■3
柊絢沙、十七歳女性。
彼女は私の認識では――語弊を恐れずに言えば、少しばかりクセの強い患者さんだった。
「こんにちは、先生」
まだ午後の外来が始まる前の閑散とした外来待合室まで降りていくと、いつも通りに電動車椅子に座りながら、彼女は私を見つけて微笑みを浮かべた。
長い黒髪に、病的なまでの白い肌。そんな日本人形のような外見と裏腹に、身にまとっているのはレースやフリルのふんだんにあしらわれた黒のブラウスとスカートという出で立ち。
独特の存在感を放つこの人物こそが、私の外来患者の一人である柊絢沙という少女だった。
真っ黒なマニキュアをつけた手をこちらに振る彼女に、私は小さく会釈する。
「こんにちは、柊さん。お待たせしました」
「あら、そんな。時間内に来なかったのは私のほうなんだから、気にしないで頂戴」
そう言って笑う柊のそばに駆け寄ると、私は彼女の車椅子を押そうとして。けれど、
「大丈夫よ」
と言って彼女は手元のスイッチを押して車椅子を走らせ、私の名前の掲げられた診察室へと入っていく。
後から入って扉を閉め、電子カルテを起動すると柊のカルテを呼び出す。
柊絢沙、十七歳女性。前任の医師が記載していた初診時の診断は「不眠症」。
「どうですか、睡眠の調子は」
向き直って尋ねると、柊はうっすらと笑いながら小さく頷く。
「まあまあです。先生のくれる薬のおかげで、二、三時間くらいは眠れるかな」
「それはまあまあとは言いませんけどね……」
とはいえ最初に彼女が受診した頃は一睡もしていなかったらしいから、これでも大きな進歩ではある。
肩をすくめつつ、処方を確認。ベンゾジアゼピン系――まだ十六歳の少女に使うにはいささか強い睡眠導入剤だが、現状はこれに頼るほかはなかった。
「気分のほうは、いかがです? 困ったこととかはないですか」
「そんなふうにオブラートに包まないでいいのに。私と先生の仲なんだから」
「患者と医者です」
「あはは、その通りね」
けらけらと笑った後、彼女は「大丈夫よ」と呟いてみせた。
「特に何もないわ。平穏そのもの」
「……それは何よりです」
「でしょう?」
再び微笑を浮かべる柊だったが、その黒目がちな切れ長の瞳は、笑ってはいないようにも見えた。
医者として、こんなことを思うべきではないのは百も承知だけれど。
それでも――何もかもを見透かすかのようなこの目が、私はどうにも苦手だった。
全身が微妙な緊張に包まれるのを感じながら、私は半袖から伸びる彼女の腕を一瞥する。
少々細いが、肉付き自体は以前ほどは悪くはない。傷の類も、少なくとも腕には見当たらない。
そんな私の視線をすぐに察知して、柊は口の端を歪めて笑う。
「大丈夫よ。ご飯もしっかり食べてるし、ヘンなこともしてないから」
「それを聞けて安心です」
「でしょうね。そうだと思って言ったのよ」
「……ちゃんと食べてますよね?」
「もちろん」
相変わらず、疲れる……。思わずため息をつきそうになるが、患者さんの前で言語道断。
とはいえきっと頭のいい彼女のことだから、そんな私の内心などお見通しかもしれないが。
「あとは、生活で変わったこととかはありますか?」
「んー、特にないかな」
かたかたと電子カルテの記入を並行して進めていると、柊が「あ」と声を上げる。
「変わったことではないけど、学校の人が家に来たわね」
「……変わったことじゃないですか。お友達ですか? それとも先生?」
「担任だっていう人。入学式からずっと行ってないから、ピンと来ないけど」
「どんなお話を?」
先ほどまでと違って少しだけつんとした口調になりながら、柊は肩をすくめた。
「わかんない。話してたのは、黒騎さんだったから。たぶん学校にいつ出られるようになるんだとかそんな内容だと思うけど」
黒騎さん、というのは彼女の保護者の方だ。どうやら彼女自身は、教師との面談には参加してはいないらしい。
「そうですか……。早く復学できるように、何か私の方でも手伝えることがあったら言ってくださいね」
そう私が告げると、柊はきょとんとした顔で私を見つめた後――どこかあざ笑うように、小さく鼻を鳴らした。
「大丈夫よ、先生。そんなの必要ない」
「必要ないって……」
「学校なんて、別に興味ないもの。黒騎さんが無理やり入学させたようなものだし。私はこのままの方がいいわ、今のままならいつだって……来ようと思えば毎日だって、先生のところに来れるもの。先生は迷惑だろうけど」
「迷惑なんてことは……ないですよ」
多分、顔は引きつっていたと思う。
口ごもる私を見て、しかし彼女は今度は小馬鹿にするような感じではなく、楽しげに笑ってみせた。
「ふふ、先生ったら顔に出てるわよ。そんなところも、先生のいいところだと思うけどね」
「……それはどうも」
苦笑を返す私を見て、彼女はにっこりと笑うと「それじゃ」と続ける。
「先生をいじめ過ぎて本当に嫌われてもイヤだから、そろそろおしまいでいいわ。お薬は、いつもので。予約はまた一ヶ月後くらいに」
「ええ、分かりました」
「それと……今日は遅刻しちゃってごめんなさい」
そう言って、ぺこりと素直に頭を下げる柊に――私はこればっかりは素直に、こう返した。
「いえ、気にしてませんよ。顔を見られたほうが、私も安心しますから」
「なら、また来るわね。先生」
そう言った後、彼女は私の顔をじっと見て。
「先生も、体調には気をつけてね。お昼抜きは、美容に良くないわよ」
それだけ言って車椅子を動かし、診察室を退出していく。
「……なんでお昼食べてないってわかったんだろ」
そんなにやつれているだろうか、と自分のコンディションに若干の不安を覚えつつも、それ以上は気にすることなく私は彼女を見送った。
――。
そんな調子で診察を終えた後。
私はカルテの画面へと戻ると、今回の診察の記録などを簡潔にしたためた後でふと、過去の記事を見返していた。
私が柊を担当するようになったのは、前任の担当であった前の院長先生が病気で急逝し、入れ替わりのように私が一年前に入職してきた時からである。
最初のカルテ記載はおよそ三年ほど前。この病院が電子カルテを導入したのがちょうど二年ほど前のことなので、この時期の記載は紙カルテの取り込み文書のみ。
前任の院長先生の手書きの、正直ほとんど読み取れないような達筆な筆跡のそれだった。
冒頭に書き込まれている「教授から紹介」という文章を見るに、大学病院からの転院だったのだろうか。とはいえ紹介状などは取り込まれてはいない様子。
そんな年季を感じる記録の中、読み取れる範囲で知ることができるのは――どうやら彼女が当初は今よりも遥かに悪質な不眠を患っていて、一ヶ月ほどもの間一睡もせずにいたらしいこと。
そのせいで周囲への暴言や暴力、のみならず自身を傷つけるような行為までもあったらしい……ということだった。
それ以上の記録については正直読解が困難なのだが、ともあれざっと読んだ限りでは、ある時を境にそういった症状は収まり――今では残った不眠の治療だけを続けているということらしい。
付け加えるならば、彼女の足はあくまで心因性の症状であろうというのが院長先生の見立て。実際、身体科で一通り検査をしてもらっても器質的な異常は認められなかったそうだ。
家庭環境のことなども知りたいところだったが、どうやら社会福祉士が仲介せず院長先生が単独で診ていた患者さんのようで、カルテに残っている以外の情報はない。
そしてそのカルテの情報自体も、「環境調整のために現在は遠縁の親戚のもとで暮らしている」という簡単なまとめのみ。
……現状症状が安定しているから良いものの、そうでなければ正直、途方に暮れるところだった。
診断病名、「不眠症」。確かに処方の内容だけを見ればそうだけれど、それだけで片付けてよいものか。
そんなことをぼんやりと考えながらも、とはいえ昼下がりの重い頭では良い考えが浮かぶわけもなく。
一通りの記載と処方箋の確認をしてカルテを閉じると、私はそのまま診察室を後にして病棟へと戻ることにした。
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