■16
朝の八時。私が医局に入ると、すでに出勤していた院長先生と守山先生が深刻な顔をして何やら話し合っていた。
何かよくないことが病棟であったのかと思って尋ねてみたところ――それは正解でもあったし、間違いでもあった。
悪いことはあったが、それが起こったのは病棟の患者さんにではなく。
昨日一緒に大学まで行った――鏑木先生の身に、だったからだ。
「昨日、外出中に車に撥ねられたんだそうです」
「……え?」
あまりにも衝撃的だったせいで、細かくどんな話をしたかまでは覚えていない。
ただ――現段階で分かっているのは、一応鏑木先生の命には別状がないらしく、連絡も本人から来たらしいということ。
とはいえ即日入院しなければいけないレベルの怪我で、しばらくは出勤できそうにないらしいということだった。
ひとまず朝一に彼がいない間の外来・入院患者の分担を決めると、それぞれに業務へと戻っていく。
私も、今日は午前中から外来があった。
いつまでも放心状態ではいられない。病院や医者がどんな状態であれど、患者さんはやってくるのだから。
だが――とはいえ全身がずっしりと、鉛のように重い。
こんなタイミングで、鏑木先生が事故に遭う……それはもはや偶然として片付けられるようなものではない。
やはり、何かの意思が私たちに、この病院全体にまとわりついている。
……この一件は、私にそれを確信させていた。
不幸中の幸いか、今日は訪れる患者さんが比較的少なく、すでに最後の一人になっていた。
カルテを見て、次の人を確認する。そこにあった名前――それを見て私は「あれ」と呟いた。
柊絢沙。車椅子の、不眠症の女の子。最後の患者さんは彼女だったのだ。
だが、今日はまだ予約日ではない。何か、早く来なければいけない事情があったというのだろうか?
「柊さん。お入り下さい」
疑問に思いながらも診察室の扉を空けて呼び込むと、待合室にいた柊が車椅子を動かして入ってきた。
「おはようございます」
椅子に座りながら、私が彼女にそう挨拶すると――開口一番に飛び出したのは、意外な言葉だった。
「ねえ先生。この病院……ちょっと見ない間にずいぶんと、気持ち悪い空気になったわね」
露骨に顔をしかめながらそう言う柊に、私はなんと返していいか分からなかった。
戸惑う私に、彼女は腕を組みながら小さくため息をつく。
「先生が代わった時くらいから、淀んできてるなとは思ってたけど――そんな生易しいものじゃない。先生、この病院、どうしちゃったの?」
当然、この病院で起こっていることは外部には漏れてはいないはず。ひょっとしたら患者さん同士のネットワークで病棟の状況などが伝わっているかもしれないが……柊に関して言えば、特に入院歴もないからそういった繋がりはないはず。
それなのに――彼女はまるで、「何かが起きている」ことを確信したような口ぶりでそんなことを言う。
「……柊さん、なんで、そう思うんですか?」
質問に質問で返す私に、彼女は小さく鼻を鳴らして、
「分かるのよ。私、こういうの」
「こういうの、って」
「幽霊とか、妖怪とか、怪異とか。そんなふうに呼ばれる――常識や理屈で分解できない、埒外のものについて」
いとも当然というようにそう語った柊に、私は息を呑む。
普段であれば……正直、患者さんがそんなことを言おうものならば何かしらの精神症状の一環として捉えていただろう。
けれど今の私は、彼女の言うような「埒外の」存在を……その気配を肌で感じている。
あり得ない、なんて、口が裂けても言えなかった。
黙り込む私を見つめて、柊はにんまりと、ドスの利いた笑みを浮かべてみせる。
「なんとなく嫌な感じがしたから、早めに来てみたけど――大正解だったみたいね、先生」
「……え?」
「その顔だと何か、そういうことで悩んでいるんでしょう」
すべてを見透かすような目つきで、彼女はじいっと私の目を見つめながら続ける。
「話してみて。私ならきっと、今の先生の役に立てると思うわ」
――。
普段なら、こんなことは決してあってはいけないのだが。
今日はちょうど診察も最後だったし――何より私はもう、限界だった。
唯一このおぞましい状況を共有できていた鏑木先生が倒れ、たった一人、訳の分からない何かと対峙する状況。
誰でもいいから、助けてほしい。
そんな私にとって……柊の言葉はまさに、差し伸べられた手に等しくて。
だからこそ私は、これまで起こったことを洗いざらいすべて、彼女に話していた。
「……なるほどね。『くとりぎ』。この病院に根を張っているのは、そういうやつなんだ」
まるで見えざる何かを見ているかのように、何もない診察室の白い壁を横目で一瞥しながら――私の話を聞き終えた柊はそう呟いた。
「何か、見えるんですか?」
「うん。病院全体に……こう、びっしりと木の根っこみたいなものがくっついているわ。外から見た時は何かと思ったけど――なるほどね。くとりぎ。くとりぎって、どういう字なの?」
「どういう? いや、それは……分からなかったです。見せてもらった文献も、ひらがなで書かれていたので」
なぜそんなところを気にするのだろう。そう思っている私の前で柊は何やら思案げに、
「くとりぎ。木の根……犬殺し。だとすれば字としては
そう呟いた後、私へと視線を戻して続ける。
「ともかく、もうこの病院は……その神様もどきの巣になっているわ。巣、と言うよりは寄生先と言った方がいいのかもしれないけれど」
「……それって」
「ええ。このままじゃ入院している患者さん、皆遅かれ早かれおかしくなると思う。それだけじゃない、その事故に遭ったっていうお医者さんもね」
「鏑木先生も?」
「ええ。……多分、そのお婆さんに噛まれた時に『根』を張られたんでしょう。護符のおかげで最悪の事態は避けられたようだけれど、普通はそう長く耐えられるものでもない――そう遠くないうちに『くとりぎ』とやらに持っていかれるわ」
「持っていかれる、って」
「殺されるってこと」
あっけらかんと言ってのけた彼女。無慈悲に突きつけられたその言葉に、私はずしりと心が沈むのを感じた。
鏑木先生が。私が、巻き込んでしまったせいで?
そんな私を見て、しかし柊はくすくすと笑いながら続ける。
「先生ったら、幽霊みたいな顔してるわ。せっかくの美人が台無し」
「……仕方がないじゃないですか。こんな状況、どうしたらいいか分からないんですから」
「だから、安心して頂戴よ。私が助けてあげるって言っているんだから」
軽々しく、ちょっと洗い物を手伝ってあげるとでもいったような調子でそう告げる柊に、私は怪訝な顔をしながら問う。
「助けて……って、柊さん、お祓いとかできるんですか?」
「できるわよ。まあ、お祓いなんてお行儀のいいものじゃないけど」
その意味は測りかねたが、ともあれ彼女は堂々と「できる」と言ってのけた。
時折外来診察の中でも妙な冗談を言うことはあったが――しかし今回に限っては、それは冗談を言っているふうではない。
逡巡しつつ、私は彼女に尋ねる。
「でも、どうしてそんなことを。……こんなことを言ってはなんですけど、病院としてはお礼とかをお出しすることはできないと思いますよ?」
「そんなの、構わないわ」
あっさりと言うと、彼女は年齢のわりに妙に蠱惑的な眼差しとともに笑みを浮かべる。
「私、先生のことをけっこう気に入ってるから。私のことが苦手なのに、それでも不器用に向き合おうとしてくれる先生のことが」
「褒められてる気がしないですけど」
「褒めてるのよ。だからこれからも、先生に主治医でいてほしい。そのために手を貸したいというだけ」
けらけらと笑ってそう締めくくった柊を見つめながら、私は考える。
考えるけれど――迷っていられる状況では、もはやなかった。
「……柊さん、お願いします。力を、貸して下さい」
「承ったわ。それじゃあ手始めに」
堂々とした様子で頷くと、彼女は不意に私の方へと車椅子を寄せてくると、
「邪魔」
と、普段からは考えられないような冷ややかな声で呟いて――私の肩を軽く払う。
その瞬間……実に不思議なことであるが、クトウさんの一件以来私を包んでいた暗い雲のような重々しい感覚が、すとんと軽くなった気がした。
「今のは?」
「先生に憑いてた雑魚を、どかしたの。……まあ、こっちは根っこの方じゃなくて、多分この病院に元々わだかまっていた連中だと思うけど」
「元々って……元々から、この病院って呪われてたんですか?」
驚きとともに尋ねる私に、柊は「んー」と指を唇に当てながら言葉を選ぶ。
「呪いとはまた違うかな。心や体が弱っている人は、そういうものに目をつけられやすいから――病院なんかは根本的に『よくないもの』が集まりやすいの。ただ、ここの場合はもっと特殊でね。霊脈の行き止まり、気の流れが淀みやすい土地だから、特にそういうものが集まるし力をつけやすい。だからあの鳥居を置いて、霊脈の出口を作ってあったはずなんだけど――」
「鳥居のこと、知ってるんですか?」
確か前の院長先生が除霊師に言われて建てて、今の院長先生が撤去してしまったというものだ。
ひょっとして、柊がその除霊師だとでもいうのだろうか? そんな私の視線にしかし、彼女は首を横に振る。
「私じゃないわよ。そんな大掛かりな仕掛けは私じゃ無理。やったのは、黒騎さん――私のお師匠様だから」
黒騎さん。それは柊の現在の保護者として名前が残っている人物だった。
お師匠様、と彼女は言ったが……だとするとどうやら親戚とかそういう関係でもないらしい。
気にはなったがそれ以上詮索するのも憚られそのまま口をつぐんでいると、柊は「ともかく」と続けた。
「どこかの物分りの悪い人が鳥居をどかしたせいで、余計に事態が面倒なことになってる。この場所は『くとりぎ』にとって、栄養たっぷりの餌場みたいなもの――早々にケリをつけないと、どんどんマズいことになると思う。だからね、先生」
そう言って彼女は、軽く己の胸を叩いてみせると。
「私を、ここに入院させて」
――なんて、そんなことを言い出した。
「入院って、え、どうして」
「当たり前じゃない。今一番『くとりぎ』が根を張っている中枢はその病棟よ。なら、そこに直接踏み込んで叩いてやらないと。それに……先生の話じゃ、除霊のために人を呼ぶなんて認めてもらえなさそうじゃない?」
彼女の言い分は、特に後半に関してはもっともだった。院長先生はきっと、正直に話したところで首を縦には振るまい。
ならば確かに、入院という段取りで柊を招き入れるのは適切な手段に思えた。
……だがひとつ、問題がある。
「その――保護者の方は、了承して下さるでしょうか?」
任意入院の場合は、厳密には保護者の承諾は必須ではなく、本人に入院の意思があれば未成年でも単独の同意で可能ではある。
とはいえやはり、ことがことだ。黒騎さんという人から物言いが出ないとは限らない。
だがそんな私の杞憂を、柊はあっさりと否定した。
「大丈夫よ。さっきも言ったように、あの人は先代の院長先生とは縁があるもの。ダメとは言わないわ」
そんな彼女の言葉を、私はひとまず信じることにした。
いざとなれば、保護者の方に私が直接頼み込んだっていい。なりふりなど構っていられないのだ。
「……分かりました。なら、ぜひお願いします」
「お願いされたわ。それじゃあ……今日は準備が色々とあるから、明日の朝にまた来るわ。それでいいかしら?」
「はい。明日なら私も当直なので、むしろ都合がいいです。こっちも病室を空けておきますね」
「できれば、その犬山さんって人のいるところに近い部屋がいいわ。保護室に入れるならそれが一番だけど」
「それは……」
さすがに任意入院の人を入院早々に保護室に入れるというのはそうそうない。
そんな私の顔を見て、「冗談よ」とくすりと笑うと彼女は診察室を退出する。
「じゃあまた明日、先生」
手を振って去っていった彼女を、扉のそばで見送ると――私はすぐに病棟に電話をかけた。
「もしもし、病棟ですか。ちょっと明日、外来の患者さんで一人入院をお願いしたい方がいて……」
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