第7話:代償①

 撮影を終えたアメリアたちは、中庭でリタの元に再び参集した。記念撮影の傍ら、彼女は先任軍曹と共に撤退計画を練っていた。

「ヤバい状況よ」

 リタの前置きは場の全員が承知している。かたちばかりの戦術的勝利を写真に収めるため、多くの無理を押し通してここまで辿り着いた。今、彼女たちの退路は味方の誰も保証してくれていない。どころか、退路の選択肢が塞がれつつあった。

 先任軍曹が重苦しく言葉を継ぐ。

「エスターライヒへの侵入時に通った森林地帯に、放火されました」

 アメリアはアイラ王女につられて城壁を見上げた。午後の青空に静かな黒煙が立ち昇っている。

「我々が城を完全に占拠したとみて、撤退ルートを制限しようと目論んでいるようです」

 サンダーソン上等兵が挙手した。現在進行形で苦虫を噛みしめている顔だ。

「火の手が回ったら正面の軍道も無事じゃ済まねぇだろ……帝国軍の奴ら正気かよ」

「うむ。敵は軍道を完全に放棄し、対面側の山岳地帯に引き揚げ始めている。エスターライヒ城こそ脆弱だが、侵攻された場合の反撃策は充実しているようだな。山中に多くの陣地を隠していたと見える」

 嫌というほど聞いた敵野戦砲の音が聞こえた。当然、禿山に陣取ったカニンガム中佐の戦車隊はいい的だろう。戦線を維持するだけで手一杯で、撤退のための支援は期待できそうもない。森はじきに炎に飲まれ、正面から帰ろうとすれば側面は火の手と山岳陣地で挟み撃ちだ。

 アイラ王女が質問を求める意味で手を伸ばした。

「その、素人質問で恐縮ですが、私たちはどこから撤退すればよろしいのでしょうか」

 リタが苦虫を嚙み潰して呑み下したような顔をした。

「ええ、非常に答え難いのですが、山岳方面から敵陣を突破しながら撤退することになります」

「えっえっ……魔法で火災を止めたりできませんか?」

 いきなりうろたえ始めたアイラの手をアメリアが優しく握る。ここまで気丈に振舞ってきた王女も、限界を迎えつつある。勇気は無尽蔵に沸いてきたりはしない。振り絞れば、いずれ枯れる。

「それをできるシャーロットが、なにぶん重傷ですので」

「あっそうだっ、燃えるものが無くなれば火災は収まるでしょう、リタさんが森林を焼き尽くせば__」

「無理です。本気を出せば焼き払えますが、しばらくは人が生きてらんない温度になります。それに石造りの城より森の方が鎮火しづらいので、冷めるのを待ってたらいつまで経っても撤退できません」

「で、では、山を迂回して……」

「どうせ帝国軍の増援とカチ合いますよ。それなら敵の位置を割り出しやすい山岳陣地を突破する方が楽です」

 リタはため息交じりに付け加える。

「時間を掛けただけ、塹壕を奪い返される可能性は上がります。そうなれば撤退どころじゃなくなります。堪忍してくださいよマジで」

 この問答をしている間にも、塹壕を確保する味方に砲弾が降り注いでいる。エスターライヒ城に収容されていたらしき正体不明のバケモノも気掛かりだ。これ以上駄々をこねられたらぶん殴ってでも連れて行くぞ、という旨でリタがアメリアに目くばせした。この役目は男共に押し付けられない。それはまぁ、アメリアにも分かる。

 アメリアは苛立ちを抑えきれないリタから、今にもへたり込みそうなアイラへと目線を移した。強引に、だなんてとんでもない。

「殿下、怖いですか?」

「……恥ずかしながら、ようやく現状を実感しました」

 アイラは震えを抑えるように、アメリアの手をきつく握り返す。

 勇気が枯れてしまったのなら、もういちど注ぎ込めばいいだけだ。自分の脚で立って走れるように。

「怖いのは、正しいんです。それでも殿下は目を逸らさずにここまで来られました。だからもう、あなたは知っているはず」

 アメリアは、もう残酷な言葉を躊躇わなくなっていた。

「もう進むしかないんです。お分かりいただけますよね?」

 アイラの白い指に血の匂いをなじませるように、アメリアはそっと両手を包み込んだ。


 実際アメリアたちは孤立しているが、まるっきり頼れる者がいないわけでもなかった。ただ、に頼みが届くかどうかには物理的な問題が立ちはだかっていた。リタは気が進まない様子でシャーロットの信号銃にカートリッジを装填した。

「昼の間に山岳陣地の麓まで潜入。日没と同時にこの信号弾を打ち上げる。王国軍の電話線と権限を持つ連絡将校が無事なら、総司令部まで信号を中継してくれる。幕僚会議で承認が降りたら、魔女戦隊の同僚が彼女の判断で……多分いい感じに支援攻撃を届けてくれるわ」

 やたら不安要素の多い説明にサンダーソン上等兵が顔をしかめる。

「改めて聞いてもクソみてぇな手順だな……」

「仕方ないでしょ。無線使って傍受されるよりマシだし、は魔女の中でも切り札に近いから慎重に使わなきゃなんないの」

 作戦の仔細を知らないアイラが控え目に質問する。

「すみません、彼女とは誰ですか?」

 サンダーソン上等兵や先任軍曹ら一般兵はブリーフィングで追加支援の説明こそ受けていたが、その魔女の名前すら聞いたことがない。魔女戦隊の中ですら彼女を知る者はほとんどいなかった。難しい顔のリタに代わって、アメリアが答えた。

「流星の魔女、マグダレナ・ソロモンス。魔女戦隊長ミランダ・ソロモンス中佐のお孫さんです。ジャバルタリクに駐留していたそうですが、今まで存在を秘匿されてきました」

 アメリアたちが彼女の存在を知ったのは、アイラ王女を作戦に引き入れることが決定した時。ソロモンス中佐が確実に王女を帰還させるため、更なる保険として追加戦力を用立てたのだ。彼女の魔法について中佐から伝えられた概要を、アメリアはそのままそらんじた。

「マグダレナの魔法は、空から隕石を落とすそうです。行使したことがないので威力は試算ですが……艦砲射撃クラスから、都市を丸ごと破壊する程度まで調節可能。精度はほぼ必中。射程は少なくとも、ジャバルタリク半島全域をカバーできるようです。この情報が本当ならば、帝国軍は彼女の攻撃への対処法を持ち合わせていません」

 アイラと兵士たちは、一様に呆然とした。

 強すぎる。これまで最前線で戦い続けてきた他の魔女と比較しても、規格外の性能と言える。聞いた限りなら、マグダレナひとりでジャバルタリクの帝国軍を相手取れるはずだ。一帯を焦土と化す覚悟があれば、流星雨を降らせて塹壕も要塞もまとめて消し飛ばせるだろう。なぜ、その魔女を今の今まで持ち腐っていたのか。

 という反応はもちろんアメリアも予測していたので、先んじて言葉を続ける。

「ただし彼女の魔法は6回までしか撃てません。撃ち切ると彼女は死ぬそうです。魔法にはそういう代償があるものだと思ってください」

 アメリアやケイリーが魔法によって自身を強化すると、人のかたちを逸脱していく。シャーロットが天候操作を行えば、反動のように大規模な気候変動が起こる。それと同じだ。悪魔との契約に例えられるからには当然の帰結なのだろうか、魔女の力はこの世の理から外れた代償を伴う。一生のうちに6回しか魔法を使えない魔女が居ても、アメリアにとっては不思議ではなかった。むしろ、回数制で使い切れば死ぬ魔法の方がおとぎ話としてはありふれている。

 アメリアが見渡すと、戦友が、この国の王女が、僅かな迷いをたたえて指揮官を見つめ返していた。リタはひどく難しい決断を迫られている。

 その手札は、切っていいのか。まだ見せていない6発限りの魔弾、それは連合王国にとって戦局を一変させ得る最強の切り札だ。本当に今がそれを使うべき時なのか。王女を無事に帰すため、中佐は必要なら自分の孫に惜しみなくトリガーを引かせるだろう。

 代償を支払う覚悟は。

「……マグダレナへの支援要請は、2回まで許可されてる。山の麓で打ち上げれば、間違いなく山岳陣地を潰してくれるはず。必ず無事に突破するわよ、皆で」

 リタはガリガリと赤毛を搔きむしりながら言った。

 アメリアはこの先輩魔女が、いつも性分に反して難題に向き合っていることを知っている。帰ったらぎゅっと頭を抱きしめて、髪を梳かしてあげようと思った。戦争の中でも、可能な限り女の子の髪は美しく整えられているべきだ。


 もぬけの殻となった城下街の病院で、手短に補給を済ませた。山岳陣地の突破に失敗した際の長期戦はもはや不可能なので考えるだけ無駄だ。水や食糧は最低限にして、医薬品を優先的に見繕った。シャーロットを運ぶための担架も必要だったが、生憎すべて持ち出されていたため残っていたシーツと物干し竿で代用した。

 先任軍曹と誰か兵士をひとり担架係に選ぼうとリタが呼んだところ、アイラ王女が挙手した。

「それくらいなら私にも手伝えます」

 確かに、非力なアイラでも担架の片側くらいは担えるだろう。シャーロットは小柄なぶん軽い。また、優秀な狙撃手にはひとりでも多くライフルを持たせておきたい。合理的な判断ではある。不本意ながら誰も断る方便を思いつかなかった。代わりに、先任軍曹はアイラに目線を合わせ厳しく言い聞かせた。

「確かに、殿下にもできる仕事でしょう。しかしできることを本当に行うのは難しいのです」

 以前、アメリアにも掛けられた言葉だった。

「敵軍に追われながら、足場の悪い山道を、仲間の命を担いで駆けるのです。殿下は本当に、手を離さずにいられますか?」

 それくらいの一言で済む仕事なんてここにはない。手伝う、なんて他人事ではダメだ。おのずと出かけたアイラの臆病な側面を、彼は問いただしていた。

「戦場で負傷者を助けるのは、誰よりも勇敢な者です。覚悟はよろしいですかな」

 アイラは下手な言葉選びを自省し、深々と頷いてから担架を握った。

「……王は万民の騎士と教わりました。魔法なんかよりずっとおとぎ話に近い奇麗事ですが。私は今、切にそうありたいと思います」

 アイラはいずれ女王になる。大きく俯瞰すれば、それは無数の臣民を盾に遠い玉座を守る者だ。理想を求めれば求めるほど、今この地で血を流す当事者たちから遠ざかってしまう。今の戦時体制からも明らかなように、安寧に縋る本島と真実の戦場を仕切る壁はあまりに高い。壁の向こうに帰れば、王女は左団扇ひだりうちわでラジオニュースに一喜一憂する生活に戻るだろう。他の王侯貴族と同じように。そうした隔絶の成れの果てが、今回の無謀な作戦だった。だから最初、誰もアイラ自身の力に期待などしていなかったのだ。

 だが今は違う。ひとりだけ、アイラを信じる者がいる。

「シャルちゃんをお願いしますね」

 アメリアはまるで同僚を労うように、気楽にアイラの背を叩いた。アメリアはアイラを当事者の座に引きずり込み、勇気を注ぎ入れ、立ち止まれないようにした。だからもう、彼女には泣こうが叫ぼうが進んでもらう。

「ええ、任せて、アメリア」

 アイラも気の置けない友人に対するように、軽く返事をした。

 忠義と呼ぶには白々しく、友情と呼ぶには悪辣だ。王女様は死んでも手放さない勢いで担架を握り込んでいる。この関係はわりかし不健全だな、とアメリアも内心反省した。お茶会でリタが茶化した通り不敬罪に問われるかもしれないが、その時は平伏して許しを乞おう。


 補給を終えた後、できる限りの速度で街を脱出した。森の方角から絶えず押し寄せる煤混じりの風が、焦燥を煽った。サンダーソンが遠くの稜線に敵増援の車列を発見した時は全員の肝が冷えたが、焼かれた畑の起伏に隠れて何とか逃げおおせた。ほぼ駆け足に近い速度で、一行は山の麓へと辿り着いた。皆の息が上がり、泥だらけだった。

 山道脇の廃棄された農家が、帝国軍から身を隠せる最後の遮蔽物になった。深紫に染まる空に不安を掻き立てられつつも、決行の時が迫る。リタが手短な下調べを経て、的確に射手たちを配置する。信号弾を打ち上げたら確実に追手が寄越される。支援要請が無事に届き、マグダレナが山岳陣地を破壊してくれるまで、ここで迎撃に徹する必要があった。タイムラグがどれだけあるかは分からない。10分か1時間か、それとももっとか。流石に王女の身柄を敵地に置いて長話などしないと信じたい。ジャバルタリクの幕僚たちについてはアメリアもリタも信頼を寄せるところである。特に今回はソロモンス中佐が指揮権限に噛んでいるのだ。あれで彼女は配下の魔女たちを本当の孫のように可愛がってくれている。本当の孫マグダレナの魔女人生と天秤に掛けるようで感情的な面でも気が引けるが。

「大丈夫だよ、リタ」

「誰に言ってんのよ」

「私たちは皆のために、力を尽くして戦ってる。だから__」

 赦してくれる。そう言おうとして、アメリアは口をつぐんだ。赦しを捨てようとした口で悟ったふうに語るのが、急に嫌になった。彼女は農場に捨て置かれた錆びだらけの有刺鉄線を使って、もう一度あの怪物を生成させられるか考えていた。無論、大量に持ち出せば意図を察したリタに止められるので断念した。だがたとえ赦されずとも、あまつさえ咎められても、アメリアは平気な面でもう一度怪物に身を墜とすことができる。

 リタが家の陰で信号銃を握りしめ、トリガーを引く。薄暮の空に、赤い光が煙を引いてゆっくりと落ちる。


 届け。


 1秒。全員が空から前方へと視線を戻す。敵は必ず押し寄せてくる。

 10秒。沈黙。

 30秒。信号弾の発光が終わった。

 45秒。黒々とした山の斜面から曳光弾が飛来する。農場周辺の至るところを火箭が叩く。


 60秒。突如、轟音と共に夜空が引き裂かれた。

「あ……?」

 呆けた声を漏らしたのはアメリアかリタか、たぶん仲良く同時だった。家屋の中で待機していたアイラは、敵の新兵器か何かと勘違いして悲鳴を上げた。農場に展開した兵士たちの反応は聞き取れなかったが、おそらく皆一様に絶句している。

 まさか1分で届くとは思っていなかったのだ。


 山の直上に出現したまばゆい流星は、オレンジ色の軌跡をいて瞬く間に墜ちていった。それは敵陣地の中央を抉り、絶大な衝撃によって発火した灼熱の土石流を巻き上げる。雷光プラズマが通常の物理法則ではありえない低空を駆け巡る。禍々しい地響きに、すべての破壊音が掻き消される。

 圧倒的だった。この魔法に抗う術はない。ごっそり削れた稜線と、壊滅した敵陣地の沈黙がその威力を物語る。ふつふつと木々を燃やす残り火を見て、いち早く驚愕から立ち直ったリタが指令を下す。

「……前進! さっさと山を越えるわよ!」

 熱い砂塵が降り注ぐ中、一斉に勾配を駆け登る。日没に悪路に土煙と、悪条件の重なった道筋をサンダーソン上等兵が巧みに先導する。担架の片側を担いだアイラが最後尾で、何度も躓きそうになりながら、必死に追い縋る。アメリアは彼女が転んでシャーロットを投げ出さないよう、有刺鉄線を伸ばして進路上の死体や石くれを押し退けた。

 山岳陣地の頂上は元の稜線が消し飛ばされ、ほとんど平地のようにならされていた。もともと稜線上には陣地構築物を置かないという原則があり、ここには遮蔽物となる瓦礫が存在しない。必然、一帯を進む間は完全に身を晒してしまう。

「全員、伏せ! ここが一番危険なんだから慎重に進んで!」

 土まみれでリタが怒鳴る。速度を重視していた一行が、地面に倒れ込んで這い始める。その判断は正しい。立って走れば、森林方面の火災でシルエットが照らし出される。

 だが、いくらこちらが正しい選択をしても、それによって相手が間違った方を引かされるとは限らない。追われる側には不可能で、追う側には可能な選択肢があることを、この時全員が見落としていた。

 それは、敵が居そうな地点に向けて闇雲に撃ちまくることだ。

 帳の降りた遠方から砲炎の列が噴き上がって、ようやくその存在に気が付いた。先ほど見た敵増援の車列だった。不吉な風切り音が聞こえた時には、もう遅かった。

 迫撃砲の一斉射が、頭上に降り注いだ。


 弾着による耳鳴りがアメリアを襲う。前方を這っていた兵士が、直撃弾を受けた__ように見えた。いかんせん薄闇では判別が難しい。彼は四肢をバラバラに吹き飛ばされ、そのひとつがアメリアの鼻先に落ちた。手なのか脚なのか、どちらにせよ即死だ。

 自分の五体が無事であることに安堵する間もなく、アメリアは身を起こす。アメリアが軽傷で済んだのは背嚢を背負っていたおかげだ。中に詰めていた有刺鉄線の束が緩衝材になってくれたが、代わりにそれらはズタズタに断ち切られてしまっていた。大部分が道中の農場で補給した粗悪品なので耐久性はたかが知れている。唯一の武器を失ってしまったとはいえ、そんなものは後で調達し直せばいい。今やるべきことはいくらでもある。

「リタ!」

 まずはリタだ。隊長で、魔女で、最も火力がある。

「アメリア、無事ね!」

 リタも同じ考えで優先順位を付けていたらしく、ふたりは声を頼りに合流できた。ところがリタはすぐに何かに躓いて盛大に転んだ。彼女の足元で野太い嗚咽を漏らしたのは、全身血塗れの射手だった。

「うぁ、ごめん! あんた立てる!?」

 リタが助け起こそうとしたが、手に取った彼の腕はまるで力が入っていない。アメリアが負傷の具合を確かめると、背中に無数の榴弾片を浴びていた。さっきの砲撃は空中信管を仕込んでいたらしい。塹壕に籠もった歩兵を殺すための最新兵器だ。よりによってこんなところで出くわすとは、本当に運が悪い。

 アメリアは、彼がもうじき息を引き取ることを確信した。リタだけを助け起こし、次の指示を促す。リタは悔やむように低く唸ってから、叫んだ。

「前言撤回よ、全員走って!」

「リタ、私は殿下を見てくる。信号弾を使うなら早い方がいいよ」

「……ダメ。殿下の生存を確かめてから」

 マグダレナはアイラ王女を確実に帰還させるために用立てられた戦力だ。王女の作戦参加が決まるまで、アメリアたちはその存在すら知らされていなかった。つまり魔女3名と精鋭兵士20名を以ってしても釣り合わない価値が、流星の魔女にはあるのだ。もし先ほどの攻撃で王女が死んでいたら、これ以上マグダレナの残弾を消費させてはならない。

「分かった」

 リタは正しい。アメリアは優しい先輩の冷酷な判断に頷いた。

 無事な味方兵士は次々と立ち上がり、山頂から駆け下り始める。火災を背に、稜線から浮かび上がった影を目印に迫撃砲の第2射。更に、機関銃の掃射まで加わる。これで敵との距離を概算できたが、光源を背負っているぶん夜戦ではこちらが圧倒的に不利をこうむる。サンダーソンたちのライフルでは迫撃砲を破壊できないし、リタの魔法も射程外だ。

 アメリアは砲撃から逃げ惑う味方の流れに逆らって後方へ急ぐ。

「殿下! 殿下! 返事してください! アイラ殿下!」

 こんなつまらないところで死なれては困る。アメリアは喉に砂が絡むのも構わず、絶叫する。

「返事を!」

「アメリア」

 か細い声。

 アイラはシャーロットに覆いかぶさるようにうずくまっていた。

「御怪我は!? あ、シャルちゃんは__」

「私も、シャーロットさんも無事です。でも軍曹さんが、私たちをかばって……」

 アイラの傍に、赤黒い影があった。アイラの半身は、彼女のものではない血でべっとりと濡れていた。


 彼ほどタフな軍人をアメリアは知らない。魔女たちにとって、軍曹と言えば彼だ。名前よりも階級で呼ばれた方が喜ぶし、若い兵士に鬼と恐れられてもご満悦だし、大半が十代の少女である魔女戦隊の面々に戦場のいろはを躊躇なく叩き込んでくれた男である。

 彼にも情に厚いところがあると、アメリアは知っている。女子供が戦場に立つことを、実は普通に嫌悪している。彼が魔女を魔女としか呼ばないのは、無理やり割り切ろうとしているからだ。王女のお守りだって不本意に決まっている。それでも戦争だから、仕事だから、この地で「できることを本当に行う」者に、ただ敬意を払う。彼はそういう男だった。

「あの、あの、ごめんなさい、私の足が遅いせいで」

 軍曹の後頭部がひしゃげているのが、薄闇の下でも分かった。

 アイラが涙声でアメリアに縋り付く。アメリアは彼女の肩を突き放した。

「軍曹は務めを果たしました。私たちでシャルちゃんを運びましょう」

 近くで砲弾が炸裂したのに、アイラのすすり泣きの方が耳に突き刺さる。アメリアはアイラの頬を引っ叩いた。

「これでいいんですよ! あなたはできることを精一杯やってるんだから! 立って! 担架を持って、走って!」

 生まれて初めて、他人に怒鳴った。戦争を除けば、何も悪くない人に暴力を振るったのも初めてだった。

 アメリアが担架の前側を掴むと、すぐにアイラも反対の持ち手を担ぎ上げた。まだ、アイラは泣いていた。アメリアだって同じ気持ちだ。泣きたいし今すぐ方々の体で逃げ出したいけど、可愛い後輩魔女の命が掛かっている。シャーロットの傷に負荷を掛けないよう、歩幅を合わせて慎重に、走る。

「リタ、殿下は無事だよ! 打ち上げて!」

 届かない。叫んだ直後、背後にまた砲弾が落ちた。弾幕が頭上を掠める。どう避けても当たる時は当たる。それでもアメリアはまっすぐに走る。敵砲兵は射角を調整している暇などないから、山全体を手当たり次第に撃ちまくっているだけだ。機関銃もこちらの豆粒みたいな人影を正確に狙うには限度がある。

 分かっていても怖いが、怖くても歩みを止めることは赦されない。進まなければ積み重ねた犠牲が無駄になる。戦争の中で消え去った彼らの結論が無意味であってはならない。自分は彼らに報いるために戦い、生き残り、勝利する義務がある。

 滲んだ涙が爆風で乾く。

 大好きな祖母の顔が、無数の死体の虚ろな顔に塗り潰されていく。せいぜい200メートルの平地が、どんなに強固な敵陣よりも遠く感じた。莫大な暴力で耕された道を、アメリアは踏み越える。

 山頂の端で待っていた人影に向けて、もういちど叫ぶ。

「無事だよ!」

「アメリア! おチビも生きてるわね!?」

「うん!」

 土煙の向こう側でリタが信号銃を掲げる。

 再び信号弾が空に輝いた。オレンジ色に照らされた周囲を見渡すと、ひとまず生き残った兵士たちは、反対斜面の陣地跡やくぼみに身を寄せていた。正面遠方にはカニンガム中佐の戦車隊が登った禿山も見える。あとはマグダレナの流星が敵増援を吹き飛ばしてくれれば前線部隊に合流できる。もうすぐだ。


 ふいに、こちらを振り返ったリタが血相を変えて踵を返した。なぜか仕事道具のカンテラに青い火を灯して、魔法を行使しようとしている。あと数歩で下り坂なのに何をやってるの、アメリアは息切れを押して声を振り絞ろうとした。


 ふたつ目の流星が空を彩ったのと同時。

 小銃のマズルフラッシュが、アメリアの視界の端でやたらと鮮明にまたたいた。

 流星着弾の轟音に、銃声が重なる。

 青い火は炎の波濤をかたち作る前に消え去った。カンテラが落ち、リタの身体が、倒れる。横合いに吹き付ける暴風に、彼女の豊かな赤毛と鮮血が絡まりながら流される。

 

 後方__アメリアたちが逃げて来た方角からの狙撃。山岳陣地の生き残りか、エスターライヒの駐留兵か、敵の増援から分遣されたのか、その素性は不明だ。だが相手は砲兵隊に向けてもう一度流星が落ちることを予期し、初めから彼らを囮に使っていたかのような立ち回りをしてのけた。そうでなければ、たった1分足らずで背後に射線を通せるわけがない。背筋が凍るほどの狡猾さだった。ちょうど担架を持つアイラを狙ったその射撃を遮るため、リタは咄嗟に身を投げ出したのだ。

 アメリアは急停止した。生き延びるための思考も、止まった。前につんのめったアイラが遅れて状況を察し、悲鳴を上げる。構わない。沸騰するような怒りと共に、衝動が脳を駆け巡る。


 リタが撃たれた。

 血が。

 許さない。

 殺してやる。

 いや、違う。

 助けないと!


 両手が塞がった状態でどうやって助けるのか全く考えずに、アメリアは引き返そうとした。担架が傾いて、アイラが慌ててバランスを取る。

「来るな馬鹿ッ!」

 リタの語調はかつてない剣幕を帯びていた。


 良かった、怒鳴れるくらいなら臓器系は無事なんだ。きっと助かる。半歩、踏み出す。

「聞こえなかったの!? 来るなってば!」

 だがリタは頑なに、アメリアを遠ざけようとする。取り落としたカンテラに這い寄りながら。

 再び銃声。カンテラへ伸ばしたリタの前腕が穿たれ、手のひらの重さで銃創からべしゃりと曲がった。折れた骨が露出して、そこからまた血の花が咲く。それでもリタは、苦悶の声を抑えて「来るな」と繰り返す。

 銃声の余韻は、誘いだった。

 射撃の精度を見るに、見えない狙撃手はリタを殺そうと思えば殺せたはず。アメリアの心臓があと幾度か脈打つ間に敵はリロードを終え、再び誰かを撃つだろう。アメリアが担架を放り捨てて救出を試みればアメリアを撃つし、アイラが向かえばアイラを撃つ。負傷者を救出しようとする者を狙うのは、優秀な狙撃手の常套手段だ。

 ただ単純な話、今すぐアメリアとアイラが躊躇せず反対斜面に進めば射界から逃れられる。そうなれば狙撃手は、確実に仕留められるリタへと照準を定める。


 リタを助ける手段はない。歯を噛み砕きそうなくらい悔しいが、有刺鉄線を失った鉄条網の魔女は、ただの非力な少女だ。さっき砲撃に巻き込まれた兵士を見限ったように、彼女を死んだものとして捨て去ればいい。

 皆のために、今できる最良の選択はそれだった。

 けれど、皆って誰だろう。リタは、アメリアのことが一番好きだと言ってくれた。消去法でも、嬉しかった。自分自身より自分を大事に想ってくれるひとを見捨ててまで、何のために戦い続ければいいのだろう。

 リタを、これから背負い続ける無数の「犠牲」に加え入れる。意外と表情豊かな彼女の顔は記憶の中で虚ろになって、ずっとずっと生き続ける限りアメリアを苛む苦役の枷になる。それでいいのだろうか。

 心臓の鼓動が、焦燥を煽る。瞬息しゅんそくの間に燃え滾る感情が脳内をぐちゃぐちゃに掻き回す。


 消え入りそうな、リタの言葉。

「もう何も背負わないでよ、アメリア」

 跳ねるように、アメリアは斜面を駆け下りた。シャーロットが転げ落ちなかったのはアイラが上手く担架のバランスを保ってくれたからだが、それを気にしていられる心境ではなかった。


 後ろで、銃声が響いた。


 涙で現実を覆い隠すには、目が乾きすぎていた。耳を塞ぎたかったのに、両手は担架で塞がっていた。

 全員ができることを本当にやった。軍曹の言っていた通りに。これでいい。はずなのに、アメリアの喉から飛び出たのは今まで発したこともない罵倒だった。

「ダブスタ馬鹿女は、リタの方でしょ!?」

 無事に帰れたら髪を撫でてあげようかと思っていたけれど、今はあの不良ぶったダウナーな面構えだけどよく見たらどこか陰を隠したような跡を残した放っとけない大好きな先輩の顔を力いっぱい引っ叩きたい。もうどちらもできないなんて、本当に馬鹿げてる。

「なんで、なんで! どうしてリタはそんなヤツなの!?」

 絶叫と共に、転げ落ちそうな勢いで、荒れた土を蹴り続ける。馬鹿は自分だ。そんなの最初から知ってる。それでも喉から噴きこぼれる後悔の言葉を止められない。

「アメリア! ちょっと、落ち着いて! 転んでしまうわ!」

「殿下には分かんないです! リタがどれだけガサツで不器用で身勝手で礼儀知らずで強くて優しくて頼りになってかけがえのないひとだったか、ぜんっぜん分かってない!」

「とっとっとりあえず、少しだけ冷静になりましょう! 今、この部隊の指揮権は、あなたにあります! リタさんは『お務めを果たした』、今はそういうことにして、頭を冷やして!」

「嫌です! リタは一生私の愛しい先輩で親友でいてくれなきゃ嫌です! 大好きだったんですよ! 田舎のばあちゃんと同じくらい大好きだったのに!」

 涙は一向に出ない。煮えたぎる慟哭が溢れて、零れて、止まってくれない。

「うるっさい!」

 アイラが急に担架を引っ張った。アメリアは危うく持ち手がすっぽ抜けそうになり、急停止したせいで尻もちをついた。シャーロットの頭がアイラ側でなければかなり危険な行為だった。

「いった……」

「リタさんの言う通りじゃないですかダブスタ馬鹿女! ついさっき私をぶん殴ったこと忘れてませんよね!?」

 アメリアが睨み上げたアイラの顔は、涙と泥でぐしょぐしょだった。彼女は、泣いてはならないアメリアの代わりに泣いていた。

「私が赦します! あなたは間違ってなかったって、何度でも言います! やるべきことをやったって! だから今だけはその駄々っ子みたいな態度を止めなさい!」

「でも、」

「でも、じゃありません! 未来の女王があなたを赦すと言っているのです!」

 坂の上下という位置関係のせいだが、その時のアイラはずいぶんと大きく映った。おどおどと縮こまってばかりの背筋はまっすぐに伸び、乱れた白金色の髪は火災に照らされ荘厳に艶めいていた。それは限界まで追い詰められてようやくあらわれた、連合王国の次期指導者のかおだった。全身泥まみれで担架を担いだ格好なんてどう考えてもお姫様らしくないのに、アメリアはこの一瞬で彼女に目を奪われた。

「あなたは残酷無比な鉄条網の魔女でしょう。どうかそのようにふるまって……いいえ、そうふるまいなさい」

 女王を母に持っただけの臆病な子供が、たった今その身分に不相応な幼さを殺し切った。魔女なら同じことができるはずだと、アイラは暗にそう言っていた。戦争のために怪物の衣を纏うことができるなら。心だって怪物になりきれるはずだ。


 アイラは正しい。


 アメリアはそう判断した。正しいのなら、どれだけ残酷でも選択する価値がある。今までアメリアはそうやってたくさんの人々に肯定されてきた。祖母以外のありとあらゆる人々が、アメリアが残酷な選択をするたびに讃え、庇い、認めてくれた。アメリアは彼らを裏切れない。だから、できることは必ずやる。鉄条網の魔女は、自分にだってその魔法を掛けられる。

 心臓の奥底で脈打つ、砕けそうな魂に、鉄条網を巻き付ける。崩れ落ちないように執拗に、棘で縫い留め締め上げる。刺し込む痛みが悲しみを麻痺させ、怪物の体躯にふさわしい怪物の心を手に入れる。

「そっか……」

 これまでの自分はなんて愚かだったのだろう。怪物は罪なんか背負わないし罰なんか求めないのだ。リタの伝えたかったものがこれなのかどうか自信がなかったけれど、そう決めつけた方が楽だ。苦しい方が、楽だった。

 今いちどアイラの瞳を見返すと、虚ろな表情の自分が映っていた。脳裏に刻まれたあの死体たちと同じ。

「……ごめんなさい、馬鹿みたいなこと言って」

 自分がまだ生きていることを確かめるため、アメリアは薄く唇の端を吊り上げてみた。よかった。まだ、大丈夫だ。

 アメリアは腰を上げ、担架を持ち直した。今度は一歩一歩、踏みしめる。転げ落ちるような足取りではなく、自ら深い奈落へと進んで墜ちていくように。

「ほんと、笑っちゃいますよね」

 強く目を閉じる。きつく絞られてようやく流れた水滴のひとしずくは、アメリアの人生最後の涙になった。まぶたを開けば、いつでも変わらない現実がそこにある。炎、鉄、血。それらは戦争の発端すら忘れた兵士たちが訳も分からず傷つけ合った証だ。

 山を越えた先、連合王国と帝国の最前線では未だ砲火が交わされていることだろう。どうせ戦争はまだまだ続く。ここを切り抜けようと、生きてジャバルタリク要塞に帰ろうと、いくら犠牲を払おうと、最後に勝利するまでは。

 笑ってしまうくらい、馬鹿げてる。一番好きなひとを見捨てたで泣いてたら、この地獄は終わってくれないのだ。そんなことは2年前、故郷を飛び出した時に気付いておくべきだったのに。

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