■13

 ――クトウさんが急死してからは、病棟は大混乱だった。

 駆けつけた院長先生もあの状況を見るなりさすがに驚いて、すぐに警察に通報する騒ぎとなった。

 直接の状況を目撃したのは、鏑木先生と看護師の二人。

 そして保護室自体にも監視カメラが設置されていたために、彼らの証言を裏付けるものとなっていたのだが……そうでなければおよそ、二人の証言は受け入れられなかっただろう。

 というのも。

「クトウさんが急に暴れ始め、四肢が千切れても構わずに近くにいた鏑木先生に噛みついて――引き剥がそうとした看護師もろとも首の力ではね飛ばして、そのまま絶命した」

 というのが、二人が語り、監視カメラが裏付けた当時の状況だったからである。

 九十歳の老婆が、身体拘束された状況でそんな無茶苦茶な行動を取ったなんて、およそ信じられないことだ。

 けれど監視カメラの映像では確かに、鏑木先生の腕に喰らいつくクトウさんの鬼気迫る形相が記録されていた。

割って入ろうとした看護師と鏑木先生を凄まじい力で払い除けた後、四肢がちぎれた状態のまま胴体まわりの拘束ベルトから這い出し、上体を起こした姿勢で大絶叫――それを最期に、クトウさんはそのままの体勢で事切れる。

 おそらく私たちが聞いたのは、この最期の断末魔の声だったのだ。


 ともあれ、映像記録のおかげでひとまず二人の証言は受け入れられた。

 遺体は駆けつけた警察官によって検分を受け、病棟での死亡という状況ながらそのあまりの奇妙さゆえに司法解剖が提案され――けれど以外にも、ご家族がそれを希望しなかったために解剖は行われず、速やかに荼毘に付されたという。

 ご家族のこの、ある種異様なほどの「素っ気なさ」は病院に対しても同様だった。

「お世話になりました、ありがとうございます」なんて、通常の死亡退院のような落ち着いた様子でそう語り――状況を説明しようとする私たちにも「病院の落ち度じゃないのは分かってますから」とやんわりと断ったのだ。

 病棟での、隔離拘束中の急死。それは精神科の病院においては大きな意味を持つ。

 こうした事件があればそれが医原性の事故ではないかなど、厳しく追及されうるし……治療のためとはいえ他者の自由を制限せざるを得ないこの行為を、その権限を許されている以上は、それは至って当然のことでもある。

 だからこそ私はもちろん、院長先生も――再度ご家族には詳しい説明をしようとしたが、娘さんは「必要ない」の一点張りだった。

 やんわりとではあるものの、そこに感じたのは奇妙な拒絶。

 これ以上、踏み込んでくるなと――娘さんの態度からはそんな印象が感じられていた。

 何かを知っているようにも思えたが、とはいえこの状況でこちらから無理に問い詰めることなどできようもない。

 結局、最低限の事務的な手続きや荷物の引取を済ませた後、まるで何かから逃げるかのように病院との関わりを断ってしまった娘さんを――私はただ、見送ることしかできなかった。


――。

 そんなこんなで、クトウさんの死から数日が経ち。けれど私にとってはそれは一ヶ月ほどにも思える密度の日々だった。

 自分の担当する患者さんが、あんな異様な亡くなり方をして。

 私はそれを、止めることができなかった。

 そんな後悔は今もずっと、頭の中をぐるぐると回り続けている。

 そして――私だけではなく病棟、いや、病院全体も、あの一件以来明確に空気が変わっていた。

 ちょっとした与太話程度の扱いで囁かれていた「オバケ騒動」だけでなく、実際に人の命が……尋常ならざる状況の中で失われたのだ。

「お祓いでもした方がいいんじゃないか」なんて。看護師だけでなく事務や清掃のスタッフにも、そんなことを言い出す人は増えつつあった。

 けれど――


「お祓いなんて、言語道断です」

 医師カンファの話し合いの場。集まった医師たちを見回して、院長先生は断固たる口調できっぱりとそう告げた。

 事の発端は、守山先生が告げた一言。「あの鳥居をなくしたせいで、こんなことになったんじゃないですか?」という、冗談まじりの発言であった。

 そこから院長先生に火がつき、他の医者を置き去りにして二人で口論を繰り広げた挙げ句――「お祓いでもした方がいいんじゃないですか」という守山先生の弁に返したのがこの言葉である。


「守山先生。むしろ貴方、さすがにそれは不謹慎というものではないですか。貴方の理屈だと悪霊だとか呪いだとか、そういったもののせいで例の患者さんが亡くなったと――そういうことになります。それは科学者たる医師の発言として、あまりにもお粗末でしょう」

 表情を固くして、張り詰めた声音で滔々と語る院長先生。対する守山先生は腕を組んだまま、こちらは苦笑混じりに首を横に振ってみせた。

「でもねぇ。医療としては問題なかったわけじゃないですか。天川先生はきっちり治療はやってたし、効果も出てた。なのにいきなり、あんなことになったわけでしょう。……私だって精神科やって長いですけど、急性期の衝動性の高い患者さんだって、あそこまでのことはしませんよ」

「ですが、起きたことは起きたことでしょう。その事実をないがしろにして、オカルトに理由を求めようとするなど……」

 不満げに言う院長先生を前に、けれど守山先生は一歩も引かずに「じゃあ」と肩をすくめて私の方を見た。

「院長先生の理屈だと、天川先生の治療――あるいは病棟、病院全体の管理に問題があったからあんなことが起こったとおっしゃりたいわけで?」

「それは……」

 苦虫を噛み潰したような顔を浮かべつつ、「しかしですね」と院長先生は若干弱腰になりながら続ける。

「院内で隔離拘束中の患者さんが亡くなって、だからってお祓いなんかをしていたら……そんなの、もしもマスコミにでも見つかったら格好の餌食ですよ。古い精神病院が、患者を死なせたあげくに迷信じみたことをしていると」

「まあ、そうかもしれないけど」

 そこに関しては頷いてみせた守山先生に、院長先生は少しだけ調子が出てきた様子で、

「職員の間で妙な噂話が広がっているのは知っています。ですがね、こう立て続けにトラブルが続けばそれは当然というものでしょう。この病院の歴史は長い、そうなればこういうふうに良くないことが連続することも確率論としてはありうること――それをいちいち幽霊だの何だののせいにしていては、立ち行かないんです。……では、これでこの話は終わりです。皆さんも通常業務にお戻り下さい」

 一息にそうまくし立てると、そのままの勢いで席を立ち、肩をいからせて会議室を出ていった。

 それから少し待った後、他の医師たちが退出して――それから守山先生も、苦笑混じりに肩をすくめながら去っていく。

 そうして残ったのは、またいつぞやと同じように私と鏑木先生のみになっていた。

「いやぁ、今日のは凄かったな。二人とも」

 プロレスの観戦みたいな気軽さでそうぼやくと、彼は三角巾で吊った腕を軽く掻く。

 そんな彼の普段どおりの様子に少し気が休まるのを感じながら、私は頷いた。

「……私のせいみたいなもの、ですよね。あんなことがあったから、院長先生もピリピリして」

「いつもだって新規入院が少ない時とかはあんなもんだろ。そう重く考えるなって――そもそも別に、天川先生が悪いわけでもない。院長先生の言葉を借りるなら、長くやってりゃ確率論的にこういうことが起こることもあるさ」

 そう告げる彼の口調は優しい。ひょっとしたら、私がこうマイナス思考になることを予想済みでここに残ってくれていたのかもしれない。

「……ありがとうございます。先生」

 そう頭を下げつつ、私は改めて彼の腕を見る。

 クトウさんに噛まれた傷。数針ほど縫う怪我だったそうだが、翌日に病院を受診したくらいで彼はすぐに職場に復帰してきた。

 こういう場合、怖いのは怪我自体よりも感染症の類であるが――少なくとも当日に行った採血検査では異常は検出されなかった。

 クトウさん本人ももともと特殊な感染症などの罹患歴はなかったから、それについてはおそらくは大丈夫だろう。

 とはいえ……

「大丈夫ですか、腕」

「利き腕じゃなかったからな。業務にゃ支障は……いや、まあカルテ打つのはちょいと億劫だが、そのくらいだ。だからそんなに思い詰めたような顔すんなって」

「そんな顔でしたか」

「ああ。患者で受診してきたら迷わず休職を提案するレベルだな――あるいは除霊か」

 前半は冗談めかして。けれど最後に付け加えた言葉は少しだけ、真剣な響きを含んでいた。

「……除霊って。鏑木先生は、必要だと思いますか?」

 思わずそんなことを尋ねた私に、彼は少し驚いた顔をした後、

「そうかもな」

 と、左腕をさすりながらそんなことを言う。

「……院長先生の言い分は正直よく分かる。確かに精神科の病院でお祓いなんておっぱじめた日には色々と好奇の目で見られるだろうし――何より患者さんの中にも、そういうのに反応する人も出るだろう。ただな」

 そこで一度言葉を区切った後で、彼は珍しくその無精髭の目立つ顔をこわばらせた。

「目の前で見ていたから、分かるんだよ。ありゃあ精神病がどうとか、そういうもんじゃなかったってな」

 その言葉に、一切の冗談の色はない。

 黒い瞳にわずかな怯えのようなものすら滲ませて、鏑木先生は確かにそう断言してみせた。

「……こっからは精神科医としてじゃなく、一人のオカルト好きの雑談と思って聞いてくれ」

 そんな風に前置きした後で、彼はぽつりと呟く。

「クトウさんのご家族――ありゃあ少しばかり妙だとは思わないか」

「妙、ですか」

 どう答えるべきか分からずただ繰り返す私に、鏑木先生は頷いて続ける。

「ああ。保護室に駆けつけた時にはあんなにパニックになっていたのに……その後はあっさりと引き上げちまったろ。警察の解剖の提案も拒否して」

「それは……その、あんまり言いたくはないですけど、そういうご家族もいるとは思います」

 認知症のご老人の場合、病状とはいえどうしても家族とすれ違いが起こってしまうことは少なくない。

 それゆえに家族との関係が悪化したまま、最期の時を迎えてしまうということも……ないわけではないのだ。

「確かにな。だが、クトウさんのご家族はわりと熱心だったはずだろ。けっこう面会なんかも来てくれて」

「ええ……まあ。週一回くらいは欠かさずに来て、けっこう長い間お話しして行かれてました。けど……だからって、ご家族が何か隠してるっていうのは、あんまりでは」

「言ったろ。こりゃあ医者じゃなくて、ただの無粋なオカルトマニアの戯言だって」

 そう言ってニヒルな笑みを浮かべた後で、彼は私をじっと見つめる。

「だから天川先生も、医者じゃなくてただの一個人として、思い出してみてくれ。何か――ご家族や本人と話す中で気になったことはないか」

「気になったこと……」

 鏑木先生の口調は、表情とは裏腹に真剣そのものだった。

 だから私は逡巡した後、結局洗いざらい告げることにした。

「……クトウさん、あんなことになる少し前に、これを私や他の患者さんに配ってたんです」

 そう言いながら例の組紐――「おくさまひも」を取り出して見せると、鏑木先生は不思議そうな顔をして首を傾げた。

「なんだこりゃ、犬のリードか?」

「犬の……?」

 確かに、言われてみればそう見えなくもない。両端にループが作られた、手錠のような構造。とはいえ長さは病棟内で持っていても問題にならない程度のものなので、犬のリードにするには短すぎるが。

「おくさまひも、っていうものだそうで、クトウさんの地元で作られていたお守りらしいです。ご家族が言ってました」

「地元のお守り、ね。クトウさんの生まれはどこだっけか」

「東北の……Y県の山奥っておっしゃってたと思います、確か」

「他には、何か言ってたことは」

 少し熱を帯びた口調で尋ねてくる鏑木先生に、私は慌てて記憶をひっくり返して――

「……あ、そうだ。くとりぎさま――」

 そう呟いた途端、彼は鋭敏に反応を示した。

「くとりぎさま。娘さん、クトウさんのご遺体を見た時そんなことを言ってたな。そりゃあ何なんだ?」

「それは……その、娘さんからは特に何も聞いていないんですけど。この言葉で気になっていることがあって」

「気になっていること?」

 眉根を寄せる鏑木先生に、私は迷いながらも正直に伝える。

 犬山さんが元気だった頃に出演していたバラエティ番組。その中で彼女がロケ中、同じ単語を呟いていたこと。

 そしてその動画が心霊映像扱いされていることも含めて――すべてを話し、実際にその映像も鏑木先生に見せた。

 それらを何も言わずに見て、聞き届けると、彼はたっぷり一分ほど考えた後でぽつりと呟く。

「なあ、天川先生。この映像のロケ地、『供借山』って言ってたよな」

「はい。それが……?」

 意図するところが分からず尋ね返す私に、鏑木先生は神妙な顔で続ける。

「ニュースで話題になってただろ。去年にあった、病院で入院患者が無差別殺人したって事件……その犯人の遺体が見つかったのが、ここだって」

「……ああ、そうですね。そうだ、それで調べたんだった――けど、それはたまたまで」

「いや、もうひとつある」

 私の言葉にそう被せると、彼はぴんと人差し指を立てて。


「供借山――この山があるのがY県。クトウさんの出身と同じだ」


 その指摘に、私は頭を撃ち抜かれたような衝撃を……あるいは何か大きなものの手のひらの上に乗せられたようなおぞましさを感じていた。

「ニュースでやってるからさ、なんとなく気になって調べたことがあるんだよ、例の事件。その犯人ってのがそもそもなんで入院したかっていうと、どうやらその供借山って山で火の不始末をして自分も火傷したらしくてな――それで入院したと思ったら、医者や看護師、同室の患者も含めて十人くらいを刃物で滅多刺しにしたらしい」

「その山が、犬山さんが行っていた山で。……クトウさんの出身も、同じ県」

 確かめるように呟きながら、私はぶんぶんと首を横に振る。

「……い、いくらなんでも偶然じゃないですか、こんなのは」

「『くとりぎさま』とやらもか?」

「……!」

 詰めの一手を打たれたように、私はその言葉で何も言えなくなる。

 分かっていた。もはやどうしようもないほどに、これらの要素はお互いに――無関係とは言えないほどの不自然なつながりを見せている。

 けれどそれを認めてしまったら、引き返せなくなる。

 そんな無意識の防衛機制が「認めてはならない」と囁いていたのだ。

 だが――もう、目を背けることはできそうになかった。

「こりゃあ、いよいよだな。天川先生、今週末予定あるか」

「週末、ですか?」

 週末は特に当直の予定などもなかった。言うまでもなく、オフの日の予定なんてものは私にはない。いつも家でごろごろしているだけだ。

「特に、ないですけど」

「ならちょいと付き合ってくれ。大学の教養課程の頃、つるんでた奴が民俗学教室にいてな――そいつがこういうことに詳しいから、相談してみたいんだ」

 いきなりの話に、私は困惑を浮かべる。

「そ、相談って。……そんなの、院長先生がなんて言うか」

「医者としてでなく、ただの個人として話を聞くだけだ。そんなこと、こっちから言わなきゃ院長先生も分かりっこないだろ」

「それは、そうですけど……」

 まごつく私だったが、勢いのついた鏑木先生は容赦がない。

「患者さんが亡くなって、その原因が医学の範疇で説明できない。だが他のやり方で原因を見つけることができるんだとしたら――それを突き詰めるのが、医者の正しい姿勢ってもんじゃないのか」

 ……そんなふうに言われてしまっては、もはや断ることなどできるはずもなかった。


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