第27話 真倉まどかの気持ち

 視聴覚室に着いたのは十八時半になるにはまだまだ余裕がある頃だった。中からはまたしても話し声がする。おそらく樋口と篠儀だろう。

「どうするつもり? 紀見崎くん」

 真倉は進みあぐねている。やっぱり扉を開けるのは少し怖いものがある。

「そんなの決まってるじゃないすか。こんなところで待ってても、なんも拓けないすよ」

 紀見崎はそう言って視聴覚室の扉を、壊れるんじゃないかと思えるくらい、思い切り開いた。

「た、たっくん……?」

「やっぱり。樋口さん、悪趣味にもほどがあるぜ」

 紀見崎はぶっきらぼうにそう言った。

視聴覚室には、涙目の篠儀と薄笑いを浮かべた樋口の二人だけがいた。

「誰も来ないと思ってカギをかけなかったのが運の尽きさ」

「なんだ? なにをしに来た」

「あんたのくだらない妄想をぶっ壊しにきたんだ」

 紀見崎は小さく、しかし決意を込めたようにして言った。

「ははは。まだ自分が特別な人間でいると思いこんでいるのか。とんだピエロだな。そこにいる篠儀もバカだ。特別な人間と一緒にいれば、自分もまた特別になれると信じている。バカだ。救えない。昨日の食堂でのときもそうだ。わざわざ自分から証言をしに行った。自分も特別な人間になれると思っていたんだ。けど現実はどうだ? 彼の証言はほとんど役に立たなかった。俺はね、紀見崎くんみたいに特別な人間であろうとする人間と同じくらい、いや、それ以上に無能のくせに何かできるんじゃないかとあがいている人間の方が大っ嫌いなんだよ。無駄な努力ほど残酷で滑稽なものはない。部活をしている人間もそうだ。どうせプロになんかなれやしない。大会で優勝することもできない。なのに毎日毎日汗水垂らして駆けずり回る。そんなものを見せられるこっちの身にもなってほしいね。見ていて虫唾が走るんだよ」

 樋口は早口でそうまくしたてると、机の上に腰を置いた。

「ねえ、樋口くん。あなた、どうしてそこまで曲がった考えをしているの? なにがあなたにそう思わせているの?」

 真倉はそんな樋口の横に、同じく腰をおろした。

 怒り。それはもちろん感じる。こんなことしていいはずがない。紀見崎を傷つけ、今また篠儀まで傷つけている。教師として許してはならない。だがそれ以上に人として、自分と十個も離れた子の根底にある絶望を、一緒に癒してやりたい。話くらいは聞いてやりたい。そんな気持ちに真倉はなっていた。

「俺も一緒なのさ」

 静まり返った教室で、樋口はぽつりと言った。

「一緒ってなにが?」

「俺の親も歌を歌っていたんだ」

 紀見崎の目が見開かれ、真倉と視線がぶつかった。

「子供のころの話だよ。今はもう違う。俺が子供のころ、親父は歌を歌ってた。けどまったくといっていいほど売れてなかった。無名の歌手だ。正直すごいと思ったことはないし、これからも思うことはない。親父の仕事は金にならないから、おふくろが家計を支えてた。電気もつけず、公園の水を汲んできてはそれで体を洗う日々さ。お前、こんな生活したことあるか?」

 紀見崎は無言で首をふった。

「限界だった。俺もおふくろも。そして親父もそんなことはわかってた。働いてくれとおふくろが頼むのも聞かず、歌をうたい続けた。親父は夢を捨てようとしなかった。いつまでも歌手であることにこだわり続けたんだ」

「それで、そのあとどうなったの?」

 真倉はおそるおそる尋ねた。

「離婚した。おふくろはまともな男と再婚したよ。俺たちの生活は激変した。明かりの下で毎日三食飯が食えるようになったんだ。今こうして高校に通えているのもそのおかげさ。その再婚相手は親父とは大違い。会社に勤め、コツコツと節約しながら金を貯めていた。おふくろの幸せそうな顔を見られれば、俺はそれで良かった」

 樋口は誰かにこの話をしたことがあるのだろうか。

 彼は人が一生で背負う苦労をもういくつも背負っている。ここまでになるまでに気づいてあげられる人がいなかったことが悔やまれる。

「だから俺は夢を抱かない。そもそも自分に才能があるかもとすら微塵も思わない。大人になればみんな名前も知らない会社に勤めるどこかの誰かさんになるだけ。今スポーツができても、文化祭ライブに出ても、行きつく先は変わらない。大人になるっていうのはこのことにいつ気づくか、だと俺は悟ったんだ」

 親をみて育ったからだろう。樋口には夢がないのだ。というより夢を抱くことすらできない環境にいた。幼少期の親の影響ははかりしれないものがある。自然とそうした考えになってしまったのだろう。

「ねえ樋口君。君がそんなに苦しんでいたとは知らなかった。ごめんね。でね、ひとつ聞きたいことがあるんだけどさ。お父さんはなんで歌手になろうとしたのか知ってる?」

 樋口は少し考えていたが

「確か、友達から歌がうまいと言われたから、だったかと」

「じゃあお父さんは歌が好きだった?」

「え?」

「今となってはわかんないし、周りの人に比べたら確かにお父さんは歌がうまかったのかもしれない。けど、お父さんは歌を歌うのが心の底から好きだったのかな。お父さんが歌を歌ってる姿を見て、楽しそうだなと思ったことある?」

「それは……ないです」

 樋口は過去の記憶に苦しめられている。ずっと過去に縛られ、未来を見れないでいるのだ。青春は自由であり、誰にとってもそうあるべきなのだ。それは紀見崎も樋口も一緒だ。

「わたしはこの仕事が好き。先生になれて良かったと思ってる。学校にいると疲れることも多いけど、それ以上にみんなから力をもらってるの。だからどんなことが起きても元気でいられるし、何が起きても絶対に負けないって強く思えるの。樋口君は何をしているときが一番楽しいのかな。好きなものはなにかな?」

 樋口は考えているようだが、なかなか言葉に出てこないようだ。

「これはわたしの考えなんだけどね。好きっていう気持ちは不可能を超えるんだって、わたしは思うの。わたしは教師という仕事が好き。自分でも天職だと思ってる。確かに君の言う通り、大人になったわたしのことを世界は知らない。城岡高校なんて名前も知らない会社に勤めるひとりの教師だよ。ぶっちゃけどこかの誰かさんに違いない。でもわたしは今の人生を楽しんでるし、毎日が楽しいの。いいこと教えてあげる。この世界には、誰にも知られていないけど、そうやって自分の好きなことをやってる人がたくさんいる。そういう人たちは好きっていう気持ちひとつで運さえもつかみ取り、到底不可能と思えることを成し遂げてきたんだよ。君のお父さんとの違いは、その好きっていう気持ちを持てたかってところだったんじゃないのかな」

 樋口は顔色ひとつ変えずに真倉の話を聞き入っていた。

 そしてぽつりと言った。

「もう遅い。遅すぎるよ。今さらそんなこと言われたって、俺の人生は変わらない。もうこのまま生きていくしかないんだ」

 そう言って樋口は重い腰をあげた。樋口の目からは生気が完全に抜け落ち、口の半開きだ。

 真倉とて教師である前にひとりの人間である。そんな様子の樋口に真倉は掴みかかった。

「ふざけんじゃねえぞ、さっきから! お前、まだ高校生だろ。二十歳にもなってない若造だろうが。まだまだ可能性に満ちあふれてるんだよ。いくらでも引き返せる年齢のはずだ。そのくせわかったような口利きやがって。そういうやつが一番もったいないんだよ! 君は、君の人生を生きるんだ。お父さんの失敗が気になるか? 人生の影がちらつくか? 知らねえよ。お父さんを見て、超えてやろうという気概は出てこねえのか。魂が燃えてはこないのか。自分に失望するんじゃない。未来を諦めるんじゃない。未来をつくるのは過去の自分じゃない。今、この瞬間からの自分自身なんだ。そんなお前が自分を信じてあげなくてどうする。自分のことを好きになれないでどうするんだ⁉」

 樋口の胸ぐらを掴み、真倉は樋口の両の目に、命の色が戻るまでその手を離さなかった。

「わたしはただ……みんなに諦めてほしくないんだよ。自分の人生を。ここまでこれずにこの世を去った人が、今日という日を、心から渇望しながら生きられなかった人がいるんだ。そういう人たちのためにも、今を生きる人がもがき苦しみながら、それでも懸命に生きることは、バカげていると思うか?」

 樋口は何も口に出さない。否定も肯定もしない。きっと彼自身も心の底ではわかっていたのだろう。自分の行動の間違いを。だから何も言わないのだ。彼の心の中では今、善と悪が戦っているのだ。

「真倉サン。俺もひとつだけいいかな」

 紀見崎も隣にやってきて言う。

「生意気に思えるかもしれないけど、俺も真倉サンの言ってることが正しいと思う。確かにあんたの言った通り、俺は秋峰政紀の息子だし、親父の本名は天音だ。それに、歌手の息子なのに音痴だ。だけどそれで人生を諦めたりはしなかった。生きている限り、どこかに必ず道は拓けると思うからだ。人が死ぬのは寿命が尽きるときだけじゃない。諦めたときだ。みんな知らないと思うけど、親父も挫折してる。歌うことをやめようとしてたときがあったのも知ってる。実際、半分くらいやめてたこともね。けどしばらくすると、また歌っているんだ。曲をかいているんだ。きっと心がそれを望んでいるんだなって俺はそのとき思った。親父から音楽を引き離そうとしても、無理なんだって。別に運命なんかじゃない。ただそれが好きなんだ。好きで好きでたまらないんだよ。いてもたってもいられなくなるんだ。見てればわかるよ。表情が違うんだもん」

 紀見崎はそう言うと優しく微笑んだ。

「樋口君、君はまだ引き返せる。人生どうとでもできる。だからやり直そう。夢をもつんだよ。それが難しいなら好きなことからはじめよう。好きなことがわからないなら先生がいる。わたしは生徒のためならなんでもする。だってそれがわたしの好きなことだから」

 真倉はにこやかに微笑んでそう言った。

 樋口は呆然として口もぽかんとあけている。しかしその目には、わずかながらも生きる希望を見出したかのように、真倉には見えた。

「見つかりますかね。好きなことなんて」

「見つかるよ。だってこの学校はそういう子多いもの。困ったらわたしだけじゃなくて、みんなにも相談するといいよ。例えば新聞部の宇津木さんと松村君。変わり者だけど、新聞をつくるっていう情熱は半端じゃない。まあ、時々手加減してほしいときはあるけど。あとは歌姫、本間さんと有末君。二人のことは知ってるか。有名だもんね」

紀見崎がそこに付け加える。

「有末さんは歌うだけじゃない。曲もかいてる。占いも得意だ。あの人はすごいよ、一度会ってみるといい」

「UFO研究会は知ってる? あの三人も話し出したら止まらないから、気をつけてね。わたしもさっきひどい目にあったんだから」

そう言って真倉は笑い声をあげた。

「あの人たちはちょっと変わり者だから……」

 つられて笑う紀見崎にのせられ、樋口の表情にわずかに笑顔がみられた。

「あっ! あああ」

「どうしたんです?」

 そのとき突然、真倉が叫び声をあげた。

「もう十八時半になっちゃうじゃん! 実はさ、わたしこんなことしてる場合じゃなかったんだよね」

「仕事っすか?」

「そう。大切な仕事。悪いんだけどさ、篠儀君と樋口君はわたしが今から言うところに行ってくれる?」

 突然のことに二人は困惑していたが、とりあえず真倉に従うことにした。

「え? じゃあ俺は?」

 紀見崎が自分を指差しながら言った。

「君にはあとで話があるから。ここで待ってて」

 真倉はそう言うと、篠儀と樋口の二人に耳打ちをし、慌てて視聴覚室を飛び出した。真倉の足はまっすぐ校舎の外へ向かって行った。

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