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 それから犬山さんのご家族に電話で入院の説明をしたりして、気付けばすでにお昼休みも終わってしまっていた。

お昼ごはんを食べそこねた空きっ腹を抱えながらも、私は入院患者さんたちの診察のため病棟へ上がる。

 新築されて近代的な外来棟から一転して、いまだに木造部分も残って時代に取り残されたような古めかしい内装の入院病棟。

 都内某所、北葦原精神保健病院――戦前から続く由緒正しい精神科単科病院。ここが今現在の私の職場である。

 入院病棟の外観こそこんなだが、内部の設備などはちゃんと時代に合わせてバージョンアップされており、カルテも電子カルテ。

 大学病院の関連病院であることもあって、定期的に私や鏑木先生のように大学の医局からの医師の異動もあり――私みたいな若造が言うのも変な話だけれど、病院としての血の巡りは悪くないと思う。

「お疲れさまです、田井中さん」

「ああ、お疲れさまです、先生」

 ナースステーションに入り、そこで書き物をしていた恰幅の良い女性看護師――看護師長の田井中さんに声をかける。

「私の患者さん、何か変わったことはありますか?」

「ええと――大丈夫です。皆さんお元気ですよ」

 こうやって看護師に患者さんの様子を尋ねてから診察に向かうのが、私の日課だ。看護師たちはいつも患者さんたちと密接に過ごしている分、医師よりも細かな変化に気付いてくれることも多いから。

「ああそうだ、206号室のヤナカさんがコンビニでお酒買ってきてたから没収してます。先生からも言っておいてくださいな」

「んもう、ヤナカさんはー」

 ヤナカさんというのは、アルコール依存症で入院中のおじさんだ。来た時は離脱症状で「壁中におできができてる」とか強めの幻覚が見えていたりもしたが、今ではそれも収まって、ただの調子のいいおじさんと化している。……飲酒欲求は依然としてあるから、こうして外出させるとすぐにお酒を買ってきてしまうのは玉に瑕だけど。

「207号室のムロノヤマさんは、幻聴で音楽が聞こえるとは言っていますけどそのくらいで元気そうです。214号室のジョーさんの方は相変わらず『トレーニングを強化しないと』って言ってはいますけど、前みたいに壁殴ったりはしていないですね」

 ムロノヤマさんもジョーさんも、どちらも統合失調症で入院している患者さんだ。

 ムロノヤマさんは元ドッグトレーナーのおじさんで、幻聴の悪化から自殺しそうになって入院したけど今はお薬のおかげでだいぶ改善。そろそろ退院も考えて、日程調整中。

 ジョーさんは元々路上生活者で、自分のことをボクシング漫画の主人公だと思っているらしく「減量」と称する拒食で倒れて入院してきた。

 入院後もトレーニングと言って部屋の壁を叩いたり、看護師を試合相手だと思って殴りかかろうとしたりと大変で、今はようやく保護室を出たものの個室で隔離を続けている。

 もう少し妄想を改善してあげられるといいのだけれど――なかなかそうもいかないのが、精神科医療というものでもある。

「あとは……209号室のクトウさんも先生の患者さんでしたよね」

「ええ。何かありました?」

 こういう時、嫌な想像をしてしまうのが職業病だ。しかし田井中さんはニコニコ笑いながら「いえいえ」と首を横に振る。

「ご飯もぜんぶ食べて、元気そのものです。今日もデイルームで作業療法に参加されてますよ」

「それは何より」

 クトウさんは、認知症で入院中の御年九十歳になるおばあちゃん。

 周辺症状の影響で同居のご家族に対して暴言を吐いてしまうようになったり、夜中に家から出ていって徘徊したり――そんなことが続いたため、ご家庭では本人の安全を守れないということになり施設への入所を目標として入院した。

 入院してからも最初の頃は環境の変化もあって興奮が著しかったが……内服薬の調整で今では夜もぐっすり眠れるようになり、物忘れ自体は多いものの病棟内で落ち着いて過ごせるようになっていた。

 

 そんな調子で一通りの入院患者さんの報告を終えた後、田井中さんが「それで」と言葉を続けた。

「今日の新入院の人ですけど……病室に入ったら、少し落ち着いたみたいです。それでもずっと『怖い』って言ってますけど」

「うーん、分かりました。お薬はちょっと考えて処方入力しておくので、お願いします」

「はーい」

 そんなやり取りをしてナースステーションを出ると、ちょうどヤナカさんが歩いていた。

 ほつれ気味のグリーンのセーターを着た禿頭のおじさん。こちらを見るとヤナカさんは「ああ、先生」と手を振ってくれる。

「そろそろ呑んじゃダメかいね?」

「ダメです。何のために入院してると思ってるんですか。『ちょっと』で呑み始めるとまた止まらなくなって、また倒れちゃいますよ」

「うーん、そりゃあ勘弁願いたいがねえ」

 がはは、と愛嬌のある笑顔を浮かべるヤナカさんに別れを告げて、次はムロノヤマさんの病室を訪れる。

「ああ、先生……どうも」

 やや表情の乏しい顔で小さく頭を下げる、メガネをかけた白髪交じりのおじさん。年齢はまだ五十代だったはずだが、シワや髪の毛の印象もあって実年齢よりも老けて見える。

「調子はいかがですか」

「まあまあです。聞こえる方も、たまに音楽とか、甲高いぴーん、って音が聞こえてくるくらいで…… 前みたいにあれをしろとかそういうのはないですから」

「良かったです。夜も眠れてますか?」

「ええ、まあまあ。ただこの辺りは夜は野犬の鳴き声がありますからね……時々起こされてしまうことはありますが」

 この病院の立地は一応体裁の上では「都内」ではあるものの、北部の県境付近に位置しており、一般的にイメージされる「都内」と比べるとのどかな地域にある。

 そのため周辺は山や林に囲まれており、ムロノヤマさんが言うように野犬などもたまに見かけたりもする。

「それで寝不足になっちゃうようでしたら、耳栓とか試してみるのもいいかもしれませんね」

「ああ、そこまでではないので大丈夫です。この辺は地元ですし、実家でも犬は飼ってますから……遠吠えは慣れっこですよ」

 ぎこちない笑顔で頷くムロノヤマさん。本人も言う通り、どうやら調子は良さそうだ。

 今は家族と今後の調整中だが、この様子なら目論見通り近いうちに退院できるだろう。

 続けて私が向かったのは、ナースステーションからは中庭を挟んで対岸にある作業療法室。

 そこでは、何人かのお年寄りの患者さんたちが作業療法士さんと一緒に編み物をしていた。

 その中の一人――見るからによぼよぼの、小柄なお婆ちゃんに私は声を掛ける。

「クトウさん、おはようございます」

「あぁ……あぁ、先生。おはようさんね」

 にこにこと機嫌よく返事をしてくれた彼女が、クトウさん。認知症で入院中のお婆ちゃんだ。

「作業中にすみません。夜は眠れてますか?」

「ええ、ええ。そうねぇ」

「朝ごはんも、食べられました?」

「ええ、ええ、うん」

 曖昧な笑みを浮かべながらうんうんと頷くクトウさん。元々認知機能はかなり低下していたようなので、自宅でも暴れ出す前はこんな感じだったとのことだ。

 とはいえまあ、看護記録でその辺りは確認できているのでよしとして、私はクトウさんの手元を見る。

 他の患者さんたちが思い思いに簡単なビーズ工作などをやっている中、彼女だけは意外にも、糸で何かを編んでいるようだった。

 年齢を感じさせない、かなり器用な手の動き。真っ赤な糸同士を撚り合わせて編んでいるそれは、数十センチほどもある組紐のようだった。

「何を作ってるんですか?」

「おくさまひも、さねぇ」

「……おくさまひも?」

 聞いたことのない言葉だった。確か彼女の生まれは東北の方だと聞いているから、何かしらの方言なのかもしれない。

「お上手ですね。すごいです」

 素直にそう称賛すると、クトウさんはにこにこしながら「そうさねぇ」と頷いていた。

 以前はちょっとしたことでも大声を出していたけれど、今では全然そんな気配はなく、こうして落ち着いて作業療法にも参加できている。

 この調子なら、おそらく今後施設に入所するにしても受け入れは良好だろう。

 そんなことを考えながら私は立ち上がり、クトウさんに別れを告げた。

「それじゃあ、クトウさん。また」

「ええ、ええ。じゃあねぇ」


 そうしてクトウさんの回診を終えた後。

私が向かったのはナースステーションから少しばかり離れた214号の個室――統合失調症のジョーさんの入っている病室だった。

 扉の錠を開けて室内に入ると、ジョーさんはベッドの側でぼんやりと佇んでシャドーボクシングをしていた。

「こんにちは、ジョーさん」

「…………コーナーは曲がり角だから手前にえぐって打つべし」

 しゅっしゅっ、と口で言いながら、壁の方を向いて一心不乱に拳を突き出し続けるジョーさん。当初は夜間ずっと壁を殴って拳を血だらけにしていたりもしたので、それを考えれば多少なりとも改善した……とも言えるかもしれない。

 とはいえ油断していたずらに刺激を与えては、ジョーさん自身の不利益を生むことになりかねない。扉のところで立ち止まって、私はもう一度声をかけた。

「ジョーさん、昨日は眠れましたか」

「……コーチが、寝てる場合じゃないだろって」

「それで、寝なかった?」

 私が重ねて問うと、ジョーさんは拳を動かしながら小さく首を横に振った。

 どうやら、多少は眠れたということらしい。夜勤の記録でも昨晩は床に倒れるようにして寝ていたということだったから、多少は薬が効いてくれているようだ。

 ……もっとも、床で眠るのはそれはそれで困るので、続くようならベッドではなく布団に取り替えてもらった方がいいかもしれないが。

 そんなことを考えつつ、「それじゃあ、お大事に」と告げて扉を閉めようとして。

 そんな折、ジョーさんが不意に拳を止めて私の方にぐるりと首を向けた。

 ぎょろっとした大きな目がまっすぐにこちらを見つめてきて、少なからず驚く私。初診時からずっと、彼はひたすら自分の世界に入り込んでいて――一度たりともこちらを見てくることなんてなかったのだ。

「ジョーさん?」

「……」

 何かを言うわけではなく、ただ黒々とした瞳でじっと私を見つめるジョーさん。

 いつにないその様子に、私は若干立ち去りがたい気持ちのままその場で立ちすくむ。

 窓の外から鳥の声がわずかに聞こえるだけの静寂の中、数秒か……あるいは数分かも分からない沈黙の時間が流れて。

 けれどその静けさを打ち破ったのは、白衣のポケットからなった着信音だった。

 院内用のPHS。表示を見ると、どうやら外来かららしい。

 とはいえ今はジョーさんの様子を見守りたかったが……しかし幸か不幸か、ジョーさんはその拍子に再びシャドーボクシングに戻ってしまっていた。

「すみません、ジョーさん。お邪魔しました」

 それだけ告げると私は扉の鍵を締め、廊下でPHSに出た。

『もしもし、天川先生。外来事務です』

「ごめんなさい、天川です。どうしました?」

 午前中の外来で、何か不備でもあっただろうか。そんな心配をよぎらせるが、返ってきた答えは幸いにして違った。

『午前中に来られなかった予約の患者さんがお見えになっていまして。時間外ですけど、診て頂いてもよろしいでしょうか?』

 それを聞いてほっと胸を撫で下ろす。そんなことならお安い御用だった。

「ええ、もちろんです。お名前は?」

『ええと――柊さん。柊絢沙ひいらぎあやささんです』


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