第24話:時計仕掛けの戦争①

 あのくすんだ金髪の少女――アメリアは、劇を見に来るだろうか。いい子であり悪い子でもある、ああいうガキが一番質の悪いやらかしをするんだ。

「冗談じゃねえぞ……」

 リチャードは城の窓から暮れゆく街並みを睨んで、吐き捨てた。雑用係の独り言を気に掛ける者はいない。吹き抜けから見える大広間では、今や舞台装置が着々と組み上げられつつある。床板に隠された無数の滑車が、獲物を待ち構える獣のように低く唸っている。


 結局、昼間にすれ違ったあの場では彼女を引き留めることは出来なかった。すぐ近くに劇団スタッフが居た以上、あそこで妙な動きをすれば怪しまれていた可能性が高い。そうなれば、作戦が破綻する。イングリットを助ける機会も失われる。


 俺は冷静だ。

 何も間違っちゃいない。

 使命を果たせ。


 焦燥を胸に秘め、懐中時計に目を落とす。時計の魔女ウルカ・ナナヤを呼び起こす魔法の道具は、それをそれとして正確な時刻を刻んでいる。

 午後6時を回った。大広間の隅に人が集まり、料理番が軽食を配り始めた。

「おーい、雑用係!」

 下から呼ばれ、リチャードは慌てて階段を駆け下りた。

 警備隊長が尻を掻きながら、空いた手で揚げ芋を摘まみつつリチャードを招いていた。

「ご用っすか」

「ああ。サウスヘイブンから例の女優が到着したんだ。確かお前が勧誘したんだろ? 身の回りの世話……とりあえず荷物持ちを任せようと思ってな」

「! ええ、ぜひとも!」

 早速のチャンスだ。


 リチャードは急ぎ足で玄関ポーチへと向かった。ちょうど、一両の自動車が停車したところだった。豪勢なことに、ベケットが屋根付きの高級私用車を出してくれたらしい。運転席から降りた劇団長が、リチャードをつまらなそうに一瞥した。

「雑用係のサンダーソン、人事の件は聞き及んでいる。入居に関する作業が落ち着くまで、そのままここで働け」

「はい、劇団長。それで、俺はイングリットの世話をするよう頼まれたんですが」

「いいだろう。トランクから荷物を出せ」

 リチャードが車の後ろに回ってトランクを開けると、妙にカバンの数が多い。女の私物とは男より嵩張かさばるものとはいえ、明らかにベケットのぶんと合せて3人前はある。


 その脇で、ベケットがうやうやしく後部座席の扉を開けた。

「どうぞ、イングリット」

「どうも、ミスター・ベケット」

 先に降りたのはイングリット。リチャードに気付き、軽く会釈をした。彗星座で別れた時と表情に違いはなく、いたって平然としている。

 続いて、ベケットはもう一人の乗客の手を引いた。

「さぁ、ハンナ。足元にお気を付けなさい」

「あぁもう、やっと着いたのね! 疲れちゃったぁ」

 リチャードは目を丸くした。まさか彼女まで来るとは思ってもみなかった。


 劇団『魔女の帳』の花形女優、影の魔女ハンナ・テイラー。


 彗星座での新作『アミュレット』に掛かり切りだと思っていたのだが。思えば彼女も女性で、魔女だ。劇団の本業に関係がある可能性はある。思惑がどうであれ、また不安要素が増えた。

「まぁ、これが来季の拠点!? お城に住めるなんて私、楽しみになっちゃったぁ! ドレスはあるかしら?」

 ハンナは豪奢なブルネットを揺らして子供のように跳ねた。ベケットはへつらうような笑みで頷く。ハンナに恋する男が多いのは、影の魔法による妖しい演出と、舞台を降りた際の弾ける夏日のような素顔のギャップにやられるからだ。

 無論、ベケット劇団長は女なんぞより金が好きなことで知られている。

「もちろんですよ、ハンナ。来季は古城と饗宴をテーマにした劇を企画していましてね……今回は見習いたちを使ってその予行演習をするのですよ」

「素敵ぃ!」

 リチャードが3人の荷物を抱えたのを確認すると、ベケットは女性陣の肩を押して城に入るよう勧めた。

「さぁ、ここで立ち話をしては虫が入ります。食堂にお茶を用意していますから、どうぞおあがりなさい。……雑用係、ふたりの荷物は客室棟の2階、私のぶんは1階の部屋へ。空いていればどの部屋でも構いません」

 ベケットたちはさっさと食堂へと去ってしまった。


 荷物を持って離れの客室棟へ向かいながら、リチャードは考えを巡らせた。

「客室棟は、被験者たちの収容施設じゃねえ」

 客室棟の警備は手薄だ。城の本棟との連絡にも少し難があり、軟禁には向いていない。当然、コミュニティに招いたばかりのイングリットを本丸に入れはしないだろう。

「だが、ハンナが監視役ってことも考えられるか……」

 ハンナが劇団の裏の顔を知っている、さらには交配実験に協力しているとも考えられる。

 それでも、今すぐイングリットが手籠めにされるような事態には陥らないはずだ。クリフも言及していたことだが、ここから脅迫、洗脳ないし懐柔のプロセスに移る可能性は高い。なにしろ、合意がない状態で女性を妊娠・出産させる環境を維持するのは非常に難しい。

「まずはイングリットとの接触だな」

 とにかく、情報を集める。救出の意図を伝え、協力を取り付ける。そこからだ。


 警備の巡回ルートや各棟の構造を頭に入れながら、リチャードは女優たちの荷物を搬入し終えた。そしてベケットの次なる指示を仰ぐべく食堂に顔を出すと、いきなりイングリットに指を差された。

「――ですから、ミスター・ベケット。チャリティショーへの出演を私の試金石としたい意図は分かります。しかし今回の仕事を引き受けるにあたって、この条件は譲れません。リチャード・サンダーソンを主演男優として参加させてください」

「え? なんて?」

 リチャードは間抜けにも聞き返した。イングリットの正面に座るベケットは、頭痛を抑えるようにこめかみを指で叩いている。ハンナはその隣でクスクスと笑っている。

 なんのことだ。まったく状況を掴めない。

 イングリットは真顔でリチャードに手を振った。

「城でのチャリティショーは、ミスター・ベケットが私を採用した直後にいきなり決めたことだ。台本は彗星座で読ませてもらった『魔王』だけど、配役はまだ決まっていないそうだよ。ならば私のお気に入りであるリチャードと共演したい。そんなに不思議かな?」

「ま、待ってくれ。話が急すぎる」

「君は役者になりたいんだよね? じゃあ今その願いを叶えよう」

「ま、待ってくれ……」

 リチャードは両手を挙げて降参のポーズ。ベケットは頭を抱え、ハンナはとうとう腹を抱えて笑い出した。

「あはっ、あははは! だめもう無理! イングリットちゃん面白いわぁ」

 ハンナは笑いすぎたゆえの涙をぬぐい、閉口した男性陣に代わってイングリットに聞いた。

「イングリットちゃんって、女優は芝居に色恋沙汰を挟むものだとでも思ってるのかしら?」

 皮肉や叱責の色はなかった。ハンナは色っぽく頬杖をついて、イングリットの瞳を覗き込む。それに対し、イングリットはすげなく目を逸らす。

「偏見や他者の価値に興味はありません。私は単に、感情に従っているだけです」

「ふうん……」

 微妙な沈黙の後、ハンナは大きく手を叩いた。

「まぁ、いいんじゃないかしら! 女はやっぱり、感情的に生きて周囲を振り回してこそよね!」

 ベケットはハンナを窺って、深い溜息を吐いた。女同士にしか理解できない攻防は、さしもの劇団長も苦手なようだ。

「はぁ……ハンナが仰せならば、私が口を挟むことではありません。雑用係、そういうことだ」

 そしてリチャードの意思はごく当然のように無視された。


 もちろん、舞台俳優であるリチャードには経験も信用も欠けている。気まぐれなハンナはともかく、渋面のベケットその他劇団スタッフを納得させるため、イングリットはある提案をした。

即興劇エチュードをしよう、リチャード」

「え? え? あぁ……今から?」

「打ち合わせをしたら意味がないでしょう。君の才能を見せるチャンスだよ」

 簡単に言えばエチュードとは、人物や状況だけを設定し、台本を用いずに即興でストーリーを進めていく芝居の型式である。昨晩リチャードが見た大広間の見習い役者たちも、この形式で稽古をしていた。

 リチャードだって、仕事の暇を見ては孤独に励んでいたものだ。彗星座では誰も稽古に付き合ってはくれなかったが。


 大広間は設営に忙しいので、エントランスホールを貸し切ることになった。本来はそう珍しい光景でもないはずだが、新入りの女優と雑用係の男がやるとのことで手の空いたスタッフが集まってきていた。皆、遠巻きに好奇の目をふたりに向ける。

「サウスヘイブンで劇団長が雇った女か? 素人には見えないな」

「それよか相方の男だれだよ」

「事故った雑用係の代役だよ! 昨晩から居たろ!」

「あぁ、とすると……フッ、いいご身分だよなぁ」

 嘲笑には慣れているし、言い訳のしようもない。ここまでのリチャードは、才ある女に好機を恵まれただけの有象無象でしかないのだ。

「声援だけを聞いていられる役者などいないよ」

 そう耳打ちしたイングリットに手を引かれ、上階へ続く大階段の踊り場に立った。あまりにも、なし崩しである。選択権など問われもせず、彼女の背に付いていくので精一杯だった。

 

 演じる覚悟は出来ていたはずだ。

 手汗が酷いな、ダサい野郎だ。


 イングリットはこっちの内心を見透かしているだろう。それでなお、彼女はリチャードの手を取りながら階下の観客たちに手を振った。十数名にものぼる野次馬のうち、半数くらいはリチャードの醜態を期待しているはずだ。

 その中に紛れたハンナが手を叩くと、一気に場が静まった。

「私としては、この状況の面白さだけで合格を出したいのだけれどねぇ? ほら、あまりにも猿芝居なら舞台に上げられないでしょう?」

 傍らのベケットが、メモを取り出しながら言葉を継いだ。

「イングリットについては心配していない。それよりサンダーソン。お前が役者志望であることは知っていたが……分かっているんだろうな?」

 雑用係としてこき使われていたせいで経験が~なんて言い訳は効かない。ヘタクソなら即降ろすぞ、という圧。

「シチュエーションは『故郷に帰ろうとする女と引き留める男』でいく。始めたまえ」

 劇団スタッフたちの気のない拍手と、ハンナのやけに熱烈な拍手が開演を告げる。


 イングリットはゆったりとまぶたを閉じ、そして開いた。それが彼女の役に入る合図だった。深遠な虹彩は鳴りを潜め、お題の通り離別の悲しみに濡れた女の瞳が開かれる。

 リチャードも息を大きく吸って、己の役に身を沈める準備を整えた。


 誰の思惑がこの盤面を制しているのか、もはやリチャードには分からない。

 だが、切り抜ける。

 劇団の不興を買うことが潜入においてリスクに繋がるという理由はもちろんある。それ以上に、リチャードは己の才能を認められたかった。

 最初に紡ぐ台詞は、自然と湧き上がってきた。


「なぁ、イングリット。俺は……あんたのことを何一つ知らなかった。だから教えて欲しいんだよ」


 *


「まったく我々は、敵のことを何一つ知らないな……嫌になるよ」


 クリフは首を気だるげに回しながら呟いた。

 暗幕が引かれ、裸電球のもとに物々しい私服軍人たちが集うカーティス家の納屋。各々が武装の整備に黙々と励む中、クリフだけは先ほどから作業台で胡乱な文章を書き散らしてばかりいた。情報総局から送信された莫大な量の暗号電報を解読していたのだが、流石の仕事人間も疲れを隠せないようだった。


 にしても、驚くべきことだ。

 クリフ――『C』が仕事に対し愚痴をこぼすはずがない。普段なら、ぼやいた部下を穏やかに、されど厳しく叱咤しったするのが『C』たる人間だ。


 我らが指揮官は体調でも悪いのか? それとも意識の高い何かしらの問題提起か? 部下がこの微妙な独り言に反応すべきか迷っていると、いち早くショットガンの点検を終えたケイリーが立ち上がった。

「不味い事態なんだな」

 血の繋がった兄妹として何かしら通ずるところがあるのだろうか。クリフという男は、本当にヤバい時は一周回ってひと呼吸置きたくなる性分らしい。彼は静かに首肯し、両手を打ち鳴らして部下たちの注目を集めた。

「皆、集まってくれ。まずは最新情報と照らし合わせ、現況を説明する」


 部下たちが作業台に顔を突き合わせる。

 まず目につくのは、公国の国家憲兵隊であるジャンダルメリヤから提供された情報。そこにはイングリット・グリムの名と、数年前に彼女が現地の悪魔崇拝カルトを相手に起こしたの捜査資料が記されていた。

「イングリット・グリムは間違いなくクロだ。そして、彼女はどういうわけか魔女の血統継承を謳うカルト勢力を攻撃している」

 彼女が悪魔崇拝を排除せんとする正義の使徒でないことは判明している。彼女の公国内での足跡には帝国軍参謀本部の影があり、公国カルトへの攻撃も帝国軍の支援を得て行ったものだった。

「公国政府も驚いただろう。治安を乱す悪魔崇拝者を捜査していたら、なぜか帝国軍の工作部隊が先んじて彼らを殺しまわっていたんだからね」

 ケイリーが相槌を打ちつつ、難しい顔で口を開く。

「イングリット、というより帝国軍には、魔女の血統継承になにかしらの根拠があり……なおかつそれを阻止しようとしているということだな」

「ああ。そしてその標的は公国だけでなく王国にも広がっている、とジャンダルメリヤは警告してくれた。公国が我々の同盟関係を忘れずにいてくれてよかったよ」

 裏を取るには遅すぎるくらいだが、どのみち予想の範疇だった。何も知らないリチャード・サンダーソンを通じて彼女に突入作戦が筒抜けになったとしても、それならそれで裏を掻けばいい。


「問題は、『魔女の帳』の方も切れ者だということだ。彼らは既に軍の干渉に勘付いている。そしておそらく、イングリットの背景や劇団内部に入り込んだ帝国軍のスパイにもな」


 こうなると、劇団長ベケットがブリックフォール城にイングリットを移送したのは、彼女らを有利な陣地で始末するためだと考えられる。そして突発的に街の子供たちを招いたチャリティショーを企画したのは、クリフたちの突入を足踏みさせるためだ。

「つまり状況は三つともえなんだ。そしてチャリティショーの開催日程は、『魔女の帳』と帝国軍の間に複雑な情報戦があったことを示唆している」


 クリフはぶちまけられた捜査資料の中から、沿岸警備隊によって提供されたものを摘まみ上げた。

「ここ数日、サウスヘイブン沖合で不審船の目撃情報があった。こいつは帝国軍の工作船とみていい。イングリットたち実行役が『魔女の帳』に対する攻撃を終えた後、回収するために待機しているのだろう」

 続いてクリフは、サウスヘイブンの電信局から提供された情報を読み上げた。今日、麓の街に送られた暗号を情報総局が解読したものだった。

「しかし工作船は、我らが沿岸警備隊に追い回されたせいで活動限界が近づいている。その様子を見ていた帝国軍の連絡員は、イングリットら実行役に向けて通知しなければならなかった。〈明後日までに本島を脱出する、速やかに『魔女の帳』を壊滅させ、合流せよ〉とね」

 ここまで聞いていたケイリーが、頭痛を抑えるようにこめかみを指で叩いた。

「チャリティショーに参加していたら本国に帰還できなくなるよう、『魔女の帳』が一計を案じたわけか」

 クリフも眉間にしわを寄せ、頷いた。

「劇団もイングリットも、明日までのうちに勝負を決する腹積もりだ」

 作戦は情報収集のため1週間の余裕を取っていたが、舞台上の2勢力による心理戦によってタイムリミットは大きく繰り上げられた。劇団の意図を鑑みれば、子供たちが戦闘に巻き込まれることはない。だが、劇団に軟禁されている被験者女性たちの内情を探ることも難しくなってしまった。彼女たちが無理やり従わされているのか、自分の意思で劇団に所属しているのか、それすらも分からない。


 状況が逼迫しているのはこの場の全員が理解した。そのうえでケイリーが律儀に挙手をして、懸念を口にした。

「サンダーソンはどうする。ウルカはどうとでも自分の身を守れるが、あいつは一般人だろう」

 クリフは肩をすくめた。


 陸軍省情報総局の仕事が完璧に運ぶのは稀だ。近年になってようやく生まれた情報戦争という概念は、その未熟さゆえに無数のエージェントを死に追いやってきた。それで反省し、情報提供者や内通者を重視する方針に転換したあげくこれだから始末が悪い。

 敵も味方もプロを気取ってこそいるが、実際には机上の空論に基づいて未知の戦術論を振りかざす素人集団でしかない。


 だが、どれだけ過ちを繰り返そうと、無辜の市民が犠牲になるのは許されない。どれだけないがしろにされようと、そこには本来、境界線がある。本来グレイエリアに手を染めるのは薄汚い仕事人ウェットワーカーだけでいい。現状そうなっていないのは、クリフたち軍人の怠慢と無能ゆえだ。

「明日も街まで情報共有に来るよう頼んでいる。だがいつ城が戦場になるか分からない以上、悠長に待っている暇はない。以降の情報収集フェイズを棄却し、予備プランの強行突入フェイズへと移行。リチャード・サンダーソンを優先保護対象に指定する」

「交配実験の被験者たちよりもか」

「ああ。リチャード君だけは、確実に無謬むびゅうだからね」


 クリフの出撃準備の合図で、軍人たちは素早く装備を整え納屋の外に整列した。

 各員は最新の自動小銃もしくはショットガンを主武装に、グレネード、対榴弾用の鉄板を仕込んだプレートキャリアまで揃えてある。ここまでの重武装は大陸戦線の派遣部隊にもそうはいない。

 更に、彼らが分乗する馬車には機関銃が搭載されている。城の正面を制圧するだけならこれで充分だ。

 銃座に腰掛けたクリフがケイリーに手を振った。

「先行してくれ。戦闘が既に始まっている場合は救出班レスキューを率いてそのまま突入、そうでない場合は所定の待機ポイントに潜伏だ」

「心得た」

 ケイリーはショットガンを担ぎ直し、すさまじい速度で駆け出した。彼女の斥候としての能力は秀でたものがある。灯り無しでも部隊を先導するくらいお手の物だ。仮にこちらの出撃すら敵勢力が悟っていた場合にも、彼女が露払いをすることになっている。


 ケイリーが所定の距離まで先行したのを確認し、クリフは本隊を追従させるべく号令を発しようとした。

「あの、軍人さん!」

 横合いから声を掛けたのは、ひどく狼狽したカーティス夫人だった。部屋着の裾が夜露に濡れている。揺らめく黄色い手持ちランプが、彼女の動揺を如実に表している。

 クリフは瞬時ににこやかな笑みを作り、銃座から飛び降りた。同時にハンドサインを送って他の車両を出発させる。

「どうされました、夫人」

「アメリアを、アメリアを見ていませんか!?」

「いいえ。事情を伺っても?」

 アメリア・カーティス。カーティス夫人の孫娘で、たったひとりの肉親。芝居が趣味。両親の不在で寂しい思いをしていたが、ここ最近は我慢の限界で夫人にわがままを言うようになった――。

 クリフは部隊を彼女と接触させないよう気を遣っていたが、リスク管理の上でその人となりくらいは把握している。

 ゆえに、予感があった。こちらでは防ぎ得ない事故が偶発的に発生したのではないかと。


「学校から帰ったアメリアが、駄々をこねたんです。明後日、ブリックフォール城でチャリティショーが開催されるから観に行きたいって……でもわたくしはその日は泊りがけの仕事だから、留守番しなさいと叱ったんです。それで……喧嘩をしてしまって……」


 クリフはカーティス夫人の目尻に涙が浮かぶのを見た。

「あぁ、わたくし、なんてことを……あの子の好きなものを二度も、二度も否定してしまったわ……ほかの事でわがままを言われたことなんて、一度だってなかったのに……」

「落ち着いてください、夫人。つまり家出ですね?」

「は、はい」

「よろしい。お孫さんの行きそうな場所に心当たりは?」

「ありません」

「ならば警察に任せましょう。我々の手の者を街の警察署に向かわせます。夫人は家から離れませんよう。お孫さんが気まぐれに帰ってきたら入れ違いになりますよ」

 手短に切り上げるのが吉。子供の家出に対し軍人ができることは皆無である。クリフは再び馬車の銃座に座ろうとした。

「待ってください。あなた方、お城の方に向かうんじゃありませんか……?」

 特にアメリアの行方に思い当たる場所がないのなら、必然的に彼女がブリックフォール城へ向かった可能性が浮上する。クリフの部隊が城を監視していることは夫人にも説明してある。当然、そう帰結する。彼女に与えられた情報は、予想し得る最悪の結論を導き出してしまう。

 だからここは哀れな老婆を安心させるためにも、否定しておくのが正解。そのくらい、クリフにだって分かっている。

「お答えできかねます」


 それは、ほとんど肯定しているのと同じだった。

 けれどクリフはほかの答え方を知らない。仕事に関する発言は必ず、誠実であるべきだから。

「お願いです! あの子を、どうか、あの子だけは戦争に巻き込まないで!」

 夫人はクリフの腕を掴み、懇願した。

 少女は何もしてはいない。遠い世界の争いに両親をさらわれ、寂しい思いを我慢してきただけ。ちょっとしたきっかけで、我慢するのが嫌になっただけ。ちょっとした夢を垣間見て、田舎の牧場よりきらびやかな世界に憧れた……それだけのことだった。

 クリフは痩せたその腕を振り払って銃座に乗り込んだ。

「万が一、我々の作戦にお孫さんが巻き込まれた場合……可能な限り彼女の保護に尽力しましょう」


 馬車を出発させる。縋り付く先を失った老婆を背に、クリフは弾倉をライフルに叩き込んだ。一部始終を聞いていた馬車の搭乗員に向け、硬い声で告げる。

「アメリア・カーティスを優先保護対象に。もし城で目撃した場合は、作戦を離脱して構わない。必ず夫人のもとに帰せ」

 クリフにとって、人の価値のすべては仕事で決まる。だからこそ、その仕事の意味を見誤ってはならない。

 忘れるものか。


 *


 どんな運命の女ファムファタルだって、人生を分かち合えばその神秘を失うだろう。なぜならそれは男の身勝手な幻想だから。勝手に期待し、勝手に幻滅しているだけだから。


 しかし、目の前の愛すべき青年は、あなたの凡庸で惰弱で醜悪な本性を教えてくれと願った。

「そうか……君、私のことを知りたいのか」

 あんまりにもプロポーズみたいな文言で、イングリット・グリムは鮮やかに笑った。

「知れば、私を手放しても構わないと考えるかもしれないよ。むしろ、ひどく幻滅して私を嫌うかもしれない」

 リチャードがイングリットの手を取った。温かい手だ。いつも冷たいイングリットの指先には、熱く感じる。

「それでもだ。ダサい雑用係の俺に分不相応な夢があるように、あんたにも望みがあるはずだ。教えてくれよ、あんたが旅をしてきた理由を」

 イングリットは手を振り払った。追い縋る彼の指先を遠ざけるように、階段を一歩降りる。彼も一歩進んだ。

 燃え尽きたばかりの灰を握り込むような熱さには、耐えられない。

「私の旅路は、嵐を追い求めてのことだった」

「俺は、退屈な男だったか? 確かにイカサマや喧嘩には強くねえけどさ」

 イングリットは更に一段下った。

「違う。これは、刺激や享楽の話ではないんだ」

 リチャードは困惑し、二の足を踏んだ。


 突飛な台詞の真意を測りかねたのだろう。展開を妨げるような台詞は、エチュードの原則に反している。

 イングリットはまた一段、彼を突き放した。

「常々、幸せを願っていた。甲斐性のある男と結婚して、円満な家庭を築き、穏やかな余生を過ごす……そんな女の幸せを。けれど私の本性は、それを嫌っている」

 エントランスホールが、束の間の静寂に包まれる。リチャードは差し伸べた己の指先を見つめ、口を閉ざしたまま。

 観客たちが続きを待っている。イングリットが一方的に言葉を紡ぐ。彼を困らせている、そう分かっていながら。


「私が愛するのは、私の敵だけだ」


 私の敵。同胞の敵。祖国の敵。大義の敵。

 そうしたものをイングリットは愛している。それは容易に壊すことができ、美しく散るから。そして、いちど崩壊の煌めきに目を奪われれば、永遠に焼き付いて離れない。

 魔女は唾棄すべき獣性に囚われていた。あの快楽の前にはどんな恋だって一瞬の気の迷いとして捨て去られる。

「彼らを撃ち抜くたび、心臓が張り裂けそうになる。本能的な喜びと取って付けたような悲しみが混じり合って、心が人間から離れていく。憧れていた女の幸せが遠ざかっていくんだ。私の歩く方向には、吹き荒ぶ風の他に何もない」

 生きる舞台ステージが違う。

「それでも、止まれない。嵐の中でしか生きられない。苦難だけが、私に光をもたらす」


 見上げる女に見下ろす男。照明の注がれる踊り場から差し伸べられた手は、ひどく陳腐に映ってしまう。もし彼の手に拳銃が握られていて、それが撃発を待ちわびていたら――どれほどときめいただろうか。

「……なんだよ。訳分かんねえよ、急に物騒なこと言いやがって」

 ようやく捻り出されたリチャードの台詞は、予定調和の優しさで。

 けれど。

「あんたがちょっと別の世界で生きてるんじゃねえかってのは、短い付き合いでも分かってたさ。だがな」

 リチャードはドタドタと階段を駆け下りた。それで地上に回り込んで、眩しそうにイングリットを見上げた。

「あんた、楽に生きたいんだろ? いかにも典型的な〈女の幸せ〉だって、それがあんたの願いなんだろ? ええと、敵とやらのことは知らんが、人の望みよりその難儀な愛を優先しなきゃなんない理由はねえだろ。きっと……」

 たどたどしい長台詞を、リチャードはつっかえながら言い切った。

 イングリットは、ゆっくりと階段を下った。

「それで?」

 意地悪く問う。

 幕を引く台詞は?

 リチャードはやはり困りながら、顎や髪を掻いたり目線をうろちょろさせながら、自信なさげに口を開いた。

「俺は、その、今後も俳優業で稼ぐつもりだ。貧乏はさせねえ。いつか、王都の一等地でもあんたの故郷でも家を建ててやれるし、子供だって何人でも育てたい。イカサマや喧嘩なんぞとは無縁な、退屈な日々を送らせてやる。もちろん戦争なんかに関わらせない。敵なんかどこにもいない、完璧に平和な暮らしを、約束する」

 へたくそ。大根役者。

 静まり返ったエントランスホールに、雑用係だった青年の頼りない言葉が反響する。


「愛せなくても、分不相応でもいいじゃないか。俺は惚れた相手に苦しんでほしくない」


 イングリットは瞠目した。

 少女のように、一目惚れした相手との末路を想像してみる。

 彼の手を取って、口づけを交わし、みさおを立てる。背負ったすべての義務と使命と契約と快楽と苦しみを捨て、平熱で平凡な日々へと逃げ去る。家庭に入り、子を育て、夫を支え、穏やかに老いる。そしていつか静かな墓地の片隅に葬られる。


 ああ。

 涙が出そうだ。

 この愛すべき凡夫となら、きっと成し遂げられる。イングリットの渇望した夢を、叶えられる。


 しかし。


 悪魔の血脈は、この幕引きを許さない。イングリットは既に嵐を引き起こす蝶の一匹として、プログラムに組み込まれている。


 【世界を売った女の末裔は、この嵐を決して止めない!】


【王国に巣食う彼女は、公国に潜む彼女は、帝国にうごめく彼女は、そしてこの世界のあらゆる日陰に生きる彼女たちは、もはや戦争の中でしか結論を出せない!】


【本物の魔女をすべて消し去るまで、この戦争は終わらない!】


 否定。否定。否定。否定。戦争の継続を妨げるすべてを否定するよう、イングリットの頭に絶叫じみた警句が叩き鳴らされる。悪魔憑きの筋書に導かれるように、イングリットは最後の台詞を吐きだそうとした。


 空々しい拍手が、ホールに響いた。


「結構よ、イングリットちゃん! 素敵なお芝居だったわ」

 ハンナ・テイラーは満面の笑みで喝采を送った。

「あら、皆なに呆けてるのよ! ほら拍手拍手!」

 傍らのベケットが、気のない拍手でハンナに続く。それから、見物に回っていた見習い役者や警備隊の男たちも真似をする。

 拍子の抜けた顔のリチャードを置いて、イングリットは劇団長と花形女優の前に立った。

「ご満足いただけましたか」

 劇団長は「サンダーソンの演技力には期待など――」と辛口の所感を述べようとしたが、それを押し退けてハンナが満面の笑みでイングリットの手を取った。

「最高よ! こんなに真実味のある演技、見たことない!」

 握手には応じる。

 イングリットはハンナを見据えた。それから、見習い役者たちを眺めまわした。『魔女の帳』の注目は今やすべてイングリットにある。答え合わせの準備は整った。

 魔眼を、起動する。


 劇団の女たちの胎の中には例外なく、もうひとつの命の輝きが揺れている。それは「悪魔の教え」とやらに従った結果の出来損ないの赤子たちだ。彼女らの子は失敗作、無駄な命だ。


 など、真の魔女たるイングリットには一目で分かる。『魔女の帳』はハズレだった。やはり、撒き餌を喰わされた。

 だが、殺さなければならない。この舞台に殺戮を撒き散らさなければ。それだけは決まっている。誰かが『魔王』の脚本をベケットに流した。それこそが、連合王国に巣食う真なる魔女の一人であり、イングリットの愛すべき敵なのだと確信を持っている。

「少し、疲れました。稽古は明日のリハーサルのみで構わないので、休ませてください」

 ベケットがハンナをそっと押し退け、頷いた。

「よろしいでしょう。あなたは城までの道中で『魔王』の脚本をすべて暗記していましたからね。サンダーソン、彼女を客室棟までお連れしなさい」

「いいえ、ひとりで大丈夫です。彼には台詞を覚える時間が必要でしょう」

 追い縋ろうとしたリチャードが何か口を開く前に、イングリットはさっと手を振って制した。


 振り返らない。速足で正面玄関を抜け、灯りの届かない暗い方へ。ハンナ・テイラーの、粘り気のある影のような視線がまとわりついていたが、イングリットは構わず大股で離れへの廊下を歩く。

 足音が増えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。武装した重い足音だった。

「帝国語は使うな」

 イングリットは独り言を放った。

 歩調を合わせたのは、ここにいてはいけないはずの劇団員。ひとりは警備隊だが巡回ルートを外れており、もうふたりは本来ならキッチンで皿を洗っている男たちだった。

「ベケットは切れ者だ。連絡員が暗号を解読された」

「『ヴィルデフラウ』の活動限界が近い。沿岸警備隊の警戒も強まっている」

「陸軍の特殊部隊が動きを見せた。じきに制圧されるぞ」

 それぞれの独り言が、イングリットに現状を伝える。

 イングリットをサポートするために帝国軍が放った工作部隊だ。彼らがこうして姿を現したということは、作戦を切り詰める必要が出てきたということ。

「了解。女を優先して殺せ。誰が魔女か分かっていない。それと、影の魔女ハンナ・テイラーに注意しろ」

 足音が離れた。あと数十秒でここは戦場になる。


 イングリットは走り出し、客室棟を駆け抜ける。

 自分に用意された客室のドアを蹴り開けた。手つかずの手荷物のカバンを持ち上げ、中身をぶちまける。二重底の仕掛けを破って拳銃を取り出す。ボルトアクション式のライフルが欲しいところだったが、殺害数を刻んだ愛銃はここまでは持ち込めなかった。

「リチャード……」

 彼はこの舞台を生き延びることができるだろうか。きっと無理だろう。


 銃身に口づけする。

 唐突でも、わずか数夜に終わっても、計画のために利用したに過ぎなくても、あれは……イングリット・グリムの初恋だった。

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