炊きたくない……ご飯あっためるのすら面倒くさい……」

 言っても仕方のないことだが、呟かずにはいられない。とはいえ当然誰が代わりにやってくれるわけでもなく――私はげんなりしながら、しばらく寝そべり続ける。

 仕事のことを家には持ち込みたくはなかったが、それでも浮かんでしまうのは、犬山さんのことだった。

 ひとまずあの後、身体拘束を追加した上で注射剤で鎮静を行い、一旦犬山さんは眠りについた。

 だが――とはいえそれで根本的な解決になるかは分からない。

 日勤帯では結局それ以降犬山さんはこんこんと眠っていて、目を覚ます気配は微塵もなかった。

 だが薬の効果が切れて目が覚めた時、彼女の様子がどうであるかは予測がつかない。

ひょっとしたら精神運動興奮が解除されてけろっとしているかもしれないし、また亜昏迷状態に逆戻りしているかもしれない。あるいは逆に、あの時のように手がつけられないほどに興奮するかも。

……それを考えると、帰宅してしまうのも気が引けるというものだった。

 それでも今こうして家にたどり着いているのは、ひとえに今日の当直が鏑木先生だったからだ。

「ま、何があっても何とかするから安心して帰れよ。休むのも仕事のうちだ」

 居残ろうとしていた私を半ば無理矢理に帰宅させた彼の言葉を思い出す。

 いつも通りの軽い調子。だがそれでも受け入れられたのは、彼が有能な精神科医であることを私が一番よく理解していたからだ。

 ああ見えて彼は、急性期病院で精神科救急をビシバシ回してきた辣腕だという。そんな彼なら、当直帯で犬山さんに異変があっても私なんかよりもよほど上手く対応できるだろう。

 それを考えると、なんだか少しだけ気が休まってきた。

「……仕事は仕事、家は家」

 自分に言い聞かせるように呟くと、私は鉛のように重い体を起こしてテーブルの上のリモコンを取り、なんとなくテレビを点ける。

 別に何か観ようというつもりもなかったが、賑やかしが欲しかったのだ。

 ちょうど流れていたのは、夜のワイドショーだった。

 ……あいにくとあまり気持ちのいい内容ではない。どこかの病院で以前に起きたという無差別殺人事件についての特集らしく、犯罪心理学者だという人、あるいは専門家でも何でもない芸能人がしたり顔でもっともらしい持論を述べていた。

『病院でねぇ、治療中の人が誰彼構わず刃物で刺し殺して逃げ出すなんて……ありえないことですよ。管理体制が――』

 熱弁している芸能人に、周囲もそうだそうだと頷いて。それに増長してか、芸能人はさらに盛り上がった様子で喋り続ける。

『この加害者が精神的に……その、何かあったという可能性はないんですか? だとしたら、こういう人をちゃんと事前に発見して、適切に治療できていなかったという意味で日本の精神医療というのにも問題があるように思うんですが』

 当然コメンテーターの中に精神医療の実状に詳しい人間などいないようで、確かに、だとか、そういう見方もありますね、だとかと一方的な論調ばかりが続く。

 ……あまりに胸糞が悪くなってきて、私は深いため息を吐き出しながらチャンネルを変えていた。

 話題の事件は確か、去年の夏頃のものだったと記憶している。

 地元病院に搬送された精神病患者が、治療中に錯乱して医師を含む十数人を刃物で刺殺し、そのまま逃亡したという大変な事件だった。

 こういう時、精神病患者や精神科というのは得てして槍玉に上げられがちである。実際にこの事件を受けて、世間での精神病患者に対する風当たりはにわかに強まったし――それだけではなく精神科という医療それ自体に対するバッシングも増えた。

……もちろん、今の医療の状況に至らないところがあるのは事実だけれど、それでも現場で働く人たちは――患者さんの人権と社会の要請、その両方を満たすためにできる限りのことをしている……と、思う。

 けれどどうしても、私たちの仕事は二律背反なのだ。

 患者さんたちの人生を尊重しなければいけない一方で、時には周囲を、そして何より患者さん自身の利益を守るために、患者さんの行動を制限しなければいけない。

 ただ病気だけと向き合っていればいいというわけではない、どこまでいっても矛盾を孕む医療――それが私たちの役割。

 「こころの病」という、科学で100%証明しきれないものが相手だからこそ……どうしても私たちの仕事にはそういう「割り切れなさ」がつきまとう。

 精神科になってからというもの、そうした部分が私は苦手でしょうがなかった。

「……イヤになっちゃうなぁ」

 ぽつりと呟いて、雑念を振り払うように首を振る。仕事のことを考えないようにしようと思っていたのに、とんでもないもらい事故だ。

 今度こそ念入りにチャンネルを厳選し、まったく興味こそないが毒にも薬にもならなそうなグルメ系バラエティ番組を流しつつ――私は重い腰を上げて買ってきたコンビニ弁当を温める決心を固めた。

 明日も、皆が大嫌いな精神科医としての仕事が待っている。

 自分までこの仕事を嫌いにならないために、せめてコンディションくらいはしっかりと整えていかなければ。

――結果的に、この選択は正しかった。


 犬山さん……ではなく安定していたはずのアルコール依存症の患者さん、ヤナカさんが大崩れしてしまったのだ。


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