■26
教授の話によれば、あのトンネルで私が消えた後、周囲を探ったところトンネルの内壁の一部が空洞化しており、この洞窟への道が埋まっていたらしい。
彼が言うところによればそこは「根」の気配が色濃く、すぐに私がその中に引きずり込まれたと分かったという。
そうしてすぐに洞窟へと足を踏み入れ、私たちの居場所を探索していたところ――出くわしたのがちょうど、あの状況だったというわけだ。
「間一髪……と言う他ないが。ともあれ間に合って良かった」
そう言いながら先を歩く教授に、私は後ろから頭を下げた。
「ありがとうございました。あのままだったら、どうなっていたか」
「……先生が意地を見せてくれたおかげだ。そうでなければ、手遅れになっていたかもしれん」
自信に満ちた彼にしては珍しい、そんな言葉をこぼしつつ――教授は犬山さんの方を一瞥する。
「そちらが、例の?」
「ええ、はい。犬山早苗さんです。犬山さん、こちらは……黒騎先生っていう、ええと」
民俗学の教授と言ったところで、なぜ民俗学の教授がこんなところにいるのかという話になるだろう。
説明に悩んでいると、教授の方が先に口を開いた。
「ゴーストバスターだ」
「ゴーストバスター……ですか?」
「ああ。君には悪い霊が取り憑いていてな。それを解決するために、天川先生から依頼を受けたのだ」
あまりにも荒唐無稽な説明であったが、教授の持つ独特の威圧感、そして何より先ほど体験した出来事が効いたらしい。
戸惑う様子を見せながらも「そうだったんですね」と頷いて、犬山さんは一応納得してくれたようだった。
「……あの、黒騎さん」
「何かな」
「黒騎さんは、私たちを助けに来てくれた……ん、ですよね」
「ああ、そうだが」
「なら、ここからの出口も分かるんですよね」
犬山さんの口にした疑問は、私も知りたいことだった。
教授はトンネルの横穴から入ってきて私たちの元まで辿り着いたのだ。ならば単純に考えれば、その逆の道筋を辿れば出られるはず。
だが――そんな私たちの期待に、教授は無慈悲にも首を横に振った。
「生憎だが、今は私にも分からん」
「今は……って、どういうことですか?」
含みのある言い方に引っかかりながらそう訊ねると、教授はやや強めにステッキを一度地面に打ち付けた後で話を続ける。
「この場所は、少々特殊な場所なのだ。恐らくはこの世であってこの世でない場所。彼岸に近く、しかし完全にあちら側とも言い切れぬ。曖昧な、ひどく掴みどころのない空間――それゆえにこの洞窟は決まった形というものを持たぬ」
「……そんな」
一気に絶望に叩き落される私と犬山さんだったが、しかし教授はというと平然とした顔で鼻を鳴らす。
「早合点するな。だからといって出られないと言ったわけではない」
「そうなんですか?」
顔を上げた私に、頷く教授。
「この場所をこのような異境たらしめているのは、『くとりぎ』だ。ならばその『くとりぎ』を祓ってしまえば――この場もまた元々の、あるべき現世の形へと戻ることだろう」
「……結局、当初の目的通りってことですね」
「そういうことだ。分かりやすいだろう」
くく、とシニカルな笑みを浮かべる教授。こんな状況だというのにこの人にはまったく恐怖とか動揺といったものはないらしい。
どっと疲れが出てため息をついていると、そんな私に教授は何食わぬ顔で続けた。
「それにしても……二人とも。よく丸腰で『奴』から逃げ続けることができたな。お狗様紐の力もここまで『奴』の近くまで来ていてはほとんど効果はないはずだが」
そんなやや驚きと称賛の入り混じった言葉に、私は「ああ」と声を上げる。
「それが……たまたまライターを拾っていて。その火のおかげで、あの『根』を怯ませることができたんです」
「ライター?」
少し意外そうな顔をする教授に、犬山さんが例のライターを見せる。
するとわずかに驚きのようなものを浮かべた後で、教授は「なるほど」と呟いた。
「これが、ここにあったのか」
「ええ、はい……そうですけど。これが、どうかしたんですか?」
訊ねる私に、教授は顎髭を撫でながらゆっくりと頷く。
「これは……犬飼俊夫の、例の病院無差別殺人事件の犯人の持ち物だ。あれの父親に昔、同じものを手土産に渡したのでな。間違いないだろう」
「……え?」
意外な言葉に私も犬山さんも揃って驚く中、教授は何やら合点がいった様子で眉間のしわを深くした。
「なるほど。なぜ神主の息子があんな事件を起こしたのかは疑問であったが……そういうことか」
「あの、教授?」
「ああ、すまない。順を追って説明しよう」
そう前置きして、教授は歩きながら話し始める。
彼が言うには――柊が熱を出して倒れるよりも少し前まで、彼は例の病院無差別殺人事件について調べていたのだそうだ。
「二十年前のこととはいえ、『くとりぎ』についての話はよく覚えていたのでな。……それを鎮めていた神社が焼け落ちたとあっては、妙なことが起こるのではないかと危惧していたのだ」
例の事件があった去年の夏頃にも一度、教授は例の神社のあった場所まで足を運んでいたという。
だがその段階では何の気配も感知できず、「くとりぎ」の復活を予見することができなかったそうだ。
「恐らくはその時にはすでに、『くとりぎ』は力を蓄えるためにこの狭間の場所に潜り込んでいたのだろう。その可能性を見落とすとは、私としたことが面目ない話だが」
珍しくそんな自省の言葉を口にしながら、教授はさらに語り続けた。
「くとりぎ」本体を発見できなかった教授がその後探したのは、問題の神社の息子――犬飼俊夫だった。
病院で医師や患者を何人も手にかけて逃亡した犬飼。彼のその凶行の原因が、「くとりぎ」にあるのではないかと踏んだわけだ。
「結論から言えば、恐らくはその通りだったのだろう。犬飼は、病院に運び込まれた時にはすでに『くとりぎ』に寄生されていた。その娘のように」
そう言って犬山さんを指しながら、教授はこうも言った。
「だが――神社を焼いたのは、彼自身の意志ゆえだった。彼は神社もろとも『くとりぎ』を焼き払おうとしたのだ。もっとも――奴の本体がそこになかったせいで、」
教授の語ったその内容は、あまりにも突飛なもので。けれど私には、腑に落ちる部分があった。
この洞窟の中で目を覚ます前――見ていた奇妙な夢の内容を、思い出したのだ。
私が夢について話すと、教授はそれを笑ったりはせずに大真面目に聞き届け、
「そうか。だとすれば……彼は君たちに、託したのかもしれんな」
そう言って、犬山さんの持つライターをじっと見つめながらこうも付け足す。
「『根切り』と、先生が見た夢では、彼はそう言ったのだな」
「ええ、はい……」
すると犬山さんもその言葉に反応して、「あっ」と声を上げた。
「それ……聞き覚えが、あります。この山にロケに来てから、ずっと聞こえてたんです。『ねきりをしないと』って」
そう言えば、入院して間もない頃の彼女もそんなことを口走っていた。
そして――クトウさんも。
だが確か、戸草先生の言っていたことによればそれは「皆殺し」を意味する方言だったはず。なんだか少し、しっくりこない。
その辺りについても教授に一通り打ち明けると、返ってきた答えはこうだった。
「恐らく、この場合の『根切り』はその意味ではなく、文字通り……『くとりぎ』の根を払い切る、そういった意味合いのことなのだろう。『くとりぎ』を祓わなければいけないと、犬飼も――そして亡くなった患者も、そう警鐘を鳴らしていたのだ」
そんな話を聞き終えたところで、犬山さんは手首に巻いたお狗様紐と、そしてライターを見つめて呟く。
「ずっと誰かが近くにいたような気がしてたんです。『ねきりしないと、ねきりしないと』って。すごく悲しそうな声がいつも聞こえていて。だけど……不思議と嫌な感じじゃなかった」
そんな犬山さんの言に、教授は静かに頷いて返した。
「ともすれば、犬飼は君を守ろうとしたのかもしれんな。君がこの山で『くとりぎ』に憑かれてしまったことを察して、彼は死してなお君を呼び、この世に引き止め続けたのだ」
おーい、おーい、と。彼は犬山さんに呼びかけ続けていた。
けれどそれは――彼女が「くとりぎさま」に呑まれ、連れ去られてしまうのを引き止めるためだった。
彼女のアイドル仲間たちが証言していた「つきまとう人影」――それはひょっとしたら彼女を「くとりぎさま」から守ろうとして付き添っていた、犬飼だったのかもしれない。
……真相はもはや分からないが。少なくともそう考えた方が、なんだか具合は良いように思われた。
犬山さんも同じ気持ちだったらしい。教授の言葉に力強く頷くと、顔を上げて正面を見つめる。
「黒騎さん。私……この人のやり遺したこと、ちゃんとやり遂げたいです」
「そうか。……そう言ってもらえれば、犬飼もきっと報われるだろう」
少しだけ優しげな口調でそう返して、教授は再び歩を進める。
代わり映えしない、洞窟の風景。だがあるところで彼は低く呟いた。
「――そろそろ気配が色濃い。用心しておけ、どこから来るか分からん」
何が、などとはいまさら訊くまでもなかった。私も犬山さんもごくりと唾を呑み込んで、教授から離れないようにじりじりと進む。
すると――不意に狭い通路が途切れて、拓けた場所に出た。
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