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初診時記載

犬山早苗 25歳女性


【主訴】恐怖感、不安感


【生活歴】埼玉県出生。同胞2名中第2子。出生発達に特記事項なし。

地元高校を卒業後、アイドルを目指して東京へ転居し独居。以後、アイドルグループ「ミルキィロード」に所属し芸名「犬山まろん」としてアルバイトのかたわら地下アイドルとして活動を続けている。


【現病歴】2021年2月に地方番組のロケをして以降、「気分がよくない」と体調不良を訴えることがあった。

それでも活動や番組収録などは続けていたが、3月4日深夜にアイドル仲間の家に突然押しかけ、「怖いから泊めてほしい」と興奮気味に訴えていた。

その後も落ち着かず、「怖い、怖い」と叫びながら錯乱状態で窓から飛び降りようとしたためアイドル仲間がマネージャーに通報。付き添われて3月5日に当院を受診した。

精神科受診歴などは確認される範囲ではない。


――。

 診察室の椅子に座っているのは、一人の女性だった。

 茶髪に染められた長い髪は手入れを怠っているのか生え際が黒くなっていて、全体的にもうつむき加減で活気がない。

 顔を覗き込んでみると、もともとは可愛らしい顔立ちだったのだろうが今は目元に深いくまができており、食事もあまり取れていないのか顔色も悪く頬がこけている。

 電子カルテの画面に表示された名前を横目に、私は彼女に向かって声をかけた。


「犬山さーん、犬山早苗さん」


 返事はない。うつむいたまま手の甲をかりかりと引っ掻いていて、血が滲んでいる。

 そんな彼女に私はもう一度だけ、呼びかけてみる。

「犬山早苗さん。こんにちは、今日診察を担当させて頂きます、精神科の天川と申します」

 「天川綾てんかわあや」という私の名前と顔写真の入ったネームプレートを見せながらそう言ってみるが、やはり反応は変わらず。

 仕方がないので私は、隣に座って先ほどからしきりに不安そうに膝を揺すっているスーツ姿の中年男性へと視線を移した。

「ええと、そちらは……」

「ああ、犬山のマネージャーをしている、安藤というものです。このたびはァ……お世話になります……」

「マネージャーさんですね。ご家族の方は……」

「ああ、連絡をしているので、今日中には来るかと思います……ただ少し遠方なので、午後になってしまうと思いますが……」

「ああ、それなら大丈夫です、ありがとうございます」

 精神科には医療保護入院、という制度がある。詳細は割愛するが、要は自分で入院の意思表示ができないほどに病状が悪い患者さんを家族の同意を得て入院させることができるという、精神科に特有の法制度だ。

 問診で聴取した内容と今の彼女の状態を見ただけで、少なくともこのまま帰らせるわけにはいかない――そう直感したために、事前にちゃんと家族が来院できるか確認しておきたかったのだ。

 先ほどに問診票から転記した内容を見直しながら、私はマネージャーに質問する。

「ええと、確認なんですが……彼女がこうなったのは、昨日急にということですか?」

「気付いたのは、昨日です。ただ――ここ一週間くらいは仕事もなくて顔を合わせることもなかったので、正直いつからかは……」

「なるほど」

 この衰弱具合だと、恐らくはもう少し前から食事なども満足にとれてはいなかっただろう。

「二月ごろに体調不良を訴えていたということですけど……お仕事が忙しかったとか、そういうことはありますか?」

「いえ――むしろ逆なくらいと言いますか。もともとそんなに売れているわけではないグループでしたし、ここ最近は緊急事態宣言もあって収録の仕事も中止になったりしていて」

 マネージャーの言った内容をカルテに記載していく。流行感染症の影響で仕事量が減ったことでストレスが悪化した……という可能性は十分にあるだろう。そういったことで心を病んで受診する患者さんはこの二、三年でずいぶん増えた。

 恐らくは重度の抑うつによる、亜昏迷。昨日は飛び降りまで図ったということだから、一旦はそう考えて治療していくのがいいだろう。

 そんなふうに頭の中で診断を構築しながら、私はマネージャーに問診を続けていく。

「グループ内での人間関係とかは、どうですか」

「私が見ている限りでは、雰囲気は良いグループですのでそういうことはないかと……」

「あとは――例えば、お付き合いしている相手がいるとかは」

「ななななんてことを言うんですか! そんな相手、アイドルにいるわけないでしょう! どこかのマスコミにでも聞かれたらどうしてくれるんですか!」

「すみません。ですが診察上必要な質問なので」

 妊娠をきっかけに抑うつが急に悪化する、ということもある。そういうことを除外するためにも必要なのだ。

 とはいえ余計な詮索をしすぎて不信感を持たれてしまっても治療に差し障るので、質問は早々に切り上げて私は犬山さん本人へと向き直る。

「犬山さん。お話しを伺わせて頂いた限りだと、今の貴方は気持ちの落ち込みで何もできなくなってしまっている状態で――それだけじゃなく、自分で自分の命を絶とうとする非常に危険な状態です。なので、入院で治療をした方がいいと思いますが、いかがでしょうか」

「…………り、ぎ」

「はい?」

 私が訊き返すと同時、彼女はいきなり顔を上げてかっと目を見開くと、震える口で呟き出した。

「…………くる、こわい。こわいこわいこわいこわいこわいこわい――」

 荒い息を吐きながら急に立ち上がると、診察室から出ていこうとする犬山さんを、診察室の外に控えていた看護師たちが止める。事前に応援を集めておいて正解だった……そう思いながら、私は犬山さんに向かってなるべく優しい口調を心がけながら、こう続けた。

「犬山さんは、今はたぶんパニックになっていてどうしたらいいか分からない状態だと思います。なのでこれからご家族の同意を得て、医療保護入院という形式で入院治療を始めさせて頂きたいと思います――宜しくお願いします」

 そう告知をすると、看護師たちが車椅子に犬山を座らせて病棟へと案内する。

 それを不安そうに見送りながら、マネージャーはしばらくしてから私へと向き直って、ぽつりとこぼした。

「……あの、天川先生。さっきは本人がいたから言えなかったのですが、ひとつ、追加してお伝えしておきたいことが――」


――。

 マネージャーが頭を下げながら退室するのを見届けると、私は診察室の椅子に座り直して「ふぅ」と息を吐いた。

 すると――そんな私の背後から、声が投げかけられる。

「よう綾ちゃん、大変そうな患者さんだな」

「鏑木先生。お疲れ様です。あと綾ちゃんはやめて下さい」

 そう返す私に、白衣を着た中年医師――鏑木御伽かぶらぎおとぎはその無精髭の生えた顔にゆるい笑みを浮かべてみせた。

「おっと、すまんすまん天川先生。もう指定医だもんなぁ、すっかり一人前の精神科医だ」

「そういう問題じゃないんですけど」

 唇を尖らせながら返すが、とはいえお互い冗談みたいなものなので、別に私もそれほど怒っているわけではない。

 鏑木御伽。彼は後期研修医である私の指導医に当たる先生で、色々とよく面倒を見てもらっている恩師だ。

 全体的に常にゆるい雰囲気を漂わせていて、なんとなく周りを和ませる――彼のような人だと、この仕事には向いているだろうなぁと常々心の中では尊敬している。言うと調子に乗ってくるので言わないけど。

「……それより、隣まで声が聞こえてきたぜ。ありゃあ何だい、統合失調症シゾか?」

「重症の鬱かなぁ、と。例のウイルス感染症のせいでお仕事減ったりしていたみたいなので」

「クスリとか、そっちの可能性は?」

「陰性でした」

「なるほど。……隔離とか身体拘束はするのか?」

「隔離はせざるを得ないかと。身体拘束は……病棟での様子次第ですね」

 精神科において、自殺や他者への暴力などのリスクが高い患者さんの場合には一時的に隔離や体の拘束などの処置をとることもある。

 もちろん、これらは人権に配慮しながら行うのが鉄則であるし、やらなくて済むならばやらないのが一番なのだが――時にそうしなければ人命を守れないことがあるのもまた、事実なのだ。

 検査などのオーダーを入力する私の横でカルテ記載を覗き込みながら、鏑木先生は顎に手を当てため息を吐く。

「へぇ、アイドルさんか。可愛そうに――と。ふーん、『怖い』ねぇ……幻聴とかが聞こえてる可能性は?」

「幻聴、ですか……あ、そういえば」

 先ほどマネージャーが付け加えた話を、私はカルテに追記する。

「幻聴じゃないですけど、『見られている』って言っていたらしいです、彼女」

「見られている? 誰に」

「マネージャーさんは、本人の妄想じゃなくてストーカーとかがいるのかも……って言ってました。実際、ここ数日彼女の身辺で何度か不審な人影を見たって他のアイドルが言っていたらしくて」

 それゆえに本人の刺激にならないように、本人のいないところで伝えてくれたようだ。

 その話をすると、鏑木先生は肩をすくめて首を横に振った。

「普通の人なら注察妄想だと思うところだが……怖いねぇ、芸能人は。ああでも綾ちゃんも気をつけな、見た目だけはちんちくりんで可愛いから」

「セクハラですよ。あと綾ちゃんはやめて下さい」

「失敬失敬」

 苦笑しながら去っていくその背中を見ながら、私は小さくため息をつく。

「本当に、おじさんなんだから……」

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