■25

 気を失っていたのは、どれくらいだったのだろう。

 ほんの少しだったかもしれないし、数時間くらいは経っているのかもしれない。

 それが判然としないのは――私が目覚めたその場所が、空も見えなければ窓ひとつ見えない、暗い闇の中だったからだ。


「う……」

 瞼を開けて、周囲を見回す。だが自分が今起きているのか、そもそも目を開けているのかすら、闇の中で判然としない。

 唯一分かることと言えば、むせ返るような生の土の臭いと――その中にわずかに混じった鉄錆びの香りだった。

 大学生の頃、羽目を外して飲み会で無茶な飲み方をした日の翌日みたいに頭ががんがんする。平衡感覚も曖昧で、気分が悪い。

 気を失っていた間に何か、変な夢を見たような気もするが……今はそれどころではなかった。

「……教授?」

 小声でぼそりと呼んでみるが、返事はない。嫌な気配を感じながらも、私は今度はもう少しだけ大きな声で呼ぶ。

「教授、どこですか、教授―!?」

 ……すると、その声に返ってくる声があった。

「誰、ですかぁ?」

 怯えきったような若い女性の声。距離はそう遠くないように思える。

どこかで聞き覚えがあるような。そう記憶を巡らせて――思い当たった名前がひとつ。

「……その声、犬山さん? 犬山早苗さんですか?」

「え? はい……あのぉ、誰ですか……?」

「天川です。精神科の、天川綾です!」

 そう答えると今度はかすかに、ごそごそと身じろぎするような物音が聞こえてきた。

「天川先生……!? なんで、天川先生がここに?」

「犬山さんを助けに来たんです。……と言いたいところですけど、その最中に私も迷い込んでしまったというか」

 より正確に言えば、誘拐されてきたと言った方がいっそ近いかもしれない。

 そんな不安を煽る事実は隠しつつそう告げると、暗闇の向こうでわずかに安堵の息を漏らした。

「よかったぁ……やっと人に、会えた……」

 安心感ゆえか、鼻をすすって泣きじゃくっているようだった。そんな彼女を落ち着かせてやりたくて、私は四つん這いの体勢で、手探りで音のする方へと進もうとする。

 押し固められたような土の感触。だが私のすぐ隣の辺りに、それとは違う何かが落ちていた。

 懐中電灯……ではない。四角く、手のひらに収まるサイズの固いもの。

 指先の感覚だけで調べていると、先端が小気味の良い音を立てて開くのが分かった。構造からするに――ライターのようだ。

 なんと都合のいい。そう思いながら指先で着火部を探して回す。幸い燃料も切れていなかったようで、擦過音とともに小さな明かりが生まれた。

「わっ……」

 声のする方へとその明かりを向けると、ほんの一メートルほどの距離のところに犬山さんが座っているのが見える。

 入院中ほどではないがやつれた様子で、着ているスカートとカーディガンは泥だらけ。

 だが目立った外傷はなさそうで、例の「根」が付着している気配もなかった。

 犬山さんのひとまずの無事を確認した後、今度は状況確認に移る。

 周りを照らすと――そこはどうやら洞穴のような場所だった。細長い横穴で、高さはぎりぎり私が直立できるくらいか。奥にはライターの明かりも届かない暗闇が広がっていて、けっこうな空間が広がっていることがうかがえる。

 そして……先ほどまでは気付かなかったけれど、私たちのすぐ後ろにとんでもないものが転がっていることにも気付いた。

 薄汚れているが、チェック模様の入ったシャツの袖部分。そしてそれに包まれた――黄ばんだ物体。

 正確には、すでに白骨化してしまってはいるが……それは間違いなく、人の手だった。

 思わず悲鳴を上げそうになるのをすんでのところでこらえる。犬山さんからは影になって見えないようで、彼女はそんな私の様子を見て怪訝な顔をした。

「どうしたんですか?」

「いえ、何も」

 この状況で不安を煽るようなことはしたくなかったのでそう誤魔化すと、私は話題を返る。

「それより……犬山さんは、どうしてこんなところに?」

 そんな問い掛けに、犬山さんはやや戸惑ったような顔をして首を横に振った。

「分かりません……その、退院してからのこと、よく覚えてなくて。なんだかずっと夢の中にいるみたいな変な感じがしていて――気付いたらここにいたんです」

「そうだったんですか……」

 どうやら教授の読み通り、彼女は「くとりぎさま」の支配下にあり続けていたらしい。

 退院した段階で再び彼女の体を乗っ取り、行動を始めたというわけだろう。恐らくは彼女を――自らの元へと連れてくるために。

 だが、だとしたら少し腑に落ちないことがある。

「犬山さんは……どうやって、意識を取り戻したんですか」

 今こうして話している限りでは、彼女が「くとりぎさま」に乗っ取られている雰囲気はない。だが……「くとりぎさま」があえて彼女を解放する理由もないように思う。

 私が訊ねると、犬山さんはうーんと唸った後でこう答えた。

「よく分からないんですけど、夢の中で誰かに会ったような気がして……。『おーい』って、その人はずっと私のことを呼んでいて――あ、そうだ」

 そう言って彼女は服のポケットから何かを取り出す。それはひどく汚れ、ところどころがほつれてはいるが……形からして間違いなく「お狗様紐」だった。

「気付いた時、これを握ってたんです。どうしてか、分からないんですけど」

 そんな彼女の言葉に、私はふと、自分の握るライターへと視線を落とす。

 おぼろげな夢の内容。あの夢の中でも、「誰か」がライターとお狗様紐を持っていた。

 視線だけ、ちらりと後ろにある白骨の手へと向ける。

 この物言わぬ手が、私たちにこれを預けたのだろうか?

 そんなことを思いながら――私は天井に注意しながらゆっくりと立ち上がった。

「お話は分かりました。ひとまず、ここを出ましょう。立てますか?」

「あ、はい……」

 ふらつきながらも壁に手をつきながら立ち上がる犬山さん。そんな彼女に気を配りつつ、私はポケットからスマートフォンを取り出した。

 そんな気はしていたが、通信状況は圏外。ともあれそちらに関しては元々あてになるとも思っていなかったので、ライトを点灯させて代わりにライターを畳み、ポケットにしまう。

 あまり考えたくないことだが、あの「根」がいつ襲ってくるかも分からないのだ。

ライターの火だって何かの役には立つかもしれない――なるべく温存しておきたかった。

 まっすぐに伸びる洞窟を、私たちは慎重に進み始める。

 自分たちの足音以外は、何一つ音というものがない。風の音すら聞こえないことを考えると、出口までは相当な距離があるものと思われた。

 もっとも、出口なんてものがあればの話ではあるが――と、マイナス思考に引っ張られそうになるのを無理やり軌道修正。そんな折、沈黙に耐えかねたのだろうか。犬山さんがぽつりと口を開いた。

「……あの、先生」

「はい?」

「ありがとうございます、本当に。……一人で、ずっと心細くて。もう死ぬまでここから出られないかと思った、から」

 言いながら、途中で嗚咽が混じる。無理もあるまい、あの暗闇の中でこんな場所にいたら時間の感覚すら曖昧になってくるだろう。

 そんな彼女の不安を黙って受け止めながら、私は振り返って彼女の肩を軽く叩く。

「もう大丈夫ですよ。きっとここから出られますから」

 そんな確証は、どこにもなかった。けれど自分の中で渦巻く弱気を振り払う意味でも、私はここで強がらなければいけなかった。

 そんな私の内心の葛藤は幸いにして表に出ていなかったようで、犬山さんは泣きはらした目で私を見返すと、顔をほころばせる。

 安心させる意味も込めて、そんな彼女の手を引いてあげようとして。

 けれど――その時犬山さんの顔からさあっと血の気が引いた。

「先生っ、後ろ――」

 瞬間、私の首に何かが巻き付くような感触があって。そのざらざらとしたものは一気に私の喉を締め上げようとする。

 ……「根」だ!

「っ、あっ……!?」

 苦しい。息ができない。首を絞められている状況以上にその恐怖感とパニックとが、私の呼吸を乱していく。

 スマートフォンを取り落とし、空いた手で「根」を引き剥がそうとするがびくともしない。犬山さんも果敢にも私を助けようとして「根」を掴むが、やはり同様。決して太いわけでもないのに凄まじい力だ。

 このままでは、まずい。パニックに呑まれそうになりながらも私は犬山さんに切れ切れに指示を出す。

「いぬ、やま、さんっ……ポケットの、ライター、を」

 幸い彼女はすぐ意図を理解してくれたらしい。私のズボンのポケットから先ほどのライターを取り出すと、震える手でその蓋を開け、着火する。

 ぼうっと燃え上がった弱々しい炎。彼女は少しの逡巡の後、

「……すみません、先生!」

 言いながら私の首筋、そこに巻き付いた「根」にそれを押し付けた。

 じゅっ、という音とともに焦げ臭さと、そしてわずかに火に触れた部分に熱さを感じる。

 だがそれと引き換えに、私の首を絞めていた「根」は驚いたみたいに力を緩め、私を手放していた。

「ナイスです、犬山さん……!」

 言いながら私はスマートフォンを拾い上げ、「根」が怯んでいるうちに犬山さんとともに奥へと駆け出す。

 自分たちの呼吸の音と、早いリズムの足音。だが今度はそれ以外にも……ずるずると、何かが這いずるような音が無数に後ろから聞こえてくる。

 何がどのくらい追いかけて来ているのかなんて、考えたくもなかった。

 とにかく無我夢中で逃げて、逃げて――すると不意に、私たちは拓けた場所に出る。

 今までの横穴とは打って変わって、直径十メートル程度はあろうか。円形の、広間のような空間である。

 どうやら全体の構造としてすり鉢状になっているのか、地形はやや急峻な坂になっていた。転ばないように私は慌てて足を止めると下にライトを向け――すぐにそうしたことを後悔する。

 なぜなら、そこにあったのは。

 大量の――人の、骨だったからだ。


「……何、これ……!」

 広間をくまなく照らしていくと、坂になっているその底にはいっぱいに人骨が敷き詰められている。

 何人どころではない。何十人、下手をすれば何百人分もあるのではないだろうか。

 どれもが相当に古いものなのか、中にはほとんど土のようになっているものがあるが……頭蓋骨などはよく形を留めているものもあり、間違っても野生動物などではないことは明らかだった。

 後ろから迫ってくる、「根」の這う音。前方には、大量の白骨たち。

 その状況から私は本能で理解する。この場所は……「くとりぎさま」に招かれてしまったものの墓場。あるいは食べ残しを棄てる、遺棄場なのだと。

 目の前が真っ暗になりそうになる。すり鉢の底にいる彼らは、私たちの未来だ。

 そんな絶望が体中を包んで、震えがせり上がってきて。

 けれど私は大きく首を横に振って強引にそんな恐怖を振り払うと、犬山さんの手を掴んで叫ぶ。

「犬山さん、ライターをつけっぱなしに!」

 木の根の姿をとっている通り、炎には弱いと見える。実際、犬山さんが再びライターを着火すると後ろから迫っていた「根」たちは一メートルほどの距離のところで動きを止めていた。

 鎌首をもたげ、まるで蛇のような体勢で停止する「根」たち。気味が悪いにもほどがあったが、ともあれこの好機を逃すべきではない。

 見回すと、人骨で埋まったその対岸には別の横穴があった。そこを目指して私と犬山さんは意を決して坂を降り、そこにあるものを踏みつけて歩く。

 もろくなった骨が足の下で砕ける嫌な感触。一歩踏みしめるたびに嫌悪感が駆け上がるが、今はそれどころではなかった。

 後ろにから来る気配からとにかく逃げて、逃げて――やっと対岸近くまで来て坂を上り始めたところで、背後から悲鳴が上がった。

 どうやら積み重なった骨の層の、脆い部分を踏み抜いたらしい。犬山さんがその中に沈み込むようにして倒れている。

「犬山さんっ……!」

 とっさに手を伸ばし、引き起こそうとするが足場が悪くてうまく力が入らない。

 今の拍子にライターも転がっていて、火が消えてしまっていた。そのせいであの「根」たちが……勢いを増してどんどん迫ってくる。

 不思議と、この段階になるともはや恐怖感はなかった。

「先生、逃げてぇっ!」

 犬山さんのそんな言葉も、耳に入らない。

 「根」が足元まで迫ってきて、体中を這い上がってこようとする。けれど――それも知ったことか。

 私は、彼女を助けたい。そんな使命感だけが、私を衝き動かし続けて――

 そして、その時だった。


「見事だ、天川先生」


 重々しい声とともに、響いたのはステッキが地を打つ澄んだ音。

 瞬間――私や犬山さんの腰あたりまで這い上がってきていた「根」がびくりと震えて、そのまま何かに弾かれるかのように剥がれてゆく。

 それどころか「根」はそのまま私たちが来た方の洞窟へと引っ込むと、まるで天敵に遭遇した動物みたいな怯えた動きでするすると消えてゆく。

 そんな「根」を私はしばらく呆然と見つめた後、はっと我に返って足を取られたままの犬山さんを引き上げる。

 今度は上手くいって、犬山さんは足場の固まったところを踏みしめながらライターを拾い上げていた。

 それを確認して緊張の糸が切れるとともに、私は声のした方――私たちが向かおうとしていた横穴から姿を見せたその人物を見る。

 そこに立っていたのは、ステッキを握りしめたがっしりとした体躯の老紳士。

「教授……!」

 安堵とともに呼ぶ私に、教授はわずかに笑みのようなものを浮かべながら頷いた。

「遅れて済まなかったな、先生。だが――よく無事であった」

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