第24話 さらなる三つの考え
真倉は放課後という時間が一番好きだった。普段は勉学に追われる学生たちが、自分たちのやりたいことに没頭し、のびのびとしているところを見るのが好きなのだ。
部活に打ち込むもよし、友達と昨日観たテレビの話をするもよし、アルバイトに行くもよし。好きな人と一緒に帰るもよし。何をしても良い。自由なのだ。青春はそうあるべきなのだ。
空っぽの校舎に聞こえるのはわずかな足音と吹奏楽部のサックスの音だけだ。
「おや」
真倉は図書室の前を通り過ぎようとしたところで、そこに妙な札が貼りつけてあるのを見つけた。
「運が悪かったですね、真倉先生。今図書室は立ち入り禁止なんですよ」
図書室の扉には『立ち入り禁止』と書かれた紙が貼ってある。その横にはごめんなさいの顔文字も一緒に書かれていた。
「図書委員か、樋口君」
真倉は記憶を呼び起こす。
「そうです。さっき急に空調がおかしくなっちゃったんです。だから立ち入り禁止。このクソ暑い中、図書室にいたらみんな熱中症になっちゃいますからね」
樋口はそう言って真倉の顔を覗き込んだ。
「もしかして、まだ怒ってます?」
「なにが?」
「チョコチップクッキー」
「ああ。それならもうなんとも思ってないよ。帰りに自分で買ったから」
大人の財力をなめてもらっては困る。
「それならよかった」
樋口はほっとしたように胸を撫でおろした。少しは気にしていたのか、と真倉は思った。
「じゃあその代わりに、これ解いてみてよ」
真倉はすかさず例の暗号を樋口に見せた。
「なんですか、これ。暗号?」
「そう。紀見崎君の下駄箱に入ってたの」
樋口はスマホの画面とにらめっこをしながら少しの間考えていたが
「ギブアップですね。さっぱりわかんねえ」
そう言って真倉にスマホを返した。
「もうちょっと粘ってよ。なんでもいいから気づいたこととか」
「そうですね。百十八っていうのが気になりますね。これだけ三桁だ。何か意味があるんだと思うんですけどね」
「やっぱり。わたしもそれは気になるのよ」
「そういえば、最近面白いことを知ったんですよ」
思い出したように樋口はそう言うと、自分のスマホを取り出して何かを検索し始めた。
「面白いこと?」
「ええ。カナダの人が作ったっていう人工言語ですよ」
「人工言語? 自分で言葉を作ったってこと?」
世の中には暇な、いや、変わった人がいるものである。
「言葉だけじゃないですよ。文法もすべて。あった、これです。『トキポナ』。この言語の特徴が、単語が百二十三個しかないってことなんです。だからもしこれがトキポナなら、百十八も五十音みたく変換できるんじゃないでしょうか」
人工言語とは驚いた。だがそんなことを知っている樋口にはさらに驚いた。
「五十音でいくと五十三番目は『シンピン』で顔、正面、壁。九十五番目は『ポナ』で良い、単純な、仲がいい。十四番目は『インサ』で内、腹か。だめね。意味が通りそうにないし、五十音みたいに決まった順番があるわけじゃないのね」
「ま、そううまくはいかないですよね。たまたま思いついただけなんで、忘れてください」
樋口はにこやかに笑って言った。
「ごめんね、変なこと聞いちゃって」
「いえ、あともうひとつ実は気になることがあるんですけど」
今度は樋口は真顔になって言った。さっきのトキポナよりは価値がありそうだと真倉は直感した。
「なに、気になることって」
「これをどうして紀見崎君の下駄箱に入れたのかってことですよ。犯人の意図はなんなんでしょうね。僕は、彼のことを知る、彼への挑戦なんじゃないかと思うんです」
「どうして紀見崎君のことを知る人なの?」
「だって、あんな暗号を送りつけても、それを解いてくれなかったら意味がないじゃないですか。彼の頭の良さを知っている人が、挑戦しようとしているとしか考えられませんよ」
彼の頭の良さを知る人?
紀見崎は普段から頭の良さをひけらかすタイプではない。むしろぶっきらぼうで、人と関わることを積極的にしようとしない。そんな彼がここ数週間、いくつかの不可解な出来事を解決してきた。もし犯人がいるとしたら、そのときに関わった誰か、ということになる。
「紀見崎君への挑戦状ってことか」
「僕の妄想かもしれないですけどね。彼のように特別な才能を持つとなにかと大変ですからね」
紀見崎のような無気力な男が、人から挑まれることになろうとは。偉くなったものである。
「確かにね。妄想で終わればいいけど」
真倉は嫌な予感を振り切るように、笑顔をふりまき、樋口に別れを告げた。
職員室に戻ったところで、ちょうど阿多木と出くわした。阿多木は数学を担当している。ちょうどいいと真倉は思った。
「阿多木先生、お時間よろしいですか?」
「ええ。大丈夫ですよ。なにか?」
「生徒からのなぞなぞみたいなもので。これなんですけど」
真倉は数字の書かれた暗号を阿多木に見せた。
「なんだこりゃあ。規則性はないように見えるけどな」
阿多木は真倉のスマホと紙を自分の机に置くと、ペンを走らせた。
「素因数分解しても、だめか。数列でもないし」
「やっぱり素因数分解はするんですね」
「とりあえずやってみただけですよ」
生粋の文系である真倉は、素因数分解がどういったものだったか、正直あまり覚えていなかった。
阿多木は考えるよりペンが先走るようで、白い紙は瞬く間に黒く塗りつぶされていった。
「わかりませんね。数学的な規則は見出せませんでした。こんな短い数字の羅列だけじゃ、なんとも」
「そうですか。すいません、お忙しいときに」
そう言って時計を見ると、もうすぐで十八時になろうとしているところだった。
「これは生徒が書いたものですか? だったら専門的な知識からくるものじゃなく、もっと身近な、それこそ校内にあるなにかが元になっているんじゃないでしょうか」
阿多木はそれだけ言うと、少し恥ずかしそうに頭をかいた。体が大きいわりには、恥ずかしがりの気がある。
「学校の中にヒントが?」
「さあ、そこまでは。でも何気ないことであっさりと解けるかもしれませんよ。なんでさっきまで気づかなかったんだろうって思うことありません? 僕もこの前会計のときに、クレジットカードを使っているつもりが、保険証をかざしてましてね。何度やってもそりゃあ反応するはずもないし、周りの目も痛かったしで散々でしたよ」
そう言って豪快に笑う阿多木に真倉は呆気にとられ、そそくさとその場を離れた。
自分の机に戻った真倉にまたしても声をかけるものがいた。
「真倉先生、どうかされました?」
「あっ、進藤先生」
化学担当の進藤だ。彼は人体模型を落として壊したとして減給処分を受けたが、仕事にはその後も出ていた。
「なにかすごく悩まれているようですけど」
進藤はにこにこしながら真倉の横へやってきた。
「ええ。実はこれなんです。生徒からもらった暗号のようなもので」
真倉は五人目となる協力者、進藤に暗号を見てもらうことにした。
「うわあ。なんだこれは」
進藤は暗号を見て愚痴をこぼした。
「見ての通り、数字の羅列です」
真倉は苦い笑みを浮かべた。
「これだけ? これに何か対応したものがあるとかは?」
「本当にこれだけです。色んな人に聞いて回ってるんですけど、みんなお手上げで。わたしはこの百十八っていうのが気になるんです。これだけ三桁なのが」
真倉は唯一持っている自分の意見を、さも得意気に話した。
「百十八っていうと、オガネソンですね」
進藤はわけのわからないことを言った。
「なんですか? メガネサン?」
「オガネソン。原子番号百十八番で、周期表の最後の元素なんですよ」
「しゅ、周期表⁉」
「ええ。真倉先生も高校生の頃覚えませんでした? 『水兵、リーベ、僕の船、七曲りシップス、クラークか』っていうやつ。僕が化学をやっているからかもしれませんが、真っ先にこれが思いつきますね」
真倉は思わず進藤に掴みかかりそうになるのを抑えて、進藤に尋ねた。
「それじゃあ、これ全部、その元素ってやつに変換できるんですか?」
「そ、そうですね。できると思いますよ」
そう言って進藤は机の脇に置いてあった化学資料集を開いた。
「六番は炭素。四十二番はモリブデン、七番は窒素ですね。三番、リチウム。三十五番が臭素ですね」
「番号の下のアルファベットはなんですか? この『H』とか『Na』とか」
「ああ。これは頭文字ですよ。二酸化炭素は『CO2』って書くでしょ。あと化学反応式を書くときにも使ったりします。高校生のころやりませんでした?」
「記憶から消えました。あの、それより、これを……アルファベットになおしたいんですが」
もう一度真倉は暗号を見る。
「ええっと。最初は六で炭素だから『C』。次の四十二番モリブデンが『Mo』。七番の炭素が『N』だから」
「『CMoN』、カモンだわ。来いって言っているんだ」
「てことは次の『3 35 18 39』は『Li』『Br』『Ar』『Y』で『Library』、図書室だ!」
「と、解けた!」
この調子で解いていけば、すべてが読めるはずだ。
「一行目最後の『5』をそのまま読めば、十七時までに図書室に来いって意味になりますよ。二行目は……『I Am Si N Og I』。アイアムシンオギ?」
違う。『N』は後ろのアルファベットと繋げて読むのだ。つまり。
アイアムシノギ。
とっさに時計を見る。時間は十七時をすでに過ぎたところだった。
篠儀から紀見崎への挑戦? 図書室は立ち入り禁止になっていたはず。
真倉の勘はよく当たる。胸騒ぎがするのとほとんど同時に、真倉は職員室を飛び出していた。
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