第22話:世界を売った女の末裔③

 他人のデートに堂々と相席する人間は異常者だ。


「給仕さん、予約人数に誤りがあったんだ。彼らと座らせてもらうよ」

 夕刻。港を見下ろすレストランは仕事上がりの労働者でごった返していたが、クリフは何の引け目もなくリチャードたちの予約席に椅子を引っ張ってきた。給仕は彼の存在にかなり面食らったが、憲兵の制服と階級章を見て黙り込んだ。

「私は忙しくてね。キドニーパイとレモネード、急ぎで頼めるかな」

 おまけに高額のチップを手渡され、給仕はすぐに厨房へと駆け込んでいった。


 3人、隅の席に着いた。イングリットは頬杖をついて不機嫌そうにそっぽを向いている。本当に不機嫌なのかもしれないが、移民女の立場はとにかく弱いから積極的に喋らない方がいい。リチャードはクリフの意味深な微笑に視線を巡らせ、とりあえず口を開いた。

「さて、憲兵の旦那。手短に頼むよ」

「ああ。おふたりの自己紹介をお願いしようか。まずは青年、名前と職業を」

「リチャード・サンダーソン、劇団『魔女の帳』の雑用係だ」

「ほう、噂に名高いあの。リチャード君、仕事は好きかい?」

 何を言い出すのやら。

「どんだけ流行ってようが、所詮は雑用係だ。愛してるとは言い難いね」

 給仕がキドニーパイとレモネードを届けに来た。大尉の肩書きは得をするようだ。クリフは鷹揚に礼をして、質問を続けた。

「ご婦人も、名前と職業をお聞かせ願おう」

 イングリットはそっぽを向いたまま答えた。

「イングリット・グリムです。仕事を求めて来島しました」

 クリフはわずかに顎を引いた。照明が、彼の眼下に濃い影を落とす。

「帝国なまりだな」

 リチャードは聞いた瞬間、無意識にイングリットを庇えるように腰を浮かせていた。いきなり銃を抜き放ったような声色だった。


 イングリットはゆったりとテーブルの方に顔を向け直した。動揺は見られない。

「公国人です。帝国との国境に近い地域に住んでいたので、その影響かと」

「その名残なごりもある。だが、帝国中部の領邦貴族に近いなまりの痕跡も窺える。私はそうした来歴を持つ人間に心当たりがあってね」

 イングリットの視線が、クリフの手元に落ちる。

「外交官、あるいはスパイだ」

 彼の手は、ナイフとフォークを握っている。

「ご冗談を、大尉殿。根無し草の家系だったものですから、私の言葉遣いにあちこちの影響があっても不思議ではありません」

「ごもっともだ」

 クリフはすんなりとパイ生地に刃を差し入れた。切れ味の鋭さは、リチャードの錯覚ではなかったと思う。

「連合王国は生まれで人を差別しない……というのは欺瞞だが、真っ当な仕事さえしていれば誰であろうが民権を得られる。ときにミズ・グリム、就職に関して頼れるツテは?」

「彼に頼ろうかと」

 ふいに話を振られたリチャードは、緊張を悟られないよう姿勢を崩した。

「あ、ああそうだ。うちの劇団スタッフにしてやれないか、劇団長に掛け合ってるところなんだよ」

「そうか。健闘を祈る」

 リチャードとイングリットにも、安いワインとローストディナーの皿が運ばれてきた。給仕がクリフの方を物欲しそうに一瞥したが、リチャードがせこいチップを渡して追い払った。


 それからは食事をしながらギャングたちに襲われたことに関する事情聴取が行われた。以降クリフが険を見せることはなく、追及は実にあっさりとしたものだった。おそらくリチャードたちが賭け拳闘で稼いだのは勘付かれているが、懐にいくら入っていようと物的証拠にはなり得ない。

 こうして顔を突き合わせて食事を共にする意図は明白だった。「目を付けたぞ」、と言っているのだ。

「ふむ、こんなところか」

 クリフはレモネードを飲み干すと、自分の代金にしては多すぎる紙幣をテーブルに置いて席を立った。

「邪魔をしてすまなかった。よい夜を」

 憲兵服の背中は、新しい客入りと替わるように視界から消えた。


 レストランが混雑してきたため、リチャードたちも早めに退散することにした。売れっ子俳優になればもっとマシなデートプランを用意できただろう。己の無力を痛感しつつ、サウスヘイヴンの潮辛い夜風に吹かれ歩く。

 港で動いている船は軍艦だけだった。産業の発展に伴い夜が延びたとはいえ、公害規制もあり沿岸の工場の明かりは少ない。人々は家路につく時間だ。あるいは浮かれた男女が手を繋ぐ時間。

 イングリットの手が、リチャードの肩に置かれた。

「怖かったよ、リチャード」

 嘘だろ、と言いかけたが、堪えた。少しずつ彼女の表情の変化が読めるようになってきた。どうやら本当にクリフを警戒していたらしい。リチャードは彼女の手を軽く握った。

「移民が睨まれるのはどの国でも同じさ。まさかお巡りじゃなく憲兵が突っかかってくるとは思わなかったけどな」

「君は私が帝国のスパイだと思う?」

「はっ」

 リチャードは噴き出した。

 帝国が連合王国本島に、スパイを送り込むだって? まぁ、あり得ないこともない、が。

「帝国の血が入ってるくらいでいちいち疑ってたら、キリがないだろ。劇団だって、色々と陰謀論の標的になったりするもんだ」

 移民への偏見も、劇団に対するまことしやかな噂も、本質は同じだ。スパイとして送り込まれた移民はいるだろうし、裏で犯罪組織とつながっている劇団もあるだろう。根拠と実例があり、1つの真実が99の嘘を真実のように惑わせる。そうした疑心暗鬼を生む陰謀論こそが、帝国軍参謀本部の流した治安騒擾そうじょう戦術であるとの見方さえある。そして、帝国軍の謀略すら王国を裏から操る闇の資本家たちの悪行を誤魔化すための陰謀である、との声も。さらに闇の資本家たちは帝国に買収されていて……というふうに、疑いが無限に循環してしまう。


 だからリチャードをはじめ多くの一般人にとって、考えるのは無駄だ。

 前線で無数に投射される弾幕が百発百中ではないように、銃後で野放図に展開する陰謀が常に生活を脅かすとは限らない。


 戦争の裏で、謀略の表で、普通の人は普通に生きているのだから。

「海の向こうのことなんざ気にすんな。俺たちの手の届く範囲はずいぶん狭いんだからな」

「……それもそうだね」

 イングリットがどんな旅路を歩んできたとしても、彼女にだって最低限度の明日を迎えるための糧が必要となるだろう。

「そこで、だ。仕事に関して俺を頼ってくれるのは本当か?」

 重要なのはそこ。特に親戚類を頼って渡航したわけではないようだから、仕事を選ぶつもりなら相応の覚悟と代償がいる。無論、社会の下の方で暮らすリチャードは代償の重さを知っている。

 イングリットはやや目を伏せた。

「君を頼れるのなら、そうしたい。でも無理には……」

「任せとけ」

 今度は、こちらから視線を合わせに行く。離したくない。

「イングリットには華があると思うんだよ。美貌、度胸、教養、あと腕っぷしを見るに身体も出来上がってるよな。『魔女の帳』の花形としてやっていける素質が、きっとあるはずさ」

「私を女優に?」

「稼げるぜ。嫌かい?」

「演じるのは嫌いじゃないけど……私は魔女ではないよ?」

 半信半疑の瞳が揺れ動いている。表情はやはり薄いが、まんざらでもなさそうだ、可愛いところあるじゃないか。

「構わない。あんたは誰もが目を奪われる魔性の女ファムファタルだ。俺なら迷わず推しにするね」

「推し?」

 おっと。決め台詞のはずが、うっかり界隈おたく用語が出てしまった。

「その、応援するってことさ」

「それはいいことだね」

 イングリットは、少し俯いた。わずかに口角が上がった、ように見えた。

「じゃあ早速、明日にでも劇団長を説き伏せておく。大船に乗ったつもりでいてくれ!」

「ありがとう、リチャード。期待しておく」

 昼間のようにイングリットの手がリチャードに絡められた。


 リチャードは充足感で胸がいっぱいだった。バカなこだわりでデートプランを台無しにしてしまったが、なんだかんだでいい雰囲気に終われた。明日は勝負になる。気合をいれろ、雑用係が敏腕スカウトマンになる時だ。

「で?」

「うぉっ」

 おもむろに、立ち止まったイングリットに腕を引っ張られた。

「リチャード・サンダーソン。これで終わり?」

「……んん?」

 すれ違うカップルが、何か睦言むつごとを交わしていく。

 イングリットの双眸が、妖しい輝きを帯びていた。

「私をすんなり下宿まで帰してくれるのかな? 君は」

「……あ」

 リチャードはようやく当初の志を、デートの最終目的を思い出した。これを忘れる男は、とんでもないガキかとんでもない紳士だ。もちろんリチャードは前者であった。まだ19歳の青年であり、どちらかといえばわんぱく少年に近い感性の19歳であった。

 が、ここまで来てしまったら後者を気取らないとあまりにも、あまりにもダサすぎる。

「……えーっとだな、イングリット。俺はナンパな野郎だが、実際には敬虔な子羊でさ」

「奇遇だね。私は実のところ、飢えた狼なんだ」

 脚を刈られ、路地の壁に押し付けられる。頬をくすぐる髪からものすごくいい匂いがする。冷たい手がリチャードの頬を撫でた。

 ――喰われる。

 ――それもいいな。

 男としてのプライドなんか、めちゃくちゃにエロいお姉さんの前では些末なことだ……と腹を括ったところで、彼女の手が離れた。

初心うぶなんだな、君」

 イングリットは、ようやく笑顔を見せた。笑い慣れていないのか、少々ぎこちなく、けれど艶やかな表情だ。曇り空の隙間からかすかに覗いた月明りのようで、それは独り占めすべきものだった。

「見送りは要らない。明日、同じ時間に彗星座を訪ねるよ」

 ひらひらと手を振り、イングリットは別の通りに向かって去っていった。


 リチャードは壁にもたれ、脱力ぎみに呟いた。

「ちくしょう、俺の性癖どうするつもりだよ……」




 翌日、昼。

 雑用係の仕事は相変わらず。サウスヘイヴンの劇場前でひとりきり宣伝し終えたら、休憩に入っていい。看板を折り畳んだリチャードは、昨日の待ち合わせと全く同じ時刻に現れたイングリットを連れて劇場のバックヤードへと足を運んだ。

「おい雑用係! 来季の拠点への荷運びはどうなってる! 家主のグレイスヴァイト伯爵が、チェックリストにあるはずの資材が届いてないと言っているぞ! 馬車でブリックフォール城まで届けに行け!」

 横合いから罵声が飛んだ。事務方がリチャードを怒鳴りつけるときは、だいたい自分のミスを誤魔化したい時だ。

 リチャードはイングリットを安心させるため、横顔だけで軽く笑った。


 劇団の拠点というのは、舞台で使う資材を運んだり劇団員を寝泊りさせたりする場所を指す。全国各地を巡業する大所帯には相応の設備が必要で、サウスヘイヴンでは港湾労働者向けの宿舎を一棟丸ごと借りている。今季の公演が終われば、来季に向けて次に公演する都市の近くに拠点を移さねばならない。

 そして来季に拠点として用いる手はずになっているのが、事務方の言っているブリックフォール城である。元はグレイスヴァイト伯爵という貴族の別荘だったらしいが、伯爵が大陸戦線に出征するため貸し出してくれたらしい。


 ともあれ、ブリックフォール城は馬車で行ける距離とはいえ一日掛かりになる。ナメた仕事を投げてくれるものだ。

「搬出時のチェックはあんたの仕事だったろ、自分でケツ拭け」

 普段ならペコペコ頭を下げるところだが、今は華麗にスルー。

「てめぇ、俺がやれっつったら今すぐ――」

 事務方はいつものように唾を飛ばそうとして、隣を歩くイングリットに目を留めて、口をつぐんだ。

「何だ、その女……」

「何って、スカウトしてきた女優に決まってんだろ」

 リチャードを雑に扱う劇団スタッフたちが皆、イングリットの存在に目を丸くしている。自分の実力じゃないとしても、多少は鼻を高くしても許されるだろう。余裕しゃくしゃくで、事務方の背中を叩く。

「下賤な裏方同士、恥かかないように気を付けようぜ」

 他のスタッフに道を譲られるのは初めてだった。裏手で台本を読み込んでいた見習い役者たちの間抜け面を横目に、リチャードたちは劇団長を訪ねた。


 『魔女の帳』の劇団長ベケットは、痩せたカラスのような男だ。オーナーの資本家連中にゴマをするのが得意な小心者で、劇を愛しているようには見えない。が、どうも流行りをを掴むのが上手いようで手腕は確かだった。魔法を用いた古典劇に派手な演出を加え、影の魔女ハンナ・テイラーを花形に仕立てたのも彼である。

「驚きだ、雑用係のサンダーソン。まさか女優候補を連れてくるとは」

 ベケットはそう言いながらリチャードの方は一顧だにせず、両切り葉巻に火を点けた。席を勧められたのはイングリットだけで、リチャードは彼女の隣に突っ立っている。このまま話をする気満々だ。軽んじられるのは慣れているが。

「イングリット・グリム。我が劇団『魔女の帳』は、魔女による舞台演出を重視していることをご存じですか?」

「ええ、劇団長さん」

「あなたは魔女ですか?」

「王国人が言うところの魔女ではありません」

「別の定義による“魔女”であると?」

 ベケットの眼差しが陰険に細まった。


 イングリットは椅子に深くもたれ、ゆっくり首肯した。

「旅路の途中、私を魔女と罵るやからもいました。賭場や酒場、あるいはカルトの教会に」

 リチャードは危うく噴き出しそうになった。ベケットの方は変わらず眉間にしわを寄せ、イングリットを不躾に見つめている。

「演技の心得は?」

「多少は」

「役者としての経験が?」

「いいえ。ですが、先述したカルトに絡まれた際、悪魔崇拝者として公国政府に身柄を狙われたことがありまして。追跡を躱すうちに詐術を身に付けました」

 リチャードは今度こそ噴き出した。彼女の言葉がどこまで真実かは確かめようがない。しかし、これから仕事を頂こうとする人間としてはちょっとチャレンジャーが過ぎるのではないか。

 堅実な社会性と、数奇な人間性。劇団長が役者にどちらを求めるかは未知数。後者であればよいのだが。


「ほう……」

 ベケットが長い煙を吐いた後、立ち上がった。彼は部屋の書棚から一冊のノートを抜いた。ずいぶんと年季物の表紙には、『魔王』とだけある。

「長年温めていた台本です。読んでみなさい」

 イングリットはノートに目を落とし、手早くページをめくった。平坦な口調で、けれどどこか面白がるように、見出しを呟いていく。

約定の地カナンの王。悪魔との契約。72氏族の姫。奇跡と繁栄。裏切りと滅亡。時の果てに王の再臨を待つ、血脈の魔女……叡智なるダンタリオン」

 横で聞いていたリチャードには、さっぱりな単語の羅列だった。どこぞの神話だろうか。繋がっているようで意味が通らない。それに、『魔女の帳』がやってきた売れ線の脚本とは違う気がした。

「どう、思いますか。古臭いでしょうか」

 資本家にへつらうばかりの劇団長は、なぜか緊張気味に問いかけた。

「私は、これを上演する機会をずっと窺っているのですが……どうにも時勢が巡ってこない。イングリット・グリム、この物語に救いはあると思いますか?」

 劇団長の葉巻から、灰が落ちた。その手は震えていた。


 イングリットは興味なさげにノートを閉じた。

 読み込んだ小説を、そうそう見返さないように。

「いいえ」

 リチャードの位置から、彼女の瞳は見えない。どんな眼で劇団長を見透かしているのか、知りたい。けれど異様な空気に呑まれて、動けない。

 イングリットは淡々と述べた。


「神は人をお救いになられない。だから悪魔がいるのです、ミスター・ベケット」


 何だ、このカビ臭い台詞は。下手な脚本だな。これが入団試験だってのか。

 リチャードはもっと現実的な売り込みをしたくて口を開いた。

 直後、閉口した。

 

 詩や歌劇を愛してそうには見えない劇団長が、一筋の涙を零していた。

「おお……」

 何が「おお」だよ。

 様子がおかしい。何から何まで理解不能な展開に、リチャードは居心地の悪さを通り越して後悔すら覚え始めた。何かの合言葉だったのか? こいつはまるで、陰謀論の世界だ。

「雑用係、席を外せ。我々は労働条件について話し合う」

「え?」

 いきなりそう告げられ、リチャードは動揺した。ベケットは涙跡を残したまま、野良犬を追い払うジェスチャーをした。

「お前の連れてきた女を雇おうと言っているんだ。そのちっぽけな自尊心が満たされたら、さっさと次の仕事に掛かれ。お前には来季拠点への荷運びに関するグレイスヴァイト伯爵家との折衝を指示しているはずだ」

「い、いやちょっと待ってください劇団長。俺も交渉に参加させてください。イングリットは来島したばっかで勝手も相場も分からないだろうし――」

「聞こえなかったか」

 ベケットはデスクから契約書を取り出した。イングリットは彼から説明を受けながら、既に規定事項であるかのようにペンを握っている。


 ダメだ。


 結果だけ見れば諸手を挙げて喜ぶところなのに。

 不気味な焦燥が、リチャードの首筋をチリチリと刺激する。

「リチャード」

 イングリットは短く名を呼んだ。助けを求めてなんかいない。彼女は誰かに助けられる必要なんてない、そういう風に生きてきたのだと。


 神秘の女が歩んだ旅路を、リチャードは知らない。だから急に、彼女の瞳の奥を確かめるのが怖くなった。


 それで、背を向けた。




 雑用の押し付けに余念のないクソカス共のはびこるバックヤードをひとりで逆戻りする。

「おい雑用係、荷馬車をレンタルしといたからな! 俺が今から荷造りするから、明日の朝イチで拠点まで届けに行け!」

 さっきの事務方が嵐のようにまくし立て、リチャードの手に搬出物のチェックリストと新拠点の家主に対する謝罪文とレンタル馬車の引換証を押し付けた。結局ケツを拭かされるらしい。


 破り捨てようとして、辛うじて踏みとどまる。

 紙束をポケットに放り、劇場の裏口から暗い路地に転げ出る。

「くそっ!」

 自分がダサい奴だとは思っていた。だが、これほどとは。

 足元の、小道具が雑に積み上げた廃材に脛をぶつけた。

「痛っ……くそっくそっ!」

 廃材を思いっきり蹴っ飛ばすと、虚しい騒音を立てて路面に散らばった。

「仕事が上手くいっていないようだな、青年」

「ああ!?」

 声の元へ振り向く。明るい表通りに背を向けたラウンジスーツの男が、フレンドリーに手を振っていた。

「昨日は世話を掛けたね。今日は君と、よりよい仕事の話をしたい」

 クリフォード・カーライルの笑顔は、やはり深い影の中にあった。


 クリフはにこやかに握手を求めたが、リチャードは反応に困った。

「……そいつは娘さんか?」

 リチャードが指差したのはクリフの後ろに付き従っているもうひとりの存在。東方系の異人らしき小柄な少女が、興味深そうに周囲を見渡している。

「娘に見えるかい?」

「いや」

 クリフは見かけによらず冗談が好きらしい。ツレか、と聞いたら失礼に決まっているから無難な聞き方をしただけだ。

 しかし、なかなかに個性のある少女だ。中性的な黒いおかっぱ頭にあどけない顔立ちは目立つ。払下げらしい軍用ジャケットや短ズボン、ブーツというやたら活動的な服装も、市井しせいの流行りから大きく逸脱している。

「部下だよ。ほら、ウルカ。リチャード青年に挨拶したまえ」

 私服の憲兵大尉が若い女の部下を連れて劇場の裏手に……? 流石に言葉には出せなかったリチャードに対し、その少女はバシッと敬礼を決め声を張った。

「小官は潤香ウルカ七屋ナナヤ准尉相当官であります! 『C』からお話は伺っているであります!」

 ウルカとナナヤのどちらがファーストネームなのかとか、相当官って何なのかとか、色々気になることはあったが。まずは驚いたこと。

「マジで部下に『C』って呼ばせてんだな」

 まるで、軍事謀略スパイモノのコードネームじゃないか。


 リチャードとしてはイングリットを劇場に置き去りにするのは嫌だったのだが、クリフに諭されて近くのコーヒースタンドに座ることにした。別に親しくもない3人でテラス席に顔を突き合わせ、別に欲しくもないコーヒーとコーニッシュパイを注文した。お代はクリフが持ってくれた。

「リチャード君の動揺はよく分かるよ。大方、彼女さんに職を紹介したら訳の分からない締め出しを喰らったとかだろう?」

 さっそくクリフは本題を切り出した。

「監視してたのか」

 舌打ちしたくなる。あのタイミングで劇場に現れたのなら、昨晩からずっと追っていたはずだ。怪しまれているのはイングリットの方だろう。陸軍の大尉どのが、たかが移民女ひとりにご執心なことである。

「同じ女性である小官が監視任務に当たったであります! ミズ・グリムの尊厳には配慮しているであります!」

 聞かれてないのに、ウルカと名乗った少女がフンスと胸を張った。


 リチャードは頭を掻いた。こいつらのご機嫌を取る必要はなさそうなので、率直に述べさせてもらう。

「……そういう問題じゃねえ。俺としては、あんたらがどう考えても憲兵の職掌を超えた仕事に手を出してるのが気になるんだが」

「知らないのか青年。戦時体制下の憲兵は、一般民衆を統制したり弾圧したりするようになる。常識だぞ」

 クリフも得意げに胸を張った。

「あんたは開き直っちゃダメだろ」

「いずれ憲兵に代わって独立した治安維持組織が市民を威圧するだろう。もっと戦況が悪くなれば、やがて督戦隊が民兵を突撃させるようになる。誰が抑圧の主体となるか、なんて些細な問題だよ」

 リチャードは思わず周囲を見渡した。滅多なことを言うじゃないか。

 誰だって新聞越しの戦局くらい知っている。大陸戦線の主戦場となっている公国では、ジャンダルメリヤと呼ばれる国家憲兵が親帝国派――つまり講和派――の粛清を行っている。それに最近では、140万人規模の市民兵を動員して捨て身の攻勢を図っているとも聞く。

 だがそれは、公国軍が無能だからだ。公国を支援するために派兵された連合王国軍には関係ない。

「連合王国が、そうなるとでも?」

 リチャードは皮肉のつもりだった。

「戦争は人を逃しはしない」

 当然だろう、とクリフは頷いた。


 コーヒーとパイが運ばれてきた。給仕は憲兵の制服も大尉の肩書きも見ていないはずだが、どうしてか既に注文を待っていた他の席の紳士より優先してくれたようだ。

 クリフの顔が知られているから忖度したのか、それともが街の至る所にいるのか。薄ら寒くなってきた。

「あぁ、クリフの旦那。そこまで自覚的な良心をお持ちなら、ぜひともか弱い小市民を放っておいてくれませんかね。どこまで洗っても俺はしがない雑用係、ツレは戦争難民だぜ。憲兵大尉どのの捕り物には役不足だろ」

「君たちはな。君たちの、職場に問題がある」

 パイの包みを手に取る。こいつを頂いたら退散しよう。気掛かりなのは次の仕事とイングリットの雇用契約のことだけだ。

 クリフの次の台詞が何であろうと。


「劇団『魔女の帳』は、悪魔崇拝を行うカルト教団のフロント組織だ。彼らは、連合王国政府の打倒を目的とする秘密結社であり、国内の犯罪組織や帝国軍の諜報機関も関与しているとみられる」


 リチャードは包み紙を剥いで、一口齧った。


「彼らは、魔女の才が悪魔との契約によってもたらされた遺伝子である、という教義を有している。劇団員として雇う名目で魔女を囲い、秘密裏に交配させてその特性の継承を試みている」


 コーヒーでパイを流し込む。


「もちろん、我々が言うところの魔女の才は遺伝しない。突発的に発現する、天与の才能ギフトのようなものだ。だから連合王国は、彼女らが無害である限り社会の一員として受け入れてきた。この意味が分かるね?」


 テーブルに、包みとカップを置く。


「ところが悪魔崇拝者の定義する“魔女”は、どうも我々の認識とは異なるようだ。『魔女の帳』は、連合王国本島の出身女性も多く引き入れて交配実験に用いている。ミズ・グリムの来歴については聞き及んでいるが、彼女が安全とは言えないな」


 リチャードは頭を抱えた。


「もし彼らが戦闘や工作に秀でた“魔女”の生産・育成に成功した場合……必ず、脅威となるだろう。我々は、魔女が連合王国の敵となるような事態を防ぎたい」

 そうクリフは締めくくった。ウルカも神妙に相槌を打っている。


 くだらねえ。陰謀論全部乗せかよ。冗談ならさっさとそう言え。


 そう一笑に附して、小銭を置いて席を立つことはできる。そうした方がいい。なのに、リチャードの目は、クリフの薄笑いに縫い留められている。平凡な日常に縋っているのは、リチャードだけだった。

 クリフは懐から一枚の紙を差し出した。王国陸軍の作った契約書だ。管轄は……陸軍省情報総局、いわゆるスパイの総本山。それ以下の欄は黒塗りで隠されている。

「あんた、憲兵じゃないな」

「軍人ではある。未公開の組織なんだ。もちろん責任者は本名で、王都の陸軍省に勤めている将校だよ。心配なら人事局に問い合わせるといい」

 責任者の名前はミランダ・ソロモンス中佐。もちろんリチャードはそんな将校に覚えはない。

 ここで信じる信じないの問答をするのは無駄だ。大本営が「大陸戦線で善戦している」と発表すれば信じるしかないし、同じように軍の高官が「お前の職場はテロ組織です」と仰せなら首を縦に振るだけだ。

「俺みてえな素人に、そんな情報を明かしてどうするんだ。俺がその変態乱交カルトのシンパだったら、告げ口するかもしれないぞ」

「しないさ。リチャード君は未来の名優を志しているのだろう?」

 今度こそ舌打ちした。

 最初から、目を付けていたのは『魔女の帳』の方だったわけだ。


 彗星座に、さして好きでもない劇場に視線を移す。道路一本挟んだその距離が、ひどく遠い。

 リチャードは舞台に上がれなかった。『魔女の帳』がスポットライトの裏で何をしていようと、そもそも雑用係リチャード・サンダーソンは当事者ですらなかった。物語も、陰謀も、平凡な小市民にはあまりに遠いところにあった。そこに関しては、諦めはつく。


 しかし、イングリットは違う。

「イングリットは……俺が巻き込んだ」

 無知は罪だ。無辜でいることは代償を伴う。惚れた女がカルトの毒牙に掛かって、それで最後にどうなるかなんて考えたくもない。

 イングリット・グリムが誰であれ、守らなければならない。もはや当事者となったリチャードには、その責任がある。

「どうすれば、イングリットを助けられる?」

 テーブルの下、拳を握り込んだ。

「今すぐ彗星座に殴り込みを掛けるってんなら手を貸すぜ」

 むしろ自分ひとりでもそうしたい気持ちでいっぱいだった。

 クリフはゆるやかに首を横に振って、コーヒーをすすった。

「落ち着いてくれ。それではギャングの鉄砲玉と同じだ。現場を押さえ、主犯格を捕らえ、すべての被害者を保護できる状況に持ち込めなければ意味がない」


 ウルカがペンとインクを差し出した。

「本契約は、リチャードさんに連合王国陸軍における特別作戦参与許可を与えるものであります。非正規動員……いわゆる傭兵雇用と同じと思って頂ければよいでしょう」

「兵隊みたいな撃ち合いはできねえぞ。俺は素人だ」

「本作戦には専門の部隊を招集しておりますので、荒事はこちらにお任せください。リチャードさんには『魔女の帳』が交配実験を行う拠点に潜入し、小官らが突入準備を整えるまでの期間、情報提供をお願いしたいのであります」

「拠点か……」

 この得体の知れない軍人たちの言説が本当なら、確かに魔女をひとところに集めておける拠点が必要だろう。そしてリチャードには、『魔女の帳』が選ぶであろう場所にひとつ、心当たりがあった。

 クリフがしたり顔で頷いた。

「近々、君たちは引っ越しを行うそうだね」

「……ブリックフォール城。グレイスヴァイト伯爵の別荘だ」

「あぁ、実におあつらえ向けだね。都市からほどよい距離、貴族の別荘という閉鎖空間。住環境もよい。隠し事にうってつけだよ」

 点と点が繋がってきた。すると、先ほど押し付けられた仕事にも思い当たる節ができた。

「うちの事務方が、城への荷運びでヘマをやらかしたんだが……もしやあんたらの仕業か?」

 そう聞くと、予想通りウルカがまた得意げに胸を張った。

「小官、工作は得意であります!」

「なるほどな」

 笑えるくらい、リチャードの知らないところで話が進んでいたようだ。

 そして、知ってしまったからには選択肢はひとつ。

 ペンを手に取る。


 クリフが表情を消し、姿勢を正した。

「改めて協力を依頼したい、リチャード君。仕事が終わったら真っ当な劇団で俳優をやれるよう取り計らおう」

「俺の忠誠を疑わないんだな。金で劇団に懐柔されるかもしれないし、洗脳されたイングリットに絆されて裏切るかもしれないぞ」

 そろそろ、こっちも冗談を言わせてもらおう。試されたぶんは試してやる。

 謎めいた軍人は無表情のまま、淡々と答えた。

「忠誠や愛情に価値はない。人は、仕事にどれだけ真剣になれるかで決まる」

 そいつは苦しい生き方だろうな、とリチャードは他人事みたいに思った。


 だが、気に入った。

「そうかよ。俺を役者にしてくれるんだな」

「ああ。私の仕事に誓う」

 契約書に、己の名を記す。


 生まれて初めて、当事者として舞台に上がった。軍のスパイとして悪魔崇拝者の根城に潜入し、囚われたヒロインを救出する。ちょっと恥ずかしくなるくらいカッコつけた英雄譚だが、上等じゃないか。

 ダサい雑用係はもう終わりだ。この大役を、演じ切ってやる。


「作戦を、聞かせてくれよ」

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