第11話:境界線の裏と向こう①

 アメリアが謹慎、もとい休暇を言い渡されてから3日が経った。追って処遇が決まるまで、アメリアには憲兵隊の見張りが付いていた。

 またアイラ王女をそそのかして勝手をされては困るということなのだろう。エスターライヒから帰還した朝、のぼせたアイラを風呂から連れ出して以降、監視が強まった。それ自体は当然の行いだったのだが、直前のお風呂にふたりきりという状況がまずかった。また何か企んでいたのではないかと勘ぐられてしまったのだ。それで、現在アメリアは実質的に軟禁状態にあった。

 実際には秘密の企みよりもっと物議を醸すやりとりがあったのだが……どのみち、今このタイミングで王女との再会を求めるのは怪しいことこの上ない。「アイラ殿下は女の子が好き」なのかどうかなんて、ジャバルタリクの誰にとってもどうでもいい話だ。浴場では、自分もどうかしていた。きっと疲れとか、修羅場を切り抜けた興奮とか、リタを失った悲しさからの逃避とかでおかしくなっていた。

 それにアイラも悪い。急にズバリと見透かしたことを言ってくるし。あんなに身体を密着させて、指やほっぺたが柔らかくて温かくてドキドキさせてくるし。かと思えば、ちょっとこちらが押しの気をみせれば慌てふためいたりして、そんなところが可愛らしくて……。

「うああぁぁあああ……」

 うめきながらベッドをゴロゴロ。

「うあああああっ……ぇ痛っ!」

 ベッドから落ちた。後頭部を抑え、床を転げまわる。


 もちろんこんな無為な時間を過ごしていたのには理由がある。自室に缶詰状態のアメリアには、この3日間殆ど情報が入ってこなかったのだ。エスターライヒ攻略作戦の後処理のこともあり、ジャバルタリクの様々な連絡網が渋滞していたと見える。

 まさか貴重な魔女がこのまま放置されるはずもなし、じきに復隊や次の作戦の通達があって謹慎も解かれるだろうと思っていた。それで、アメリアはアイラのあれやこれやに無駄な考えを巡らせつつ、煩悶とした時間を過ごしていた。死んだ仲間やリタの消息に関して鬱屈した想いをわだかまらせるよりは、幾らかマシだった。

 とはいえ、3日も待ったのだ。そろそろ気を紛らわせるにも限度がある。帰還してから、アメリアは魔女戦隊の面々やサンダーソン上等兵らに会えていない。とりわけ、軍病院に入院したきりのシャーロットが心配だった。

「シャルちゃんどうしてるかな……外出許可でないし、ソロモンス中佐も忙しいんだろうけど」

 床に仰向けになって、ひとりごちる。

 優秀な魔女を3人も出してひとりが行方不明、ひとりが重傷とあっては幕僚団も頭を抱えていることだろう。魔女戦隊の攻勢への参加はほとんど大本営からの強制だったが、今回の損失で責められるのはきっとジャバルタリク側だ。今頃、本島から押し寄せるであろう追及への準備に追われているはず。

「呼んだかい」

 懐かしいしゃがれ声。ふいに部屋のドアが開く。

「……昼間っから何やってんだい」

 あきれ顔のソロモンス中佐が、アメリアを見下ろしていた。


 有無を言わさず顎で外を示され、アメリアは慌てて立ち上がった。何やら不満げな憲兵隊を尻目に、なんとも呆気なく隊舎から脱出することができた。悠々と肩をそびやかす上司の背中が、いつも以上に頼もしい。若い少女が多数を占める魔女戦隊において、厄介事を解決してくれたのはいつもソロモンス中佐だった。

「退屈させて悪かったね。幕僚団とアイラ王女を交えて、今後の方針を決めていたのさ」

そういえば煙草の匂いが濃い。この3日間、会議を重ねていたようだ。本島への言い訳を誤れば幕僚団全員の首が飛ぶため、相当に慎重を期したらしい。

「大まかに言うと、アイラ王女を作戦に連れ出した件についてセントジョンから承認を得られた。エスターライヒで撮った写真は軍の広報部によって大々的に喧伝されるし、これから王女はあらゆるメディアで武勇伝を語ることになる。あれはジャバルタリク駐留軍の公式作戦だった、そういうことにされる」

「つまり、私たちもお咎めなし、ということですか」

 アメリアは胸を撫で下ろした。開き直るしかないとはいえ、実際に悪いことをしたし憲兵に睨まれてもしょうがないとは思っていた。英雄か犯罪者か選ぶなら、前者がいいに決まっている。

「私は最初からドーンと構えてたよ。あんたは間違っちゃいないと信じてたからね」

 信頼は重い。ソロモンス中佐は、その重さを分かってアメリアに背負わせる。これに潰されるようでは、きっと生きていけないから。


 さて、どこに連れて行かれるのかと思えば軍病院だった。

「もちろん次の任務……というか、それに対する心構えについて話しに来たんだがね、そろそろおチビちゃんの見舞いに行きたかったろう?」

「心構え……? ええ、確かにシャルちゃんに会いたいと思っていましたけど」

「あんたたちのことは、実の娘のように思っているからさ、そりゃ分かるよ」

 娘というより孫だろう。とは思っても、アメリアは言わずにおいた。それは以前リタがツッコんでいた。

 たくさんの看護婦、医師、傷病兵が院内を行き交っている。大きな作戦の後だからか、普段以上にごった返しているように見える。ソロモンス中佐の顔パスでロビーを通過し、病棟の階段を登っていく。

 踊り場でたむろしていた兵士たちが、中佐の階級章に慌てて襟を正す。後ろ手に煙草を隠したのがバレバレだ。当然、病院では禁煙である。

「いいさ、男共はコレが好きなもんだ」

 中佐が鷹揚に手を振ると、一同はほっとしたように相好を崩した。

「あんたもどんな男を引っ掛けるにせよ、煙草には目をつぶってやりな。連中、口から煙を吐いてなきゃ男が廃ると思い込んでる。火を吹くドラゴンに憧れるわんぱく坊主と一緒さね」

「はは……」

 愛想笑い。踊り場を通り過ぎたアメリアが振り返ってみれば、確かに彼らはどこか颯爽と喫煙している。しかし中年の看護婦が肩を怒らせて詰め寄ると、また一斉に隠し始めた。ぜんぜんカッコよくない。

 シャーロットの病室もまた、憲兵が警護に当たっていた。中佐が人払いを頼むと、すんなりと道を譲ってくれた。

「邪魔するよ」

 有無を言わさず中佐がドアを開く。

 個室の窓際にぽつんと置かれたベッドから、シャーロットは外を眺めていた。生ぬるい風が、緩く吹き抜ける。彼女は緩慢に、アメリアたちへと振り向いた。

「シャルちゃん、久しぶり」

 努めて笑顔を作ったのに、自分でもぎこちないのが分かる。

 まだ幼い少女の顔は、包帯で覆われていた。細い腕には点滴に繋がれている。彼女は軽く会釈し、サイドテーブルの紙とペンを取った。

「怪我の具合はどう?」

 アメリアはなるべく気楽な口調を心掛けた。シャーロットは、だいぶやつれているように映った。顎を動かせないせいで普段通りの食事は当然ながらできないのだろう。

 戦争がなければ、利発な彼女はきっと良い学校に通っていた。その優しさが、甘さとして己の咎に刻まれたのは戦争のせいだ。銃弾の暴力に晒されたのは、未来を約束された子供だった。

 しばらくして、紙が差し出される。

『ケストレル先生に治癒魔法使っていただきました。半年ほどで完治するそうです』

 ケストレル先生とは、ジャバルタリク軍病院を統括する医療の魔女のことだ。優秀な兵士はこの女医によって優先的に治療される。確か、ナハツェーラー部隊が襲来した際にもサンダーソン上等兵がお世話になっていた。おつぼねじみた態度で若い魔女たちには敬遠されがちだが、ソロモンス中佐に次ぐ古株らしく信頼は厚い。

「あの女が言うんなら問題ない。復隊の時期については考えておく。今は休みな」

 中佐の口ぶりは、それが当然であるように自信で満ちていた。言いながら懐から、手紙を渡す。

「また郵便船が来てね、あんたのぶんだよ。まめな両親じゃないかい……一応言っとくが、返信に怪我のことは書くんじゃないよ。指定機密だ」

 シャーロットは浅く頷いた。手紙には手を付けない。

 長い沈黙があった。

 アメリアはどう間を繋げばいいか迷い、上司を仰いだ。そこで、気付いた。

 ソロモンス中佐の横顔は穏やかなようで、陽の当たらない面には冷徹な陰が染み付いている。敵を庇ってしまうような優しい女の子を戦場に送り出したのは、この魔女だ。自分たちを殺し合いの渦に導いた存在がどれだけ残酷か、今までアメリアたちは理解しきれずにいた。


 ぽたぽた、水音がした。俯くシャーロットから、涙が落ちて手紙を濡らす。子供っぽく、鼻をすする。何度か爪を封蠟ふうろうに掛けたが、結局彼女はそれを開かずに脇に置いた。代わりに、またペンを手に取る。ほんの一行、弱々しく綴られる。

『家族に誇れる仕事だと思っていました。私が連合王国の正義を守るのだと』

 シャーロットは、痛みを確かめるように顎の表面を撫でた。筆が続く。

『でも私は、役立たずでした。帝国軍に徴発されただけの女性や子供を殺すのが嫌で、怖気づいてしまったのです』

 エスターライヒ城で民兵に狙撃された際。あの時シャーロットは交戦法規に、そして人として当たり前の善性に従って、投降しに近づいてきた女性を庇おうとした。彼女は正しかった。白旗を上げた相手を殺そうとしたアメリアもリタも、間違っていたのだ。

 シャーロットはけれど、正しさを悔いていた。戦争が正義の敗北した先にあることを、15歳の少女は知ってしまった。

『私は間違っていました』

 涙が紙面のインクを黒くにじませる。それでも幼い魔女は書き綴る。

『私なんかより、リタお姉さまが生き延びるべきでした』

 筆圧は薄く、腕に力が入らないことが見て取れる。嗚咽混じりに紡がれる告解に、アメリアとソロモンス中佐は黙っていた。乱れた筆跡に、懺悔が刻み込まれる。

『ごめんなさい』

 シャーロットは、すぐに紙をくしゃくしゃにした。

「分かるよ」

 そんなことないよ、と耳触りの良い慰めを掛けることはできる。しかし彼女が求めているのはそんな気休めではない。アメリアはリタやたくさんの仲間たちを代償に、進み続けてきた。

 かがんで、シャーロットに目線を合わせる。涙に濡れた瞳に、自分を映し返す。

「戦争って、酷いことばっかりだよね」

 そう思うのが普通だ。自分たちは撃たれて当然の暴力装置で、正義や倫理を踏みにじるのが仕事。意気揚々とジャバルタリク半島に訪れた志願兵たちは、皆いずれ現実を知り後悔する。

「でも私は時々……それを忘れそうになるんだ」


 なるべく残酷な殺し方をすれば、帝国軍の士気を挫けると思った。

 鉄細工の怪物になった時、気持ちよかった。

 リタが撃たれた時、猛烈な怒りに苛まれた。

 たくさんの犠牲を、仕方ないと割り切った。

 大好きなばあちゃんに、別に赦されなくていいと思ってしまった。


「撃たれることより、憎まれることより、自分が正しくないことよりも、それが私は一番怖いよ……当たり前過ぎて、今更だけど」

 シャーロットが信じていた当たり前の正しさは、もはや戦争に不要な条理なのだろう。けれどそれなくして、平和な世界に生きることはできない。アイラの言葉を反芻する。きっとこれが、真の意味で戦場から帰るための、最後のよすがなのだ。

「シャルちゃんは、忘れないでね」

 アメリアは、そっとシャーロットを抱きしめた。

 肩が温かい。シャーロットの涙が、ブラウスに染みていった。アメリアはなぜだか一生泣ける気がしなかったけれど、まだ自分には当たり前の悲しみを受け入れる余地がある……そう、信じたかった。


 ケストレル先生による治癒魔法の施術があるとのことで、面会時間が終わった。回診に訪れた彼女の言によれば、シャーロットには戦争神経症PTSDの疑いがあるらしい。誰にも避けようのない葛藤を病気で片付けていいのか疑問は残るが、アメリアはソロモンス中佐に続いて急ぎ退散した。

 ちなみに軍の広報誌では、ケストレル先生は「戦場の天使」と呼ばれている。例の新聞記者の考えた肩書きだ。なお実際に会うと、疾病の駆逐にしか興味のなさそうな仕事人だった。

 軍病院を出てすぐ、埠頭の片隅に郵便船が停泊していた。ソロモンス中佐が思い出したように船を指差す。積み下ろし作業がひと段落し、水夫たちは港街の方へ繰り出していた。

「もちろんあんた宛ての手紙もどっさり来てたよ。検閲が終わったら部屋に送らせとくからね」

「ありがとうございます」

 定期便が来るとたくさんのファンレターが届く。きっとその中に祖母からの手紙はない。いつものことだ。


 閑散とした波止場で、ソロモンス中佐は立ち止まった。アメリアは残酷な話が始まる予感を覚えた。ふたりして生ぬるい潮風を浴び、揃って水面に照り返す陽光に目を細める。

「さて。あんたを連れ出した本題だが……まずは海をご覧よ」

 ソロモンス中佐は本題に入る前に、いつも前置きを長めに取る。それは長らく男の世界であった戦争を、魔女たちに当事者として理解させるためだ。あれを壊せ、あいつを殺せと命令のままに動くだけではダメというのが中佐の持論だった。大きな戦略を理解しない兵隊は目先の小さな目標に固執し、いずれ戦っている意味を見失うのだとか。

 ともあれ今回は馴染みの薄い領域に突っ込むんだな……などと思い、アメリアは座学の記憶を呼び起こした。


 湿潤な暖気が巡るこの地中海を、先住民族は白海はっかいと呼んできた。

 今のところ王国海軍ロイヤルネイビーによる封鎖は成功しており、アメリアが従軍してこのかた波は穏やかだった。両軍は白海の東西両端にそれぞれの主力艦隊を並べ、かれこれ2年以上も睨み合っている。名だたる戦艦や装甲巡洋艦が停泊しているのを初めて見た時は、一体何が始まるのかと戦慄したものだ。……壮大に何も始まらなかったのだが。難しい言葉で現存艦隊主義といい、積極的な戦いを避けつつ敵海軍を威圧をする戦略らしい。要は「敵に艦隊決戦を躊躇させるほどの戦力」を常に維持することで、白海の平和は見かけ上守られてきたわけだ。

 できれば帝国軍も本島への侵攻ルートに温暖な白海を利用したいはずだが、こうした駆け引きがあって使えずにいる。彼らが現在利用している大陸北周りのルートは天候が荒れやすく、竜の魔女ケイリーに狩られる前に幾隻もの艦艇や飛行船が沈んできたとされている。

「狭小なジャバルタリク周辺で艦隊決戦に踏み切れば、両軍の海上戦力そのものが半壊する。だからまぁ、目立った動きはお互い避けると思ってたのさ。だが、先の作戦を受けて帝国軍が動いた」

 ソロモンス中佐は、霞む大陸の輪郭に遠い目を向ける。

「白海中部の北岸に、ガラティエって海軍都市がある。あそこは連合王国うちと同盟結んでた公国の要衝だったんだがねぇ、王国軍の後退と共に帝国へ割譲されちまった」

「公国……えっと、どこでしたっけ」

 アメリアは座学を必死に記憶から呼び覚まそうとして、失敗した。昔は連合王国と仲が悪かったとか、ワインの名産地だとか、その程度しか印象にない。

 ソロモンス中佐は期待していなかったように肩をすくめた。どうしてか、懐旧の赴きを感じられる。

「国際情勢へのガキの認識なんてそんなもんさ。今や公国府は皇帝の傀儡だし、印象に残らんのも無理はないね。そのうち保護領になるだろうさ……ってそんなことはいいんだよ。情報部から、そのガラティエで新型艦が建造されてるって話を持ち込まれた」

「魔女戦隊に、ですか?」

 アメリアは首を傾げた。

 魔女戦隊はジャバルタリク要塞線を守るための戦力だ。先のエスターライヒ攻略作戦こそ特例で参加したが、基本的には守勢に徹している。指揮系統は独立しているものの、形式上は要塞守備隊に属している。海軍が対応を練るべき事案が回ってくるのは妙なことだ。

「嫌な予感がしてきたろう?」

 ソロモンス中佐は底意地悪く笑った。

「はい」

 アメリアは笑う気になれなかった。今回の作戦でも分かったように、軍隊において急な方針転換は、様々な弊害をもたらす。魔女が今まで犠牲なく戦って来られたのは、ひとえにジャバルタリク駐留軍が守勢を保っていたからだ。それを崩した途端、魔女に初の作戦中行方不明MIAが出たのだ。まさか慣れない攻勢で魔女を失った直後に、はるばるガラティエまで行ってその新型艦とやらを破壊して来い! などとは言うまい。と思いたい。

「後で詳しく話すが、その新型艦が白海のパワーバランスを崩しかねないそうでね。はるばるガラティエまで行って破壊してこいとのお達しさ」

 思いたかった。

 どう考えても、本島の大本営がエスターライヒ攻略作戦の結果だけを電報で聞いて決めたようなタイミングだ。少数精鋭の魔女が突破作戦で活躍した→魔女は特殊工作に向いている→ちょうど敵の占領下にある都市で建造中の新型艦がある→魔女を潜入させればいいではないか! といったふうに。

「このタイミングで魔女戦隊に話を持ち掛けられたことは、チャンスだと思っているよ」

 老いた魔女の双眸に、光が宿っている。残酷な決断に挑む時の光だ。戦士が瞳を輝かせるのは戦禍の炎だったり参謀室のランプだったり様々で、今回は白海の豊かな陽光だっただけのこと。いつだってソロモンス中佐の眼前には戦争がある。

「私にとっちゃ、魔女は可愛い可愛いお姫様だった。けれど、一騎当千の姫武者扱いじゃあこの戦争を騙しきれなくなってきた」

 冷たい理性に輝く瞳がアメリアを射る。任務に対する心構えとは、ここからの話か。

 魔女は個人的な信条によって戦争に協力してやっている。そういう建前だった。だから魔女の階級には「相当」が付くし、魔女は軍人とは一線を引いている。実のところ、魔女たちの中には軍人に適した人材とは言い難い者も多くいる。我が強くどこかくらい本質を隠したリタも、幼い正しさを捨てきれないシャーロットも、はっきり言って向いていない。彼女たちはただ、魔法の才能があるというだけでその青春を国防に費やしてきた。

「アメリア、あんたは兵隊向きの性根をしているよ。そこが、今後の魔女戦隊を運用する上でのカギになる」

「それは……どういうことでしょう」

 アメリアは言葉を濁す。

 鉄条網を操る魔法は、確かにこの戦場に適している。けれど自分の精神性がリタやシャーロットより優れているとは思わないし、ケイリーやマグダレナのような割り切った仕事への向き合い方は、アメリアには到底無理だ。迷って、傷ついて、悔やんで、置き去り、取り零しながら進んできた。一体どこが兵隊に向いているのか。

「人の中には怪物がいる」

 ソロモンス中佐の答えは、アメリアを動揺させた。

「とりわけ魔女は、はらの中にデカい怪物を飼ってるのが常だ。あんたはそいつを怖れながらも、そいつに縋ってるんじゃないかい、ん?」

 身体じゅうの産毛がざわめく。鉄条網で編み込まれた記憶が、肌に固く固く絡みついて、嫌な汗が噴き出る。


 そうだ。皆、怖れている。魔女戦隊で戦う者は誰だって知っている。力に溺れれば、人のかたちを失うのだ。

 リタは激しい戦いに陶酔しているように見えて、本当は冷めているようだった。彼女は決して暴走なんてしなかった。

 シャーロットは力を行使すると周囲の環境に悪影響を及ぼす。彼女は自分より周囲の歪みを怖れるから、それはきっと幼い心を苛むだろう。

 ケイリーは竜の姿に近づくと、元に戻りづらくなる。既に身を以て体感しているだろうから、彼女の魔法制御は人一倍慎重だ。

 マグダレナは、6発の流星を使い切ると、命を落とす。彼女は最もわかりやすく象徴的なかたちで、強すぎる力の代償を支払う。


 自分は、どうだ? アメリアの中に眠る鉄細工の蜘蛛、人間性と引き換えに生まれた鋼色の毛むくじゃら。あれを本当に怖れているか? 一度目は暴走した。二度目も同じ轍を踏むかもしれない。リスクは思い知った、はずだ。

 でもアイラは、あの戦火に煌めいた王女は、「残酷無比な鉄条網の魔女」を赦すと言った。アメリアはその言葉に縋り付き、暗い地べたから這い上がった。

 必要なら、今度はためらわずに鉄細工の蜘蛛を呼び覚ます。仲間の犠牲を背負うのは、もう御免だ。その重さに潰されるくらいなら、敵だけの血肉を踏み越えてやる。

「そう、ですね」

 アメリアは肯定した。

 中佐は、微笑した。

「あんたは、自分の中の怪物を上手く飼い慣らせる」

 目元は無感情なのに、口元だけを大きく吊り上げ、彼女は静かに笑っていた。アメリアの背に、手が回る。2年前、故郷を出た時に撫でてくれたあの、残酷な優しさを覚えている。今でも中佐は変わっていない。

 日が陰り、波が高くなってきた。重たい雨雲が山脈の向こうからゆっくりと顔を出す。差し込む天使の梯子に照らされて、老髪がアメリアを絡め取るようになびいた。

「理論化し、再現し、均一化し、普遍化し、戦術に組み込む。それを成し遂げるのは、誰もが持ちうる平凡な理性であるべきだ。すべての叡智は凡庸なる渇望から開かれるんだからね」

 難しくて、雲を掴むようだ。けれどアメリアにはぼんやりと中佐の理想が垣間見えた。

「私はね。この怪物を掌握したい。戦争システムのくびきに繋ぎたいんだよ」

 神の名を地に墜とす。あるいは悪魔を言いくるめる。彼女の語りは大言壮語のように聞こえたが、そこに傲慢さは欠片もない。ただあるべきことをあるべきように確定させる、預言にも似ていた。

「まずは今後の情勢に備え、魔女戦隊を本格的な特殊作戦に耐え得る戦力にする。魔法ってモンが過ぎたる力だろうと良いように使い倒し、救国の乙女から鉄血の走狗に豹変するんだ。アメリア、そのために協力してくれるかい?」

 アメリアは、ソロモンス中佐が善人だとは思わない。結局のところ、彼女は少女を戦場にリクルートして殺し合いの渦に叩き込む恐ろしい魔女だ。

 ただ、すっきりした性格だと再確認した。それはとても、好ましい。

 アメリアは何度も志を揺るがしながら、それでも赦しを求めて戦ってきた。けれど、いっそ開き直るべきだと考える人もいるのだ。

「はい、中佐。もちろんです」

 アメリアもまた、しばらくぶりの微笑を返した。


 *


 同時刻。帝国領、の、どこか知らないところ。ジャバルタリクから遠く吹き抜けた風が、病室の白いカーテンを揺らしている。

「夢……じゃないんだよねぇ」

 リタはむっくりとベッドから上体を起こし、寝ぐせの酷い赤毛を掻いた。

 まさか敵の虜囚となった後、3日間も生きていられるとは思わなかったのだ。彼女は魔女狩り部隊を名乗る帝国軍の特殊部隊の捕虜となった後、前線から離れた田舎町の病院に送られていた。

 正直、イングリット・グリム大尉というイカれ女の約束した待遇を本当に受けられると信じてはいなかった。近くの駐屯地に連行されて、鬱憤の溜まった帝国兵たちに凌辱の限りを尽くされてから全身をみじん切りにして処刑されたって不思議じゃなかった。ところが適切な応急処置を施され、丁寧に護送され、他の兵士が羨むような清潔な環境で治療を受けている。

 この状況、どう見たものか。

「昼に起きて夢心地とは、良い身分だね。炎の魔女」

 ベッド横の椅子で、イングリットが退屈そうに足を組んでいた。

「あんたも捕虜になれば? 連合王国軍は帝国やばん人にも優しいかもよ?」

 イングリットはリタの皮肉返しに首を傾げた。

「ふむ? 捕虜の待遇が条約通りに適用される場合、それはほとんどの最前線の兵士よりマシな環境に置かれることを意味する。とりわけ女性にとってはそうだろう。特に他意はなかったんだが、気を悪くしたのなら謝る」

「そういうところなんすけど……」

 彼女の王国語は流暢だ。ところがちゃんとこちらの皮肉を解しているのに、自分が皮肉を言ったとは思っていない。つまり普通にズレた性格をしている。極めて紳士的な捕虜待遇に文句はないのだが、護衛兼監視役としてイングリットが四六時中付きまとうのは勘弁願いたかった。


 ここ数日、脱出の機会は常に窺っていた。しかし、現状は厳しい。

 魔法の行使に必須である仕事道具のカンテラを失ってしまった。魔女の仕事道具は一定の類似性があれば代用できるものの、適当な品を使えば本来の威力は発揮できない。銃の腕は下手くそだし運動音痴だしで、リタ自身の戦闘能力には臨むべくもない。何より、銃弾を3発も喰らった直後の身体で逃げ出すのは、無謀だった。

 イングリットとの世間話なんかクソほども面白くないので、情報を引き出す方針に転換しよう。

「で、あたしがこれからどうなるのか聞いていい?」

「安全な収容所に移送して、対話の時間を設ける」

「あ、安全? 対話?」

 とても囚われの魔女に対する処遇とは思えない。

「えーっと、帝国の最新科学で拷問とかされちゃう感じ?」

「君は面白いことを言うな」

 とか言いつつ、イングリットは鉄面皮。

「君から強引に何か聞き出したいことなどない。帝国の科学的な統計によると、拷問で得た情報は信憑性が低い」

「だからお友達になろうってわけ?」

「端的に言えば、そうだね。収容所とは呼ぶが、実際には難しい地位の政治犯や占領地の貴族などを保護するための施設だ。引き続き、君の身柄は保証する」

 じゃあ安泰だ、となるべくもないが……リタはひとまず、流れに身を任せることにした。

「ちなみにその収容所、どこにあるのか聞いていい感じ?」

「旧公国領、ガラティエ」

 イングリットはいきなり立ち上がった。

「君が目を覚ましたら出発することになっていた。行こう、病院の表に自動車を待機させている。ちなみに高級車だそうだ。軽食にキッシュを包んであるから、道中で食べよう」

「えっなにその優しさ」

 高級車かどうかの情報が必要かどうかさておき、やたらと好待遇で不気味になってきた。もしかして捕虜になった時「丁重に扱って」と言ったのを本気にしているのだろうか。

「そう、着替えも用意している。似合うといいのだが」

 ベッドの上に、丁寧に畳まれた衣服が置かれた。唖然とするリタに、イングリットは「さぁどうぞ」と手を振った。


 用意された服はリタにぴったり合うように採寸されていた。しかも無駄にセンスがいい。赤毛が映える黒のシックな旅装だが、袖に散りばめられた白いレースがなんとも優美で、いざ袖を通してみると妙な気分になった。もしかして、どこぞの服飾店から略奪、もとい徴発したのではなかろうか。

「じゃ、着替えるから出てってよ」

「うん? 君の利き腕は銃撃を受けてから3日で動くようになるのか? 遠慮はしなくていい」

 当然のような顔でイングリットは服を持ち上げた。完全に子供の着替えを手伝うお姉ちゃんといった構えである。しかし、3発も銃弾をぶち込んだ相手に臆面もなく「遠慮はしなくていい」とは、こいつの情緒はどうなっているんだ。

 ベッドから降りて、身体の具合を確かめてみる。……うまいこと急所を外してくれたようだが、流石に片腕で着替えるのは無理がありそうだ。リタは不本意ながら、イングリットの助けを借りて袖を通した。

「細い腕だ。食事も鍛錬も行き届いていないように見える」

「うっさいなぁ、あんたはあたしの母親か」

「私は母親の適性がないから兵士をやっている」

「そりゃ殊勝な心掛けね。世の中、母親の資格ない女がいっぱいガキ作ってるよ」

 子供を喜んで戦争に送り出す女がいれば、子供を作らずに自分で戦争に行く女がいる。どちらがマシかは神様の判断にでもお任せしよう。

 イングリットの手つきは思いのほか優しく、リタの傷を労わっていた。


 廊下に出ると、戦地から疎開した難民らしきたくさんの人々が雑魚寝していた。立派な身なりとなったリタに好奇の視線が注がれる。ボロ布でもいいから、もうちょっと目立たない服はなかったのだろうか。

 小さな子供が汚い毛布から這い出してきて、リタに手のひらを見せた。帝国語でなにか囁き、物欲しそうな目でリタを見上げる。そんなに金や食い物を持ってそうな身なりに見えたか。王国語で「あげないよ」とか言っても身を危うくするだけなので、リタは黙ってイングリットの背中に隠れていた。スリのような手つきをした男がにじり寄ったが、イングリットが肩に提げたライフルを触るそぶりをすると、すぐに後ずさりした。

 病院の正面玄関には、テカテカと黒光りする自動車が待機していた。確か、帝国の首都に本社を構える有名メーカーだ。

「高級車ね。超高そうだけど、どうやって手に入れたの?」

 イングリットが丁寧に後部座席へ案内する。

「この近辺から更に東へ疎開した資産家から、格安で譲り受けた」

「それ強制徴発じゃん」

「金持ちは自動車で疎開したがる。しかし碌に整備せずにあぜ道を走っていると、じきにエンジンなりタイヤなりが故障する。修理する道具も技術も、持ち合わせている者はとうに徴兵されている。結局、皆で行列を作って避難するんだ」

「なるほど……」

 今、リタは最前線の向こう側にいる。強大な悪の帝国の舞台裏は、こんなものかと思える程度に疲弊している。拍子抜けだった。


 後部座席にふたりで乗り込むと、助手席に短機関銃を抱えた護衛の兵士が続く。これで定員になり、運転手の帝国兵が発進させた。リタはふかふかのシートに腰を預け、乗り心地にちょっとだけ感動した。連合王国軍のトラックとは大違いだ。イングリットからキッシュの包みを受け取り、まずまずな味にまた感動した。ジャバルタリクはレーションばかりで、ビスケット程度のおやつですらそれなりの嗜好品だった。敵国の強さや豊かさなんて、こうした表面的なところがチラ見えした結果なのだろう。

「ところでイングリット、あんたは何者なの?」

 山岳陣地でまみえた時、彼女は自分を「ただの魔女」と称した。


 連合王国の他に、魔女はいない。

 どうしてか連合王国本島だけに、魔女の才を有した赤子が一定の割合で産まれる。

 それがこの世界の常識だ。


 実は帝国にも魔女がいるのか、それとも科学の力で魔法に類する力を発明したのか。イングリットが会話に応じてくれる限り、リタには情報収集に努める義務がある。

「魔女狩り部隊。名の通りの任務に就いている」

 イングリットはゆったりとシートに背を預け、車窓に目を向けている。この名称は初めて聞いたが、特段隠していることでもなさそうだ。リタは引き続き質問する。

「部隊の規模は? あんたの他にも魔女がいるの?」

「秘密」

 そこを隠すのは当然か。

「あんたは何の魔女? あたしは炎の魔女だし、帝国海軍の飛行隊には竜の魔女といえば有名でしょ。二つ名的なのは無いわけ?」

「ないよ。本当にただの魔女だ」

 車窓に反射するイングリットの表情を盗み見る。……ダメだ、こいつ情緒がおかしいから真意を読み取るのは無理だ。 ただ、察せる事情もある。連合王国の魔女は国内外に戦果を大々的に宣伝し、反帝国の旗頭としての意味合いも努めている。

 仮にイングリッドが本物の魔女だとして、彼女は帝国軍において宣伝塔のような役目を負っているわけではないらしい。彼女を擁する魔女狩り部隊は極めて実務的な部隊なのだろう。

「じゃ、あんたの仕事道具は?」

「狙撃手の仕事道具は、一般にライフルだ」

 イングリットは自分の得物を軽く叩いた。銃床に物凄い数の縦傷が付けられている。リタはそれに見覚えがあった。サンダーソン上等兵が、同じように仕留めた数を刻んでいた。

「もしかして、10人ひと刻みだったりする?」

 おもむろにイングリットが振り向いたので、反射的にリタは身をのけぞらせた。

「なんかマズいこと聞いた?」

「いや、よく分かったね」

「あんた凄腕っぽいし、殺しまくってるんじゃないかって」

「長く軍隊にいたんだ。所帯を持とうと考えたこともあったが、私は人を殺せる職場じゃないとダメだったらしい」

「ふーん……」

 普通ならドン引きものの発言に、リタは緩く返事をした。

「まぁ、そんな奴もいるよ」

 これは余計なフォローかなと思いつつ、つい口に出してしまう。

 イングリットはまた車窓に視線を戻したが、銃床の古い木目に愛おしそうに指を這わせた。誇りとか責務とは違う、何か自分自身の尊厳を確かめるような、そんな手つきだった。

 そんな機微に共感できてしまって、リタは心底嫌になった。


 自動車は田舎町を抜け、東へとひた走る。流れる景色には、ずっと疎開民の姿があった。

 イングリットが、エスターライヒにおける帝国軍の敗北が影響していると説明してくれた。現在、連合王国と帝国は遺体回収および捕虜交換のため、停戦の協議をしているそうな。壊滅的な打撃を受けた帝国軍と、それ以上の攻勢に出る余裕のない連合王国軍、双方の暗黙の了解によってエスターライヒ市街周辺は空白地帯となった。しばらく前線は動かない。けれど、優勢だった側が一度押し返された事実は、民衆に恐慌をもたらすのに充分な理由になった。どこまで逃げれば安全なのか知らないまま、人々は列を成して歩き続ける。

 車輪が壊れた荷馬車を脇に、途方に暮れる一家を見た。誰も彼らを助けない。広めの街道には打ち棄てられた家財が散乱していた。大概は絵画などの調度品で、金にしようと持ち出した後に金なんかあっても仕方ないことに気付いたようだった。駄馬の死骸にハエがたかっていた。誰も片付けず、老人がむせながらヨタヨタとそばを通る。

 見るからに立派な自動車を見て、乗せてくれと懇願する者も多くいた。そのたびに護衛兵が短機関銃を見せびらかし、散らしていく。リタも最初は罪悪感くらい覚えはした。けれどそうしたイベントが10回も続けばウンザリしてくる。歩けない老人や子供をあとひとりくらいは確かに詰めてやれるだろう。けれどそれでどうなる。たとえ車に乗れたところで、彼らはその後どうすればいいかなんて考えられない。


 夕暮れに近づいた頃、運転手が急ブレーキを掛けた。

「轢かれたいのか貴様ぁ!」

「軍人さん、軍人さんですよね!?」

「近づくな、撃つぞ!」

 道を塞ぐ疎開民を追い散らすのに疲れ、助手席の護衛兵は気が立っているようだ。イングリットはリタに待っているよう目くばせをして、車を降りた。まさかその肩に提げたライフルをぶっ放すんじゃないかと不安になり、リタはそっと窓のレバーを下ろして覗き見る。

 イングリットは運転手を制して下車し、自動車の前に立つ疎開民の女に挨拶をした。

「帝国陸軍大尉、イングリット・グリムです。どうなされました、ご婦人」

 疎開民の女は息子と思しき痩せた男の子を連れていた。ふたりとも土埃にまみれ、靴は擦り切れていた。相当な距離を歩いてきたようだ。彼女は同性の軍人が出てきたことに驚いたが、丁寧な物腰に落ち着きを取り戻した。

「あの、軍務をお邪魔してすみません。あなた方はエスターライヒから移動してきたんですか?」

「はい。それが何か」

「夫を見ていませんか? エスターライヒ市の官憲だったんですが、お城の守備隊として徴兵されたんです。それで、お城が王国軍に攻撃されたって聞いて……敵の魔女だかが物凄い攻撃をしてきて、駐留軍は壊滅したって噂ですし、もう、もう……」

「落ち着いてください」

 掴みかからんばかりの女の肩を抑え、イングリットは落ち着いた口調で言い聞かせる。

「民兵として臨時に動員された者の消息を、人づてに探すのは困難です。エスターライヒ駐留軍は潰走していますし、旦那さんと顔見知りの軍人などほとんど居ないでしょうから」

「そ、そんな! じゃあどうすれば!」

 ますます取り乱した風の女を、イングリットはそのままの体勢で抑え込む。傍らの息子はぼんやりと母を眺めている。

「もし旦那さんが生きていれば、従軍手当を貰うために駐留軍の地方本部を目指すはずです。あなたはこのまま東へ進み、街の軍営に問い合わせてみるのがよいでしょう。ここからですと__」

 彼女の説得は理路整然としていて、慰めの言葉も声色もない。だが、リタの想像よりは遥かに素直な善性が垣間見えた。淡々と合理的なやりとりを続けたのち、疎開民の女は頭を下げた。

「分かりました。ありがとうございます、グリムさん」

「では我々はこれで」

 踵を返したイングリットに、すかさず女が縋り付く。

「待って! 厚かましいお願いだと分かってます、でも! 息子を、息子だけでも街まで乗せて行ってもらえませんか!」

 母に手を引かれた息子は、まだぼんやりしている。きっと、現実に理解が追い付いていないのだ。

 助手席の護衛兵が威圧的に銃を叩き鳴らす。イングリットが彼をハンドサインで抑え、首を横に振る。

「我々は特別な任務に従事しているので、直近の街には寄れません。代わりと言ってはあまりに不足ですが、どうぞこれを」

 彼女は懐からキッシュの包みを一切れ、虚ろな表情の男の子に差し出した。男の子は目の前の包み紙を視界に入れて、ようやく目を覚ましたかのように瞳を輝かせた。

 疎開民の列に戻った親子を背に、イングリットは車に戻った。リタの視線に、首を傾げる。

「何かな」

「あんたさぁ……人殺し大好きのくせに普通に優しいの、すっごい怖いんだけど」

「君の言葉を借りれば、そんな奴もいるんだろう」

 車が再発進した。親子の姿はもう見えない。どこまで行っても、街道沿いにはとぼとぼと荷を引きずる人、人、人だ。

 リタは、先ほどの女が探していた夫に心当たりがある気がしていた。エスターライヒ市に突入した際、サンダーソン上等兵が最初に射殺した武装官憲だ。けれど官憲なんて他に何人も徴兵されている可能性もあるし、どのみち同市の守備隊は壊滅させた。今更告解したところで、なんになる。


「この人ら、どうなるのかな」

 バカな疑問だと思いながら、リタは呟いてしまった。

「どうにもならない」

 イングリットの端的な返答も、バカらしかった。

 今まで追い抜かした疎開民はざっと千人余り。彼らを近郊の都市が受け入れたとして、食糧はどうなる。住処すみかは、働き口は。

 若い女は良くて娼館に拾われ、荒くれ軍人の相手をする。マシな身体の男は軍の募兵検査に受かり、ひと山幾らの塹壕守備隊として肉壁にされる。少なくとも飯にはありつける。

 それ以下の仕事でも、一日一回でも食わせてもらえるなら御の字だ。最悪、道端で野垂れ字ぬ。

 どうにもならない。死ぬんだ。ちょっと頭を働かせれば分かるのに、彼らは緩慢に死の行進を続ける。

「じゃ、この人らは皇帝陛下に失望したりしないの? 反乱でも起こしてくれりゃ王国軍うちらとしても楽なんだけど」

「君は自らの女王陛下に何か期待したことがあるのか?」

 しばらくリタはイングリットと見つめ合った。それが彼女なりのジョークであることに、リタはやっとこさ気付いた。期待してなければ失望のしようがない。

 多くの人にとって、戦争は嵐のようなものだ。ニュース映画や新聞で遠い他人事のように始まり、ふとした瞬間いきなり巻き込まれる。逃げようとしたときにはもう足を掬われている。そして無力感でなんとなく流れに身を任せて駆け回り、自分も嵐を構成する風に同化していく。

 まったく、どうかしている。

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