第21話:世界を売った女の末裔②

 劇団という存在は、昔から陰謀論の温床にされてきた。

 ある時はマフィアの看板組織。

 ある時は反政府勢力。

 ある時はカルト教団。

 ある時は秘密結社。

 ある時は敵国の諜報機関。

 全部ひっくるめたタイプもある。


 色々都合がいいんだろう。多様な人材を取り揃え、一般人の日常には不必要な技術を扱い、多方面に顔が効き、そして当然ながら演技が上手い。

 まぁ、馬鹿げた話だ。


「さあさあ皆さん、寄ってけよ! 劇団『魔女のとばり』は本日13時から公演だ! 開演まであと30分!」

 リチャードは雑踏の中心で声を張り上げた。連合王国本島でも屈指の海港都市、サウスヘイブンの目抜き通りは人で溢れている。屈強な労働者と水夫、馬車、それに呼び子たち。特に最後の業者共は、宣伝屋サンドウィッチマンという別称が示す通り2枚の広告看板を前と背に提げてうろつくせいで、通行人に邪魔者扱いされている。

 リチャードも今、彼らと同じことをしている。劇団『魔女の帳』の新作『アミュレット』を宣伝するため、ポスターを貼り付けたベニヤ板を背負って辺りをうろついているわけだ。

「魔女の劇団は数あれど、ウチよか老舗は他にねえ! 創業120年にして流行の最先端! 王国イチの芝居が見たけりゃ、今すぐ彗星座チケット売り場に駆け込みな!」

 少し離れたところで、非番と思われる水兵の一団がリチャードを指差してニヤニヤしている。サンドウィッチマンは間抜けな見た目で馬鹿にされやすい。主に劇団の冴えない雑用係がやる仕事だ。しかしリチャードは爽やかな笑みを浮かべて彼らに近づいた。

「よっ、水兵さん方! 美人は好きかい?」

 とか言いながら、懐から数枚の写真を出してみせる。全部同じ女性のブロマイドだ。公演を行う劇座の売店に卸しているグッズである。

「俺のおススメは本日公開の『アミュレット』主演、影の魔女ことハンナ・テイラーだぜ。影を縦横無尽に駆け巡る彼女の舞台演出は――」

 言い切る前に、水兵の一人が大きく鼻を鳴らした。

「その女優、ヤれるんか?」

 おっと。劇団を娼館か何かと勘違いしている田舎者おのぼりさんだった。

 実のところ裏で無許可売春をやっている悪徳業者もいるにはいるが、そういう手合いは都市の明るみには出てこない。サウスヘイブンの一等地で新作を公開できる『魔女の帳』は、もちろん違法風俗に手を出す必要なんかない。

 リチャードは内心げんなりしつつも、爽やかな営業スマイルで答えを返す。

「さてな。ハンナは恋多き花形スターだが、文化的で教養のある紳士が好みらしい。そう、例えば詩や劇をたしなむような……」

 水兵たちが顔を見合わせ、それからもう一度ハンナのブロマイドを眺め透かす。各々が財布をゴソゴソし始めた。

「兄ちゃん、一番安い席はいくらだ?」

 釣れた、とリチャードは確信した。背後の劇場を指し、決めの一手。

「売れ行きに応じて安くなるから、彗星座のチケット売り場で確認してきな。ちなみに隣の売店でグッズを買うと割引してくれるぜ。ハンナの気を引きたいなら、ブロマイドを買っておくべきだな」

「なるほど、ありがとな兄ちゃん」

 鼻の下を伸ばした水兵一行が劇場へとぞろぞろ向かっていった。『魔女の帳』の客層にしてはやや柄が悪いが、彼らが女優に対して狼藉を働くことはないだろう。売れてる劇団は、怖い用心棒を何人も抱えているものだ。


 リチャードは懐中時計を確認し、看板を外して脇に抱えた。

「そろそろ戻らなきゃな」

 開演ギリギリまで宣伝し続けても意味がない。雑用係にそこまでのやる気を求められても困るというものだ。

 劇場へと踵を返した、その時。

「あーっ! ばあちゃん、お芝居だよ、お芝居! 見たい見たい!」

 振り向くと、いかにも田舎からやってきましたといった感じの少女がこちらを指差していた。

 新たな客か、と喜びかけたリチャードは、すぐにがっかりした。

 少女が必死に手を引いている老婆は彼女の祖母のようだが、険しい表情で首を横に振っている。ふたりは大きな背嚢を背負っており、ブリキの廃材が詰め込まれていた。どう見ても芝居をたしなむ余裕のある人間ではない。

「ダメよアメリア。今日の用事はゴミ屋さんにブリキを届けて、質に出した馬を返してもらいに行くだけなんだから」

「えー? せっかく街に来たのに! 時間あるでしょー?」

「聞き分けがない子だねぇ、お金がないのよ!」

 老婆が一喝。すると少女はうつむき、涙声で呟いた。

「でも、パパもママもお芝居がすきだったのに、戦争に行ってからぜんぜん見れてないって……だから代わりに私が見て、お手紙出すんだもん……」

「アメリア……」

 老婆が困ったように、アメリアと呼ばれた少女から顔を逸らし――そして、リチャードと目が合った。

 別に老婆としては、劇団関係者らしきリチャードに何か催促するような意図はなかったと思うが。リチャードはどうにも貧乏人を門前払いする気にはなれなかった。

 一歩進み出て、少女に目線を合わせて屈み込む、

「お嬢ちゃん、芝居は好きかな?」

 少女が顔を上げる。くすんだ金色の前髪が揺れ、曇り空のような瞳がリチャードを見上げる。

「えっと、私はよくわかんない、けどパパとママは……好きだと思う。戦争に行く前は、ふたりでよく見に行ってたから」

「俺は君のことが知りたい」

 リチャードはポケットからチケットを一枚だけ取り出し、少女の前で振って見せた。少女は困ったように視線をうろうろ。リチャードを見て、渋面の老婆を見て、チケットに戻って、ようやく答えを絞り出す。

「ううん……私は、パパとママが好き。ふたりの好きなものを私が代わりに見て、お手紙に書いたら、喜んでくれる……と、思う」

 リチャードは大きくため息を吐いた。

 分かりやすいガキだ。パパとママってことは、おそらく婆さんにとっても息子夫婦になる。……娘夫婦かもしれないが。家族関係が円満なら、中身のある手紙は戦地の夫婦を喜ばせることだろう。


 そういう建前。あるいは遠慮。あるいはカッコつけ。もっと言えば一石二鳥の二律背反。

 この少女の頭の中を占めるちっぽけなせめぎ合いが、リチャードには手に取るように分かった。いじらしいわがままと、後ろめたい親孝行だ。


 リチャードはそういう子供の機微が、心底気に入らなかった。ガキだったころの浅はかな自分を見ているようで、背中がかゆくなる。

「親の為に好きでもねえモン見て、気のない手紙なんぞ書いて、見透かされるとは思わないのか」

「う」

 答えに詰まった少女を、老婆が襟首掴んで立たせた。少女の背嚢から、がしゃりと金属音がした。

「ほらアメリア、行くよ。劇団のお兄さんを困らせたらダメでしょ……すみません、やんちゃな子で」

 老婆はリチャードに上品な会釈をした。そのまま彼女が道を急げば、少女はずるずると引きずられて人垣の中に消えてゆく。リチャードに義理などない。劇団の客は、芸術を愛する紳士淑女だけだ。


 そんな奴らはごまんといる。


 しかし、大人になってなおバカなヤツも、よくいるのだ。

「待ちな、お嬢ちゃん……婆さんもだ」

 リチャードはポケットに再び手を突っ込み、苦い表情を浮かべそうになるのをギリギリで抑えた。2枚目のチケットと合わせて、背を向けた少女と老婆に向かって突き出す。ふたりは目を丸くした。

「ふたりで見るといい。金は要らねえ」

 安い給料から自腹を切って買ったやつだ。特等席とはいかないが、そこそこ良い景色を見られる。

 少女の方が無言の感嘆と共に飛び跳ねる一方、老婆は怪訝な目をリチャードに向けた。そりゃ、怪しまれるに決まってる。流行りの劇団のチケットを、それも上から2番目に良い席を、出会ったばかりの他人に渡すお人好しがどこにいる。しかも2枚もだ。

 老婆は申し訳なさそうに、されど油断なく言葉を選んだ。

「あぁ、お兄さん。悪いけれど、受け取れないわ。あなたのものでしょう」

「いいさ。俺は俳優なんだ、席なんぞいくらでも取れる」

 渾身の見栄を張った。

 老婆は更に言葉を重ねてチケットを突き返そうとした。が、何か声に出す前に少女の方が飛び跳ねながら劇場へすっ飛んでいってしまった。ガキなんてそんなものだ。

「あんまりガキに我慢させてやるなよ。婆さん」

 老婆は遠ざかる孫娘の背中に呆れつつ、リチャードに深々と頭を下げた。

「ありがとうございます、ええと……すみません、あたくし俳優さんに詳しくなくって」

 木っ端の雑用係に気を利かせる必要なんかない。サンドウィッチマンなんぞやる俳優がどこにいる。人様に覚えてもらう名前なんぞそもそもありはしないのだ。

 だがリチャードは、見栄を張ってしまった。


「リチャード・サンダーソン。未来の名優さ」


 あの少女と同じ、バカの二律背反だ。




 6年前、連合王国人にとって戦争は遠い場所にあった。ジャバルタリクへの戦線後退に繋がる多くのきざしがあったけど、人はそれを無視した。

 同盟国に対する帝国の侵略を理由に、軍縮条約を破棄した。国際秩序のためと叫んで、戦時国債を刷りまくってインフレを引き起こした。大陸の同盟諸国に金と武装と情報を流し、最終的に堂々と派兵して帝国に正式な宣戦布告を行った。広大な王国植民地を帝国軍から守るため、非常動員を発令した。

 それは、遠い遠い話だった。だから人々は、戦争が政治的なバランスゲームの延長だと信じることに決めた。すべては理性的に進んでいて、生活のうえでちょっとした我慢をすればいいだけだ。街に繰り出せば娯楽映画をやっている。ニシン漁船は世界最強の王国艦隊に守られている。今日の新聞では、第一王女アイラ様の11歳のお誕生日に関するおめでたいニュースで持ち切りだ。

 下々の者たちが普通に生活していれば、連合王国はそのうち勝利していることだろう。大陸戦線に従軍なされている英雄たちに、ささやかな敬意を……。


 よって、うだつの上がらない雑用係リチャード・サンダーソンは今日も通常営業を続けている。海の向こうの戦争なんかより、自分がバカなせいでデートの約束を台無しにしてしまった事態の方が重要なのだ。

「君は本当に間抜けだね」

 分かっている。

「聞いているのかい、リチャード?」

 聞いている。

「私はとても不思議なんだ。『魔女の帳』の新作を一緒に観るという大変素敵なデートプランのはずが、なぜ劇場の裏手に身を寄せ合ってフィッシュアンドチップスを貪る羽目になったのかな?」

 なぜって。そりゃ。

「リチャード・サンダーソン。私は君が劇団大手である『魔女の帳』のスタッフとして働いていることは知っているけれど、雑用係に高級席2枚を気軽に買えるほどの給与を支払う劇団など存在しないことくらいは予想がつく。おそらくそれなりに無理をして私とのデートのために用意したのだろうけど、なぜそれを見ず知らずの少女と老婆に譲り渡してしまったのかな?」

 そりゃあ……。

「あぁ、俺のせいだよ」

「全面的に君の過失であることの認否は問うていない」

 底冷えのする声色に背筋が縮んだ。要は「てめぇが悪いのは当たり前だろうが」。ごもっともです。ここは素直にごめんなさいと言えばいいんだ。

「イングリット、本当にすまない。貧乏なガキにささやかな夢を見せてやりたくてな」

 深々と頭を下げてたっぷり30秒待った。

「はぁ……」

 わずかに、雪解けのような温かみがあるため息。不愛想な美人、イングリット・グリムはにこりともしなかったが、それで許してくれたようだ。


 変な話、劇の当事者でないことにリチャードは慣れ切っていた。壁を隔てて劇伴に耳をそばだてるのはいつものことだ。役者でもなければ小道具でもなく、美術でも脚本でも楽団でも会計でもない、間に合わせの雑用係。たまたま口が上手いからサンドウィッチマンをやらせてもらっているだけの、しょうもない使いっ走りだ。

「このフライはひどい味だね。どこで買ってきたの」

「申し訳ない……」

 リチャードはまた頭を垂れた。約束の時間ギリギリで、適当に近くのスタンドで買ったのがまずかった。大通りにあるフィッシュアンドチップスの屋台は大抵、廃油みたいな油でべしゃべしゃになるまで揚げる。塩を振ってあれば上等。労働者は味なんかどうでもいいのを知っているから、屋台の店主も容赦なく手を抜く。美味く作るための手間は余分なコストである、という信じがたい原理がこの国の飯屋では横行している。

「はぁ……」

 またイングリットがため息を吐いた。これ以上空気が重くなるのを恐れて、リチャードは明るい調子で尋ねた。

「そういや、王国で飯が不味いのは都市部だけらしいな。俺はもう慣れちまったけど、イングリットの故郷ではどんな感じだったよ?」

「故郷では、いつもお腹を空かせていた」

 イングリットは不愛想な横顔で、どこか遠くに向けて呟いた。

「わ、悪い……」

 リチャードは今度こそ天を仰いだ。


 どんな射撃の名手だって、2羽の鴨を同時には撃てない。己が信条に誠実であろうとするのなら、誰かに嘘を吐かなければならない。

 男はご自分さえよろしければいつまでもバカなガキでいられるが、女は違う。今どちらを追うべきか、よく考えろ。


 イングリット・グリムとは、まぁそれなりに運命的な出会い方をした。数日前、リチャードが看板2枚ぶら下げていつもの仕事に励んでいる時に偶然目が合った美人さん。ときめきながら声を掛けると、越してきたばかりの移民なので金はないと言われた。これがそこら辺のおっさんなら門前払いするところだが、どうにも彼女はリチャードの好みにぴったりハマっていた。

 それで、リチャードは見栄を張った。『魔女の帳』のスタッフのツテでいい席を取れる。だからデートしてくれよ、お姉さん。そう言ってリチャードは無理を押し通してスケジュールを組んだのだ。夕食には近辺では一番マシな民度のレストランを予約してある。もちろんその後は紳士的に彼女を家まで送り届けるつもりだが、万一、万が一にだ。もしも酔った彼女がどこぞで休みたがったり、うるんだ目付きでリチャードを見上げてきたりしたら。その時は男として……というところまで織り込み済みである。

 無論、織り込み済みだったというだけだ。そこに至るまでのあらゆる算段をぶち壊したのはリチャード自身だった。


 もう機嫌を取れそうな台詞の在庫がすっからかんで、リチャードは黙ってポテトを噛んでいた。デートがご破算になった以上、ふたりの関係はここで終わりだ。チケットを渡した少女と老婆がこの損害を補填してくれるわけもない。

「その、イングリット。今日は無駄な時間を使わせちまったな。俺は阿呆だが、『魔女の帳』はすげぇ劇団なんだ。だから……」

「無駄ではなかったよ。君が誰にでも優しい男だということが分かった」

「手厳しいな」

 誰にでも優しい男は、つまり誰にでも女と同じだ。

 恐る恐る、再びイングリットの横顔を窺う。別れる前にもう一度謝っておこう。きっと、もう彼女がこの通りで足を止めることはない。

 ところが。

「うん? 私は君を魅力的に感じているけど」

 リチャードの視界に広がったのは、横顔ではなかった。真正面。深いざくろ色の瞳と、対照的に色の薄い唇。

 彼女の唇は、これまでのあらゆる算段を破壊してリチャードの唇に軽く触れた。それだけで、最悪なフィッシュアンドチップスの味は吹き飛んだ。

「貧者の奉仕こそ、真なる善と言えるものだよ。富める者の余裕から生まれる施しより、善くあろうと苦しむ人の流血の方が、よほど尊いんだ」

「貧者……善……?」

 惚れられる要素がどこにあったのか、リチャードはその難しい言葉を反芻した。けれど、2割も理解できなかった。

「よく、分かんねえけど……褒められてんだよな」

「ああ、もちろんだよ」

 イングリットはリチャードの頬をゆっくりと撫でた。晩春なのに、ひどく冷たい指だった。凍り付いたように、顔を動かせなくなった。己の視線が女の視線に、囚われている。

 リチャードの心臓が、警鐘のように叩き鳴らされる。


 こいつは魔女だと、確信した。


 この手合いになびいてはいけない。魔女なんて存在が当たり前にいる王国社会でも、恐れるべき奴らがいる。彼女は、魔性の女だ。雑踏に潜む神秘と目が合ったら、誰だってうやうやしく頭を下げて視線を逸らさなくてはならないのだ。それは確固たるリアリティで、男のいろいろなものを滅茶苦茶にしてしまう。

 しかしリチャードは、彼女の瞳の虜になってしまった。だからもう、遅かった。


 夕刻まで、ふたりでサウスヘイブンの街を遊びまわった。金はなかったが、遊び方くらいは相応に知っていた。

 知り合いのゲームサロンにイングリットを連れて行くと、普段はイカサマ祭りでリチャードを陥れようとしてくる悪友たちが揃って鼻の下を伸ばした。どうもイングリットは「行儀の悪い」ポーカーの心得があるらしく、野郎共に酒代をふっかけた挙句、リチャード含めて全員をボロボロに負かしてしまった。

「お姉さん、もしかして魔女かい?」

 こっぴどく毟られたサロンの店主がそう聞いたところ、イングリットは首を横に振った。

「君たちが言うところの魔女ではない。でも、不正を見破れないのならそれは潔白と同じではないかな」

 彼女はリチャードの悪友たちの顔を順に指差し、最後に周りで囃し立てていた見物客のひとりで指を止めた。ゲームでイカサマをした者と、その順番だった。


 その後イングリットは街の名所も見てみたいと言うから、リチャードはいくらかよそ者向けの観光スポットを挙げた。しかし彼女の見たいものは、やはり行儀が悪い界隈にあるらしかった。

「大きな街では、ボクシングの賭け試合をやってると聞いたよ。ここにもあるんじゃないかって思っていたんだ」

 確かに工場群の空地では、毎日のように闇試合が行われている。あちこちから出入りする水夫や移民、出稼ぎ労働者などが足のつきにくい小遣い稼ぎとしてよく試合に出るのだ。もちろん違法だが、工場のオーナーと地元ギャングが手を組んで隠し立てするため、官憲も取り締まりきれずにいる。

 つまりそうした場所は行儀というか、治安が悪い。淑女がいれば目立つ。的確に賭けていれば、更に目立つ。イングリットはしっかりとリチャードの腕に手を絡めて「お手付き」であることをアピールしていたが、リチャードの方は仕切っているギャングにいちゃもんを付けられやしないかと冷や冷やものだった。


 昼間から罵声と酒瓶が飛ぶ即席リングで、南方系の小柄な移民労働者が筋骨隆々の水夫をぶっ飛ばした。かなりの番狂わせだったため、ブックメーカーが怒り狂ったノミ屋たちに詰め寄られている。

「これで、チケット代の埋め合わせができたかな」

 即金で引き換えたくしゃくしゃの札束を丁寧に伸ばしながら、イングリットはなんでもなさそうに言った。

「イングリット、あんた俺が思ったより数倍は刺激的だよ」

 いい女だ。面白い。ちょっと趣味がワルだが、それもまた魅力的だ。離したくないな、と心から思った。

「……でもちょっと刺激的過ぎたぜ。そろそろ離れよう」

 周りの視線が痛い。血生臭い賭け試合の場に、女を連れたナンパ野郎がいるだけでも顰蹙ひんしゅくものだ。そのうえ女の言いなりで賭けて大勝ちときた。これはもう、気に喰わないなんてレベルじゃない。


 ふたりはそそくさと立見席を去り、工場群を抜けるため薄暗い路地を歩いた。

「ずいぶんと場慣れしてるが、事情を聞いてもいいかい?」

 ただの出稼ぎ女じゃこうはいかない。白海半島アイオニアのマフィアのお嬢様かと見紛うほどのゲーム上手だ。もし本当にそうだったとして、彼女の腕を振り切るつもりはないが。

「別に普通の生まれだよ。この国に来る前は、大陸の公国東部で暮らしていた」

「おっと……すまない」

 疎開民だったか。混然としたなまりの王国語を話すから、てっきり本島か直轄植民地の生まれかと思っていた。リチャードは自分の無神経さにうなだれた。

 公国東部といえば、おおむね帝国との国境を接している地域を指す。帝国の西進政策によって戦争が始まった今、そこは戦場になっている。仕事だけじゃなく、家や家族を失って逃げ延びた人間はざらにいる。

「いいよ。もともと根無し草の家系だったんだ。おかげで手早く日銭を稼ぐやり方を覚えた。同じ場所ではそう何度も使えないけれど」

 確かにちょっとした後ろ盾――付き添いの男でもいれば、彼女の目利きで賭け事に勝つのは難しくなさそうだ。だがすると、今のリチャードの立場には考えるべきものがある。

 リチャードのズボンに突っ込まれた、低額紙幣の束。

 まったく自分が情けない。

「またすぐ、どこかに行くつもりだったのか」

「そうだね。でもしばらくは、ここで職を探さないと……あ」


 突然、イングリットが脚を止めた。思いのほか強く腕を引かれ、リチャードはバランスを崩しかけた。

 ふたりが歩いていた路地の角から、5人ほどの男たちが現れた。立見席で見た顔がいるから、先ほどの試合に賭けていた奴らだろう。

 ひときわ強面の代表者が進み出た。

「てめぇ、『魔女の帳』んとこのだろ?」

 他の男たちが、狭い路地に下品な笑いを響かせる。リチャードは一歩進み出て、イングリットを背中に隠す格好になった。

「女の斡旋はしてくれねぇくせに、自分は上玉連れてんだな? ええ?」

 強面が言う間に、リチャードたちの背後からも複数の男が現れて退路を塞いだ。揃った面子からするに、ギャングだろう。普段は一般客が一度大勝ちした程度でぞろぞろ来るような暇人ではないのだが、どうにも虫の居所が悪いらしい。

 背筋が冷たくなってきたのをおくびにも出さず、リチャードは軽口を叩く。

「うちの劇団はいかがわしいところじゃないんでな。なんでイライラしてるんだい?」

「ハッ、分かってんだろぉ? 色男さんよぉ」

「……旦那がたの賭場を荒らすつもりじゃなかったんだ。いい女を引っ掛けたから気が大きくなって、それで大金注ぎ込んだら、たまたまツイてただけさ。はは……」

「おうおう、殊勝なこった。俺たちゃてめぇらが詐欺師なんじゃねえかと疑ってたんだが、稼ぎを自主返納してくださる清貧家だったとはなぁ」

 勝算はない。前に5人、後ろにも5人だ。たとえ幻滅されてでも、イングリットは守らなければならない。

 ポケットから札束を取り出す。

「ああ、俺みたいな敬虔な子羊には、過ぎた金だ。返すよ……」

 強面がずかずかと進み出る。リチャードたちを取り巻く嘲笑が更に大きくなる。


 目を見れば分かるんだ。

 こいつは札束を毟り取って、ヘラヘラ笑うの鼻っ面に拳を叩き込んで、唾を吐きかけるつもりだ。

 イングリットはこのヘタレを突き放すだろう。下手に庇い立てされる方が困る。奴らが紳士的に道を開けてくれるとは思えないが、こんな場所で女の身ぐるみ剥いで連れ去ったりはしないはずだ。

 それでいい。


 予想通り、強面は札束を掴みながらもう片方の拳を振りかぶった。痛みに耐える準備はできている。思いっきり吹っ飛ばされた方がダメージを抑えられるのも知っている。都市で他人に媚びへつらいながら生きるってのはそういうことだ。リチャードはとうに慣れている。

 ……イングリットが腕を離してくれない。怯える気持ちは分かるが、一緒に吹っ飛ばされては気の毒だ。

 彼女を突き放そうと、右腕に力を込める。

「あ?」

 リチャードの腕が空を切った。同時にイングリットの身体がリチャードを庇うように前へ踊り出た。

 それは、傍からは涙ぐましい女の献身に映った。

 強面男は拳を突き出しながらも、、嘲りと困惑の表情を浮かべた。イングリットの顔に直撃するコースだ。まさか男を庇って殴られに行く女がいるとは、彼も思わなかったのだろう。

 だが結論から言って、拳は空振った。

 彼女の靴が、ものすごい速度の足捌きで路面を滑る。亜麻色の髪が残り香を伴ってリチャードの目の前で揺れる。その両手が蛇のように強面男の腕にまとわりつき、袖と脇下をがっちりとホールド。彼女自身は身体を側面に逸らしながら、男の体重と殴りかかった勢いを利用して腕を引き寄せる。

 イングリットの足が、スカートの下で跳ねた。がら空きになった男のみぞおちに、重い膝蹴りが突き刺さった。


 嘲笑が途絶えた。

 静寂の中、重い音を立てて強面男が崩れ落ちる。それからたっぷり10秒間、ギャングたちも、リチャードも、当のイングリットすらも、沈黙を保っていた。

「……」

 イングリットは、魔女ではないと言っていたが。

 確かに、本当に連合王国生まれでない彼女は魔女であるはずがないのだが。

 偶然にも彼女が男を膝蹴り一発で沈められる格闘の達人だったという線よりは、荒事に応用が効く来歴不詳の魔女であると考えるのが筋だろう。この国は、そういう国であるからして。

「ま、まさか魔女……?」

「いや、今のって魔法なのか?」

「どうすんだ、アイツやられたら俺らじゃ無理だ」

「ラッキーヒットにビビるな! 数で掛かれ!」

 残った男たちが、動揺しながらも虚勢を取り戻した。ギャングの中には刃物を取り出した者もいる。

「お、おい、イングリット」

 流石に不味い。

 偶然にもイングリットが強かったから勝ち目が出てきた、とかいう話ではない。リチャードさえボコボコにされればそれで済んだのに、下手に殴り返したせいで暴力のレベルが上がってしまったのだ。チンピラの寄せ集めはともかく、賭場を仕切ってるギャングの方は引き下がれない。

「なに?」

 イングリットは平然とリチャードの方を振り返った。まったく、平然とだ。

「俺は今から連中に平伏して許しを請うつもりなんだが」

「なぜ? 全員返り討ちにして身ぐるみ剥げば追加のお金をゲットできるよ」

「山賊か!」

 ツッコんでいる場合ではない。2対9だ。どちらかが刺されでもしたら収支も身体も大赤字。だがもう、退路は断たれた。

「くそっ、やるしかないのかよ!」

 社会の下層で生きてきたリチャード・サンダーソンにとって、荒事の経験はそれなりといったところだ。だが殴ったり殴られたりするのはそもそも得をしない。争いごとの当事者になっても腹は満たされない。賭けの対象にするか、舞台の殺陣を眺めるか、そのくらいがちょうどいい。

 人生を賢く生きる真理を悟っているのに、どうしてか実践するのは難しいようだ。苦々しい唾を呑み込んで、拳を固める。


「そこ、何をしている!」

 鋭い男の声。同時に、路地の細長い空に銃声が反響した。

「陸軍憲兵だ! 陽も落ちないうちから仕事熱心なようだな、チンピラ共!」

 声は路地の入口、表通りに近いところからだった。

「やべえ、兵隊だ!」

「逃げろ!」

 一瞬で気勢を削がれたギャングたちが、蜘蛛の子を散らすように路地の四方へ逃げ込んだ。

 取り残されたのは、久方ぶりのファイティングポーズを固めたままのリチャードと、ごく自然に構えを解いたイングリット。

「で、諸君は2人組のギャングかな?」

 冗談を言いながらふたりに歩み寄ってきたのは、さっきの言葉通り王国陸軍憲兵の制服と制帽を身に着けた男だった。彼は拳銃をホルスターに仕舞い、肩をすくめた。

「観光客か知らないが、下手な歩き方をすると痛い目を見るぞ」

 イングリットはしれっとリチャードの腕にまた手を絡めた。かたちだけでも、女は怯えたふりをしていた方がやり過ごしやすい。リチャードも額の冷や汗を拭い、憲兵に笑顔で答える。

「いやあ、助かったよ憲兵の旦那! ちょっと彼女に見栄張ったのがいけなかったな~」

「調子に乗るのはよくないな、青年。サウスヘイヴンは紳士の街ではないんだから」

「ええ、もう、肝に銘じておきまっす! じゃあ俺らはディナーの予約があるんで、この辺で……」

 イングリットの手を引き、その場を立ち去ろうとする。どうせこんな時間にこんな場所にいる憲兵だ、休憩時間かサボりだろう。警察への引継ぎなんかを真面目にやる人種ではない。

 が、しげしげとリチャードたちの顔を見比べたその憲兵は、ふたりに追従するように歩き出した。

「ちょうどいい、私もこれから夕食なんだ。事情聴取がてら、ご一緒させてもらうよ」

「えっ? どういうことですか」

 リチャードは面食らって聞き返した。この憲兵は人様のデートに割り込むつもりか? しかし彼はまるで意に介していないようで、まんまの答えを返した。

「事情聴取がてらディナーをご一緒させてもらう、という意味だが」

「いや、どういうつもりかって意味なんですが……」

「諸君は予約したディナーの時間に間に合わなければならない。しかし私も仕事ゆえ、諸君を襲ったギャングに関する情報を警察に引き継ぐ必要がある。そして私自身もどこか適当な店で夕食を摂る予定だった。また、先ほどのギャングが再び諸君を襲撃する可能性もある。合理的に考えて、私が君たちに同行するべきだろう」

 憲兵はつらつらと述べた。参ったことに、リチャードには反論が思いつかない。イングリットを見やると、彼女も渋々といった感じで首肯した。

 内心、舌打ち。治安が悪いくせに、真面目な奴もいたものだ。

「仕事熱心なことで……」

 もちろん皮肉のつもりだった。


 だから、憲兵が嬉しそうに制帽を外して微笑んだことに、リチャードは驚いた。

「当然さ。仕事には命をけるものだ」

 いやに白髪の多い男だ。顔立ちは30前後だろうが、やけに嘘臭さを感じる。徐々にともり始めた表通りのガスランプが、その笑顔の陰影を際立たせた。


「申し遅れたな。陸軍大尉、クリフォード・カーライルだ。同僚には『C』と呼ばれているが、友人や妹はクリフの愛称で呼ぶ」


 6年前、ジャバルタリクより戦線が遥か東にあった時代。

 リチャード・サンダーソンは、自分がであることにまだ気付いていなかった。

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