第5話 密室の半分
気づいたとき、真倉はもう這いつくばっていた。
地窓の扉は開かれ、その先に廊下の床が見える。
「ねえ、やっぱりおかしいよ。なんでわたしなの?」
「さっきも言ったじゃないすか。俺ら生徒より先生の方が体は大きいですから」
「大は小を兼ねるってやつね」
紀見崎と宇津木がにこにこしながら言う。
「だっ、だったら進藤先生でもいいはずなんじゃ」
真倉は最後のわるあがきをする。
「進藤先生と真倉先生の体型はほとんど変わらないから、どっちでも問題ないと思います。ただ、真倉先生の方がなんとなく頼みやすそうだったんで」
そう言われると真倉としてはなんとなく断りにくい。せっかく頼りにしてくれた生徒の気持ちを踏みにじってしまう気がして気が引けるのだ。
とはいえ、生徒との距離が近いことがこんなところで裏目に出るとは思わなかった。
「あの、教頭先生」
「なにかな」
「地窓にはまって抜けなくなったときって労災おりますか?」
「知らん」
ですよね。
真倉は自分の顔から笑みが消えていくのを感じた。
五分後、真倉は意を決して、地窓に向かってもぞもぞと這いずり始めた。
こんなところ通ったらせっかくの服がほこりで汚れそうだ。それに、こんなことならパンツにすればよかった。足首まで長さがあるとはいえ、スカートだと恥ずかしい。
「ああー、もう。松村くん、カメラやめて! 撮らないで!」
恥ずかしさで頭まで熱くなっているのがわかる。
意外と頭は横向きにすればすんなりと通った。
だが問題はお腹だった。ここでつっかえることだけは回避しなければならない。
明日、いや今日から絶対にダイエットしようと真倉は心に強く誓うのだった。
「よっ、と。あ、あああ。いけ……る。いけそう、通れそう!」
ごりごりと窓枠に服をこすりつけているが、通れないことはなさそうだ。
「頑張って! 真倉先生!」
「君ならできる!」
どこかおかしな声援をうけ、真倉はなんとか地窓を通りきることができた。
「やった。通れた! 通れたよ!」
理科室に戻った真倉を進藤と宇津木が笑顔で迎えてくれた。
「いやあ、さすが真倉先生だ」
「すごぉい、わたし思わず見入っちゃった」
これでよかったんだろうかと真倉は気がかりだったが、喜んでもらえたようなのであまり深く考えないことにした。
「ともかくこれで、地窓を通って外に出られるってことがわかりましたね」
紀見崎は淡々と言う。
「ちょっと。ありがとうぐらい言ったらどうなの」
真倉は紀見崎をたしなめるように言った。
「え? ああ」
紀見崎は顔を赤くしながら、そっぽを向いてから
「あ、ありがとう」
と言った。
「はい。よろしい」
素直に表現できるわけではない。だが不器用ながらも彼なりに、人と関わろうとしているのかもしれないと真倉は思った。
そのとき松村が口をひらいた。
「あ、みなさん。さっきの映像もう一度見ます?」
「あ、見たーい」
宇津木などこの状況を百パーセント楽しんでいる。
「絶っ対だめ‼ わ、わかる?
真倉は必死だ。あんな姿、自分でも見たくない。
「通れることがわかったんだから、さっきの映像はいらないよね。消して、ね?」
そう言って真倉は松村に詰め寄った。
「わ、わかりましたよ。そんな近づかないでください。ほこりがつくじゃないですか」
「あ、ごめんなさい」
そう言って真倉は服についたほこりを払おうとしたのだが
「あれ? 汚れて……ない?」
思っていたより服は汚れていなかった。床を這ったにしては、ほこりもほとんどついていないみたいだ。
「やっぱり、俺の思った通りみたいすね。今日すでにそこを通った人がいるんだ。そのときにほこりや汚れがとれた。だから二回目に通った真倉先生はあまり服が汚れなかったんだ」
まるで探偵みたいなことを言うな、と真倉は感心した。
「つまり犯人は放課後、戸締りされる前の理科室に侵入。内側からカギをかけた」
宇津木がここまでの話をまとめる。
「そして人体模型を落とし、地窓から脱出した、と。これで密室の謎は解けたね」
しかし紀見崎の顔は晴れない。
「それじゃ半分。まだわからないことがある」
「半分?」
「なぜ犯人は人体模型を落としたのか。それがまだ解けていないんだよ」
そうだった。そもそも犯人はなぜそんなことをしたのか。
「そもそも放課後の理科室で犯人は内側からカギをかけて何をやってたんだ? そして、なぜ人体模型を落とすなんて意味不明なことをしたのか」
密室の謎が解けたと思ったのに、新たな謎にぶつかってしまった。
真倉は机に置いておいたビニール袋を手に取り、その理由を考えた。
「授業妨害、ストレス発散、あとは何かのメッセージとか?」
「どれもしっくりこないすね。真倉先生、もうちょっとマシな推理はできないんすか?」
紀見崎は無遠慮にそう言った。
「あのね! 推理は教師の仕事じゃないんだから仕方ないでしょ。そういう紀見崎くんはもっといい案があるんでしょうね?」
「進藤先生への嫌がらせ、とか。どうすか、何か恨まれることありません?」
紀見崎がストレートに尋ねる。確かに真倉よりはいくぶんマシに思える。
「そんなことはない、と思いたいけどね」
進藤は苦笑する。
「駐車場には車が置いてありますよね。人体模型が落ちていたあたりに車は停まってます?」
今度は宇津木が尋ねる。
「あの辺りに停める人はいなかったと思うわ。わたしは車じゃないから詳しいことはわからないけど」
真倉は自分の記憶を振り絞りながら言った。
「そっか。駐車場にあった何かを壊すために投げ落としたんじゃないかと思ったんだけどなあ。それも違うのか」
そのとき真倉の脳裏にふと恐ろしい想像がよぎった。もしあそこを通る誰かを狙ったものだとしたら。それは命にかかわる問題になるのではないか。
「ねえ真倉先生」
そんな想像は、宇津木の間延びした声がかき消した。
「さっきから気になってたんですけど、その手に持ってる袋ってなんですか?」
「ああっ。こ、これね」
宇津木がコーヒーカップの入った袋を指さす。
せっかく忘れかけていたのに、と嫌な思い出を蒸し返されて気を病みそうになる。ふと進藤の方を見ると、ニヤニヤとした表情を返してきた。
「なんでもないの。本当、大したものじゃないから。ゴミよ、ゴミ」
「ええー、本当ですかあ? ちょっと見せてくださいよう」
間延びした声で宇津木は真倉に迫る。
両手は今にも袋を捕らえそうだ。
「ちょちょちょ。だめだってば、本当に」
「えー。そんなに嫌がるってことは何かまずいものなんじゃないですか?」
さすが新聞部。鼻が利く。
真倉が必死になって隠そうとするほど宇津木の好奇心を煽ることになり、真倉は徐々に追い詰められていった。教師という立場を利用すれば断れないこともないのだろうが、真倉の性格からして、そうしたことは考えもつかないのだろう。
そうこうしているうちに真倉の手からぽろりと袋が落ちた。
「あーーー」
嫌な思い出がよみがえる。
——がしゃん
破片の砕ける鈍い音がした。
真倉と宇津木の動きが同時に止まった。
「真倉先生、何をしてるんですか?」
国木田の冷たい声が真倉の背中を刺す。
「もう! だからダメだって言ったでしょう」
真倉はさすがに少し怒った素振りを宇津木に見せる。
「あのう……その中って」
「わたしのコーヒーカップ。さっき割っちゃったの」
それで宇津木も腑に落ちたようで、それ以上踏み込む姿勢をみせなくなった。
さすがに悪いことをしちゃった、と思ってくれたのだろうか。
「お気に入りだったのに。見事に粉々じゃない」
コーヒーカップも、真倉の寵愛を受けていた頃はまさかこんな最期を迎えることになるとは夢にも思ってもいなかっただろう。
だが今は、こんなものにかまっている場合ではない。
気づけば十七時を超えている。真倉の仕事はまだ何も進んでいないのだ。このままでは家に仕事を持ち帰ることになってしまう。
一刻も早く人体模型を落とした理由を考えなければならない。
しかしそのとき、紀見崎がぽつりと言った。
「もしかしてそういうことなのか」
「え?」
しかしそれはあまりにも小さすぎて真倉にしか聞き取れていないようだった。
そして続けざまに紀見崎は言った。
「なあ、宇津木さん」
「なに?」
「職員室に行って鍵の貸し出し表を見てきてほしいんすけど。いいかな?」
「なんで?」
「そこに俺が鍵を借りた時間が書いてあるから、確認したいんすよ。正確な時間がわかった方が後々良いと思うんすよ」
これといって断る理由も思い当たらない宇津木は、怪訝そうな顔をしながらも松村を引き連れて職員室へ向かってくれた。
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