第10話:帰還

 二度と戦争なんかに関わりたくない。

 海峡で飛行船に襲撃された時から、アイラの心境はずっと同じだ。

 されど、内地でニュース映画の中の戦争を眺めていたあの頃に戻れるとも思わない。もう、アイラは知ってしまった。当事者であることに気付けたのは幸運なのだ。未来の女王には、皆にこれを知らしめる義務がある。

 この国に蔓延はびこる偽りの安寧に、引導を渡す時が来たのだ。ここまでの犠牲と成果を胸に、今一度、アイラは覚悟を固める。


 しかし……今はとにかく、お風呂に入りたかった。


 3度目の流星が落ちてから、あれよというまにことが進んだ。

 まさかの助けに度肝を抜かされたのはさておき、あの巨大な竜が消し飛んだのは確かだったので、アイラたちは無事に連合王国軍と合流できた。幸い、敵の別働隊と抗戦したサンダーソンらの中に犠牲者は出なかった。

 マグダレナ・ソロモンスは、総司令部直々の指示に基づき第4梯団の即時解散を通達した。理由はもちろん、アイラを極秘裏に戦場へ連れ出した主犯アメリアがこの部隊にいたからだ。憲兵と護送馬車まで寄越して、セントジョン将軍は相当にご立腹と見えた。まぁ、彼にはいくら怒られても足りないくらいだが。

 アイラに1両、アメリアに1両、その他兵士が2両に分乗、負傷したシャーロットは救護馬車へ。アイラはシャーロットの容体が気になるので是非とも同乗させてほしいと頼み込んだが、マグダレナは頑として首を縦に振らなかった。

 アイラの車両には、マグダレナが相席していたのだ。たいそう気まずかった。

「殿下、お身体に障りますのでどうぞご自愛ください」

 頼むからこれ以上面倒事を起こすな、という意味だ。マグダレナの声色はじっとりした嫌味に満ちており、自分がどれだけのことをやらかしたか嫌でも意識させられた。おそらくアイラの不在がバレた後、ジャバルタリク要塞は天地がひっくり返るほどの大騒ぎになったはずだ。


 汗と泥にまみれた不快感のせいで眠る気になれず、アイラは格子窓から外を眺める。ジャバルタリクまで延々と続く灯火の行進が、疲れ果てた兵士たちの顔を浮かび上がらせていた。作戦が成功しようがしまいが、彼らは傷ついた身体を引きずってのそのそと凱旋するのだ。勲章が痛みを癒してくれないことも、友を返してくれないことも、彼らはもう知っている。

 気が重くなって、ちらりと魔女を窺う。ずっとこちらを睨んでいて怖くなった。

「あ、マグダレナさん……助けていただき、ありがとうございました」

 とっさに口を突いて出た礼は、なんとも非礼なタイミングに聞こえてしまった。

「滅相もございません。忠義こそ魔女の誇りですから」

 マグダレナはぜんぜん誇っていなさそうな声音で答えた。

「ところで、殿下。頬が少し腫れているようですが」

「へ?」

 アイラは自分の頬に触れて、ほんのり熱を持っていることにようやく気付いた。たぶんアメリアに引っ叩かれた時のものだ。他に目立った怪我には思い至らない。さりとて正直に告げるのは憚られたので適当に嘘を言った。

「えー、これは、転んで顔を打ったのです。ああ、恥ずかしい……」

 ずい、とマグダレナの顔が近くに寄った。

「ふえ!?」

「嘘ですよね。殴られた痕に見えます。帝国兵の仕業ですか?」

 マグダレナの不機嫌面が更に険しくなる。バレていた。

 まずい。アイラが帝国兵に暴行を受けた=皆がちゃんとアイラを守れていなかった、ということになる。危険に晒されたのは事実だとしても、命がけで戦ってくれたアメリアたちに余計な罪を背負わせるのは気が咎めた。

「あっいえ、本当はアメリアに叩かれました」

「そうですか」

「しかし、彼女はくじけそうになっていた私を立ち直らせるために、少々手荒な手段を使わざるを得なかっただけでして、その、仕方がなかったのです。よってアメリアに責任を問う必要は全く、全くございません!」

「落ち着いてください。別にアメリア・カーティスの責任を追及したいわけではありません。ふむ」

 マグダレナは無遠慮に話を断ち切ったかと思えば、顎に手を当てて考え込む。

「鉄条網の魔女は、どんな人間ですか?」

 いきなりの質問にアイラは面食らった。

「え? それはあなたの方がよくご存じではないかしら……」

 御無体な問いである。数日共に過ごしただけの他人を、これこれこういう人となりですと断言できる者がどこにいるだろうか。そもそもアイラは魔女戦隊にとって部外者だ。

「仔細は申せませんが、ぼくは軍の最高機密として存在を隠されてきました。ジャバルタリクに上陸したのも、今回の作戦に合わせてのことでした。祖母以外の魔女について、ぼくは書類上のステータスしか知り得ません」

「あ、そうでしたわね……」

 そういえばアメリアもマグダレナについてはすべて伝聞形で語っていたような。

「この国の王女殿下にこんな無茶をさせた奴が、一体どんな異常者なのか。ぼくは気になります」

 異常者呼ばわりはともかく、確かにマグダレナの言い分には一理ある。だが。

「えっと、なぜ本人ではなく私に聞くのですか?」

 正直、アイラはマグダレナのことが怖い。今までに出会った魔女たちと一線を画す力の持ち主というだけではない。ひりついた空気を纏っているように感じる。思えば彼女らは、個人差はあれどそれなりに親しみやすい人々だった。

 マグダレナはまた顎に手を当て、しばらく黙っていた。

「……格好良く啖呵を切ってしまったので」

「はい?」

 アイラは聞き間違いかと思って身を乗り出した。

「奴には偉そうなことを言い捨てたので、同じ車両で帰路に就くのは気まずかったのです」

「……」

 マグダレナの顔に赤みが差したのは、ランプの照り返しのせいだけではないだろう。

「ぼく、人と話したことがあんまりなくて、距離感を掴みそこねて……調子に乗ってしまいました。だから殿下に伺いたいのです」

 杞憂だった。

 両手で帽子のつばをぎゅっと握りしめ、恥ずかしそうに俯く魔女。アイラは自分の警戒心がなんだか馬鹿馬鹿しくて、脱力した。親しみやすい、というか。なかなか可愛いところがあるらしい。アイラはいたずら心に聞き返した。

「アメリアと、お友達になりたいのですか?」

「いえ、別に、あんな無鉄砲なバカとなんて」

「……」

 なんだこいつ可愛くない。

 それはたぶん、同族嫌悪だった。

「まぁ、彼女について話すのは、やぶさかではありませんが」

 マグダレナに対するうっすらとした苦手意識が沸いてきて、アイラは会話を始めたことを早くも後悔し始めた。さりとてアメリアについて好き放題言わせておくのも嫌だったので、質問に答えることにした。

「アメリアは普通の子ですよ」

 故郷の祖母と仲違いしたことを気に病んでいて、大事な親友を捨て去った決断に傷つく。そうした心の機微は決して特別なものではない。

「少なくとも私の見た限りでは、真っ当に良い子だと思います。勇敢で、ちょっと臆病で、責任感が強くて、迷いもあれど決断は速い……とまぁ、月並みなことしか言えないのですが」

 この短い旅を振り返ってみると、意外とアメリアは常識の範疇で行動している。王族を利用するという突飛な発想にも、魔法を暴走させた一件にも、端々の戦いぶりにも、彼女の狂気や異常性は見えてこない。結果がどうであれ、ただ一生懸命に頑張っている、そんな感じだ。

「お答えいただき、感謝いたします」

 マグダレナはいまいち気のない礼をした。

 納得してくれたか、アイラには自信がない。このような質問をする人は、最初から決まりきった答えを求めている。宮廷ではそうだったし、愛嬌のある定型文に大抵の王侯貴族は満足してくれた。けれど、大事な時に望まれる答えを出せなかったせいで、アイラには人望がなかった。つまり、友達との会話が苦手だったのだ。


 マグダレナの表情はどことなく諦観が滲んでいた。わずかに頭を上げて、しかしまた俯き顔に影が落ちる。

「ぼくは……戦争に勝つつもりの魔女がいたことに驚いたんです」

 思わずアイラは口元に手を当てた。

 総力戦への貢献が騒がれるこの時勢に何を言い出すのか。

「だって、おかしいでしょう。太陽の沈まぬ国と呼ばれた連合王国が、最後の砦ジャバルタリクまで追い詰められているんですよ。植民地の大半を奪われ、同盟諸国との連携も取れず、ほとんど単独での抵抗を余儀なくされている」

 これが大人の紳士同士による酒場での愚痴ならまだ許されよう。だが彼女が抜け抜けと批判を垂れ込んでいるのは、まごうことなき王位継承者だ。大慌てで口を塞ぎたい衝動を抑え、アイラは咳払いをした。

「こほん」

「両軍は戦闘の長期化によって被害がかさみ、お互い引くに引けない状況にあります。しかし帝国軍が王都の占領というゴール地点を定められているのに対し、連合王国軍は消極的な消耗戦に固執している。大方、講和に有利な状況になるまで粘るつもりなのでしょう。まぁ戦線を押し上げるのは現実的ではありませんから、敵の出血を強いる方針を固めるのは当然です」

「こほん!」

「風邪ですか? 軍医を呼びましょうか」

「この危険なお話を止めた方がよろしいかと思ったのです!」

「論点の前に前提を話さねばなりませんので」

 御者に聞かれてやしないかと冷や汗をかいたアイラに対し、マグダレナはけろりとしている。こいつ……やっぱり苦手だ。

「皆、薄々勘付いていると思っていますが、そもそも戦況が好転する見込みなんてないのです。だから塹壕の中で泣いて震えようが、喜び勇んで突撃しようが、魔女の仕事は同じです。最終的にジャバルタリク戦線の役割は講和までの時間稼ぎに帰結します」

 冷ややかに、マグダレナは告げる。

「無駄なんですよ。本島のご機嫌取りなんか頑張ったって」

 言わせなきゃよかった。意図は知らないが、連合王国に対する許されざる愚弄だ。いや……あえて俗世で覚えた語彙に倣って、クソみたいな愚痴と呼びたい。

 アイラは腰を浮かせた。頭に血が昇って、くらりと視界が揺れた。掴みかかろうと思ったのだ。戦争は教えてくれた。分からず屋は一発ぶん殴れって。

 バカにするな。踏み越えた犠牲を。生き延びた仲間を。アメリアを。

 拳が固まる。

 だけど、理性と立場と本音が全力で束になって、アイラを抑え付ける。

 マグダレナは正しい。上陸初日に見た頼りない新兵たちを、くたびれた将校たちの態度を、どこか空元気に見えた前線の若者たちを、思い返す。気付きたくなかっただけで、アイラは分かっていたはずだ。誰も、本気で勝てるとは思っていないって。彼らはうっすらと漂う敗北の空気に絶えず晒され、覚悟と折り合いを問われてきた。

 破滅というのは、存外に緩やかなものだ。

 皆、諦観を認めるだけの充分な時間を与えられていた。


 だが、そんな彼らが賭けた命は本物で。

 それでもマグダレナはアイラたちのために、自分の魔女としての半分を費やしてくれたのに。

 

 命は既に投げ出してもらった。絶望に侵され、なおも抗う魂は彼ら自身のものだ。それを美しく糊塗して差し出せとのたまうのは悪魔の所業だ。アイラには、絶望してなお戦い続けるものたちに、これ以上なにも求めることができない。


 やり場を失った怒りを腕に抱きしめて、堪える。人の言葉には誠意をもって答えるべきだ。とりわけ王族は、すべての民の憂いを払うために、尽くすべきだ。相手の口を、もしくは自分の耳を塞げば嫌な言葉は聞こえない。けれど消えたことにはならない。

 アイラはこの戦争の当事者だ。

 語る言葉は乏しい。兵士たちが体験した本当の地獄を知っているとは、口が裂けても言えない。だからこそ、軽くとも、上辺だけでも、地獄に沈み消え去った彼らに代わって、アイラには声を発する義務がある。

「無駄には、しません」

 戦争は無駄だ。費やした金も資源も命も時間も、平等に捨てられていく。

「私が、無駄じゃなかったことにしてみせます」

「それは殿下のエゴでは?」

 マグダレナは冷めた目付きで、アイラを見透かそうとする。アイラはただ頷いた。

 無駄じゃなかったと結論付けるのはただのエゴだ。だからこそ、アメリアがアイラを戦場に連れ出した理由が、今ならはっきりと分かる。エスターライヒ城の主塔で話してくれたこと。祖母に赦して__認めてもらいたい、単純な願い。

「アメリアは、頑張った人は報われるべきだと考えている……ように思えます。ええ、たいへん個人的で平凡な論理ですが、私は王家に連なる者としてこれに応えたい」

 アイラは万民の騎士になりたい。皆に認められたい。立場は違えど、同じ重さの願いを抱えている。

「頑張った人が報われないような、そんな普通の願いすら叶わない国は、滅びて構いません。私にできることはたかが知れていますが、喜んで彼らに報いましょう」

 ジャバルタリクで血みどろの殺し合いに明け暮れるのは、割に合わない人生だろう。何かに期待するのは、分が悪い賭けだ。アイラはそのオッズを傾けるためにこの地を踏んだ。天の思召しヘブンズコマンドは、お前の人生を以て民に報いよとささやいた。

「マグダレナさん、もちろんあなたの献身にも」

 自分に言い聞かせるように、アイラは言った。

 無駄だと思いながら頑張るのは辛い。要はマグダレナや皆の諦観はそこに収束する。アイラもジャバルタリクに上陸した時は、自分には何もできないと諦めていた。必要なのは、希望だ。

 報われる者も報いる者も、まずは杖と縋るための希望が無くては。


 マグダレナの、星空色の瞳を強く見返す。たとえその眼差しが侮蔑に歪んでいても受け止めるつもりだった。情けない自分が写り込んでいても、甘んじて認めよう。千万の民を説き伏せなければならないのに、ひとりの少女との対話に臆してなるものか。

 銃や魔法の代わりに言葉を弄する、アイラの戦いはここから始まるのだ。

「ふむ。ふむ……」

 マグダレナは更にアイラを見通し、短く何度も頷いた。たいそう失敬な態度だが、真剣にアイラの言葉を聞いてくれているのは分かる。

「……いいでしょう。殿下とアメリア・カーティスについて、多少の推察ができました。今回、ぼくが撃った3発には価値があった。そういうことにしておきます。この作戦に意味を持たせられるかは、殿下のこれから次第ではありますが」

 めちゃくちゃ不躾な物言いに若干引っ掛かるところがありつつも、アイラは顔をほころばせた。こちらを認めてくれたのは、まぁ、察しよう。彼女のむっつり顔が、少しやわらいだ気がする。こうべを垂れた陰で嘲笑されるよりは、ずっといい。

「ただし、普遍の善を過信するのは禁物です」

 マグダレナは帽子を外し、手でもてあそぶ。ちょっと疲れたような、労わるような。

「普通だの、当たり前だのを貫き通せるのは、殿下が思っているより異常なことなのです。人は……魔女だって、脆いのですから」

 わずかににじみ出た、同胞への慈しみだった。

 それからは特に語ることもなく、ふたりして格子窓の外を眺めて夜を明かした。マグダレナは沈黙を愛する気質のようだし、アイラも気が合わない相手と世間話を楽しめるタイプではなかったので助かった。


 直線距離にすればこんなものかと感じるが、帰り道には帰り道なりの苦労があることを知った。3つの大塹壕に十数本の支壕は、戦闘が終わった後ですら険しい地形として立ちはだかる。戦車以外の車両や各種機材は橋渡しがなければ通行できないので、荒野で大渋滞が発生してしまうのだ。その橋も木製の簡素な即席物で、重さに耐えきれずトラックが擱座してしまう事態も散見された。

 また、塹壕の指令室で鹵獲した地雷の敷設情報の精査にも時間を取られた。複数回踏むことで爆発し、戦列後方の人員に奇襲的な被害を与える試作品……という仕様書が発見され、一時は全軍が退却を停止するほどの大騒ぎになった。前線将校たちによる数十分の討論の末、冷静になった士官が「そんなものが埋まっていたのなら、侵攻時に被害を受けていたはずだ」と指摘、結局これは連合王国軍を混乱させるためのブラフであると結論付けられた。


 そんなこんなで日の出の直前に、アイラたちを乗せた車列はジャバルタリク要塞に到着した。すっかりお尻が痛くなったアイラを特に労わることもなく、マグダレナはさっさと馬車を降りた。

「セントジョン将軍をはじめ、幕僚団はたいそう今回の件に立腹していました。ソロモンス中佐おばあさまはまったく悪びれていませんが、殿下は多少なりともしおらしいところを御見せすべきかと存じます」

 最後にさらりと釘を刺し、彼女は帰還した兵士たちの人混みに紛れてしまった。

 事後承諾を得るためには、アメリアたちが正しかったという体裁を崩してはならないが、司令部の面々に多大な心労を掛けたのも事実である。オフレコで謝っておいた方が、可愛げがあるだろう。愛嬌は大切だ。

 アイラがそう固く決意して降りようとしたところ、数人の憲兵が馬車に駆け寄ってきた。

「お待ちしておりました、殿下」

 代表で進み出たひとりは、この世の終わりのような顔をしていた。憲兵隊はアイラの脱走をみすみす許した件について警備責任を問われたようだ。脱走に関しては魔女戦隊が手管を用いたはずだが、魔女に化かされたので仕方ない、とはいかないらしい。

「セントジョン将軍がお呼びです。御同行いただけますか」

「もちろん。ですがその前に……」

 謝っておくか、ひらに。アイラは死線を抜けても小心者であった。

「……」

「殿下?」

 言葉に詰まる。

 いくら小心者でも、謝る順番は慎重を期すべきだろう。各方面にぺこぺこ頭を下げていると、謝罪の価値も落ちるというもの。民が真に求める為政者は、簡単に謝ったりしない。むしろ彼らの理想は、おのずとわがままを許せてしまうくらいのカリスマなのだ。

 そう、カリスマ……母たる女王のようなカリスマだ。思えば彼女の戦時政策が巡り巡って今回のカスのごとき作戦が決行されたというのに、あの老害ババアは絶っっっ対に誰にも謝ったりしない。そもそも自分は王宮と大本営の「戦争ボケ」した姿勢を正すべく行動を始めたというのに、なぜ謝る必要がある? なんだか無性にムカムカしてきた。

「お風呂に入って半日くらいぐっすり眠りますので、その後で」

 憲兵は聞き間違いかと疑うように一歩踏み出しかけたが、問い返すのも無礼なのでギリギリ踏みとどまった。

「……は、しかし……セントジョン将軍は、早急な報告を望まれています」

「もしや将軍は、この私に泥だらけ汗まみれのまま寝ぼけまなこで話せと仰せなのですか?」

「いえ……し、しかし……」

「出迎えご苦労でした。では、ごきげんよう」

 彼らの処遇については後で口利きしておこう。アイラは憐れみを心に仕舞い、肩で風を切って立ち去った。


 マグダレナに倣って雑踏に紛れたら、それ以上口うるさく追ってくる者はいなかった。こっそりと向かったのは魔女戦隊の宿舎。実質的に女子寮となっており、看護婦や洗濯婦、炊事婦なんかが出入りしている。大規模作戦の後なので、帰還した兵士たちの世話に忙しく駆け回っている彼女たちに乗じて入るのは簡単だった。エントランスに立った途端、アイラの着ている泥だらけの軍装を見て年老いた洗濯婦が駆け寄ってくる。

「あんれまぁ! 王女殿下のおべべが泥んこでいらっしゃるよ!」

 老婆はアイラの身体じゅうをバシバシと叩き、土埃を払い落した。

「お勤めですかいね? まくれたかいね? ったく野郎共が山ほど着いといて、んだってお姫さんにんなカッコさせとうかね!」

「いっいたっ、あのお婆さん、湯浴みを、いたっ」

「あー風呂ね! よく使われるんで沸かいてますよ! ほれジャリ共、はよお姫さんを御連れしらやぁ!」

 幼い見習い洗濯婦が5、6人、どこからともなく清潔なタオルを抱えてわちゃわちゃとアイラを取り囲んだ。

「わぁ、アイラさまだ!」

「ブロマイド持ってます! 実物の方が綺麗!」

「なんで泥だらけなんですかー?」

「大浴場、みんなで浸かれば怖くなーい!」

 姦しい少女たちの台詞に聞き捨てならないところがあり、アイラは慌てて脚を踏ん張った。

「待って! 共同浴場なのですか!?」

「え? そうですけど」

 洗濯婦のひとりが怪訝な顔をする。何を当然なことを、といったふうだ。

 本島の王宮では、アイラには専用の浴室が与えられていた。当然、都市の労働者などが利用する銭湯などに立ち入ったことはない。しかし幼い頃に聞いた社交場の噂では、貧しい民は垢でドロドロになった「シチュー」のような湯に浸かっているのだとか……。首都の下水道が整備される前の与太話だが、当時はぞっとしたものだ。未だに良い印象はない。

 が、「汚くないですか?」などと問うのはたいへん失礼なので、なんとか堪えた。

「あぁ、御髪おぐしを洗ったりとかの御世話ですか? うちら素人ばっかりですけどよろしかったら」

「い、いえ、結構です! 大きなお風呂は初めてですので、驚いただけ……」

 アイラは即座にかぶりを振った。侍女でもない子供たちに人前で風呂の世話をさせるなんて恥ずかし過ぎる。そう、他人に世話をされるのが貴人のステータスなんて時代は終わったのだ。細かいようだがこうした場面で甘えていると、家臣にお尻を拭かせてふんぞり返っていた昔の貴族と同一視されかねない。


 いざ浴場に着いてみると、色々な意気込みは空振りに終わった。

「御着替え、置いておきますねー」

「ごゆっくりー!」

 若い洗濯婦たちはアイラを送り届けると、さっさと退散していった。戦地の女にとって、大きな作戦の前後が一番忙しいらしい。このタイミングで休めるのはそれこそ負傷者とか、階級の低い兵卒、そして魔女だ。更衣室を抜けて、静まり返ったタイルの床へと脚を踏み入れる。

「わぁ……綺麗」

 意外と、とは口に出さなかった。目の肥えたアイラにとっても、眼前に広がる大浴場は質素ながら清潔感のある良い佇まいをしている。魔女戦隊への慰安目的で設営されたものを、ソロモンス中佐の提言で他の女性たちにも解放したのだという。確かに、衣服や飯や薬などを扱う彼女たちが身綺麗であることは、男たちにとっても重要だ。そして何より大抵の女はお風呂に入れれば喜ぶ。いずれ来るべき自らの統治のためにも、覚えておこう。

「お湯が出る……」

 蛇口に手をやって、暖かさに涙が出そうになる。沸かしたてだ。もちろん小心者なので贅沢に流したりはせず、桶に取って頭から被る。

洗髪液シャンプーがある……石鹸シャボンも、海綿も……!」

 洗髪液をひと掬い手に取って、芳しい匂いを堪能。涙が出た気がする。まぁいいや。浴槽から立ち昇る湯気を尻目に半刻ほど、これでもかというほど丁寧に全身を洗う。

「あ、メイク落とさなきゃ。ん、んん……?」

 化粧落としやらスキンケアやらの諸道具を自分の客室に忘れて来てしまった。が、顔に触れてみて違和感。ぺたぺたしてみて、宮廷と社交界での暮らしで馴染んだ感触がないことに気付く。そういえば作戦に出る前、化粧をした記憶がない。

 そう、一国の姫君としては信じがたいことに、アイラは今更自分がすっぴんであることに気付いたのだ。

 風呂桶に張った水に自分の顔を映し込む。しばらくにらめっこして。

「…………まぁ、いいか……」

 さっきも綺麗って言われたし。コンディション最悪の状態で。自分が美少女であることを再確認し、今回の失敗は水に……もとい水で流すことにしよう。色々と麻痺した気がする。


 浴槽に浸かって、ぼんやりと考える。少し熱いくらいの温度が、頭を巡らすのにいい塩梅だった。後でまた来よう、などと決意しつつ。

 ずっと頭にあったのは、戦争と民衆の距離だった。

 戦争は力なき者たちが想像するより、ずっと近くにある。しかし彼らは戦う準備ができていない。アイラがそうであり、エスターライヒ城の民兵もそうだった。本島とジャバルタリクを隔てる欺瞞のベールを剥がす、それはあまねく王国臣民に覚悟を強いる行為となるだろう。けれどアイラはこの地の犠牲に報いると決めた。

 そして、これから戦争に関わるからには専門家の手を借りる必要がある。ジャバルタリクの要塞司令であるセントジョン将軍は、守りに長けた名将と聞く。本島の防衛計画にも色々と口を挟んでいるようだが、あまり実を結んでいないと見える。将軍に会う際に話を持ち掛けてみよう。自分の名で彼を支援する対価として、ぜひとも軍事面でのアドバイスをご教授ねがいたい。素人が軍師の真似事をしても碌なことにならないのだ。アイラはイエスマンでいい。

「ょぉしっ……」

 気合を出してみたが、湯が気持ち良過ぎてなんとも間の抜けた声が浴場に響いた。まずは疲れを取ることを考えよう。ひとりだからと贅沢に脚を広げ、浮力に身を任せてみる。幼い頃、浴槽で同じことをやって乳母に叱られたものだ……。


「誰かいるんですか?」

「きゃっ!?」

 急に浴場の扉が開いた。アイラは波飛沫を上げて身体を沈めた。こんなはしたない姿、誰かに見られたら王女としての品格が疑われる。いや、人として終わる。

「あ、アイラ殿下? 失礼しました……」

 即座に閉じられた扉の裏、遠慮がちな声はアメリアのものだった。

「すみません、出直しますね」

「待ってアメリア! 私は一緒で構いません!」

 慌てて引き留める。この浴場はもともと魔女戦隊の慰安用らしいので、今は魔女が入浴に来てもおかしくないのだった。王女だからといって、ひとりのために独占するのはよろしくない。

「え? で、では御一緒させていただきます」

 多少困惑しながら、アメリアが姿を現した。

 アイラは湯に深く浸り、洗い場に向かうアメリアの姿を無意識に目で追う。

 共同浴場が基本となる大多数の民衆と異なり、アイラは同年代の女の子と湯浴みを共にするのは初めてだった。気恥ずかしさもあるが、物珍しさの方が勝る。

 アメリアは、綺麗な身体をしていた。

 完璧な造形とか、異性を魅了する妖気とかは微塵もない。どちらかといえば中性的で、やや起伏に乏しい少年のようなシルエットをしている。首筋や手首には日焼けの境界が目立ち、背中や腕にはいくつか深い傷跡もある。水を被れば、傷んだ金髪の枝毛がぱらぱらと跳ね返る。戦場の日々は、絶えず彼女に担保された美しさを損ない続けている。

 けれど無数の痛みに晒されたその肉体は、アイラにはまぶしかった。どこにでもある鉄くれを溶かして削って磨き上げたような、鋼の美を見た。特別じゃないのが、良い。

「アメリア」

「はい、殿下?」

 アメリアはいそいそと身体を洗っている。アイラと同じ風呂に入るのはどうにも畏れ多いらしい。自分が逆の立場でもそうなるだろうな、とアイラは思う。

「そんなやり方じゃ肌に悪いわ」

 でも遠慮はしない。アイラは浴槽から出て、見るからに緊張しているアメリアの隣に膝を付く。

「私が洗ってあげます」

「えっ!? い、いや、で、で、殿下にそんなこと、畏れ多いですって!」

 アメリアは顔を真っ赤にして首を振った。当然の反応。アイラは構わず、洗髪液を手に塗る。

「私に任せていればよいのです。ほら、力を抜いて」

「私なんか別に……すぐ汚れるし……気にすること、ないのに」

「いいえ。アメリアは綺麗ですよ」

「……」

 アメリアが黙り込んだのをいいことに、アイラは彼女の傷んだ髪に触れる。

 王宮で自分がやって貰っている洗い方を見よう見真似でやってみる。時々アメリアが痛そうに身を縮めるのは、9割がたアイラが下手くそで指に毛を絡めるからだろう。それでも慣れてきたら、徐々に身を預けてくれるようになった。

「背中も流します。いいですね」

 先ほど思ったことを言わずにおいたが、アメリアはあまり頻繁に入浴できているわけではないようだ。アイラへの遠慮を抜きにしても、洗い方がずいぶんと適当だ。出撃の都合などもあり、当然急げる時は急ぐのだろう。

 海綿に石鹸を擦り込み、よく泡立たせる。劣悪な環境を耐えたアメリアの肌はそう繊細でもなさそうだが、あくまで優しく洗う。今ばかりは、のんびりしてもいいはずだ。

「ひゃぅっ」

「ひぇっ、ごめんなさいアメリア」

 脇腹をぬぐってやったら、アメリアから聞いたことのない声が発された。

「いえ……くすぐったかっただけです」

「そ、そう」

 なんだか妙にその声色が耳に残って、鼓動が早くなってしまった。

「あ、前は自分でやりますから」

「えぇ、それがいいわね」

 後ろから洗えるところを洗い終え、海綿をアメリアに渡す。それからしばらくアメリアは黙々と手を動かし、アイラは横でじっと待っていた。


「アメリア。気にすることはない、とおっしゃいましたが」

 自然と、口を開いた。沈黙が気まずいのではなく、アメリアには語りたかった。ずっと考えていたことが、結論を結んだ気がしたのだ。

「私たちはもうお友達、だと私は思っているのですが」

「え? はい、殿下がそう仰るなら、私も嬉しい、ですけど」

 アイラは心の中でガッツポーズした。これで友達じゃないとか言われたらどうしようかと。まぁ杞憂に終わったので引き続き論理を展開する。

「もちろん必ず遵守せよとは言いません。けれどあなたを想う友の諫言には、耳を傾ける価値があるのではないかしら?」

「それは、もちろん」

 当惑しながら、アメリアは頷いた。


 本当に、アイラはアメリアを想っている。彼女がこの地を守るのなら、アイラはその一助になりたい。アメリアが皆のためにと力を振るうなら、どんな非道もアイラが赦そう。

 だがアイラは、鉄条網の魔女が生まれながらの怪物でないことをもう、知っている。

「護国に身を挺するのは素晴らしい心がけです。でも、前線の向こう側にある自らの人生すら切り捨てるのは、違うと思いませんか?」

「それは……どういう」

「あなたが戦争から戻れなくなったら、私は悲しいわ」

 アメリアが手を止める。もう全身、綺麗にしてしまった。アイラはシャワーのハンドルを捻る。天井から、温かい大粒の雨がふたりに降り注ぐ。

「戦争の中でもあなたは女の子で、戦争が終わってもひとりの女性として生きていかねばなりません。敵を殺して、仲間を見送って、心や身体が傷ついて、いつか怪物のようになってしまっても」

 アメリアの肩に、触れる。小柄で、少し痩せていて、多少の筋肉がついていて、柔らかい。頬を、彼女の背中に付ける。ぴくりと震えが伝わった。狭くて頼りないこの背中に、連合王国は守られている。降りしきるしずくを共有するように、アイラはアメリアに寄り添う。

「普通の、当たり前の人生を諦めてほしくないのです」

 海峡の向こうの民衆には、戦禍の到来を知らしめる。同じように、ジャバルタリクで戦う者たちの安らぎも守られるべきだ。彼らは戦場に置き去りにされてなどいないと、思い出させなければ。両者は本来、同じ故郷を想う心で地続きになっているのだから。絶望なんて、させるものか。

「そう、ですね」

 アメリアの返事は湯気にくぐもっていた。


 ふたりして、浴槽に浸かる。アイラは向かい合って座るつもりだったが、アメリアはなぜかわざわざ隣に移った。

 アイラは湿っぽい話は終わりにして、何か気軽なことでアメリアと語り合いたかった。どうせ彼女は数時間後には、戦況と死人とまだ死んでいない仲間のことで頭を一杯にするのだ。自分も胃痛と戦いつつ軍のお歴々にデカい態度を通さなければならない。今だけは現実逃避したい。

 思えば彼女と雑談できる機会は今が初めてだ。アイラは友達が少ないだけで、同年代への関心自体は割とある。普通の女の子……ではないだろうが、ここの娘たちは風呂場で何を話すのだろうか。

 ちょっとだけ悩んで、アイラは無難だと思われるトピックを選んだ。昔読んだ小説では、どんな場でも女子たちにとって鉄板らしい。たぶん、これでいいはず。

「アメリアは……す、好きな人とかいるの?」

 なるべく気さくな感じを装ったのに、なんだか妙にうわずってしまった。変に視線が泳いでしまったのを悟られてやしないか。返事がない。天井を向いて、10数える。もしかして聞こえなかったのか。もう少し待つ。20秒。水面が波打つ音だけ。

 耐えかねて、こっそり窺う。

 アメリアは顔を赤くして、俯いていた。

「……冗談よ」

 アイラは咄嗟にいたずらっぽい笑顔でひらひらと手を振った。実際には笑い損ねて卑屈な引き攣り顔になったのだが、気にするどころではなかった。次の話題を思いつかず頭が真っ白になる。それが何だか、逆に、意味深な間を演出する。

「殿下」

「な、何かしら」

 アメリアが耳まで真っ赤にして、伏目でアイラを見上げる。

「無礼を承知で、御聞きしたいのですが」

「無礼……? ええ、ええ。結構ですよ。私とあなたの仲ですから、無礼なんてないわ、ええ」

 しどろもどろ。質問を質問で返されるのは別にいい。アメリアのこの微妙な態度は何なのか。そのちょっと見ないレベルの恥じらいようは何の何なのか。そして自分が何にドギマギしているのか、アイラ自身にも分からなくなってきた。

 アメリアは何度も深呼吸して、ようやくか細い声を振り絞った。

「殿下は女の子が好きなんですよね?」

「……へ」

 アイラの喉から間抜けな声が漏れ出た。

「だって、ケイリーの部屋に連れ込まれた時、満更でもなさそうだったし」

 アメリアは薄桃色の唇をぎゅっと噛みしめて、なんだか怒っているようだ。敵にすら表立った憎悪をぶつけない彼女を怒らせてしまったことに、アイラは動揺した。

「そんなことは……」

 そんなこと、あったな。思い出せば、確かに満更でもなかった。ケイリーの見目麗しさにくらっと来ていたのは、確かだ。しかしあの時アイラは襲撃に遭った恐怖と疲労で割とどうかしていたし、命の恩人の誘いを断るのは王女として礼を欠くし、ケイリーの腕に指を絡めていたのは兵士たちの人混みではぐれないようにしていたからだ。

「それにっ」

 アメリアの瞳が潤んでいるように見えて、アイラの心臓が締め付けられた。

「なんだか、すごく距離が近くて……お友達とか仰ってたのに、殿下のほっぺたの感触、背中にすごく感じて、私すごくドキドキして」

「お友達なら、そのくらい……」

 お友達でも、しないかもしれない。アイラは友達が少ない。社交界の関係なんぞ上辺だけのものだった。ゆえに、踏み込んだ対人経験に乏しい。うっすら苦手なマグダレナでさえ、同年代の中ではわりかし話せた方なのだ。

「ごめんなさい、怖がらせてしまったようですね」

 重大な勘違いをさせてしまっていたらしい。非はすべてアイラにある。素直に謝っておかないと、きっとアメリアに嫌われる。そう思って、アイラは向き直った。

 アメリアの顔が、ものすごく近くにあった。

「いいえ、殿下。私は、怖くないです」

 甘い匂いがする。汗と砂塵を払ったアメリアの、本当の匂い。好きだな、とアイラは素直に感じた。

 吐息が混ざる。

 まつ毛が重なりそうなほど近い。

 いつのまにか、アメリアの指がアイラの頬に触れていた。自分と彼女どちらの体温なのか、不思議な心地よさに釘付けにされる。それで、魔法みたいにアイラは身体を動かせなかった。

 アイラの目には、もうアメリアの曇り空の色をした瞳しか映らない。

「ぜんぜん、怖くなんて__」

 深い瞳の奥に、吸い寄せられる。

 身体の芯が、ひどく熱い。


 ふいに、アイラの視界が暗くなって、傾く。最後に水音を聞いた。

 結構な時間この浴場にいたアイラは、すっかりのぼせていた。


 目覚めた時、アイラは自分の客室のベッドにいた。

 服は寝間着に変えてある。起き上がって窓辺に寄ると、日が高く昇っていた。ちょうど正午の鐘が鳴る。サイドテーブルには水差しと、書き置き。

「やってしまった……」

 大大大失態。来訪先のお風呂でのぼせ上って気絶なんて、王族末代までの恥だ。これが報道でもされたらアイラは本島じゅうで笑いものにされる。

「いえ……うん、起きてしまったのだから、仕方ないわ」

 冷静に考えてみれば、ここまで運んでくれたのはアメリアだろう。彼女はアイラの醜態を吹聴するような真似はしないはずだ。水を飲んでから、書き置きに目を通す。

『お疲れのようですので、そのままお休みください。セントジョン将軍から、晩餐にはぜひお越しくださいとの言伝ことづてです。夕刻に遣いを寄越されるとのことでした』

 アメリアの署名があった。その下に小さく付け加えた文章が。

『追伸:私は休暇という名の謹慎を与えられました。殿下が滞在中のうちに、こっそり御挨拶に伺います』

「うわぁ……将軍、怒ってそう」

 正直、浴場でのアメリアの態度は気掛かりだ。ここから当面の間お預けを喰らうのはもどかしい。でも、この余暇には大いに甘えさせてもらおう。アイラとしても、今後セントジョン将軍と打ち合わせるべき話を整理する必要がある。マグダレナの言う通り、論理の前にまずは前提を知っておかねば。

「よしっ!」

 今度はちゃんと気合が入った。

 世話役の兵士を呼びつけ、アイラの権限が及ぶ範囲で将校用の軍事教本を持ってきてもらう。戦争の基礎を知るためだ。下手な質問ばかりしていては、将軍との貴重な会談の時間を無駄にしてしまう。

 数十冊の本と分厚い史料の束を机に積み重ね、アイラは勉強を始めた。半ば引いている世話役を追い出し、紙にペンを走らせる。友達が少ないぶん、ひとりでできる座学は得意だった。自画自賛のようだが、地頭は良いと思っている。

「……んん」

 小さく喉が唸る。がぶがぶと軍事理論の概略を流し込んで、他の一切は忘れようとする。

「……んん!」

 喉が詰まりそうになる。集中は切れていない。でもどうしても、記憶が脳裏にちらつく。むきになって脳みそから追い出そうとするほど、鮮明に思い出してしまう。


 アメリアの、指とか瞳とか髪とか耳とか唇とか鎖骨とか肩とか腰とかその他ちょっと言葉に出せない諸々とか……が、白い紙の上にず~っと焼き付いていたのだ。

 アイラは日が落ちるまで必死に白紙を文字で埋め尽くしていたが、結局アメリアの切なそうな表情が頭から離れなかった。セントジョン将軍の遣いが来た時、アイラは鼻血を流していた。

「アイラ殿下!? どどどどうされましたっ!?」

 事故か曲者くせものか何かの病気かとうろたえる兵士に対し、アイラは神妙な顔で答えた。

「いえ、ちょっと……己と戦っていました」

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