第27話:時計仕掛けの戦争④
リチャードは、気掛かりとやるせなさで銃のグリップを強く握りしめた。
ウルカはどうしても避けがたい遭遇戦を突破するために幾度か魔法を使用したが、そのたびに目に見えて疲弊の度合いが増しているようだった。
「大丈夫であります、リチャードさん。このエリアは……片付けました」
そう言った彼女は、壁に身を預けて肩で息をしている。魔法の代償が、少女の身体を蝕んでいるようだ。
「おい嬢ちゃん、休んだ方がいいんじゃねえか」
「平気、です。少し疲れただけであります」
疲れることがどれだけ戦闘に影響を及ぼすか、兵士なら分かっているはずだ。確かにクリフの評する通りワンマンアーミーではあるが、能力の仔細を語らなかった理由もなんとなく分かった。今死ななければ寿命を削ってもいい、みたいな考え方はリチャードには理解できない。
「それより……敵の流れが妙であります」
ウルカが言うには、どうも劇団側が誰かを追い回しているような動きをしているという。
「帝国兵かクリフたちじゃないのか?」
「奴らは隠れられそうな場所を片っ端から探しているようです。王国軍にしろ帝国軍にしろ、袋小路での交戦は避けるはずです。別の勢力でしょうか?」
「それって、まさか」
リチャードは懸念を伝えようとした。
ちょうど、次の曲がり角から複数の足音が響いてきた。
「あのガキ、どこへ逃げた?」
ベケットの声だ。まだ生きていたとは悪運が強いらしい。
「どっちのガキですか!?」
「金髪の方だ! おそらく魔女だろう、見つけ次第殺せ!」
「大広間の方で見た……気がします!」
足音が去っていく。
リチャードとウルカは顔を見合わせた。
「……アメリアだ」
「アメリアって、カーティス夫人のお孫さんでありますか? なぜ今?」
「分かんねえよ。でも、あいつらがあの子を追っかけてるなら放っておけるか」
チャリティーショーの日取りは今日ではないはずだった。それなのに彼女がここにいるとなると、何かいざこざがあったのではないか。たとえば馬鹿正直にあの婆さんに「観に行きたい!」とおねだりして、頭ごなしに叱られてケンカをした、とか。
ウルカは少しだけ思案し、リチャードに頭を下げた。
「ごめんなさい、リチャードさん。本来ならあなたを最優先で安全な場所にお連れするべきです。『C』なら止めたと思います。でも……」
リチャードは無理やり笑顔を作って、少女のおかっぱ頭を軽く撫でた。
「お嬢ちゃんはよく頑張ってる。俺なら平気だし、なんなら止められても行くつもりだった」
情けない野郎で申し訳ないが、こんな時くらいは格好つけさせてもらう。
大広間まで走る間、ウルカに速攻で銃の扱いを教えてもらった。なんとか照準の見方と装填の仕方だけは覚えた。
「なぁ、頭と心臓ってどっち狙ったらいいの!?」
「どうせ当たらないからどうでもいいであります! アメリアさんにだけは当てないように!」
そんな阿呆なやりとりをしていると、大広間の入口に到着した。
「……! 待ってください、リチャードさん」
ウルカがいきなり入口の前で停止した。勢いよく中に転がり込んでバンバン撃ちまくろうと考えていたリチャードは、またもやウルカにぶつかりかけた。
「な、なんだよ」
「静か過ぎます」
言われてみれば、ベケットの手勢たちが近くを探し回っているにしては静かだ。
物陰からそっと薄暗い内部を覗くと、夕方に設営されたままの舞台装置が不気味なオブジェのように鎮座していた。作業用のわずかな照明が、接触不良でちらちらと明滅する。
しかし、あの舞台はあんな形だっただろうか? なにかが、散乱している。よく見えない。
すすり泣きが聞こえた。
ウルカが「待っていて」のハンドサインを出し、内部に踏み込んだ。
「アメリアさん、でありますか?」
「……だれ?」
幼い少女の声が、ウルカに問い返した。リチャードは少しだけ首を伸ばして、声の方向を盗み見た。
金髪の少女、アメリア・カーティスそのひとだった。
彼女はいかにも臆病そうに、書き割りの端から半身を覗かせていた。
しかし、リチャードは気づいた。
血の匂いがする。むせ返るほどに。
小さく甲高い、鉄の糸が軋む音がする。
ぼた、ぼた、と、肉片が
唐突に舞台照明が、息を吹き返した。
「私、悪い子だ」
アメリアが、懺悔のように呟いた。
リチャードは、吐き気を覚えた。
いくつもの死体が、舞台のあちこちに撒き散らされていた。
それは一般に惨殺と呼ばれるほどの損壊状況だ。力自慢の巨人が、棘付きの大鞭で殴り付けたらこんな風になるだろうか。ズタズタの肉片が、悪趣味なオブジェのように『魔王』の舞台を赤く彩っている。その中には、ベケットのいけ好かない面構えもあった。
ベケットは苦悶の表情を浮かべ、ねじ切れた頭だけが奈落の隅に転がっていた。
「でもそんなつもりじゃなくて。私、ちょっとだけ、嫌になっただけ。明日には馬のお世話もちゃんとやるつもりだったし、将来は男の人に嫁いで牧場を継いでもらって、お嫁さんとして頑張るつもりで、」
脈絡のない台詞を、アメリアは唱え続ける。
「どうせ当日はお留守番だって分かってたから、せめて役者さんの練習風景だけでも見たいなぁって、思っただけ。だから、今日はこっそり覗いてすぐに帰るつもりだった。ねぇ、ほんとだって」
ウルカが慎重にアメリアの方へ進み出る。
「落ち着いてください。小官は王国陸軍であります。あなたを安全な場所にお連れします」
「ばあちゃんには、魔法で人を傷つけちゃダメだって言われてたの。ふだんは獣除けの柵を作るときにしか使わなかったの。これは、壁を登ったり天井に隠れたりするために持ち運んでたの。でもこわくなって、気付いたら、こうして、」
アメリアがへたり込んだ床には、血肉にまみれた鉄条網が散らばっている。
鉄条網の魔女。
幼い少女が、己の魔法で、人を殺した。
「ご、ごめんなさい、私、わ、私」
アメリアは髪をぐしゃりと掴んで縮こまり、歩み寄るウルカから離れようとした。
「もう安心であります! アメリアさんは何も悪くありません! さぁ、一緒にここを出ましょう!」
「や、やだぁ、だって、もう、赦してくれない!」
完全に錯乱している。力ずくで背負って行ったほうがいいかもしれない。ウルカがリチャードを呼び寄せようと、手招きをした。
リチャードの視界の端で、何かが動いた。吹き抜けになっている2階に、誰かがいる。
「……」
亜麻色の髪。
「お嬢ちゃん――」
上だ、と叫ぼうとした。
ライフルの、マズルフラッシュ。銃声と風切り音と肉が砕ける音。
ウルカの右腕の先、拳銃を持ったてのひらが銃弾に穿たれた。
少女のちいさな指と骨が、宙に舞う。ライフル弾は人の肉を噛み破り、食い千切り、凄惨な軌跡を残していく。
「きゃああっ!」
アメリアの頬に血が降り掛かって、彼女は悲鳴を上げながらその場から逃げ出した。倒れ伏したウルカは動かない。あの一瞬で魔法を発動させて致命傷を避けたようだが、仕事道具の銀時計は手から零れ落ちてしまっている。
リチャードは反射的に怒号を上げ、2階へと射撃した。
「イングリットおおおおおッ!」
どこに着弾したかは分からない。たぶん見当外れのところに行った。だが、イングリットの注意をわずかに逸らすことには成功した。値千金の時間を稼げた。
「黒髪の子、凄いね。私は確かに脳天を撃ち抜いたはずなのに、どうして着弾位置をずらされたのかな?」
イングリットは平然と上から言い放ちながら、ボルトを引いた。薬莢が落ちる。素早く次弾を装填。もう撃てる。
リチャードは、銃さえあれば彼女を牽制できるかもしれない、なんていう甘い考えを恥じた。力量差はあまりにも歴然としている。こっちはまだ排莢もしていないのだ。
無慈悲な銃弾が、今度こそウルカの額に吸い込まれた。
「……うん?」
イングリットが首を傾げた。
銃弾は確かに命中した。
だが、床に転がったその弾頭は軍艦の装甲に跳ね返されたようにひしゃげている。ウルカの額は貫かれるどころか、接触の痕跡すらない。
「なるほど。その子は時間を操る魔女で、2種の魔法を使えるんだね」
間一髪だった。リチャードは懐に入れた金の懐中時計の竜頭を引いていた。ウルカ本人の時間を
あとは……次の手は?
リチャードは今ようやく薬室から薬莢を排出した。次弾を込めるにはどうするんだっけ、とか考えている間にも時間は過ぎていく。
魔法の仕掛けが割れない限りウルカは死なない半面、状況的にはほぼ戦闘不能に陥ったと考えていい。元々、度重なる魔法の使用で体力面も限界が来ていた。もう彼女に頼るべきではない。
アメリアは奥の出入口からどこかへ逃げた。明らかに巻き込まれた民間人だったのが幸いし、イングリットは彼女を撃たなかったようだ。それはいい。
ヤバい。
動悸が激しい。汗が顎から流れ落ちる。
本当に、ここからどうすればいいのかリチャードには分からなかった。
「それで、リチャード。君は?」
イングリットが地上階に飛び降りてきた。無遠慮に、悠然と、歩み寄る。
「私の敵になるには、役が勝ちすぎているよ」
子供から玩具を取り上げるように、リチャードの銃が奪われた。抵抗は無駄だと、本能が屈した。
イングリットは片腕で銃を提げたまま、もう片方の腕をリチャードの腰に回した。
リチャードはここに来てようやく、惚れた女を抱きしめるチャンスが到来したことに気付いた。なのに理性が、それを拒否している。
「なんで、帝国軍なんだ」
聞きたいことは山ほどあった。どうして敵じゃなきゃダメなのか、今はそれだけ知りたかった。
「戦うだけなら、公国軍でも王国軍でもいいじゃねえか。なんであんたは、俺たちの敵なんだよ」
その女の瞳の奥底にある闇を、リチャードはとうとう見通すことができなかった。いったいこの状況の何が彼女を悦ばせるのか、とことん理解が及ばない。
最初にして最後の舞台で、イングリット・グリムはたったひとつだけ台詞をそらんじた。
「帝国に友人がいるんだ。彼女は帝都の科学アカデミーで、戦争の歯車を動かし続けている」
「な……何いってやがる。科学アカデミー?」
あまりにも唐突に出てきた単語に、リチャードは当惑した。
「私は彼女と約束をした。彼女が無限の叡智によって戦争を進め続ける限り、最前線でその走狗となる、とね」
疑問符が溢れそうだ。また足音が近づいてくる。劇団の残党だったらたぶんリチャードは死ぬ。帝国兵でも当然、死ぬ。まだ、この女を理解できてないのに。
「リチャード君!」
必死の形相で向かって来たのはクリフとその妹、ケイリーだった。ケイリーの方は何か魔法を使っているらしく、露出した腕や首回りの部分に銀色の鱗じみた鎧を纏っていた。
イングリットは素早く脚を絡めてリチャードの体勢を崩し、クリフたちへの盾にした。そのまま片腕で射撃する。咄嗟にケイリーが前に出て、鎧で銃弾を防いだ。
「イングリット・グリム! 人質を解放して投降しろ! お仲間は全員死んだぞ!」
クリフたちは人質にまったく臆することなく、ずいずい距離を詰めてくる。一瞬リチャードは完全に見捨てられたのかと思った。実際にはケイリーが盾になるから距離を詰められたのだろうが、その盾役の殺意が特に溢れ出ている。
「さっさと銃を捨てろ、戦争犯罪者の屑が。私はその男ごとお前を
妹御の警告は実際、殺意マックスだった。
「だってさ、リチャード」
「いやいやいやいや助けに来たんじゃないのかよ!」
クリフが微妙な表情でアイコンタクトを送ってきた。ハッタリらしいが真に迫り過ぎである。
実際、2対1ならもう勝負は決したようなものだ。
それでもイングリットは、淡々と言う。
「君たちは大事なことを忘れている」
ひゅうっ、と。外から音が近づいてくる。城の背面、海から。
直後、イングリットはリチャードを突き放した。同時に、壮絶な衝撃と共に壁に大穴が開く。
それはどう考えても艦砲射撃によるものだった。
土埃に月光が差す。なだれ込む潮風を切って、イングリットは城の外に躍り出た。
「『ヴィルデフラウ』は時間に正確だ。いかにも帝国軍人らしいよ」
海には、黒々とした奇怪な形状の艦艇が浮かんでいた。その甲板に置かれた単装砲が、砲煙をたなびかせている。
クリフが吹き飛んだライフルを担ぎ直しながら、悔しそうに叫んだ。
「
ケイリーがショットガンをかなぐり捨て、イングリットを追いかける。
「『C』、飛行の許可を! 奴を捕らえないと!」
「ダメだ!」
クリフは鋭く拒絶した。
「今の練度では人間に戻れなくなる! 奥の手を使い捨てるな!」
リチャードには兄妹が何の話をしているのかさっぱりだが、こうしている間にイングリットが崖際に到着した。彼女は追い詰められてなどいない。下が岩礁だというのに、彼女は完全に平静を保っている。
「リチャード!」
亜麻色の髪が、別れを告げるように夜風に揺れた。
「君が、私の敵になれませんように」
背後で再び、『ヴィルデフラウ』と呼ばれた潜航艇の砲が唸る。砲弾は山なりの軌道を描き、城の外壁に着弾した。
あまり頑丈ではない大広間の天井が、衝撃に耐えられず崩落し始めた。
降り注ぐ瓦礫の中、リチャードはイングリットが崖から飛び降りるのを目に焼き付けた。
照明が、舞台装置が、天板が、壁材が、大粒の
意識が、舞台と共に崩落する。
――――――。
――――。
――。
「――リフ! 返事を――!」
「――は無事だ――リー」
くぐもった声。
ぬるい風が、瓦礫の中を抜けていく。木漏れ日のように、月明かりが点々と暗闇に青白いまだら模様をつくる。
「クリフ、今助け出す! 待っていろ!」
前方でガラガラと重いものを押し退ける音がした。位置的に崩落に巻き込まれなかったケイリーが、瓦礫をどかしているようだ。なんという腕力だろうか。
「私はいい、それよりリチャード君を探せ! 重傷を負った可能性がある!」
近くでクリフの声がした。元気そうで何より。リチャードの頭に瓦礫が直撃したのも見ていたようだ。
「ぅ……」
声が出ない。頭が割れそうだ。
手の感覚はある。そこかしこを打たれたが、手渡されたウルカの金時計は身体の下に敷いて死守した。仕事道具が破壊された時ウルカの身体がどうなるか分からなかったが、逆にこれが無事なら彼女も無事だろう。なにせライフル弾を無傷ではじき返したのだから、大概の衝撃には耐えられるはずだ。
「リチャード・サンダーソン! どこだ! 無事なら何でもいいから声を出せ!」
ケイリーが呼んでいる。だが、どうやら彼女は崩落した壁の向こう側にいる。ひとつずつ瓦礫をどかしていたら夜が明けてしまう。
血で霞んだ視界を上に向ける。倒れ込んだ舞台装置が、崩れそうな壁を辛うじて支えていた。だが、鉄骨が悲鳴を上げている。
「くそ……」
悪態にも鉄臭い
ここで、終わりなのか?
訳の分からない奴らの身勝手なゴタゴタに巻き込まれて。
俳優志望の、三下雑用係として生きていくものだとばかり、思っていたのに。
敵ってのは、通行人の嘲笑とか、好き勝手に仕事を押し付けてくる同僚とか、ちょっと調子に乗ったくらいでシメてくる街のギャングとか、その程度のはずだったのに。
絶大な暴力が、そこにあった。
圧倒的な惨禍の先触れが、ふいに訪れた。
戦争は、ありふれた恋の、ほんの一歩先で待っていた。
リチャードは、怖くて泣いた。
自分が情けなくて、みっともなくて、惨めで、無力で、痛くて、悲しくて、赤ん坊のように縮こまって。軋む舞台にその声は掻き消される。だから。
小さな声で、長い間、泣き続けた。
どこかで、女の子の声がした。
「……お兄さん、だいじょうぶ?」
金属質の蛇かなにかが、這いずるような音が、しゅるしゅると。
有刺鉄線が、リチャードの周りを這っている。
「じぶんで出られますか?」
声は近い。
「お城の外から、鉄条網を集めてきました。今から瓦礫を持ち上げます」
「……ゲホッ」
返事をしようとして、咳だけが出た。
気付けば数十本の有刺鉄線がリチャードの周囲に張り巡らされ、それらが崩落寸前の一帯を支えていた。
そして、魔法によって意思を持ったそれらは、数百キロの瓦礫をいちどに持ち上げた。
狭い空間に滞っていた空気が解放され、月明かりで視界も開けた。
鉄の茨を十指に束ねるのは、幼い金髪の魔女。
鉄条網の魔女、アメリア・カーティス。
砂埃にまみれ、衣服は破れ、たくさんの切り傷や青あざを作って、リチャードと同じくらいぐしゃぐしゃに泣きながら。それでも彼女はそこに立っていた。
「ごめんなさい、私のせいで、ひとをいっぱい、傷つけて」
やはり、目の前でウルカが撃たれたのを気に病んでいる様子。それにベケットたちが弁解しようのない悪党だったとはいえ、リチャードたちはアメリアが人を殺した現場も目撃している。当然か。
リチャードは渾身の力を振り絞り、首を横に振った。
「いいや」
血塗れの手で顔を擦る。鉄条網のドームを出口に向かって這いながら、リチャードは精一杯の笑顔を作った。
「いいや、お嬢ちゃんは、ゴホッ、悪くねえ、よ」
どちらかと言えば、アメリア以外の全員が悪い。変態カルト共に帝国軍の工作員。醜聞隠しのために寡兵で作戦を強行した、王国軍もだ。
数メートルが、果てしなく遠い。手を伸ばす。アメリアはおそるおそる、自らの手をリチャードに差し出した。そのしなやかな白い指には、魔力を通すために有刺鉄線が巻き付けられている。魔女でない者が触れれば、必ず傷つく。
リチャードは迷わずその手を強く、握りしめた。
「アメリアたんは、俺の救世主だずぇ」
最悪。少女を勇気づけるための渾身の台詞を、リチャードは噛んだ。ヘタクソ、大根役者。だから雑用係なんだ。
「アメリア……たん? えっと、お兄さんとどこかでお会いしました?」
アメリアは当惑しながら、小さな身体で懸命にリチャードを引っ張り上げる。血まみれ埃まみれのせいで人相が変わってしまったようだ。
「いんや……忘れてくれ。今日のことは、全部」
曇り空の瞳の端に溜まった涙を、リチャードは拭ってやった。
「何かあれば、俺も、クリフたちも、君を守る。君に火の粉が降りかからないように、君の知らないところで」
この子は戦争に関わるべきではない。本来なら誰だってそうだ。
脇から、自力で瓦礫を這い出てきたクリフがよろめきながら駆け寄る。
「無事だったか、リチャード君! それにカーティス夫人のお孫さんも!」
「お、落ち着けよクリフ……」
「私は落ち着いている」
クリフは急にスンッと声のトーンを落とした。聴覚に支障をきたしている可能性を考慮して大声を上げてくれたようだ。
「両者とも自立して歩けるなら何より。後で病院に連れて行く。ところでリチャード君、金時計は持っているかな?」
「時計は無傷だ。だが、あの子は
「ああ、その点は問題ない。医療に秀でた魔女がいるから、そのうち原隊復帰できる」
「また戦わせる気かよ」
「? ウルカが退職を希望しなければ、当然そうなるが」
やっぱり、えげつない野郎だ。リチャードはそれ以上言い返す気力も失せ、天井を見上げた。
「サンダーソンッ! 無事なら無事と言え!」
とうとう外から別の壁をぶち破って、ケイリーも合流してきた。
その後、バックアップ要員らしき王国軍部隊がこっそりと城に集結し、リチャードたちは街の病院へと向かう馬車に分乗させられた。アメリアは軽傷のため、いちどカーティス夫人のもとに帰されることになった。
「婆さんを大切にな、アメリアちゃん」
「はい」
「でもたまには、ワガママ言ったっていいんだ」
「……はい」
アメリアはリチャードの血みどろの人相を凝視し首を傾げていたが、何か思い出される前に顔を逸らした。今回の件は、間違いなく幼い少女にとって最悪の記憶になるだろう。さっぱり忘れられるように、余分な結びつきを与えない方がいい。
リチャードはクリフとケイリーに担がれ、救護馬車のベッドに横たえられた。
「さて、リチャード君。まずは謝罪をしたい。作戦に協力させ、身を危険に晒し、あまつさえ大けがを負わせてしまった」
「いいさ。あんたらも災難だったな」
突入部隊はクリフとケイリーを除いたほぼ全員が死亡、あるいは重傷を負った。結局のところ、陸軍省のお偉いさんがこの作戦を立案した時点で、クリフたちに選択権はなかっただろう。彼らの上官であるソロモンス中佐とやらにも。
「お気遣い感謝する。次に報酬……というよりは賠償だな。契約通り就職先として俳優の仕事を斡旋するが、私としてはそれと別に相応の額を支給すべきだと思っている」
「へえ。具体的にいくらだよ」
クリフの瞳を見返す。クリフは黙っていた。
「……まさか言い値?」
「私と、ソロモンス中佐の裁量の限りでね」
陸軍の大尉と中佐が出せる限りの額、となるとリチャードには想像がつかない。
馬車が動き出した。ケイリーは話に加わらず、馬車の窓から無言で外を睨んでいる。
夜は静かだった。さっきまで戦闘行為が繰り広げられていたとは信じがたい。
「金が、戦争から俺を守ってくれるのかよ」
「それは考え方次第だな」
「じゃあ要らねえ。芝居も、もうウンザリだ」
「仕事の対価は受け取るべきだ。お互いの信頼に関わる」
どうやらリチャードは、この仕事マシーンを困らせてやったらしい。ざまあみろ。
いくら演じたところで、戦争という嵐が差し迫っているのは変わらない。
目を背けてどうなる。耳を塞いでどうする。どこに逃げる。
愛すべき敵は、海の向こうにいる。
「殺したい女がいる」
掌に、小さな痛みが走った。アメリアの手を取った際、有刺鉄線の棘で傷ついてしまった。
その痛みを、握り込む。
「クリフ、俺をあんたの部下にしてくれ。力と知識が欲しいんだ」
「……君の望む戦いに出会えるとは限らない。この部隊は今後、魔女の運用を軸に最前線にも銃後の諜報戦にも展開していくことになる。いずれにせよ地獄を見るぞ」
馬車が小石を撥ねた。車内のランプが軽く揺れ、クリフの顔に影を深く落とし込む。
「上等だ。どうせここで引き下がったら、『すべて忘れろ』とか言ってこの件から締め出すつもりだろ?」
「もちろん。契約が終われば君は民間人だからな」
忘れるのが、再び見て見ぬふりをする日常に戻るのが、今のリチャードは何より嫌だった。
入隊手続きは、いずれクリフが取り計らう約束をしてくれた。今回の件については固く口を閉ざすことになるし、必要に迫られればカバーストーリーも用意することになるだろう。
ところで、最後に大事なことを聞きそびれていた。
「そういや部隊名を聞いてなかったな」
「当面は秘密部隊だから、正式には決まっていない。だが、所属する魔女に意見を募ったことはある。ケイリー、なんだったかな?」
ケイリーは窓から首を戻し、素っ気なく答えた。
「魔女戦隊」
あまりにもそのまますぎて、リチャードは噴き出した。
馬車はゆっくりと道を下っていく。戦争の傷を隠しながら、密やかに。
6年前、帝国との戦線はジャバルタリクより遥か奥地にあった。
けれど、リチャードは知ってしまった。
嵐が差し迫っていることを。
俺たちは皆、戦争の当事者だ。
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