第5話:魔女の御旗②

 夜明け前。サンダーソン上等兵は味方戦車隊の鳴らす地響きで目を覚ました。予定の召集時刻より30分早い。寄せ集めの選抜射手マークスマンがいびきをかいている塹壕の詰所から、ひとり抜け出す。

「うるせぇな……」

 ドブの上を歩きながら上着のポケットから煙草を抜き取り、咥える。マッチ箱もだ。擦ってみたが湿気っていた。

「運もねぇな……」

 煙草を噛み潰しかけた時、壕の曲がり角からいきなりカンテラを携えた女と鉢合わせた。不機嫌面のリタが「ほら、点けな」と青い炎を差し向ける。サンダーソン上等兵は初めて彼女の魔法道具をまじまじと見た。火種も油もない、ただ炎を閉じ込めただけのそれをカンテラと呼んでいいのか定かではないが、とりあえず熱を持っているのは確かなのでありがたく頂戴する。

 リタの手が「あたしにも寄越せ」の手招きをする。サンダーソンは彼女の唇に直接煙草を差し入れてやった。むっと口角を下げて手ずから火を点けようとするリタに、顔を近づける。ゆるく赤熱する自分の煙草を押し付け、火を移す。周囲に腰掛けた兵士たちはひたすら眠りを貪り、ふたりのシガーキスを囃し立てることはなかった。

「訂正。朝から幸運の女神様に出会えた」

「あんた四六時中そんなクサい台詞喋ってんの?」

「ああ。軍に入る前は舞台俳優だった」

「あっそ。道理で顔も良いわけだわ」

 壕の壁に脱力して寄りかかったリタに、サンダーソンが肩を並べる。

「もっと近くで見るかい?」

 息が交じり合う距離にお互いの顔がある。怠そうに横目をやったリタは、狙撃手のあまりに真剣な目付きのせいで急に恥ずかしくなった。赤くなった頬を隠すようにこする。

「俺に会いに来たんじゃないのか?」

「違う。夜中にトイレ行ってたら、壕の中ですっ転んで……眠れなかったし、顔汚れちゃったから水貸してくれる奴を探してたの」

 眠れなくてトイレに起きたら転んで顔が汚れたところまでは本当だ。リタは我ながら下手な言い訳だと思った。どうせ日が昇ったら砂礫を被りながら荒野を走ることになる。顔の汚れなんか気にする奴がいるか。なんとなくサンダーソンが起きているんじゃないかと思って訪ねてみた、なんて絶対に言わない。

「……邪魔したわ」

 腰を上げようとしたリタのローブを、サンダーソンは引っ張った。彼は腰に提げた自分の水筒を開け、濡らした掌でリタの頬を撫でた。

「いいさ。眠れないなら、ここに居てくれないか? 静かにしてるからさ」

 狙撃手の硬い手に、肩を抱き寄せられる。リタは少し悩んで、受け入れた。

「皆が起きるまでならいいわ」

 思ったより、悪くない。でもこんなところをアメリアやシャーロットなんかに見られたら、恥ずかし過ぎて戦闘前に憤死しそうだ。

「アメリアはさ」

 サンダーソンと今ここで「いい雰囲気」になるのは気が咎めて、リタは話題を逸らす。眠れない理由は、あの性根が可愛い方の後輩魔女にあった。彼女は常人で、善人だ。リタとは違う。だからこそそれが気掛かりだった。

「あたしと正反対な良い子ちゃんだと思ってた」


 あの魔女のお茶会で、アイラ王女は快く作戦への協力を了承した。リタとしては少々上品ではない文言で王女の罪悪感と責任感を引き出す覚悟もあったが、口を挟む前に計画はあっけなく成功した。してしまったのだ。

『それが、連合王国のためであるならば』

 リタは耳を疑ったし、シャーロットは本当に御身を危険に晒す意味を理解しているのかと再三問い返した。ふたりからすれば、アイラ王女の胸中は定かではない。詐術で密談に招かれたことにこそ戸惑っていたが、迷いなく、なんなら飛び付くように彼女は仕事を受けてくれた。

『殿下なら、そう仰ると信じておりました』

 世辞ではなく、最初から予期していたように。アメリアだけがいつもと同じ調子で笑いかけた。

 リタとアメリアの付き合いは、2年前に魔女戦隊が編成されて以来になる。たかが2年とはいえ、戦争が簡単に人を歪めることは家庭の事情で身を以て知っていた。戦争が英雄を造ることはない。醜くするか、浅ましくするか、その人自身を消し去ってしまうか、大抵はそのどれかだ。この計画をアメリアが立案したとき、どこかでリタは可愛い後輩が醜さを身に着け始めたのだと思っていた。そうじゃなきゃ王女を地獄に巻き込んで、マスコットとして最大活用しようなんて考えもしないだろう。

 だが彼女は違った。地獄に踏み出した王女へ微笑んだ彼女は、業を背負って天を目指す殉教者としか言いようのない清らかさを漂わせていた。薄汚れた本性の発露を見越していたリタは、まばゆく映るアメリアから無意識に目を逸らしていた。

 

「あたしはあいつのことを勘違いしてたのかもしれない」

 魔女に神はいない。大昔はともかく、王国教会が治めるこの時代の主はアメリアを救わない。ならば彼女はいずこの地平を目指して外道を進むのか。

「あいつは他の魔女とは違う……気がする。何か、抱えちゃいけないものを抱えてる。あたしが、止めるべきだったのかも__」

「どうかな」

 サンダーソンは呟くようにリタの言葉を遮った。

「抱えさせてやりゃいいじゃないか」

 リタの口先から灰が落ちた。長い戦役でジャバルタリクの土壌は荒れ果て、ひとしずくの燃えかすなど無に等しい。

「苦しい生き方しか出来ない奴だっているさ。そんな奴に、楽に行こうぜ、なんて諭しても逆効果なんだ」

 壁に頭を預けたサンダーソンの声は力が抜けていて、無力感を滲ませていた。

「悟ったふうに……なんか実体験でもあるの?」

「ある」

 彼の煙草からも灰が落ちたが、狙撃手は掌で受け止めた。日々ライフルを握って硬くなったその皮膚に、熱を、痛みを思い出させるように。

「昔、それで女を死なせた。俺が俳優業で稼げるから、養ってやるって言ったのに。そいつは俺を見限って軍に入隊して狙撃手になった。で、大陸奥地の戦線で『魔女』って呼ばれるくらい殺しまくって、普通に死んだ」

 最後の方はかすれた声になっていた。詳しい事情をリタは聞く気にならなかった。どうしようもない後悔を、サンダーソンは灰と一緒に握り込んで生きている。

「一緒に苦しんでやればいいの?」

「そうだ。何の解決にもならんと思うが……同じものを抱える当事者になれば、幾分救われるだろうよ」

 それも諦観だな、とリタは思ったが、特に反論も浮かばなかった。だから煙草がちびるまで黙っていた。


 戦車が砂利を砕く音が近づいている。

「……いややっぱうるせぇな」

 サンダーソンがぼやいた途端、戦車隊の行進が止まった。塹壕の後ろで車長が警笛を鳴らす。

「全体、停車! 掩蔽の前で隊列を整えろ! 歩兵共は轢かれる前に退避しておけ!」

 ひし形をした連合王国軍のマークⅨ級戦車が、事前に掘っておいた浅い戦車壕に次々とでかい体躯を納めていく。即座に乗り越えられて、かつ敵側からは車体が見えないギリギリの深さに計算されている。数は15両。ドラ声を張った士官がこの戦車中隊を率いるカニンガム中佐だ。やたらと上機嫌なのは、守勢に徹してきたジャバルタリク戦線でようやく戦車隊の突撃力が陽の目を見ようとしているからだ。

「そこにおるのはサンダーソン上等兵だな!? 噂はかねがね聞いていたが、前線まで女を連れ込むとはけしからんなぁ!」

 リタとサンダーソン上等兵は無言で目線を交わして、ため息ひとつ吐いてから立ち上がった。煙草を揉み消し、戦車から軽やかに飛び降りた老兵に敬礼を示す。それからサンダーソンが調子よく手揉みしながら答えた。

「人聞きが悪いですよカニンガム中佐。こっそり貴婦人を連れ込んでるのはお互い様でしょうに」

「まったくどの口が……なんとかここまで隠し通したが、我らが大将セントジョンに疑われぬよう苦労したぞ。ひとつ間違えば儂らどころか幕僚団の首が丸ごと飛びかねん」

 カニンガム中佐が見上げた隊長車のハッチから、少女の頭が這い出てくる。ふわりとプラチナブロンドの髪が巻き上がった。

「殿下、あまり御身を晒さぬようお願いしますよ」

「けほっ……すみません、車内の空気が、酷くて」

「暑くて臭くて息苦しかろうと存じますが、騎兵突撃に比べれば死ぬ確率は下がります。戦車が開発される前に騎兵隊を率いていた儂が言うのだから、間違いありません」

「す、すみません。わがままを言ってしまいました」

 プラチナブロンドがそっとハッチの中に引っ込んでいった。カニンガムは困ったように禿げ頭を撫で回した。自分が王女に謝られても困る。まったくどうしてやんごとなきお方を最前線に同行するよう焚き付けたのか、主犯格の魔女に訝しげな目を向ける。

 リタは悪びれる風でもなく、ひらひら手を振った。

「すべては殿下の御意思ですよ。結果さえ伴えば、セントジョン将軍は事後承諾で許してくれるっしょ。負ければ死ぬのは今までと同じなんだから、気楽に行きましょうよ~」

 王族を勝手に戦場に連れ出すなど、普通なら関係者全員の首が飛ぶ。だが王女は本島の応急と軍本営の意向によって敵飛行船の遊弋する海峡を渡り、ジャバルタリクに上陸した。彼女は既に、戦争に足を踏み入れた。

 アメリアの変容が気掛かりなリタも、頭を切り替えることにした。まだ当事者じゃないと高を括ってる奴らが大勢いる。知らしめてやらなきゃ、現状は変わらない。この作戦には、意義が与えられてしかるべきだ。


 薄紫の空から、星がかき消えようとしている。薄明の光が東の地平から差し込んだ時、突撃の号令が各所で上がった。準備砲撃はたったの数斉射、煙幕弾を敵陣に撃ち込む。アメリアとシャーロットは、エスターライヒ城攻略を担う第4梯団よりはるか前方、ファーストストライクを担う第1梯団に追従していた。先任軍曹の運転するトラクターの荷台で、アメリアたちは先を往く友軍の背中を見つめていた。

 この集団の主体は騎兵からなる。歩兵では追いつけない進軍速度で一気に敵塹壕まで迫り、まともな反撃が始まる前に制圧する手はずだ。常にシャーロットの風魔法が煙幕を操り敵の視界を遮っているが、既に敵陣からは機関銃の掃射が行われている。流れ弾がトラクターの装甲板を叩く。シャーロットがびくりと身体を縮こまらせた。アメリアはいつもなら同じように物陰に隠れるところだが、今回は後輩の手前、そうするのは憚られた。

 アメリアとシャーロットは自ら志願して第1梯団の支援を名乗り出た。この先の敵塹壕を乗り越えることになる第2、第3梯団にも同じように追従する予定でいる。リタやサンダーソン上等兵らとの合流はその後になる。縦深突破戦術ですべての防衛ライン突破に従事するのは、たとえ鍛え上げた軍人であってもかなりの無茶になる。それでも相応の消耗は覚悟のうえで、アメリアは王女の為に道を切り開くことにした。リタの説得には骨が折れたが、どのみち他梯団の損害を抑えなければ進軍・撤退共に支障が出る。支援に徹するという条件付きで許可を貰い、ふたりは一足先に出立する運びとなった。

 アイラ王女には、屍の山の頂へと辿り着いてもらわねばならない。


 騎兵隊長が号令を発し、攻撃に入る。

「総員、襲歩体勢! 擲弾筒グレネード、構え!」

 帝国軍の塹壕は防衛設備や居住区画の集中する主壕に加え、その前後に複数の隠し支壕を備えている。後方にある場合は主壕が制圧された時の反撃用、前方にある場合は、敵の接近時に奇襲をかけるためのものだ。気付かずに乗り越えようとした場合、背後から伏兵に攻撃を受ける。

 前方支壕に隠れていた帝国兵のひとりが、迫りくる蹄の音に怯えて発砲した。

「放てっ!」

 騎兵隊長がすかさず支壕の位置を特定し、着火した擲弾筒を放り込む。2列縦隊の騎兵たちが左右に分かれ、彼らの隊長に続いて投擲を行う。鈍い爆発音が横並びに連続する。生き残った帝国兵が散発的に応戦するが、連合王国軍の騎兵は騎兵銃カービンの見事な馬上射撃で掃討してみせた。

「総員、下馬!」

 こちらの攻撃を聞き付け、敵主壕の機関銃が狙いを付けてきた。騎兵たちが転げ落ちるように下馬し、地面に伏せる。騎兵隊長がトラクターに向き直って怒鳴る。

「前方に鉄条網あり! 魔女どの、無力化を!」

 支壕の盛土に掩蔽されるかたちで配置されていたようだ。つくづく帝国軍の陣地設計は計算高い。アメリアは聞いたが早いか、トラクターから飛び降りた。即座に地べたへ胸を付けて弾幕をやり過ごす。

「私はこのまま制圧を支援します! 退避を!」

 運転席の先任軍曹が敬礼を返し、車体を切り返した。

「アメリアお姉さま、気を付けて!」

 降りしきる弾雨の中、シャーロットの声援が確かに届いた。怖がっていられない。味方の誘導に従って敵陣の鉄条網に辿り着く。祈るように呟く暇はなかった。誘導してくれた騎兵が、主壕から駆け上がってきた帝国兵に撃たれた。巻き上がる砂塵にいちどだけ咳き込み、魔女は鉄の茨に指をはしらせる。

 その時アメリアは、赦されようだなんて考えもしなかった。頭にあったのは、前に進むこと。進軍すること。勝利すること。殺意が戦闘以外のあらゆる思考を阻んだ。

「斬り裂け!」

 膝を立て、手に有刺鉄線の剣を掴み、一閃する。味方を撃った帝国兵が胴体から千切れ飛んだ。凄絶な断面から臓物がぶち撒けられる。咄嗟に振り抜いた鉄線はおよそ20メートルほど。今まで敵の突撃を撃退するために使ったものよりだいぶ短いが、この方が速く、正確に操れる。今ならもっと、進める気がする。

「突入します、私に続いて!」

 アメリアは顔に跳ねた返り血を拭い、味方の返事を待たずに主壕へと飛び込んだ。着地した目の前に敵兵が2人いた。彼らのライフルがアメリアに向くより、有刺鉄線が飛び掛かるのが速かった。蛇が獲物に絡み付くように、その棘の牙が動脈を割き、鉄線の身体が頸椎を折る。まだだ、もっと速く。

 壕の曲がり角でライフルの銃身がちらついた。鉄蛇をしならせてその銃口を絡め取る。武器を奪われまいと必死にしがみついてきた敵兵が、アメリアの姿を見るやトリガーに指を掛けて闇雲に乱射する。髪を掠めた弾丸の風切りが、死の最接近を意識させた。「何かの間違い」は簡単に、誰にでも訪れる。有刺鉄線を敵兵の腕まで食い込ませてそのまま噛み千切らせる。片腕をもがれた敵兵の絶叫、頸を刎ねて黙らせる。まだだ、もっと正確に。

 拭いきれない血飛沫を浴びた魔女の両脇に、騎兵たちが追いついた。彼らにはこのまま歩兵の代わりを担ってもらう。

「そちらの損害は?」

 前方、敵陣の奥で砲撃音が聞こえ始めた。味方を掻き分けてきた騎兵隊長が顔をしかめる。第1梯団の規模はもう相手方に伝わっているはずだ。ジャバルタリクからのさらなる増援を遮断すれば、火力に劣る騎兵中心の部隊など簡単に蹴散らせる。だがシャーロットの煙幕による攪乱効果もあり、鉄条網の魔女が部隊に紛れていることまでは把握できていない。

「想定の範疇ですな。魔女どのさえ無事ならなんとかなります」

「では、予定通り奥の砲兵陣地まで抑えましょう」

「了解であります!」

 騎兵隊長が頼もしそうにアメリアへ笑いかけ、続々と合流しつつある部下たちへ激を飛ばした。

「斬り込むぞ! 魔女どのをお守りせよ!」

 鉄兜と分厚い胸鎧で身を固めた男たちがサーベルを抜き放つ。古い王国騎士の誉れが蘇ったように、彼らの背には自信がみなぎっている。ただし本当に無鉄砲で剣を振るうわけにはいかない。曲がり角ひとつごとに擲弾筒で制圧し、時には騎兵銃を腰だめに撃って牽制する。弾幕に行く手を遮られれば奪った機関銃を担いで同じ弾幕で対抗もする。僅かな敵弾の切れ目に隙を見出し、おっとり刀で敵が持ち出したスコップや棍棒を掻い潜って駆け伏せ切る。足を止めて撃ち合えばこちらが先に息切れする。銃より剣が強い間合いを見極め、彼らは果敢に死地を掻い潜る。


 アメリアは現代の騎士たちが展開する緻密な白兵戦の裏で、縦横無尽に有刺鉄線を振るう。鈍色の茨の剣が起こす嵐は、殺戮と呼ぶに相応しい。おとぎ話の魔女がとんがり帽子とローブを真っ赤に染めながら、臓腑と骨肉の山を撒き散らす。敵の戦列を崩すたび、勝利の代償を積み上げる。塹壕のドブを踏み進むたび、少女の求める赦しが遠のいていく。

 魔法で人を傷つけてはいけない。かつて祖母に叩かれた頬の痛みを、アメリアは敵兵の返り血で塗り潰した。それは赤黒い膏薬となって、彼女を麻痺させる。

 断末魔が充満する中で、生に縋りつくむせび泣きを聞き分ける。

「斬り裂け」

 袋小路にうずくまっていた敵の背を、容赦なく棘で絡め取る。思ったより高い声で絶叫する敵兵は、アメリアとほとんど変わらないくらいの青年だった。床に、彼のライフルが投げ出されていた。

 青年は帝国語でひとつの単語をしきりに叫んでいる。きっと命乞いだ。でも、ここで見逃したら。もし彼が勇気を取り戻してライフルを拾い直したら。アメリアの頭にはそんな考えがよぎったけれど、実際には一瞬たりとも躊躇しなかった。有刺鉄線で青年の全身を噛み砕きながら、有り得たリスクを想像しただけだ。赤い飛沫が床を汚して、人の形が崩れていく。絶叫はすぐに止んだ。

 代わりに雄叫びがアメリアの耳を打つ。近くの居住区画に潜んでいた兵士が、建付けの悪いドアを蹴って飛び出してきた。彼の銃撃を横に跳ねて避ける。ずいぶんと狙いが甘くて、彼もさっきの青年と同年代の新兵なのだと察しが付いた。次弾を諦め闇雲に振り回される銃剣はアメリアに届かない。有刺鉄線でライフルを絡め取り、返す刃で無防備な喉を捌く。

 敵の練度が低い。数も少ない。主壕を見渡すと、こちら側の騎兵たちがあらかた掃討を終えたようだ。アメリアのもとに駆け寄った隊長が、険しい顔で報告する。

「抵抗が弱すぎますな」

 アメリアも頷く。ここに配置されている新兵たちは捨て石だ。守りが手薄なのではなく、連合王国軍の奇襲に対し素早く反撃の体勢を整えたと見るべきだろう。

「守備隊の主力は後方支壕に立て籠もったのかもしれません。偵察をお願いします。通用口を発見したら、そこで足止めを喰らった振りをして注意を引き付けておいてください」

 守備隊を殲滅して砲兵陣地を占拠しないことには、続く他梯団を無傷で突入させられない。第1梯団だけでこの塹壕を制圧する必要がある。時間を掛ければ掛けるだけ、敵に対応の猶予を与える。

 アメリアは血脂と肉片で威力を削がれた有刺鉄線を手放した。

「私が隙を突いて、支壕の敵を殲滅します」


 東の地平に朝日が眩しい。不思議と気分はすっきりしていた。

 速く正確に。それは前提条件だ。もっと強くなる必要がある。突破した鉄条網の方へ戻ったアメリアは、それらを自らの掌中へ引き寄せながら考えを巡らせた。


 ナハツェーラー部隊。あの怪人たちは、異常発達させた四肢を攻撃と機動の両方に変換していた。それは原始的な獣の戦い方だ。


 魔女の魔法、それは高度に完成された武器なのか? もっと柔軟になれと、アメリアは自身を叱責する。アメリアは己の魔法を、棘と鉄線から成る変幻自在の刃として用いてきた。射程1キロを越える大蛇のような大剣にも、敵兵の守りを掻い潜り機敏に襲い掛かる鞭剣にもなる。しかしそれは魔女の強さの本質ではない気がする。言うなれば、魔女は人間ではない。

 鈍色の線が、魔女の周囲で脈動する。更なる力を形にするために。それは繭のように少女を包み、彼女の思考に変革を促した。


 人間が武器を手に持つのは、それが手っ取り早く獣より強くなる方法だったから。武器を手に持つ必要のない魔女は、ある意味では獣の強さに立ち返ったとも言える。しかし獣と同じ地平に立っていては、戦争に勝てない。ひとつの闘争に特化した獣の形態は、いずれ人間に負ける。もっと、縦横無尽で、変幻自在に。人が怖れるあらゆる脅威を内包した、千差万別のおとぎ話の怪物のように。


 穴倉に立て籠もって数百メートルの進退を奪い合う、このバカげた戦争を蹂躙する。圧倒的な力でこの無意味な消耗戦を破壊するのだ。その夢みたいな展開を実現するには、怪物の地平に立つ必要がある。きっとナハツェーラーのような怪人を造った帝国軍の目指すレベルはそこにある。アメリアはそう判断した。


 繭がほどけ、魔女に棘だらけの身体を与える。筋肉のように束ねられた仮初の脚が4対。鋭くり合わされた巨大な鎌が1対。銃弾から生身を守るため、周囲の建材や装甲片を混ぜて丹念に織り込まれたドーム状の甲殻を生起させる。歪で醜いそれらのパーツを、鉄線を張り巡らせた強靭な鉄条網で繋ぎ留める。例えるならばカマキリかクモだが、どんな生物とも合致しない戦車大の鉄細工を表す言葉はおそらくひとつしかない。


 怪物。

 私が先に怪物になればいい。そうすれば、戦争に勝てる。


 彼女は塹壕から這い出た。

 汚れた地面に8つの脚の爪先がずぶりとめり込む。編み方を少し変えて、接地圧を下げるようにかかとを大きく成型する。まっすぐ立てるようになった。両の手指に絡めた操り糸と動させ、鉄細工を滑らかに歩ませてみる。甲殻の隙間から、地表より少しだけ澄んだ風を浴びた。

 彼女は跳躍した。束の間の浮遊感に、嘆息する。

 解に近づいた実感が、アメリアを陶酔に導いた。その一歩で、彼女は怪物として躍進したのだ。

 再び濁った大気に落ちていく。あれほど絶対的な境界線に見えた塹壕は、せいぜい数メートル幅の長い穴倉でしかなかった。馬鹿馬鹿しくなった。そんな狭いところに詰めかけて。自由落下の終わり、いくつか見えた火点の先にある後方支壕に着地する。8つの脚と装甲板が何人かの敵兵を轢き潰す。突如として降って湧いた鉄の怪物に臆した彼らは支壕の奥へと逃げ惑う。その背をふたつの大鎌で次々と貫く。武器としてではなく、己の手足として形成した鉄条網の刃で直に人の肉をズタズタにする。意味のない感傷だ。聞き取れない帝国語の怨嗟がいくつもいくつも、甲殻の中で少女の耳を叩き鳴らす。意味のない雑音だ。

 ドブの溜まった床を、真っ赤な死体溜まりを、8つの脚で踏み砕きながら驀進する。音が途切れて過ぎ去るまでひたすらに、黒い制服を叩き潰す。もう怖くはなかった。小銃か、機関銃か、手榴弾か、懐に飛び込まれた守備隊が使える火器はほぼその3択になる。銃弾や爆風は鉄条網で構成されたこの怪物の体躯を容易くすり抜ける。アメリア自身への直撃は編みこんだ建材と装甲片で防ぐ。既にアメリアにとって、ソフトターゲットしかいない敵陣は狩猟場も同然になっていた。


 アメリアが後方支壕で暴れ始めて5分、遅れて合流した騎兵隊長の報告によって敵守備隊の殲滅が確認された。エスターライヒ城へ続く戦区の最前線に、風穴があいた。支壕の奥に陣取っていた砲兵たちもほぼ同時に撤退を決めたようで、野戦砲を爆破した後に方々の体で逃げ出した。逃げ遅れた帝国兵が騎兵たちに脅されて、両手を上げた格好で1列に並べられていく。

「無線を無傷で奪取できたので、司令部に指示を仰ぎました。第2梯団はこのまま次の敵防衛線まで進撃し、第3、第4梯団も部隊を予定通り進めるとのことです」

「そうですか」

 騎兵隊長の報告に、アメリアは上の空で返した。まだ、鉄細工の怪物を纏ったままだ。兵士たちに親しまれてきた柔和な少女の異形じみた姿に、隊長はややたじろいていた。それでも彼はアメリアに対し労わりの言葉を慎重に選んだ。

「……少し、休まれては? 周辺の警戒は我々が担います」

「なぜ? 私は戦えます」

 がしゃり、鉄の脚の1本に何かがぶつかった。アメリアは装甲板で狭まった視界のせいで、それに気付かなかった。

「アメリアお姉さま! なんですか、その、お姿は!」

 息せき切って体当たりしてきたのはシャーロットだった。後ろから先任軍曹も駆けてくる。越壕性能を持たない輸送用トラクターを乗り捨てて、二人ともここまで走ってきたのだ。

「大丈夫だよシャルちゃん。私は無傷」

「そうじゃなくって! いいえ私はお姉さまが無事だと信じてましたけど! それ、お姉さまのですよね!?」

 シャーロットが心配しているのは、ソロモンス中佐が魔女戦隊に要求しているスタンスだ。なるべく手の内を敵に晒さないように、魔女たちは戦っている。「本気を出すな」と魔女たちは命じられているのだ。通用する手札を温存するため、帝国軍の魔法に対する戦術的理解を遅らせるため、など色々な理由が挙げられているが、本当のところは別にある。

「ねぇ! アメリアお姉さま、その鉄条網の怪物、すぐにほどけますか!? いますぐ可愛いアメリアお姉さまに戻れますか!?」

「ちょっと……落ち着いてってば」

 アメリアにはシャーロットの取り乱し方のほうが少し心配だった。だが、年下魔女の憂慮は尤もであることも理解していた。


 魔女は、魔法の本質に近づくほどに戻りづらくなる。竜の魔女ケイリーが王女護送任務で竜鱗鎧の魔法を解放した際の感覚は、戦隊内部で共有されていた。魔法の本質は、怪物の力だ。本来、それは人間のかたちで扱うことを想定していない。自分がケイリーと同じ感覚を味わってようやく、アメリアはその意味を知った。

 己の手足も同然となった鉄条網の義肢は、彼女本来の血が通った素肌と同じ感覚で振るうことができた。それを切り離すことを想像してみると、自分の四肢を切り落とすのと同じくらい強い忌避感を覚える。危険な感覚だと、理性が警鐘を鳴らす。

「大丈夫だよ」

 アメリアはけれど、いつもの調子で微笑んだ。仕事は始まったばかりだ。第2梯団が到着次第、彼らと共に進撃を再開する。次の防衛線を突破したら、今度は第3梯団と同じことを繰り返す。そして仕上げにリタたち第4梯団と一緒に、待望のエスターライヒ城を攻略する。王女殿下に、御旗を立ててもらうために。

 奥の手だなんてとんでもない。アメリアはもっと魔法を使いこなし、更に強くなる算段を立て、より勝利へと邁進する自分を思い描く。彼女の怪物は、果てしなく高い地平を欲している。その欲求が「田舎のばあちゃんに赦してもらう」という幼い願望へと通じるものなのか、少女は分からなくなっていた。原点を失いかけている、警鐘がズキズキと脳内を苛む。

 それでも鉄条網の魔女は曖昧に笑って、シャーロットを安心させようとした。

「まだ、私は進める」

 鉄細工は高く昇った陽射しを照り返し、こびりついた帝国兵たちの血肉を鮮やかに滴らせていた。



 アイラ王女は作戦開始から何時間経ったか懐中時計で確認しようとしたが、車内の振動でフレームに傷を付けてしまいそうだったので止めた。もちろん戦車に客席など用意されていない。マークⅨ戦車の内壁と弾薬室の間にある僅かなスペースに、アイラ王女は身を押し込めていた。17年の人生で利用した移動手段の中では、ぶっちぎりで最悪の乗り心地である。車長席のカニンガム中佐が無線機に向かって常にがなりたてているのも頭痛の種だった。

「イージー、ロジャー小隊は右翼! フォックス、シュガー小隊は左翼で歩兵を援護しろ! 無線を壊さんようにしろよ、貴様らの命と同じくらい高いんだからな!」

 アイラの同乗する戦車は指揮車であり、麾下の車両を指揮するため直接攻撃に出ることは少ない。それでも要所要所で敵戦車やバンカーを相手取るために戦車中隊は駆り出される。無線には故障が多いうえ、戦場を直接見ずに無線だけで指示を出せるわけではない。カニンガム中佐は連合王国の王女が乗っていることなどお構いなしに、必要なだけ攻撃に出ている。そのせいか道中、敵戦車と何度か砲撃戦を交えたが、幸い中佐の手腕は確かなようで一発も被弾せずに済んでいた。

「稜線に沿って登れ! 頂上に到達したら第3梯団の合図を待って敵陣の奧に砲撃を行う! 榴弾装填しておけ! 何、あっちの電話線が切れた!? 早く伝令を寄越せと伝えろ!」

 中佐は指揮車付きの伝令と怒鳴り合っている。第3梯団、という単語が聞こえてようやく、アイラは自分が今どこにいるのか把握できた。今、連合王国軍は敵の第3塹壕線を攻撃している。作戦は順調に進んでいるらしい。エスターライヒ城はこの丘陵地帯に構えられた防衛線の先にある。

「……ッ停車!」

 カニンガム中佐の鋭い指示が行進を制し、アイラは座ったまま狭いスペースからつんのめるかたちで投げ出された。

「失敬、殿下。第3梯団の兵が立ち塞がってきたもので。おい貴様! 儂の愛車の前に立つとは轢き潰されたいようだなクソ馬鹿野郎!」

 その兵は中佐に停車させた理由を伝えるべく、車長席近くの天板まで登ってきた。

「申し訳ありません中佐、伝令を呼んでも間に合わないと判断し、独断で止めさせていただきました! 鉄条網の魔女が、敵陣後方を単騎で強襲しているんです! 巻き込むおそれがあるので支援砲撃は待ってください!」

「聞いておらんぞ! さっさと退避するよう小娘に伝えろ!」

「伝える手段がないんです! 第3梯団うちの本隊はまだ主壕に突入したばかりなんですから!」

「なぜ事前に連携を確認せんのだボケ共が!」

 カニンガム中佐はいつでも砲撃できるよう待機する旨を伝令に言付けて下がらせた。それから双眼鏡を掲げ、低い声で吐き捨てた。

「あれが、鉄条網の魔女か……」

 狭い床に這いつくばったアイラは、その声色に宿る嫌悪感に不穏なものを感じ取った。なんとか身体を起こして中佐に請う。

「私にも見せてくれませんか?」

「殿下の御目には入れぬ方が宜しいかと」

「公務の一環です」

 アイラは、アメリア・カーティスという魔女をよく知らない。新聞で英雄扱いされていて、実際会ってみたら普通に優しい同い年の女の子で、それ以上の情報を読み取れずにいた。そんな子がなんてこともなさそうに王族である自分を戦場へと誘い、屍の道を切り開いている。

 あなたは戦場ここで、一体どんな姿をしているのか。

 アイラは純粋な好奇心から、中佐に渋々手渡された双眼鏡を覗き込んだ。


 曳光弾が点々と閃く、ジグザグと凹凸でかたどられた地上の迷宮。そこに豆粒みたいな兵士たちの塊が行き交っている。カニンガム中佐の指揮で進撃する戦車隊が、敵のバンカーと砲戦を繰り広げる。ニュース映画でよく見た白黒の映像に色と音が付いた、概ね予想通りの光景がそこにあった。

 想像と違ったのは、魔女の戦い方だ。

 ニュース映画では、軍事機密のため実際の魔女の戦闘記録は放映されない。それぞれの魔女と似た女優を特殊撮影によって別録し、戦果報告と共に美化されたイメージを民衆に伝える。それはふわふわしたエフェクトが飛び交う、おとぎ話の演劇だった。

 双眼鏡の焦点を合わせる。今、鉄条網の魔女が人を殺している。あのおぞましい怪物が彼女だと分かったのは、消去法に過ぎない。身体中の棘に帝国兵の臓腑や肉片を引っ掛けながら、多脚と双鎌で塹壕そのものを蹂躙する巨大な異形。

「鉄条網の、魔女」

 目を背けたくなる。吐き気がこみ上げてきた。血の雨が降りしきり、塹壕から溢れようとしている。酸鼻極まる地獄絵図に十字架を切りたくなる。でもそれは彼女への不義理だと思って止めた。


 主は彼女を赦さないだろう。


 魔女の戦争への投入が遅れたのは、国教会が反対したからだと宮廷では囁かれていた。今のアイラには、その噂の根拠が理解できる。これはあまりに残虐だった。同じく大量殺戮のトリガーを引く機関銃手や爆撃機のパイロットと同列に扱うには、魔女はあまりにも特別だ。彼女たちは人のあるべき境界を、その身ひとつで越えてしまう。竜の魔女ケイリーの美しい翼や銀色の鱗を思い返せば、あれも魔女が内に秘めた怪物の片鱗だったのだ。

 けれどジャバルタリク戦線は、魔女をたのんで戦っている。連合王国を遥か彼方に霞む勝利へと導くため、彼女たちは共に進撃している。


 アイラは今一度、真実を目に焼き付けた。

 魔女のお茶会に招待された時、彼女はまんまと戦場に引きずり込まれたと思っていた。己の役目に飢えていたアイラは、飛び付くように魔女アメリアの誘いに乗ってしまった。偶像マスコットとして奉られるのも上等だ。安請け合いに見られようが、愛する王国のためならなんだってやる覚悟で王女は首肯した。

 ただ、今やアイラの役目はそれだけではない。アメリアの微笑が意味するところを、彼女はここに来て理解した。

「それが、連合王国のためであるならば」

 ニュース映画でお見せできない残虐無比な魔女の戦争を、これから彼女は擁護してやらねばならない。アイラ王女が赴いた戦場で語ったことは真実として記録される。本島とジャバルタリク半島を隔てる新聞記事の薄い壁に、目を覆いたくなるような現実を書き殴ってやる。たとえ女王陛下の意思に背くことになろうとも、民を偽りの安寧から叩き起こしてやる。

 アイラはひとりの王族として、固く決意した。

「アメリア、私があなたを赦す」


 *


 攻勢の開始から28時間。連合王国軍は帝国軍の3重塹壕線を突破し、長らく膠着状態にあったジャバルタリク戦線に風穴を開けた。鉄条網の魔女アメリア・カーティスの支援が功を奏し、縦深突破による損耗は当初の見込みより大幅に削減された。

 翌朝、3人の魔女と20名の精鋭兵士からなる連合王国軍第4梯団が最前線に集結。予定通り、エスターライヒ城攻略作戦が実施されることになった。

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