■18

 その日の深夜、日付が変わろうかという時間帯。

「……どうか、バレませんように……っ」

 懐中電灯を握りしめつつ呟きながら私は、消灯して真っ暗な病棟の中、保護室区画の入り口にいた。

 そんな私に、後ろからくすくすと笑い声が届く。だがそれは怪奇現象でもなんでもない。

「先生ったら、怯えちゃって。……バレるに決まってるじゃない」

 にこにこしながらそう告げたのは柊である。彼女の無慈悲な言葉に、私は「え」と声を漏らした。

「バレるんですか」

「バレるわよ。だって多分、物音とかもすると思うし」

 あっさりと言う彼女の前で、私は深いため息を吐く。独断で、保護室にいる患者さんのところに別の患者さんを招き入れて――やることが怪しげな儀式となれば、どう取り繕っても何らかの問責は免れないだろう。

 頭を抱えている私を見つめて、柊が小さく鼻を鳴らす。

「どうする? イヤなら止めてもいいけれど」

「……まさか。私は柊さんを信じています。このままこの状況を放置していたら大変なことになるっていうのも」

 それに、一応今日の夜勤看護師たちには詳細は伏せつつも一言声は掛けてあった。

 犬山さんの夜間の様子を張り付きで観察したいので、今日は私がいいと言うまで保護室の巡回は避けてほしい――幸か不幸かクトウさんの一件があって以降、犬山さん以外に今は保護室を使っている人はいなかったから、看護師もそれを了承してくれた。

「お祓いでもするんですか?」なんて言われた時にはまあ、思わず顔が引きつったけれど。

 そんなことを思い出している私に、柊が「それで」と続ける。

「事前の準備は、やってもらえたみたいね」

 準備というのは、ペットボトルの配置のことだろう。

「はい。分かるんですか?」

「うん。病棟内の『場』がだいぶ安定してるみたいだから――ちゃんといい位置に置いてくれたのね。助かるわ、先生。それと、例の物の方は」

「そっちも持ってきてます。これですよね」

 そう言って、私は肩に引っ掛けていたあの細長い布包みを示す。それは柊が持参し、病棟預かりになっていた品だった。

 それを見て、頷く柊。

「よし。これなら準備は十分ね」

「……そういうものなんですか? お祓いってもっとこう、それっぽい服に着替えて祭壇を用意して……みたいなイメージがあったんですけど」

 今回の準備は今彼女が言ったことがすべてで、彼女自身、今は小さな手提げ袋を持ってるくらいでそれほど大掛かりな道具を用意した様子もない。

 人を殺してしまうようなものを相手に、この程度で大丈夫なのだろうか?

だがそんな私の疑問に、柊は頷きながら続けた。

「私のやり方は、黒騎さん流だから。特定の宗教とか信仰のやり方じゃなくてもっと、原始的な力のぶつけ合い――乱暴に言えば、怪異と取っ組み合いの喧嘩をするようなものなの。だから『場』を私の有利な状態に書き換えて、いざという時の武器さえ用意できていれば、あとは向こうが消え去るまで打ちのめしてやるだけ」

「それは……なんというか、シンプルですね」

「シンプルイズベスト、ってね」

 いたずらっぽく笑う柊に、私もあいまいに笑いつつ布包みを一瞥する。

 今の話からすると、どうやらこれは「武器」らしい。……中身が何かは分からないが、看護師が中身を開けてまで確認しなくて本当に良かった。

「それじゃ、納得したところで行きましょうか」

 柊にそう促されて、私は保護室区画の扉を鍵で開ける。

 中の廊下は、薄暗いながらも蛍光灯の明かりで照らされていた。白い廊下が光の加減で黄色みがかって見えて、なんとなく気味が悪い。

 並びにある204号室の表示を確認すると、私はその鉄扉の鍵を開けようとして――

「先生、そのまま」

 不意に横から柊の声が掛かり、私はそこで動きを止める。

 ……我ながら、悲鳴を上げなかったのは大したものだと思う。

 なぜならその瞬間――錠に触れていた私の手に、いつの間にか乾いた木の根のようなものが絡みついていたからだ。

「柊、さん……っ」

「分かってる」

 冷静にそう言うと、柊は巾着袋から何かを取り出す。

 見るとそれは、艶のある黒で骨を塗られた一本の扇子だった。

 彼女はそれを開かず、畳んだ状態で私の手に絡んだ「根」を軽く打ち据える。

 すると「根」は一瞬のうちに朽ちて、砂のようになって床にこぼれ落ちてしまった。

「あ、ありがとうございます……」

「向こうも、私たちに入られたくないみたいね。……だとしたら良いことだわ、私たちは『くとりぎ』とやらにとって警戒に値するってことだから」

 そう言って愉快そうに笑うと、柊は改めて扉を開けるよう指示してくる。

 今の一件でまだ手は震えていたが、数秒ほどして今度こそ鍵は開いた。

 わずかに軋んだ音とともに、分厚い鉄扉が開く。内側の二重扉はもともと開いているので、すでに中の様子が直視できていた。

 点滴や鼻管が繋がった、痩せ細った犬山さんと。

 そして――壁中に木の根が張り巡らされ、変わり果てた姿となった保護室の様子も。

「……なんですか、これ。日中は、こんなの」

「夜は、『彼ら』の時間だもの。もっとも、それだけじゃない――私たちが来ることを予見していたから、迎え撃つために根を張り巡らせたのかしらね」

「迎え撃つって、それじゃあまるで」

 この「根」に意思があるようではないか。そう言いかけるより先に、柊は唇を歪めて小さく笑う。

「私の側から離れないように。連れて行かれるわよ」

 と同時、壁に張り付いていた木の根が私の方へと伸びてきて、きしきしと音を立てながら形を変えていく。

 助けを求める、人の手のような形へと。

「――っ!」

 だが。

「邪魔」

 柊が手に握っていた扇子をぱっと開くとその途端、私に伸びていた「手」が半ばからぶつりと切断され、床に落ちる。

 開かれた扇子には――お経か何かがびっしりと書き込まれているようだった。

「っ、ぎゃぁあぁぁぁぁッ!!」

 「手」が切断されたのとほぼ同時に、絶叫したのはベッドで横たわっていた犬山さん。

 見ると――彼女の手や足が、あの時のクトウさんのように樹皮のようなもので覆われている。

 そしてそこからベッドを伝って、壁中の「根」と繋がっているようだった。

「犬山さん……どうなってるの」

「依代にしたか、小賢しい真似を」

 舌打ちしながら柊は手提げの中から小瓶を取り出し、その中身を辺りに振りまく。

 じゅっ、と何かが焼けるような音がして、瞬間、床一面に青白い炎が立ち上った。

「柊さん!? か、火事になっちゃいますよ!?」

「大丈夫よ、霊的な炎だから――このままあの人の体の中にいるこいつを、焼き払ってやる」

 言いながら彼女が扇子を軽く扇ぐと、炎の勢いはいや増して壁や天井の「根」にまで燃え移ってゆく。

 だがそれだけの炎の勢いにも関わらず、確かに彼女の言う通り、部屋の中にいる私は熱や息苦しさを感じない。

「ぎゃああぁぁぁ、あがぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁ――」

「お前が何かは知らないけど、相手が悪かったわね。いくら根を張っていたところで、この炎はどこまでもお前を燃やし尽くすわよ」

 煽るようにそう告げる柊を、犬山さんが絶叫を上げながら睨む。

 その顔は……あのバラエティー番組の映像で見た彼女とは到底似ても似つかない、怒りで歪みきった表情を浮かべていた。

 ……この時、私はひとつ失念していたことがあった。それは今の犬山さんと、数日前のクトウさんとの違い。

 つまり――今の犬山さんは身体拘束がなく、動こうと思えば動ける状態だということを。

 がばっと、これまでずっと横になりっぱなしだったとは思えない獣じみた動きで犬山さんは起き上がると、枯れ木のような手足をバネのように動かして車椅子の柊へと飛びかかった。

 部屋と繋がっていたはずの手足は、脱皮したように「根」から引き抜かれている。柊もまさかそんなことができるとは思っていなかった様子で――彼女の表情に初めて動揺が浮かんだ。

「こいつっ」

「――――――――」

 甲高い寄声を上げて、車椅子ごと柊を押し倒す犬山さん。

 野犬のように喉笛に食らいついてこようとする犬山さんの口に扇子を挟んでどうにか受け止めながら、けれど状況は一気に悪化の一途を辿っていた。

 二人の周りで、炎のそれを上回る勢いで「根」が再び増殖を始め、柊にその鋭い先端を向けつつあったのだ。

 どうすればいい。何か、できることは。

 パニックになりそうな中で考えて、考えて――結論、思考より先に体の方が動いていた。

 柊から持たされていた、例の布包み。

 それを解き、中に収められていたものを……一振りの木刀を、周りに伸びていた「根」に向かってデタラメに振るったのだ。

 瞬間――

「あぁあぁぁぁぁぁあああぁぁああぁああぁあぁあぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 ひときわ大きな、禍々しい慟哭が部屋中に轟いて。

 柊を取り囲んでいた「根」が、彼女を押し倒していた犬山さんの体が、冗談みたいな勢いで壁際に向かって吹き飛ばされる。

 「根」は、もはやぴくりとも動かない。どころかあんなに壁中を血管のように覆っていたはずのそれらはいつの間にか消えうせていて、残っているのは干からびたわずかな断片のみ。

 そして……吹き飛ばされた犬山さんも。

 彼女も先ほどの勢いが嘘のように、床に伸びてぴくりとも動かなくなっていた。

「……い、犬山さんっ!?」

 危険も忘れて思わず彼女に駆け寄って確認すると、呼吸はしっかりとしている。

 脈も、やや徐脈気味ではあるがしっかりとある。生きている。

 それを確認してほっとしていると、後ろから柊が声を掛けてきた。

「ちょっと、心配するなら私の方が先じゃない?」

「あ、すみません……つい」

 頭を下げる私を見て、しかし柊は言葉とは裏腹にそれほど怒っている様子はなく、倒れた車椅子の横で上半身を起こしながら小さく息を吐いた。

「まあいいわ。先生のおかげで助かったのは確かだし。……あそこまで力が強い奴だったのは、少し想定外だったわ。でも――」

 言いながら、柊は部屋をぐるりと見回して微笑む。

「『あれ』は、消えたみたい。もう、どこにも気配がないわ」

「それって……」

「ええ。成功よ、先生」

 柊の言葉で、私はどっと全身から緊張が抜け落ちるのを感じていた。

 医学どころか人の世の理を外れた状況から、ようやく解放されたのだ――その安心感、開放感といったらなかった。

「なら、入院患者さんたちも……それに鏑木先生も、もう大丈夫ってことですか?」

「ええ。少なくとも元凶を断ったのだから、これ以上悪くなるということはないでしょうね。それに……その人も」

 そう言って、柊は犬山さんを指差す。

「多分、例の山で『くとりぎ』の根に憑かれてしまって、そこからはるばるここまで『くとりぎ』を運んできてしまったんでしょう。そのせいで精神を消耗して、あんなことになっていた――だけど『くとりぎ』が消滅した今ならもう大丈夫。きっとすぐ、回復していくと思うわ」

「よかった……」

 深く、胸の奥にわだかまっていた息を吐き出しながら、私は床の上に座ったままの柊を見て「あ」と呟く。

 そういえば、すっかり忘れていた。車椅子を倒されてしまって、今の彼女は身動きできないはず。

 横倒しになった車椅子を起こして、柊に手を差し伸べようとしたその時……

「ああ、大丈夫よ。ありがと」

 そう言うと彼女はあっさりと、自分で立ち上がると車椅子まで数歩歩いて着座する。

 その様子を唖然として見つめた後、数秒ほどして私は彼女に訊ねた。

「……あの、柊さん。今、歩きませんでした?」

「? 歩いたけど? ……ああ、そう言えば先生にも隠してたんだっけ。私、歩けるのよ」

 あっさりと告白されたそんな事実に、私は口を開けたまましばらく停止する。

「……ええと、じゃあ、足を神様に食べられたっていうのは……」

「その辺の話は本当。ついでに、その一件からしばらくは本当に歩けなかったんだけど――最近はこうやって、ちょっとくらいなら立って歩けるの」

 そう返すと、柊は呆然としている私ににんまりと、意地悪そうな笑みを浮かべてみせた。

「言ったでしょう、奥の手は隠しておきたいって」

 そんな話をしていると、さすがに騒ぎを聞きつけたらしい病棟の看護師たちの足音が聞こえてきた。

 この状況を、一体どうやって説明したものか。考えるとまた胃が痛くなってきそうではあったけれど……少なくとも。

 呪いだの幽霊だのに悩まされるよりは、数倍はマシだろう。


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