エピローグ
「いやぁ、先生。その節はホントにね、ありがとうございました」
四月も終わろうという下旬の日。入院中の私物を入れた旅行鞄を提げながら、ヤナカさんは病棟の入り口に立って私と田井中さんに頭を下げた。
人懐っこい笑みを浮かべている彼に、私も笑いながら返す。
「退院後も外来、ちゃんと来てくださいね。あとお酒はもう呑まないように。また倒れちゃいますから」
「ははぁ、先生にそう言われたら参っちゃうな。早速退院祝いに一杯やろうと思ってたのに」
「そういう冗談言うと先生が落ち込んじゃいますよ、ヤナカさん」
田井中さんにたしなめられて、「へへ」と笑うともう一度ヤナカさんは頭を下げた。
「いやでも、ホント先生や看護師の皆さんにはね、世話んなりました。熱出してぶっ倒れてた時とかもね」
そんな彼の言葉に、「あぁ」と感慨深げな声を上げる田井中さん。
「あの時はねぇ、本当に。すっかり元気になって、本当によかったですよ」
そんな彼女の言葉で、私はもう数週間も前になる当時のことを思い出す。
――。
あの山での一件があってから数日。熱を出していた患者さんたちはみるみるうちに快方に向かい、一週間もする頃には皆、元々の元気さを取り戻していた。
事の顛末は院長先生に説明してもまず受け入れられないだろうと思われたので、伝えることはせず。
結果として、一体何が奏功して良くなったのか――そもそも何故あんなに一斉に発熱者が出たのかという点については、「季節の変わり目で体調を崩した」というお茶を濁したような落とし所に落ち着いた。
もちろん院長先生を含めて医者たちはそれで納得はできなかったものの、とはいえ患者さんたちは実際に数日で綺麗さっぱり快復したので、追及しても仕方のないことと割り切っていた。
犬山さんについても、あれ以降は今度こそ体調も戻り、今では仕事復帰の準備も着実に進めているという。
先週頃に一度外来に受診した時、「今度また地方ロケに行くんです」と言っていた。
また変なものに取り憑かれてこないといいが――とはいえ少なくとも今のところは、すっかり笑顔も取り戻している。
あの調子ならば大丈夫だろう。今度こそ、そんなふうに思うことができた。
退院したヤナカさんを見送った後、私は病棟へと戻って患者さんの回診をする。
休んでいた鏑木先生もつい二週間ほど前にようやく復帰したので、今は担当患者さんの数も少ない。まだ今日回っていないのは、ジョーさんだけだった。
彼の部屋まで行こうとして、けれどその必要はなかった。
「ああどうも、先生」
通りがかったホールで、座りながらお茶を呑んでいたジョーさんがそう挨拶をくれたのだ。
……ジョーさんのことについては、思えばあまり触れていなかった。
彼は今回の一連のこととはほとんど関わりがなかった。そのはずだったのだが、「くとりぎさま」が祓われたのとちょうど時を同じくして、彼にも変化が見られていた。
ボクシングを、やめたのだ。
「自分を漫画の主人公と思いこんでいる」妄想自体は変わっておらず、今もやはり会話は噛み合わないことの方が多い。
だがある日を境に突然、日課だったシャドーボクシングが鳴りを潜め、食事や睡眠もしっかりととれるようになっていた。
そういった事情もあって、今ではこうして隔離も解除し、開放的な環境で過ごしてもらっているというわけだった。
「調子はいかがですか、ジョーさん」
「……ええ、眠れていますし、ご飯も美味しいです」
今もやはり頭の中では病的妄想が身を潜めているのだろう。何かを考えながら、緩慢にそう喋るジョーさん。
そんな彼に、ふと私は訊ねてみた。
「なんでジョーさんは、ボクシングをやめたんですか?」
あれだけ自分の体を痛めつけてまで続けていた行為がなぜ急に止んだのか。精神科医の端くれとして、純粋にそこは知りたかったのだ。
私の問いかけに、ジョーさんはたっぷり三十秒近くは沈黙を挟んだ後でぽつりと答える。
「……もう、強くならなくても、よくなったから」
「え?」
首を傾げる私に、ジョーさんは感情の乏しい顔のまま――私の顔より少し横辺りをじっと見つめて。
「弟が、もう大丈夫だと、言いに来たんです」
そんなことを言ったっきり、再び沈黙しながらお茶をすすり始めた。
弟。彼から家族のことを聞くのは初めてだった。
知りうる限りの彼のこれまでの経過を思い出す。病院を受診したのは、確か路上で暴れていたところを警察に発見されたからだったはずだ。
身分などを証明するものは何一つ持っておらず、辛うじて持ち物に書いてあったイヌカイユズルという名前だけしか分からない。当然家族がいるのかも分からないまま、ひとまず入院することになって今に至るわけだが――
「ご家族、いらっしゃったんですね。お名前とか連絡先とか、分かりますか」
私がそう訊ねると、ジョーさんはコップから口を外してぽつりと呟く。
「トシオ。弟」
短くそっけない言葉。だがその名前を聞いた瞬間に、私ははっとして彼を見返していた。
「……トシオさん? イヌカイトシオさんが、弟さんの名前なんですか?」
「…………」
ジョーさんはそれ以上は何も答えてくれない。ただ貝のようにじっと口をつぐんでいた。
それ以上追及を続けてストレスになってしまっても困るので、ジョーさんに別れを告げると私は時計を見る。
そろそろ外来の準備をした方がいいだろう。そう思って病棟を出て――途中、中庭の片隅の植え込みへと足を運ぶ。
植木の並んだ隙間にひっそりと佇むのは、小さな木製の鳥居。
それは教授が、置き土産にと残していってくれたものだった。
「くとりぎさま」は祓ったが、とはいえこの病院の立地が霊的に「よくない場所」であることは変わっていない。
何の対策も講じなければまた、よくないものの溜まり場になって妙なことが起こりかねない――そう言って彼はこっそりとこれを設置していったのだ。
『とはいえ、前のものよりも簡易なのでな。定期的に誰かが管理をしなければいかん』
教授が言い残したそんな言葉を思い出しながら、私はその鳥居に手を合わせる。
管理とは、一体何をすればいいのか……そう訊ねた私に教えてくれたのが、これだった。
何日に一度かくらいは、誰かがちゃんと思い出してお参りするように。
そうすれば、鳥居にちゃんと神様が宿って上手く働いてくれるだろう――と、教授は言っていた。
院長先生にはもちろん伝えていないし、隠れるように置かれているこの鳥居が通りがかったスタッフの目に留まるということもまずないだろう。
だからこれの存在を知っているのは私と……あとは私からその話を伝え聞いた鏑木先生だけだ。
この世には、科学や理屈で割り切れないものがある。
科学者である医師がそんなことを言うのは、決してあってはならないことかもしれないけれど――ある意味では「精神科医」だけはそれを否定すべきではないのかもしれない。
私たちが扱う病気は、例外はあれど多くは単純な採血や画像検査で異常を表さない「見えない病」だ。
けれどそれは決して嘘やまやかしではなく、確かにそこに「存在する」。だからこそ多くの人がそれによって苦しんでいるのだ。
ならば――私たちはあとほんの少しだけ、その視野を広げてもいいのかもしれない。
もちろんすべてを無批判に受け入れるわけではなく。ただ可能性のひとつとして……ありとあらゆる理性的検討を経てもなお削ぎ落としきれない「何か」を説明するための手段として、こういったものの存在を頭の片隅に残しておくのは決して悪いことではないと思うのだ。
たとえそれが非科学的な手段であったとしても。
それで患者さんが救われるのであれば――それに越したことはないだろう。
数秒ほど鳥居に向かって一礼を向けた後。私は踵を返して外来へと向かう。
裏手から診察室に入って、電子カルテで今日の予約リストを確認。その中の一人の名前に目を留めて――すでに「来院済み」となっていることにほっとする。
あれからしばらく、教授も彼女については何も言ってくれなかったし、本人が外来に顔を見せることもなかったから心配していたのだ。
あれから体調はどうだろう。夜はちゃんと眠れているだろうか。ご飯も食べられているだろうか。
そんなことを考えながら……私は準備を整えるとドアを開け、そこにいた彼女の名を呼んだ。
「――柊さん、お入り下さい」
くとりぎ-精神科病棟であった怖い話- 西塔鼎 @Saito_Kanae
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます