第21話 21
21
「止まないなー」
作業を終えて帰り支度を済ませた頃になっても天候は回復していなくて、ぽつぽつ降り続ける雨音が未だ窓を叩き続けている。
ようやくスマホで天気予報を確認したら、このまま深夜にかけて降り止むことはないそうだ。
「俺は帰ろうと思うけど。雛倉はどうする?」
俺が仕事をしている間はスマホを弄ったり、テストの見直しをしていた彼女だったが、流石にすることがなくなったらしく、今は暇そうに頬杖を付いている。
訴えかけるとも言えない鈍い視線で見られていることに気が付いて、声をかけて見たら想像以上に緩慢な反応が返ってきた。
「・・・うん」
「眠くなった?」
「なに?」
「帰ろうかなって。雛倉はどうする?」
「帰る」
「俺と相合傘することになっちゃうよ?」
「何かまずいの?」
「噂になるかも」
「ならないんでしょ」
「・・・そうなんだよなぁ」
これが本当にならないから笑えない。
俺が雛倉に気があると思われるくらいだろう。
まぁ、それなら何も間違えてはいないのだが。
「帰ろ」
物憂い無力感に唸っていると雛倉はさっさっと立ち上がって、手提げ鞄をスカートの前に提げる。
「戸締まりするからちょっと待ってて」
照明を消してから教室を出て、しっかりと扉の施錠を確認。廊下は薄暗く、他の部活が使っている教室の明かりで何とか視界が保たれている状態だ。ただ、その明かりも階段にまでは及んでいない。
転ぶと危ないので、スマホのライトを点灯する。
「転ばないようにな」
先導して階段を降りていくと、階を下るごとに暗さが増しているような気がしてちょっと怖い。
怖がりな彼女がちゃんと付いてきているか確認しようと振り返ったら、目の前に顔があった。
「うお」
「いたっ」
立ち止まったタイミングで、真後ろを歩いていたらしい雛倉とぶつかってしまう。
ゆっくり歩いていたから大した衝撃ではなかったが、彼女は俺の肩に鼻をぶつけてしまったらしく暗がりの中で鼻をさすっていた。
「突然立ち止まらないでよ」
「ごめん。そんな近くにいると思わなくて」
「仕方ないじゃない。・・・怖いんだから」
「素直だなぁ」
「あんたに隠しても仕方ないでしょ」
彼女が怖がりなことはよく知っている。
だから、いつかの強がりはもう必要ないのだ。
「手繋ぐ? なんて、そこまでじゃないか」
相手がマナでもあるまいし、子供扱いし過ぎたか。
伸ばしかけた手を引っ込めようとして、けれど、それは雛倉の左手に捕まったから叶わない。
「ん」
「・・・そんなに怖い?」
「目を瞑りたくなるくらいにはね」
「怪我しかねないから開けとこうな。・・・ちゃんと引っ張って行くから」
「分かった」
手のひらを握り返して、下駄箱までの道を歩く。
たった数分の距離だけど、彼女の温かい体温が繋いだ場所から伝わってきて否が応でも鼓動が早まる。
昇降口では透明なガラス扉が外の人工光を取り込んで僅かに暗闇の気配を散らしてくれていた。
明かりがあるならもう怖くはないだろう。
パッと手を離して、手早く外履き用のスニーカーに履き替える。先を歩いていたから俺の動揺は気付かれていない筈。背中側から聞こえてくるローファーが床をコツコツ蹴る音を聞きながら一度深呼吸。
軽いノリで決まっているけれど、これから雛倉と一つの傘で帰るのだ。心を落ち着かせておかないと変なところを見せてしまいそうだった。
呼吸を整えて、可能な限り澄ました顔で振り返る。
「行こうか」
「・・・ええ」
昇降口を抜けて肩掛け鞄から黒色の折り畳み傘を取り出し、開く。何も言わなくても雛倉は隣に並んで、合図がなくても同時に歩き始めた。俺の歩幅の方が大きいので彼女に無理をさせないように注意しないと。
校門までのアスファルトの道はグラウンドの投光器が照らしてくれているが、グラウンドにはこの雨模様のせいもあって誰もいない。その更に奥にある体育館の中には運動部が練習に励んでいる気配があった。
「まだ練習してるんだな」
「八時ぐらいまで練習してるそうよ」
「ひぇ〜。大変だぁ。そりゃ、授業中寝たくなるよ」
「寝てるとこは見たことないけどね」
「マジか。凄い奴だよ本当に。俺なんか八時間ちゃんと寝てても寝るのに」
「ちゃんと授業は受けなさい」
明確に名前を出さなくても通じてしまう。
彼女にとっても俺にとっても特別な相手だから。
「顔出しに行く?」
「いいわよ。練習の邪魔になるでしょ」
「俺だったらやる気が漲るけどな」
「本当にあんたとあいつは似ても似つかないわね」
「ひ、ひどいっ。悪口だ! 悪口言われた!」
「鬱陶しい・・・。別に悪いとは言ってないから」
雛倉が俺と王子の差をあげつらうように言ったりしないのは分かっている。そして俺の冗談も彼女には見透かされているから、とても言い合いになるような空気にはならなかった。
「ただ、私が会いに行く必要はないってこと」
「えっと・・・。また喧嘩したりしてないよな?」
「してないわよ。たぶん、もうしないと思うわ」
「珍しい。雛倉が無茶を言っている」
「無茶じゃないから。私の事どんな風に見てるのよ」
「結構詰められてる実体験があるんすけど・・・」
「ふふ。まぁ、あんたとは喧嘩するかもね」
「えぇ!? なんで!? 人当たりは良いって言われるよ・・・?」
問題があるなら教えて欲しかったが、教えてくれる素振りは微塵もない。俺が傘を持っているのにさっさと歩いていくので、彼女が濡れてしまわないように慌てて後を追いかける。
校門を抜けたら、外の世界には雑多な物音で溢れかえっていた。オフィスビルの灯りや車のヘッドライトによって辺りは眩しいくらいに光り輝いていて、人の息吹が感じられる。
雨が降っているのに学生の姿も多かった。
こんな日くらいさっさと家に帰ればいいのに彼らはそうはしない。家に帰れば今日という一日は終わってしまうから、凌げる場所を探して、別れを惜しむように話を続けている。
そこまでして話した内容を十年後に覚えてはいないだろうけど、きっと、今。この瞬間が特別だから、彼らは愛しい人と少しでも長く居ようとするのだろう。
俺も同じだ。
この時がいつまでも続けばいい。
遅々とした足取りも雛倉の歩幅に合わせているという免罪符があるから、罪悪感を抱かなくて済む。
ただ、少しだけ周囲の目に恥ずかしくなってきた。
顔が変になっていないかそればかり心配していたら、傘を持つ右腕に軽い衝撃がやってくる。
「どした?」
衝撃の後も彼女は離れようとはせずにそのままピッタリと俺の右腕に自身の左腕をくっつける。
何事かと思っていたら手提げ鞄が振り子のように振られて俺の太腿に直撃した。
「あたっ」
「ばかやくも。肩が濡れてるわよ」
「え。あぁ、ばれたか」
気にしないようにしていたのだが気遣い屋さんの彼女には隠し通せない。だからと言って、こんなに距離が近くなると今度は顔が茹で上がってしまいそうだ。
「これもカッコつけ?」
「そんなのじゃないって。風邪引かれたら嫌だから」
「やっぱり格好つけてる」
「えぇ〜。どういう判定?」
気取っているつもりは本当になくて、ただの心配でしかないのだが認めてくれない。
視界の端で小言を呟いているのがよく見えた。
「こうすればお互い濡れないでしょ」
その言葉と一緒に右腕を這ったのは彼女の指先で。
なぞるように滑らされたそれは腕の内側に入り込んできて、二の腕部分に絡みつく。
腕を使って押さえつけられているので抜け出せないし、逃げ出せない。
「ひ、雛倉さん?」
柔らかい感触とこそばゆさが全身を駆け回って、何も言葉が浮かばない。ぎこちなく足だけを繰り出す俺を見上げて、雛倉は満足そうに微笑んだ。
「これでも何の噂も立たないかしら」
「・・・何しようとしてるの?」
ようやっと不穏な言葉が聞こえてきて意識が戻る。
もしや社会的に俺を殺そうとしているのではないかと不安になってきた。
怖くて確認ができないが周囲からの視線を感じる。同じ高校の奴らがいたらまずいかもしれない。
「うーん。あんたも大概ね」
「え。なにが?」
突然何事と比べられたのかが分からなくて問い返してみるけれど、ぎゅっと力を込めてくるくらいで、言葉のお返しはこなかった。
そのまま彼女の家に到着するまでの記憶を俺はよく覚えてない。時々、聞こえてきた俺の反応を楽むような甘美な息遣いだけが鼓膜の奥に焼き付いていた。
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