■17
その日は、夜も含めてどうやら何事も起こらなかったようだった。
ひょっとしたら、柊が何かして行ってくれたのかもしれないが――それについては直接訊いたわけではないので定かではない。
ともあれ柊が入院しに訪れるこの日を、私はここ最近の中で一番穏やかな心持ちで迎えることができた。
柊は予定の十時より少し早く、一人で病棟に姿を見せた。
いつも通りに車椅子で、荷物はボストンバッグ一つと、何やら紫紺の布包みで巻かれた一メートルほどの長さの品物を肩に引っ掛けている。
入院の手続きをざっと済ませ、病棟へ入ろうというところで――やはりと言うべきか、看護師がその布包みを指して渋い顔をしていた。
「先生、さすがに病棟にこれは……ちょっと」
精神科の病棟では当然のことながら危険物は厳重にチェックし、場合によっては病棟で預かるなどの対応を取ることがある。
彼女の持ってきたそれについても、やはり同様。一応体裁の上では休養入院……つまりは病状としてそこまで悪化してはいないものの、入院環境下で精神的な静穏を図るための入院という扱いではあるが、とはいえそういったものを持ち込んで良いという話でもない。
仕方なく、私は柊にこっそりと尋ねてみることにした。
「柊さん、それは?」
「必要な呪具よ。いざという時のためのとっておき。でも……まあ、持ち込めないって言うなら最悪先生に預かってもらっていればいいわ」
そう言うと彼女は意外にもあっさりと、その布包みを私に手渡してくる。
固く、金属ほどではないにしろずしりとくる重量がある。一体何なのだろう。
「中身は秘密、いいって言うまで絶対開けないでね。ここはもう相手の腹の中みたいなものだから……奥の手は隠しておきたいの」
私の思惑を読んだようにそう言うと、彼女はそのまま看護師とともに残りの荷物のチェックに戻る。
腹の中。いともあっさりと彼女が告げた言葉に、私の背筋はぞくりと震えていた。
柊の部屋は、209号室――クトウさんが使っていた病室が充てられた。
現在入院している患者さんたちはこの部屋を嫌がっており、また、医者たちもあんなことがあった患者さんの部屋に新しく入院を入れることは避けていたため、空いたままだったのだ。
そんな状況ゆえだろう、病棟管理の田井中さんからは、
「いいんですか、先生?」
と念を押して確認されたほどだったが――何より柊自身がこの部屋を希望していたこともあって、話は決まった。
私と一緒に部屋に入った途端、彼女はすっと天井を見上げた。
「なるほどね。酷いものだわ」
何が、と訊ねようとしてやめる。わざわざ知りたいものでもなかった。
柊の方も特に説明を加えようという気もないようで、ベッドの側まで車椅子を移動させて乗り移ろうとしていた。
だが、一人だとなかなか上手くいかない。私が手を差し伸べると、「ありがと」と言いながらその手を支えにして彼女はベッドへと座り直した。
「困ったことがあったら看護師さん、呼んで下さいね」
「大丈夫よ。これでも自分の身の回りのことくらいは、一人でできるもの」
唇を尖らせて不満げにむくれる柊。珍しく彼女の年相応な表情を見た気がして、私はこんな時なのにくすりと笑みをこぼした。
「その足は、怪我……とかですか?」
今まで訊くに訊けなかったことを、良いタイミングなので訊ねてみる。すると彼女はボストンバッグから荷物を取り出しながら、視線を向けずに首を横に振った。
「いいえ。かと言って、クララみたいな奴でもないわ。これは――それこそ呪いみたいなもの」
「呪い、ですか?」
意外な言葉に少し驚いていると、彼女は頷いて――いきなり履いていた膝上丈のソックスを少しずらす。
ほっそりとした、真っ白な足があらわになって。ちょうどふくらはぎの辺りに……奇妙な傷跡のようなものが見えた。
奇妙というのは、それがただの傷跡ではなく……引っかき傷のようなものが何らかの記号のように幾重にも組み合わさったものだったからだ。
血は出ていないものの、とはいえ塞がっているでもない。その傷を指差しながら、柊は無表情で呟く。
「神様が、私の足を持っていったの。これはその時の差し押さえ印みたいなもの」
「神様が……?」
話が飲み込めない私に、彼女は小さく肩をすくめながら続ける。
「私の親……黒騎さんじゃなくて、肉親の方の親ね。私が中学生の頃、そいつらが変な宗教にハマって――その時に私を生贄として差し出したの」
「娘を、生贄に……って。どうして、そんなことが」
見も知らぬ彼女の両親への怒りから、思わず声を荒げていた私。そんな私を見て苦笑しつつ、柊は首を横に振る。
「私、子供の頃から幽霊とか、変なものが見える体質でね。それを教団のお偉い人が知って、直々に指名してくれちゃったの。あの人たちは私が生贄に選ばれたのを大喜びしてて……だけどもっと最悪だったのは、あの人たちが信じていた宗教っていうのが、ある意味では『本物』だったってこと」
「本物……」
「まつろわぬ、外典の神。あの人たちの信じていた『神様』は実在して、生贄にされた私を喰い殺そうとしたのよ」
さらりとそんなことを言う柊に、私は言葉を失う。
だが、彼女の言葉は真剣そのもので――とても冗談を言っているふうではない。
「だけど、私はあいにくと運が良かった。……ううん、あんな親の子供だっていう段階で最悪かもしれないけど、ともかく悪運だけは強かったと言うべきかしらね。私が『あれ』に取り憑かれてすぐ……黒騎さんがあの教団をぶっ潰して、私を助け出してくれたの」
「黒騎さんって……今の保護者の方、ですよね。……警察か何かの方なんですか?」
「ううん、色々。警察にも顔は効くみたいだけど、何の仕事してるのかは私もよく知らない。強いて言うなら『霊能者』ってところかしら」
それはそれで胡散臭い肩書ではあったが、ともあれその「黒騎さん」が彼女をどこぞの教団から助け出したというのはきっと事実なのだろう。
彼女の言葉からは、その人物に対する信頼感が感じ取れた。
「ただ、生贄にされた時に足だけは『あれ』に喰われてね。……喰われたって言っても、体じゃなくて魂とか、そういう部分をってことなんだけど。そのせいで今も、こうして体自体はなんともないけれど動かすことができない。ついでに――こんな生贄の印を刻まれちゃったせいで、夜中眠ろうとするとその辺をうようよしている細かい死霊とかが勘違いして寄ってくる始末でね」
ため息まじりに語る彼女に、私はひとつ腑に落ちる。
「だから、不眠症……ってことなんですか?」
「そういうこと。今は簡単な結界くらいは張れるから、寝てる間に雑魚に近づかれることなんてないんだけど――眠ろうとしても体が眠ってくれなくて。だから黒騎さんのツテで、この病院を紹介してもらったってわけ」
「そういうことだったんですね……」
あらましを理解すると、なるほど前院長先生のカルテ記載がそっけなかった理由も理解できたような気がした。こんな話、事実であったとしてもカルテには残せない。
そして――もうひとつ分かったのは、柊という人物について。
年齢に不相応なほどに大人びた態度で、時に人を見透かしたような態度を見せる彼女……それはきっと、実の親に見捨てられ、命を奪われそうになった経験に起因する部分もあるのかもしれない。
しばらく沈黙を挟んで、私は柊に頭を下げる。
「……柊さん、その、ありがとうございます。そんなことがあったというのに、こんなことに協力してくれて」
彼女にとっては「埒外のもの」と相対する行為は、過去のトラウマと向き合うことに繋がりかねないだろうに。
それなのに彼女は怯えた素振りなども微塵も見せず、情けない主治医に手を差し伸べてくれた。
「だから、気にしないで頂戴よ。先生は私が心に深―い傷を負ってると思っているかもしれないけれど、別にそんなこともないし。むしろこんな機会が巡ってきて、ありがたいくらい」
「ありがたいって、どうしてですか?」
首を傾げる私に、彼女は自信に満ちた笑みを浮かべて返す。
「黒騎さんが私を助けてくれたみたいに、今度は私が、誰かを助けられるんだもの。こんなに嬉しいことって、ないでしょう?」
その言葉はどこまでも嘘偽りなくまっすぐで。だからこそ、私は初めて、柊絢沙という少女の本当の顔を見たような気がした。
どこまでも純粋でまっすぐで、何より――誰かに手を差し伸べることを厭わない。皮肉げな表情の奥にあるのはきっと、そんな素顔。
そして、彼女がそんな性質を失わずに今こうしてここにいてくれるのは……黒騎さんという人のおかげなのだろう。
「良い人なんですね、その……黒騎さんっていう保護者の方は」
思わず私はそんなことを言って。けれど意外にも、そこで柊から返ってきたのは、
「まさか。頑固で口が悪くて厳しい、鬼みたいな人よ。顔を合わせるたびに『学校に行け』だの『引きこもり』だのって言ってくるし……今日だって『無様を晒したら許さん』って言われたし」
しかめっ面とともに吐き出されたそんな言葉であった。
……私の頭の中での「黒騎さん」の像がいまいち定まらなくなったが、ともあれ「そうなんだ」と返すことしかできず、それきり私は口をつぐむ。
生贄を求めるような神を崇める宗教団体。それを単身で叩き潰すような霊能者。
親から捨てられた柊の身元を引き受けて育ててくれる、慈愛に満ちた人間かと思いきや――本人の言によれば「鬼みたい」。
人物像は全く分からないが、ともあれあまり、お近づきになるべきではないタイプのようには思えた。
「さて、そんなことより本題よ。先生、今日は当直だって言ってたわよね」
「え? あ、はい」
急に話を戻されて少しばかり困惑しつつ、私はそう頷く。すると彼女はいきなり私に、ボストンバッグから取り出したラベルのないペットボトルを四本、押し付けてきた。
「それなら、夜になる前にこれを病棟の四隅に置いてきてくれるかしら。それで他の患者さんや看護師さんにも、動かさないようにって伝えて」
「はぁ……そのくらいなら。除霊に必要なものなんですか?」
「まあ、そんなところ」
そう返されて私はまじまじとペットボトルを眺める。中には透明な液体が入っているが、水にしか見えない。
「それと、こっちが一番頼みたいことなんだけど」
「なんでしょうか。私にできることなら、何でも」
頷いてみせた私に――柊は真剣な顔でこう続けた。
「今日の夜、私を犬山さんって患者さんの部屋に連れて行って」
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