第9話:代償③

 リタを山頂に置き去りにしたことで、特段アメリアが批判されることはなかった。命からがら砲撃から逃れた少女たちを責め立てる大人はいなかったし、あの状況での救出は現実的ではなかった。また背後から襲ってきた部隊に関しては、規模も分からなければこの先の目的も読めない。こちらを超える規模の敵が追撃している可能性を鑑みれば、取れる選択肢は逃げの一手のみ。

 それで、「リタは諦めます」、「了解」。たったこれだけの言葉でもっとも頼れる戦力を連合王国軍は手放すことになった。

 アメリアは、リタと好い仲に見えたサンダーソンがもっと取り乱すのではないかと予想していた。だが、彼は表情ひとつ変えず希望を口にした。

「致命傷を負ったかどうかは見てないんだな……まだ、死んだと決まったわけじゃねえ」

 実際、帝国軍も魔女を捕虜に取れるなら、そうするだろう。敵狙撃手の3発目がどこに命中したか見ていない以上、諦めるのは早い。リタが帝国の収容所で死ぬよりひどい目に遭ったとしても、戦略上死んでさえいなければ連合王国軍にとって最悪の事態ではない。

「今は俺たちが生き延びることだけを考えよう。で、さしあたって前門の虎なんだが」

 

 一行には、もっと大きな問題が待ち構えていた。

「虎というか、竜……ですよね」

「もしくは、超デカい蜥蜴だな。全長15メートルってところか」

 アメリアが単眼鏡で覗いた先。第3塹壕線の上で暴れ狂う巨大な影が、次々と打ち上がる照明弾に照らされていた。一瞬、その怪物がかなり近くにいるのではないかと疑ったほどだ。

「大当たり引いちまったな。おそらくエスターライヒ城に収容されてた奴だ。あそこの駐留部隊はあいつを連れて、俺たちと入れ違いで前線へ向かったんだろうな」

「シャルちゃんの予想は正しかったんですね」

 アメリアは仲間たちの中心に横たえられた後輩魔女をかえりみる。彼女の意見を取り入れていれば、引き返していただろうか。

「気にすんなよ。仮に敵の正体が割れてたって、やることは一緒さ」

「そう、でしょうか」

 ここまで最善手を選んできたし、意表を突く策も講じてきた。敵もそうだっただけのことだ。ならば犠牲は必要経費、ということで納得すべきだと彼は言っている。

「ああ。次にどうするか、判断を頼む」

 サンダーソンは険しい顔でアメリアを仰いだ。

 判断……あの竜を相手にするかどうか。

 答えは決まっている。アメリアは音を立てて、掌を合わせる。

「背後から竜を叩き、挟み撃ちにします」

「そう言うと思ったよ。だがアレを運用する部隊が潜んでいるだろう。今は見えんが、竜にかかずらってたらそいつらに足元掬われるかもしれねえぞ」

「彼らはサンダーソン上等兵たちで抑えてもらいます。エスターライヒ城に駐留していた部隊でしょうから、元々大した規模ではありません。それに帝国軍はマグダレナの隕石落としを警戒して、大部隊を動かせなくなっていると思われます」

 相手も同じだ。勝利を掴むため、綱渡りをしている。されたら不味いことをしてやるのが戦いの鉄則である。

「彼らも孤立しているんですよ」

 アメリアの中に渦巻いているのは、純然な殺意だった。

 リタを撃って、意気揚々と凱旋できると高を括っているのか?

「やられっぱなしじゃ、終われませんよね?」


 一行はすぐに移動を開始した。アメリアが第3塹壕線で有刺鉄線を調達しそのまま竜との戦闘に突入。他の戦える兵士全員が竜の運用部隊を強襲する手はずとなった。

 シャーロットはアイラに任せ、手近な散兵壕に隠れさせた。帝国軍は連合王国軍よりも戦線の厚みを広く考えており、大きな塹壕の周囲には必ず反撃用の掩蔽が配置されている。竜によってまさに攻撃を受けている塹壕までふたりを連れて行くよりは、ここで待機させた方が安全であると判断してのことだ。

 アメリアは仲間と離れ、最短距離で塹壕へと駆ける。ここからの道のりはなだらかだが、それゆえに険しい。いくつか緩やかな丘陵があるのみで、身を隠しながら進むには心もとない。この地方の豊かな草木は、度重なる土壌汚染で枯れ果ててしまっていた。痩せこけ、ぬかるんだ土には毒ガスなどの残留物質が染み込んでいる。

 正面に見える禿山は沈黙していて、カニンガム中佐の支援も受けられそうにない。塹壕近くで戦車砲が閃いたので、竜の相手をするために陣地転換したようだ。

 砲炎に、人影がかたどられたように見えた。

 脚を止めて、伏せる。近い。

「斥候……」

 姿勢を低くした帝国兵がふたり、丘の稜線から塹壕を覗き込んでいた。たぶん、竜を連れて来た部隊だ。竜に直接指示を出しているようには見えない。戦闘経過を観測しているのか、攻撃の機を伺っているのか。

 ベルトに差した拳銃のグリップに手をやりつつ、背後の暗闇へ振り返る。サンダーソンたちはまだ彼らの本隊を発見していない。今この斥候たちを撃てば本隊が警戒を強め、強襲に失敗するかもしれない。だがあちらが戦端を開いたら、斥候は二手に別れるか両者とも引き返すかして、本隊の救援に向かうだろう。当然、その過程でアメリアが発見されるおそれもある。

 ひとりでも護衛に付いてもらうんだった……などと悔やむのは後。アメリアは、この斥候を迅速かつ隠密に始末しなければならない。銃声は前線の戦闘音で掻き消せるが、この開けた地形で拳銃を使うとマズルフラッシュが後ろに筒抜けになってしまう。

 グリップから手を離し、代わりにコンバットナイフを握る。格闘戦においてアメリアがこれを使うのは初めてだ。できれば使う日は来ないでほしかった。

 いくら鍛えても、17歳の少女は非力だ。今、有刺鉄線を失ったアメリアは本当の意味で生身の戦争に向き合っている。


 息を止める。違う、止めちゃダメなんだった。

 ナイフを持つ手が震える。左手で抑え込む。何、素人みたいなことを。

 足がもつれそうになる。大丈夫、運動はできる子だったはず、だから。

 敵が振り向かないことを祈る。心臓が痛い。


 今までどれだけ無惨な殺し方をしてきた。主はお前を赦さないし悪魔はお前を嘲笑っている。死んだら英雄墓地に埋められる奴が、家族と同じ墓に入れてもらえない人種が、今更、今更! こんなところで怖がるな! こころまで、怪物になるって誓ったのに!


 刃を逆手に。

 打ち上がった照明弾を便りに地形を覚え、一気に距離を詰める。10歩、9歩、8、7……2、1! うつ伏せの敵兵の片方にまたがる。太もも越しに筋肉の硬直が伝わる。左手でそいつの顎を掴んで上を向かせ、さらけ出された喉にナイフを突き入れる。少し捻って傷口を開き、捌く。絶命の吐息を掌に受け止める。

 もう片方がそのかすかな音に気付き、アメリアを見た。それ以上動かれる前に鮮血が滴る切っ先を振り抜き、倒れ込む勢いで相手の懐に入る。ナイフを振り下ろす。腕にブロックされ狙いが逸れた。首には刺さったが、浅い。

「Du verdammte Fotze !」

 血の混じった唾がアメリアの顔に吹きかかった。帝国語は分からなくても、どうせ罵倒だ。早く仕留めないとまずい。頸動脈を完全に裂くため、万力を込める。噴水みたいに飛沫が上がる。

 反撃を防ぐ余力など、アメリアにはなかった。帝国兵が右手を振るい、アメリアの側頭部を打つ。

 視界に火花が散った。こめかみが熱い。眼球が揺れる。だが、刃は離さない。散ってしまいそうな意識が、ずぶずぶと肉を断つ感触に縋りつく。

 もう一度、アメリアの顎に拳が飛んだ。視界に火花が瞬く。まだだ。離さない。

 もう一度……振り上げられた拳が、ふいに力を失って垂れ下がった。

 敵兵の喉から、空気が抜ける音がする。


 ようやく、刃が命に届いた。

「はっ……はぁ……」

 息をするたびに心臓が痛い。握り込んだ指から力が抜けない。刃こぼれしたナイフは使い物にならないのに。

「あぁ……もう!」

 子供みたいな悪態。右手が言うことを利かなくて、左手で一本ずつ剥がして、ようやく放り捨てる。

 自分の弱さが腹立たしかった。

 強くなきゃ勇敢になれないのは浅ましい人間だ。一時的に魔法が使えない程度の状況で怖気づいていたら、アメリアはいつまでたっても怪物になれない。見放した命は、なおも重くのしかかっている。皆の為に、潰れないように、少しでも高い地平に行けるように、この弱さを削ぎ落したい。


 怒りのままに走る。味方の砲撃音が近い。竜の咆哮が聞こえる。血の匂いがする。誰かの断末魔。

 速く。お前がもっと強ければ、もっと勇敢なら、助かったはずの命がある。

 丘を駆け降りる。塹壕を死守していた兵士が、駆け寄ってくるアメリアの姿に歓声を上げた。

「鉄条網の魔女だ!」

 これで助かったと思われても困る。連合王国軍が何時間この竜を相手にしていたか知らないが、見たところ有効打を与えたようには見えない。味方砲兵もまばらに照明弾を撃ち上げる以外は沈黙している。かなり嫌な予感がする。アメリアがいても勝てないなら、竜の運用部隊を抑えているサンダーソンたちを呼び戻して全軍撤退する必要性も出てくる。力が及ばなければ逃げるのだ。ひとりでも多く生かすために。

 塹壕に飛び降りたアメリアは、死体が折り重なった床に着地した。腰を上げるやいなや、招き寄せてきた兵士が切羽詰まった様子でまくし立てる。

「魔女さま、敵はあの蜥蜴野郎だけじゃない! こいつらは迫撃砲を積んだトラックにやられた! カニンガム中佐が追い払ってくれたがどこかに潜んで__」

 帝国領の側で、銃声が響き始めた。アメリアはその兵士の肩を掴んでたしなめる。

「落ち着いて。ちょうど私の部隊が対処にあたっています」

「なぁ、魔女さま、はやく助けてくれよ! 俺たち皆殺しにされちまう!」

 間近に見ると、彼はずいぶんと若い新兵だった。銃を持たせても役に立たないから死体を片付ける役目を任されていたのだろう。

 新兵はひどく動揺していた。掴み返された勢いで押し倒されそうになって、アメリアは彼の頬をぶん殴った。殴ったり殴られたりしてばかりだが、拳は戦場で一番手っ取り早いコミュニケーションだ。

「うっぐ……」

「落ち着きましたか? 私は有刺鉄線を調達するので、塹壕を案内してくれませんか」

「すみません、案内します」

 ちょっと短気になったかもしれない。アメリアを見返す新兵の表情には畏怖が混じっていた。

「き、気を付けてください。撤退時に塹壕を破壊するためのダイナマイトを仕掛けてますから」

 言いながら、彼は爆弾の入った木箱に膝をぶつけて悶絶していた。ぴょこぴょこ揺れる新兵の頼りない背中を追うと、先任軍曹がいてくれたら、との思いがよぎる。あの人は一度も道を間違えなかったし、床に散乱した薬莢なんかも歩きながら蹴り払ってくれた。頼れる人が消えたぶんは、残された者が役割を自然と受け継ぐように出来ているのだろうか。戦車用の掩体に味方戦車が転がり込んできた際には、アメリアが新兵の首根っこを掴んで止めてやらなければいけなかった。

「塹壕では前を見て走れとママに教わらなかったかクソガキめ! 次は轢き潰すぞこのウジ虫!」

「うおわっカニンガム中佐ぁ!」

 新兵がとんでもない声量の罵倒に腰を抜かした。ハッチから出てきた禿げ頭の老将は、今アメリアが最も頼りたい人物だった。

「ご無事でなによりです中佐」

「鉄条網の魔女、無事だったか。他の者はどうした」

「敵の別働隊を抑えるべく動いています。竜への対処には私が加わります」

「炎の魔女はどこだ? あやつの火力が欲しい」

「……リタは、行方不明です。詳細は後ほど」

 アメリアは言葉を濁した。どれだけ生存が絶望的でも死亡を確認していないため、リタは作戦行動中行方不明MIAと認定される。曖昧な希望に宙吊りにされ、このまま彼女の生存がぼかされ続けるのだろうと思うと、やはり憂鬱ではあった。

「承知した」

 カニンガム中佐は慣れたように頷いたのみだった。


 彼の戦車隊は現在、歩兵を守るため竜へと接近戦を仕掛けている。ただし未確認の敵に対する様子見の意味合いが強く、アメリアたちが合流したのちに抗戦するかどうか判断すべく情報を集めていたという。

 中佐の渋面をみるに、得られた情報は喜ばしいものではなさそうだ。

「あの蜥蜴は頑丈かつ機動力に長けている。いちどだけ57ミリ砲を当てたが、効かんかった。どうもあの鱗、被弾経始として機能しているらしい」

「すみません、被弾……けーしってなんですか」

「装甲に角度を付けて跳弾させることだ! 帰ったら勉強し直せバカもん!」

 こんな時に怒られてしまった。連合王国軍のマークⅨ戦車にそんなものは付いていないので、戦車兵でないアメリアが知っている謂れはないのだが。つまりは先進的な軍事理論を生物に適応し、それを実戦で運用しているということか。

「じゃあ直角に撃ち込めば貫通できますか?」

「奴はこちらの主砲をかなりの精度で認識し、射撃のタイミングに合わせて鱗の角度を調節しているようだ。すなわち、そうしなければ耐えられんとも取れる。貴様の魔法で動きを止められれば撃ち抜けるかもな」

 話している間にも、どこかで仲間の悲鳴が聞こえる。

「やってみましょう、あいつを放置するのは現実的じゃないです」

「同感だな。ただし、あの蜘蛛のような怪物を生成するのはやめておけ」

 アメリアはカニンガム中佐を見上げた。心意をはかる。

 どれだけ階級が上でも、魔女以外が魔女に命令することはできない。それを許せば、魔法を知らない者が魔法を運用できてしまう。すべての魔女は、極めて個人的な信義に基づき連合王国の守護を担っているにすぎない。だからこれは諫言、あるいは個人的なお願いだ。無視してもいい。

「中佐……私は、勝つためなら」

「そう背負い過ぎると大きくなれんぞ」

 見下ろす老将は、やんちゃな孫をあしらうように笑った。


 もう何も背負わないでよ、アメリア。


 また、これだ。

 言い返す言葉を選べない。

「口が過ぎたな、健闘を祈る」

 照れくさそうに頭を掻いて、カニンガム中佐は戦車を壕から脱出させた。優しい声色は勘違いだったかのように消え失せ、また部下たちに凄まじい檄を飛ばし始める。


 竜の包囲を試みる戦車隊を横目に、アメリアは新兵の先導で鉄条網まで辿り着いた。長期の占領を想定していなかったため、帝国兵の遺体は塹壕の外に積み上げられていた。一応焼却されていたが、燃料が足りなかったせいで燃え残りが最悪の腐乱臭を運んでくる。

「うっ、げぇっ」

 新兵が吐いた。

「おえ……ええええぇぇぇぇ……るぇえうるぶぅ」

 吐く量が多い。突撃部隊だから豪勢に振舞われたにしても、食べ過ぎだろう。じきに咳き込み出したので、アメリアは仕事道具を回収する前に彼の背を叩いてやった。

「変なとこに入ったんですか? 吐き気がするなら無理に走ったらダメです」

「げほっ、ぐぅ……すみません、俺、役立たず、」

 ドブのたまった窪みにうずくまった彼の背は、ひどく小さかった。装備からして歩兵だろうに、自分の小銃をどこぞに捨て去ってきたのだろう。こういう子の大半は一発も撃たずに死んでいく。アメリアはずっと彼らを見送ってきた。

 無力感に苛まれ、自分の弱さに蝕まれ、持っただけの刃を力なく垂らす者。彼らは、罪か。

 エスターライヒ城で殺した女の子が、彼と重なる。勇気は力ある者の特権ではない。すべての戦いの当事者には、理不尽に立ち向かう権利がある。ロバに乗って風車に挑むのだって自由だ。けれど行き着く先が虫けらのような死にざまなら、そんなもの強要しなくたっていいじゃないか。可哀想だし。


 苦しまなくていいよ。

 そこで小さく震えていてね。

 私があなたの代わりに背負うから。


 耳ざわりのいい言葉を紡ぐのは楽だ。今までずっとそうしてきた。良い子でいれば、頼ってくれるし認めてくれる。必要としてくれる。皆のためだと思えば、どんな重責にも耐えられた。

 弱いひとは戦わなくていい。私が守る。

「役立たず……」

 アメリアの呟きは、さまざまな雑音にかき消された。竜の咆哮。戦車の砲声。小銃。兵士。風。一番大きく聞こえる彼の泣き声は、すっかり甘えん坊な少年のものだった。惨めにドブに顔を突っ込んで、故郷の母を呼んで、嵐が過ぎ去るのをひたすら願って。

 戦わなくても。私がまも……。

「__っじゃない!」

 何かがアメリアの胸の中で爆発した。新兵の首根っこを掴んで無理やり引き起こす。

「うわぁ!?」

「あなたは役立たずなんかじゃない。死体を片付けて、負傷者を助けて、銃を撃って」

「はぁ!? なっ何言ってるんですか! 俺はあんたみたいな魔女じゃない! どうせ虫けらみたいに殺される!」

「それでいいんです。弾が尽きたら竜の餌にでもなってください」

「めちゃくちゃだ!」

「黙れ!」

 泣き虫の鼻っ面にストレートパンチ。リタの喧嘩拳法を真似したら、殴った拳は痛くない。

「私が、死ぬのが怖くないとでも? 無敵だとでも? 私は皆のためにめちゃくちゃ頑張ってるのに、皆が皆のために頑張らないなんて虫が良すぎです」

 ヘッドバット。折れた新兵の鼻に更なる追い打ち。流石におでこが痛い。

「私は勝つまで戦います。あなたも、誰もが、そうするべきなんです」

 新兵を離す。崩れ落ちるかと思ったが、彼は頼りない足取りでドブの上に踏みとどまった。アメリアの豹変ぶりに当惑と恐怖を覚えたせいだとしても、その無力感さえ拭い去れたのならいい。

 アメリアは掴んでいた新兵を離し、今度こそ鉄条網へと向かった。この後彼がどうなるのかは知らない。知りたくもない。でも皆のために彼は戦うべきだ。今後似たような人とたくさん出会うだろう。そのたびにアメリアはきっと、「戦え」と焚き付ける。


 塹壕から這い出て、有刺鉄線に触れる。

 強いから戦えるわけじゃない。強さは結局、ただの権利だ。この義務は自ら課した。すべては望んで、選んだことだと、アメリアは信じる。

「来い」

 魔力が鉄を侵食する。掴んだ端から紡ぎ、結び、杭ごと引き抜いて手繰り寄せる。総延長5キロほどを掌握。コイル状に圧縮した大蛇がとぐろを巻き、アメリアのもとに馳せ参じる。十等分して両手指に制御を振り分け、久方ぶりの感覚を確かめる。調子は良好。

 炎に照らされた竜を見据える。

 竜もこちらを見た。

 それでいい。

「来い!」

 先んじて、吠えた。お前が竜か、蜥蜴か、そんなのどちらでもいい。こっちも怪物だって分からせてやる。

 指を奔らせる。無数の棘を纏った大蛇が時速200キロで飛び掛かる。その体躯の通り道には砂塵が雨のように降り注ぎ、おぞましい風切り音が吹き荒れる。どんな敵もこれで薙ぎ払ってきた。

 直撃。叩き付けられた鉄線と竜の鱗の間に、白い火花が咲き乱れる。斬り裂けない。アメリアの刃が初めて防がれた。だが、まだだ。

 鉄条網はアメリアの意思に忠実に、竜の体躯を絡め取る。鱗に噛み込んだワイヤーは決して振りほどけない。

「捉えた!」

 胴から前脚、後脚、長い首から頭へ。突如纏わりついてきた異物に竜は困惑しているようで、戦車砲から注意を逸らして身悶えし始めた。

 相手がれっきとした生物であるのなら、物理法則を無視した動きはできないはず。このまま千切られないように目一杯の有刺鉄線を送り込み、限界まで強度を確保出来たら一気に無力化する。勝利の算段が組み上がって来た。

 次の操作のため指を運ぼうとした、瞬間。

 アメリアの脚が、浮いた。

 単純な膂力で振り回されたのだと気付いた時には、天地が裏返っていた。

「__ぐぅっ」

 胃が揺さぶられる感覚。強烈な風圧に髪が暴れる。

 失念していた。

 いくら有刺鉄線を自在に動かせても、アメリア自身は固定されない。拘束された状態から綱引きを仕掛けてくる敵は流石に想定できていなかったのだ。

 恐ろしい勢いで地面が流れていく。初めての恐怖に、アメリアの思考が高速で巡る。子供がネズミの首に麻紐を掛けて遊ぶのと同じだ。このままではどこかに叩き付けられる。あと何秒後、それまでに何ができる。

 拘束を解くか? 慣性のまま投げ出されて終わりだ。

 空いている有刺鉄線を障害物に引っ掛けて勢いを殺す? ダメだ、塹壕付近には強靭な障害物が存在しない。

 正解は、受け流す。

 アメリアは残りの有刺鉄線をすべて竜へと絡ませた。伸びきっていた鉄の大蛇をコイル状に再形成。体勢を立て直すと同時に全長を縮め、振り回される半径を小さくする。

 怪物の膂力に逆らわない。相手の方が強いなら、その力を利用する。

 視界を味方戦車が横切る。この軌道で引きずられ続ければ衝突する。仲間と交通事故を起こしてカニンガム中佐に叱られるのは御免こうむる。ギョッとした表情の車長に、叫ぶ。

「伏せて!」

 わずかに竜への拘束を緩めて速度を殺し、地面に踵を擦る。接地の反動で腰を大きくひねり、回し蹴りの要領でジャンプ、高度を稼ぐ。車長が首を引っ込めたハッチの縁に爪先が掠る。ギリギリで避けた。

「大丈夫か!」

 後ろに過ぎ去った戦車から案じる声が聞こえた。大丈夫なものか。遠心力で羽虫のように吹き流されるアメリアを、竜の片眼がぴたりと追う。助けになればとダメ元で味方が砲撃を浴びせるも、もう片眼は精緻にその動作を読み切って砲弾を逸らす。

 こいつの防御は視力に頼っている。他の感覚器は戦場の環境に乱されやすいから、当たり前ではある。何かひとつでも攻略の糸口を見出せないか、試してみるべきだ。

 怖い、けど、勇気の使いどころだ。


 更に有刺鉄線を巻き取る。目標は竜の頭部。

 相手は相当に警戒心が強いらしい、アメリアを叩き落とそうとする前脚を、寸でのところで躱す。体勢を変えたせいでまた身体が逆さになる。飛び石で頬が裂けた。構わない。

 竜が胴を大きく捻ったかと思えば、今度は尻尾による薙ぎ払いが来る。急制動で鉄線を張り、直上に退避。指がりそう。アメリア自身の機動のためにここまで魔法を酷使したのは初めてだった。

 天地が逆さの視界に、竜の顎門あぎとが迫る。開かれた口腔から立ち昇る尋常でない熱気に、背筋が凍る。落ちれば餌だ。そうはなってやらない。両の顎に鉄線を絡めて縛り、即席の拘束具と成す。相手の膂力を鑑みればすぐに引き千切られてしまうが、数秒でも稼げれば上々。巨大な頭蓋に着地する。

 振るい落とされるその前に。

 ベルトから拳銃を抜く。鉄条網の制御線でぐるぐる巻きになった指で、なんとかセイフティを外す。


 生物である限り、絶対に防御を薄くせざるを得ない部位がある。眼球はその最たるものだ。確かに地上からこの高さで揺れ動く頭の一点を狙い撃つのは難しく、今まで有効打を与えられなかったのも納得がいく。それなら張り付いてしまえばいいのだ。

 アメリアはぐらつく足場に倒れ込むように、竜の側頭へと身体を投げ出す。拳銃を西瓜スイカ大の右眼窩にねじ込む。ブヨブヨと嫌な感触。反発力の割にかなり硬く、もし血脂で鈍ったナイフを使っていたら刃が通らなかったかもと思わせる。

 真下から苦悶の唸り声。爬虫類特有の硬質なまぶたが拳銃を締め出そうとする。激しい揺れの中、無理な体勢、それでもアメリアは武器を離さない。トリガーを引く。

 確かな感覚は、右手に噴きかかった体液の生ぬるさ。激烈な吠え声に一瞬、意識が飛ぶ。

 振り落とされ、浮遊感に晒される。拳銃を取り落とした。

 明滅する暗闇と戦火の赤色に、わずかに残った気力で覚醒する。

 終われない。

「まだ、まだだ!」

 吠え返しながら、頭では状況の厳しさを痛感する。悔しいが、同じ手順でもう片方の眼球を潰すのは厳しい。やはり攻防一体の鉄条網というリソースを拘束に費やすのは、アメリアの本来の戦い方ではない。そもそも魔法の出力を上回る膂力をあの竜が持っている以上、カニンガム中佐の作戦は破綻している。

 思案する間にも、竜の攻撃は絶え間なく続く。長い首を横に振って喰らい付こうとするのを、アメリアは体躯の下に潜り込む機動で避ける。そのまま胸部から腹部を潜って後方へ抜ける。少しづつ拘束を緩め、有刺鉄線を回収しながら高度を地表ギリギリまで下げる。再び後脚による蹴り上げ、これは予想できたので最低限の動きでやり過ごす。背部に回られたら尻尾を攻撃に用いてくるのも折り込み済みだ。叩き付けの動作で跳ね上がったつぶてに注意し、横っ飛びで回避運動を締めくくる。

 莫大な量の有刺鉄線をガシャガシャとけたたましく軋ませ、アメリアは着地する。その傍らに、カニンガム中佐の指揮車が停車した。

「分が悪いようだな」

 視界の半分を失った竜は、怒り狂いながらも隙を見せようとしない。味方戦車の一両が死角を突こうとして失敗し、尻尾の強打を受けて砲郭をひしゃげさせた。

「ふむ、目潰しは妙手だと思ったが崩せんか。これでは直撃を狙うどころではないな」

 想定以上にあの生物は頭がいい。死角を庇うように立ち回りを防御偏重へと変え、戦車の速度では包囲しきれなくなった。それほどの能力があると分かっただけでもアメリアの攻撃には価値があったが、未だ攻略の糸口は掴めていない。

 戦車砲の直撃すら狙えないとなると、アメリアに思いつく打開策はひとつだけだ。

「中佐。戦車隊を下がらせてください。それと前線司令部に、全軍撤退の進言も。私が足止めします」

「貴様、あの怪物を出すつもりか」

「はい」

 アメリアは正直に答えた。

 思うに、あの多脚双鎌の姿は、より魔力を効果的に伝導する筋肉や骨格の役割を果たしていたのだ。これはアメリアが明確に『強靭な怪物』を構築する意図で有刺鉄線を編み上げたことに起因する。竜と力比べで勝てるかは未知数だとしても、現出させれば、強固な甲殻と素の有刺鉄線より遥かに強力な攻撃手段を手に入れられる。勝算は今よりマシになるだろう。

「他にも腱や関節、喉といった生物の弱点が色々ありますし、頑張ってみます」

「ならん」

「手段を選んでいる場合ではありません」

「自分の任務を忘れるな。王女殿下は前方で待機しているのだろう。貴様の部下も未だ敵の別働隊を抑えているはずだ。仮に竜を下したとして、あの姿で暴走してしまえば、彼らの撤退に支障をきたす」

「それは……」

 暴走しない、とは断言できない。あの形態で暴走したアメリアを止められるのはリタだけで、彼女は今ここにいない。最悪の場合、王女や仲間の撤退を妨げるどころか彼らを手に掛けてしまう事態すらあり得る。

 答えに窮したアメリアに、カニンガム中佐はふっと表情を緩めた。

「帰ったら指揮官としても学び直すべきだな。まぁ今回は儂に任せろ、まだ策はある」

 マークⅨ戦車の総重量は33トンあるという。ここまでの戦いで4両の戦車が撃破されたが、その要因はいずれも履帯やエンジン部の損傷による行動不能である。竜はこの重量を持ち上げたり蹴飛ばしたりはできない。

「儂らは全車両で以てあの蜥蜴野郎に衝突し、足回りを封じ込める。貴様はその隙にダイナマイトをありったけかき集めて奴に巻き付け、起爆するのだ。仮に爆破で仕留めきれずとも、貴様ら全員が撤退するまでは抑えてやろう」

 それは、カニンガム戦車隊が肉壁になると言っているのと同義だった。

「やり遂げろ」

 老将はアメリアに短く敬礼し、返事を聞かずに指揮車を再発進させた。エンジンが猛々しく唸り、遠ざかる。


 悲しいことに、アメリアはこれが今打てる最善策だと納得してしまった。この戦争に相対する理性が、誰かの犠牲をあっさりと容認してしまう。

 カニンガム中佐は役目を果たし、ここで戦死する。

 ならば、その犠牲に報いよう。


 身体は嫌というくらい迷わず動く。感情は嵐のように吹き荒れているのに、どうしようもなくアメリアの本性は合理的だった。怪物と人間の狭間できしむ心が痛くって、叫ぶ。

「皆さん、撤退の準備を!」

 再度、塹壕に駆け込んで手あたり次第に呼びかける。途方に暮れていた歩兵たちが遮蔽物から跳ね起き、打つ手なしで呆然としていた下士官が点呼を始め、指令室に閉じこもっていた将校が整然と指揮を飛ばす。

「ダイナマイトを集めます! 協力して!」

 一斉に味方が撤退の動きに切り替える中、アメリアは工兵を探して陣地を駆け巡る。まさか起爆可能なまま置いているわけがないので、彼らに雷管や電線の処理などはやってもらう必要がある。ダイナマイトを配置しているのだからどこかにいるはずだが、目当ての兵科のエンブレムがなかなか見当たらない。そのうちに流動する人混みにぶつかって転んでしまった。

「あ、あの、大丈夫ですか魔女さま」

 手を差し伸べたのは、先ほどアメリアが暴行を加えた新兵の少年だった。

「工兵は野戦砲を修理してる最中に……敵の迫撃砲を受けて全滅したんです」

「なっなんて」

 アメリアは危うく崩れ落ちそうになった。

「あっでも俺、ダイナマイトの取り扱いならできますよ。前は鉱山で働いてましたから」

 アメリアは危うく飛び跳ねそうになった。

「お願い! 手伝って!」

 がしりと新兵の手を握り込む。どうか逃げないでほしいとの思いだったが、彼は力強く握り返した。

「はい!」

 先ほどの発破が効いたのかは分からない。無力感に追い詰められた人間はどうしたって役目に縋ってしまうものなのかもしれない。


 地響きがした。アメリアは戦車隊の様子を窺う。接射による被弾経始の無効化も多少は期待していたものの、竜は足元に集まった戦車の砲郭を優先的に踏み潰しているようで、やはり目立った成果は見られない。構造上は蜥蜴トカゲに近いとはいえ、脚部は巨躯を支えるため相応に発達している。元より戦車は上方からの攻撃に耐えるようには出来ておらず、あの踏みつけを喰らい続ければじきに全車両が破壊されてしまうだろう。

 一方、新兵は死体整理の折にダイナマイトの場所もしっかり覚えていたので、アメリアが有刺鉄線を使って素早く集めることができた。全部は集めきれなかったが、重要なのは量よりも爆破する部位だ。狙うのは首。鱗が薄く、被弾経始を取りづらく、必要なダイナマイトが比較的少量で済む。なにより生物共通の弱点である。

「……泥が付いてますけど、湿気ってたりしませんか?」

 アメリアが尋ねると、新兵は自信ありげに親指を立てた。

「そのくらいでダメになったら戦争で使えませんからね。今みたいな雨季でもへっちゃらですよ」

 新兵の思いもよらぬ技術のおかげで、雷管の取り付け、電線や起爆装置との接続が完了した。あとはダイナマイト本体をアメリアの鉄条網に絡ませ、最後の攻撃の準備が完了した。

 ただひとつ、問題があった。

「魔女さま、電線を有刺鉄線に絡ませるのは危ないです」

 至極当然である。棘によって電線が断裂して起爆に失敗するおそれがある。

「強度も足りないし、あまり電線を張らせるのは不味いですね。俺が起爆装置を持ってギリギリまで近づいて、爆破します」

「ダメ、あなたはここまで頑張ってくれたんですから、後は私が」

 もう充分に助けてくれた。竜は戦車隊が抑えてくれているが、これ以上新兵を塹壕の外に出して危険に晒すことはない。彼は確実に生き延びて戦い続けるべき人材だ。誰彼構わず、無謀に命を散らせばいいというわけでもない。

 だが彼方の火災に照り返す新兵の眼光には、危うくも固い意思が宿っていた。

「魔女さまは起爆なんてしたことないでしょ。俺が役立たずじゃないって……証明します。任せてください」

 泥に脚を取られつつも駆け出す背中を、アメリアは見送るほかなかった。彼が転ばないように願いつつ、有刺鉄線を操ってダイナマイトを送り出す。


 違和感を覚える。

 この状況は、なにかおかしい。


 アメリアの額に、汗が噴き出した。

 なにがおかしい? 理由は? 頭が熱気を帯びる。

 禿山。ぬかるんだ土。泥。雨季。おかしくない。


 森林火災。


 果たして、この時期この環境で、ここまで大規模な森林火災を起こせるだろうか? たっぷり水気を含んだ木々を広域にわたって燃やすには相当な火力が必要になる。


 じゃあ、誰が燃やした?

 エスターライヒ城の民兵には無理だ。彼らの装備は貧弱だし、城から出た形跡もなかった。

 第3塹壕線から撤退した帝国軍は、軍道に雪崩れ込んだ後、山岳陣地に引き揚げるという奇妙な動きをしていた。彼らが森林を焼くつもりなら、森林と隣接した軍道には初めから行かないだろう。


 汗が頬にしたたる。

 余計なことを考えるな。まだ見せていない手札なんて、帝国軍はいくらでも持っている。ものすごい火力の火炎放射器があったとか、そんなところだろう。


 ダイナマイトを纏わせた鉄条網が、竜の目前まで到達した。戦車隊による足止めは上手くいっている。あとは首に巻き付けるだけだ。新兵も順調に歩みを進め、竜との距離は400メートルほど。電線の張度は緩やかに保たれている。

 汗が、顎から落ちる。

 切り札を、必要な時まで隠しているのは、当たり前のことだ。自分たち魔女戦隊だってそうしている。


 竜が、頭を大きくのけぞらせた。

 思い返すと、あの口腔からは異様な熱が放出されていた。巨大生物だから体温が高い、では説明がつかないほどに。

「逃げて!」

 新兵に呼びかけると同時に、アメリアはダイナマイトを上方へ退避させようとした。しかし警告も行動も遅きに失した。黒々と開かれた顎門の奥に、不吉な赤色が灯る。地獄の扉が開かれた、そんな感覚。

 紅蓮が視界を覆う。

 有刺鉄線との接続を解除。ほとんど生存本能だけでアメリアはすべての動作を中断し、身体を塹壕の床に沈めた。泥の中に顔を押し付けるのだって躊躇わなかった。

 リタの炎の波濤を喰らった帝国軍は、このような恐怖を味わったのだろう。

 灼熱が押し寄せ、地上を舐め、焼き尽くした。炎波が頭上を通過した瞬間は思いのほか静かで、数秒遅れて気圧差による暴風が吹き荒れた。アメリアは目を閉じ口を塞ぎ、圧倒的な怪物の吐息が過ぎ去るのを待った。


 どこかで、救いを祈る文句が聞こえた。

 アメリアはこの世に神なんか居ないと思っているから、十字は切らなかった。きっと、悪魔だけがいる。


「……ごほっ」

 小さく咳き込む。身体が無事であることを確かめ、アメリアはのろのろと起き上がった。塹壕の壁に寄り掛かって外を窺う。

 一面、焦土だ。鼻を刺す異臭がする。塹壕の外に切り離した鉄条網はグズグズに溶け、僅かな残骸だけを残していた。ダイナマイトは燃え尽きたようで、影もかたちもない。新兵の彼も、真っ暗な地面のどこかに炭となって消えたのだろう。

 扇状に広がる余燼の向こう、竜は立っていた。


 力が抜けてしまいそうな足を必死に動かし、アメリアは近くの兵士を助け起こした。兵のほとんどがまだ塹壕にいたおかげで難を逃れたが、彼らの沈黙は明らかな絶望を物語っていた。

 これで、竜を倒すための策は潰えた。

 頭上に、緑色の照明弾が上がった。前線将校の下した、全軍撤退の合図だ。実質的に、敗走の知らせでもある。これ以降、前線を維持するためのすべての支援は打ち切られ、将兵各員は各々の判断で帰還しなければならない。

 将校が怒声を張り、恐怖に固まった兵士たちを急かす。

「早く逃げなさい! 早く! 次が来るかもしれんぞ!」

 ひとり、またひとり、塹壕から這い上がる。身を縮こまらせ、怯えながらの中腰から、大股歩きになって、やがて脇目も振らず走り出す。ジャバルタリク方面へ向けて、彼らはほうぼうの体で潰走を始めた。

「魔女どの、あなたも逃げなさい!」

 前線将校がアメリアの腕を掴む。アメリアはそれを振り払った。

「まだ終わってません。カニンガム中佐の戦車隊も、私の部隊も、戦ってます」

 誰かが放り出したライフルを見つけ、手に取る。訓練以来のうろ覚えで、拙いボルトアクションを行う。

「やめときなって、バカだな」

 また腕を掴まれた。

「何と言われようと__え?」

 条件反射で答えかけたが、なんだか妙に女の子っぽい声にアメリアは強烈な違和感を覚えた。思わず振り返る。

「もっかい言おうか、バカ」

 というか、まさに女の子だった。当惑顔の前線将校……の前に、いつの間にか魔女が立っていたのだ。


 少女は、光を呑み込む長いとばりのような黒髪をしていた。漆黒のローブととんがり帽子と合わせ、アメリアは宵闇が人のかたちをかたどっているような印象を受けた。

 周囲の残り火が照らし出すのは、深い夜空を落とし込んだような藍色の瞳。金の虹彩が不思議な煌めきを放つ。

「こうなると思ってたんだ。無理を通すから勝たなきゃいけない理由が無限に湧いてくる。絶対に勝てる戦争なんてこの世に存在しないのに」

 少女の語調はうんざりしたもので、疲れのせいか少し掠れている。アメリアが呆然と眺めていると、彼女は懐から銀色のリボルバー式拳銃を抜いた。

「アメリア・カーティス、下手な鉄砲は撃たなくていい。それより質問」

 それが彼女の仕事道具なのだと、アメリアはすぐに分かった。少女は拳銃の撃鉄を起こした。

「あのでっかいバケモノは、カニンガム中佐の戦車隊が足止めしているの?」

「えっと……はい。あ、でもあまり長くは持たないから」

 答える間に、竜が一両を叩き壊した。遠目にも、既に半数近くが破壊されている。

「他にあの位置に留めておく手段はある?」

「ない、ですけど……」

「分かった。彼らを助ける手段も、あのバケモノを倒す策もないと」

 忌々しげに少女は吐き捨て、拳銃を天に向かって掲げた。

 星空に。

 アメリアは対案もないのに、反射的に「待って」と言いかけた。この魔女が誰で、今から何をしようとしているのか、完全に理解してしまったから。


「墜ちろ、シューティングスター」


 短い詠唱と共にトリガーが引き絞られる。

 割れんばかりの轟音を引き連れ、全天を埋め尽くす白い光が顕現した。

 アメリアはこの光を知っている。2度も助けられたし、2度で打ち止めだとも思っていた。

 先ほどの炎の息吹とは比較にならない、轟々と空を揺るがす圧倒的な暴虐。その中心にいる竜もまた、空を見上げていた。

 彼、あるいは彼女は、己が幕引きを悟り、振り上げられた鉄槌へと戦慄わなないた。天に開かれた顎門から、炎が溢れ出る。それは、より理不尽な力への挑戦であり、無為な抵抗であった。


 プラズマをなびかせた一条の輝きが地へと撃ち下ろされる。


 流星の魔女、マグダレナ・ソロモンスは、下ろした拳銃を胸にそっと当てた。心に刻み付ける、そんな仕草だった。

「王女殿下を擁する第4梯団の救出には、総司令部の誰もが賛成した。ぼくの残弾の半分を費やしたことについて、お前が気に病む必要はない。でも」

 星空色の瞳が、アメリアを射貫く。轟風に晒された世界の中で、彼女の眼差しだけが静止していた。

「これはお前とアイラ王女の選択だ」

 アメリアの胸にも、銃身が押し当てられる。鼓動が冷たい鋼を押し返すたび、身体はその重みを覚え込む。

「代償に、報い続けろ」

 

 3度目の流星を以て、帝国軍は完全に動きを停滞させた。前線で蠢動しゅんどうしていた車両部隊も、竜の敗死を観測した途端、さざ波の引くように撤退していった。彼らと交戦していたサンダーソンたち、それにシャーロットを背負ったアイラ王女が連合王国軍に合流したのは、ほどなくしてのことだった。

 手を下した敵に、散っていった仲間に、己が選択に。この先アメリアとアイラは、そのすべてを背負って戦い続ける覚悟を問われることになる。

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