第3話:竜の魔女

 竜の魔女、ケイリー・カーライル。180センチに迫る長身、たなびくシルバーブロンド、怜悧な美貌が目を引く。しかし、陸戦に適した鉄条網の魔女や炎の魔女と違い、塹壕の兵士たちが彼女と接する機会はそう多くない。男共の「どの魔女が最強か」議論にもあまり名が挙がることはない。淡々とひとり戦果を挙げ、黙々と戦場と司令部を往復する、ジャバルタリク戦線の謎めいたエース。様々な噂はあれど、彼女を取り巻く風聞はそんなものだった。


 ケイリーの戦場は空にある。

 彼女の扱う魔法は形態変化。故郷の伝承で語られる竜に似た翼を背から生やし、最高時速150キロで空を舞う。魔女戦隊の中でも数少ない飛行能力を有する魔女として、敵飛行船を探査・撃墜する任務に日々従事している。現在、連合王国軍による敵飛行船の撃墜数トップは彼女である。特注の対戦車ライフルを担いで同高度まで駆け昇り、対空機関砲の火線を掻い潜って艦橋ゴンドラやエンジン部を撃ち抜く。そうやって、彼女は軍歴2年で16隻撃墜した。


「帝国軍の硬式飛行船ガンシップは、もはや恐るるに足らんと思われていた」

 朝イチの軍議で本日の議題を語ったのは、ジャバルタリク要塞線総司令官、セントジョン将軍だった。

 ジャバルタリクの幕僚たちとの軍議に参加するのは、もう慣れた。生来人との談話を好まないケイリーではあるが、かつて戦隊長のソロモンス中佐は「訊かれない限り黙ってりゃいいのさ」とアドバイスをくれた。実際、彼女の領分である飛行船狩りについて訊かれない限りは一言も発さずに済む。将校でない竜の魔女に席は用意されていないので、今日もケイリーはソロモンス中佐の近くに突っ立っていた。

「連中が精密爆撃を主眼に、うすらデカい図体で真ッ昼間に低空を飛んでおったからだ」

 セントジョン将軍は会議室の前方に据えられた黒板を顎で示した。連合王国軍がジャバルタリクに撤退した初年度の戦略マップである。対空戦の記録に焦点を絞り、飛行船を撃墜した地点に赤いバツ印が付けられている。

「地上1000メートル。鉄条網の魔女でも引きずり墜とせる程度の高さだった。舐められていたのだろうな」

 当時、22隻の大編隊が攻めてきた。うち4隻を高射砲が、2隻を鉄条網の魔女が、7隻をケイリーが墜とした。残りは尻尾を巻いて逃げてくれた。まだまだ爆撃のノウハウが未発達だった当初、帝国軍はこちら側の施設を精密に狙うために高度を落とし過ぎるという愚を犯した。第一塹壕線を越えられた敵船は一隻もいなかった。以来、ジャバルタリク主要部への攻撃に飛行船は用いられていない。

「だが、帝国軍が貴重な航空戦力をこのまま遊ばせておく理由もない。航続距離は推定1万キロを越え、最高高度は3000メートルに及び、40トンの爆弾を積載できる。あのクジラ共が守りの手薄な本島への爆撃を企てているのは間違いない」

 将軍は疲れたように天井を見上げた。それを合図に副官が黒板が裏返す。同じマップに、今度は初年度以降の対空戦の記録が記されている。ジャバルタリク半島を南北に迂回するかたちで飛行船が侵攻を計っているのが読み取れる。バツ印は洋上に分散するようになった。その撃墜記録のうち半数は、ケイリーによるものだ。雲上を往く敵飛行船を先んじて発見するのは難しい。反転攻勢に回すべきこちらの航空戦力や巡洋艦の大半を割いて索敵し、彼らが撃ち漏らしたぶんはケイリーが狩っている。

 セントジョン将軍が歴戦の名将であると、ここにいる誰もが知っている。本島への戦略爆撃という帝国軍の目論みを誰よりも早く読み取ったのは彼だ。撃墜した飛行船の爆装量から逆算して、首都への高高度無差別爆撃を計画していることを見抜いたのもこの老人だ。ギリギリの水際対策は、今のところ上手くいっている。

 だが、ジャバルタリク駐留軍は上手くやり過ぎた。


「なにが銃後の守りだ、バカ共め!」

 ドン、と将軍は拳をデスクに叩き付けた。

「危機意識が足らん! 本島での防空網の構築は全く進んでいない! 儂は王都から片田舎までくまなく対空砲を配備せよと進言したというのに、今月の配備数たったの30台だと! 結局奴らは前線にすべてを託せば勝てると信じているのだ!」

 幕僚たちが首をすくめた。代わりにソロモンス中佐が無遠慮に口を開く。訊かれずとも、ここで話を進められる度胸を持つのは、この老いた魔女だけだった。

「将軍。私の思うに、そいつは報道管制のせいじゃないのかい。あの従軍記者に好き勝手書かせているのは広報部で、広報部の将校に命令を出せるのはあんただけだろう」

 あの従軍記者、と聞いてケイリーはすぐに思い至った。会ったことがないし彼の記事を読むつもりもないが、アメリアやリタについてめちゃくちゃなプロパガンダ記事を書かれていると噂に聞いた。幕僚たちの間でもどえらく評判が悪いようだが、そいつがジャバルタリク半島から追い出されずにいる理由は将軍が答えてくれた。

「……王族の財団が100%出資する新聞社だぞ。口を出せば、巡り巡って我々に火の粉が降りかかる。最悪、指揮権を本島の貴族将校なんぞに奪われかねん。奴はどうにもならん」

 民草に余計な不安を抱かせない。それは為政者にとっては正しい姿勢だが、軍人にとってそうであるとは限らない。本土で行われている民間防衛ホームガードの備えは、はっきり言っておままごとだ。まさか猟銃を持った主婦たちで飛行船を撃ち落とせるわけもない。

「どう誤魔化そうが、前線は火の車だよ。うちの大事な竜の魔女は、今月だけで20回も邀撃スクランブルに出てる。地上戦でも、帝国軍はそれぞれの魔女たちへの対策を試し始めている。間抜けな王族方に他人事を決め込まれて黙ってるわけかい、セントジョン将軍閣下?」

 老魔女の危うい皮肉に対し、ジャバルタリクの最高指揮官は歯切れが悪そうに低く唸った。

「……我々は、連合王国軍人としての職務を全うするまでだ」

「女王陛下が民草の安寧をお望みならば、私らは仰せのままに働くだけさね。将軍は良ぉくやっているじゃあないかい」

 横道にそれた話を戻すべく、ソロモンス中佐は手を叩いた。


「問題はこの状況下で、アイラ殿下が慰問にお越しになるってことだろう?」


 今度は他の幕僚たちもうんざりだとばかりに唸り声を上げた。ケイリーは「殿下」と聞いて「あぁ、連合王国の第1王女様だったな」と他人事のように思い出した。

 幕僚たちの悩みの種は、ジャバルタリク戦線と本島との間に危機感の相違があることだ。セントジョン将軍が、彼らの思いを重々しく代弁する。

「現状、帝国軍が本島爆撃を狙って海峡への侵攻ルートを探しているのは明らかだ。我々は制空権を確保できていない。そのような状況下で、王族が前線を訪問するなど……信じがたい愚行だ。偶発的とはいえ、遭遇した輸送艦が空爆を受けた例もあるのだ」

 銃後に弾は飛んでこない。王国本島を席巻する銃後の守りの風潮は、他人事だからこそ成立する。なるほど、ケイリーは納得した。


 アイラ王女は勇敢だ。安全な本島を旅立ち、へと慰問に来て下さるのだから。


 そこに王女殿下の意思がどれだけ介在しているのか、ケイリーは興味がない。嫌々ながらであろうと、王族の義務を背負って誇り高く臨んでいても、彼女にとってはどうでもいい。王女は前線にとって真に必要な物資・人員・戦略を提供してくれるわけではない。ただ、王女の後ろがでないことを、本島が相対的に安全であることをアピールしに行くだけだ。流行りの愛国精神を語りながら連合王国旗ユニオンクロスを振りかざす民衆の代わりに、彼女は戦争の当事者になりに行くのだ。


 今回の軍議でケイリーに与えられた任務は、王女の乗る輸送艦の護衛だった。海峡へと侵入する敵飛行船にとって輸送艦は本来のターゲットではないが、今回は話が別だ。アイラ王女のジャバルタリク慰問は、士気高揚のため大々的に報じられている。航空機による対艦爆撃は未だノウハウが不足しているとはいえ、優れた科学技術を誇る帝国軍がどのようなアプローチを仕掛けてくるかは未知数だ。空から王女の身柄を狙ってくる可能性も充分にある。

 そこでジャバルタリクの飛行場からケイリーを乗せた輸送機を飛ばし、先んじて敵飛行船に攻撃できるよう哨戒に当たる。こちら側の保有する偵察航空機も全面的に展開して索敵を支援する。ケイリーをなるべく長く海峡に留まらせるため、輸送機の燃料が尽きたら別の輸送機を飛ばして彼女だけが乗り移り、哨戒を続ける。竜の魔女の空戦能力に頼り切った力任せの作戦だが、これが概要である。

 ソロモンス中佐が、情報部から貰ったという資料を寄越した。精度の低い偵察写真と、書き写しの設計図、憶測の多い性能諸元などが記されている。特徴としては、自衛用の対空機銃の数がやたらと多いこと、それと爆弾槽の代わりに対艦戦を意識したワイヤー式誘導魚雷を積んでいる。そして最も気がかりなのが、謎の懸架装置と空白のスペースがあること。

「帝国軍が新型の飛行船を開発してるって話もある。名はLL級『ヒンデンブルク』、『グナイゼナウ』、『クラウゼヴィッツ』。3隻同時に就航するらしい」

「LL……片方は飛行船Luftschiffとして、もう片方は?」

 ソロモンス中佐はかぶりを振った。

「通常は製造する飛行船メーカーの頭文字だが、Lから始まる有力なメーカーは無い。そんなら役割で決めてるかもしれんね。L……空戦Luftschlachtとかね」

「対空戦闘を主眼に置いた飛行船、ですか?」

 ケイリーが敵に関心を示すのは珍しいことだ。小首をかしげる長身の魔女を、老魔女は胡散臭い笑みで見上げた。

「ババアの推理に期待すんじゃないよ。だが気を付けな、ケイリー。最近の敵さんは、腹に何抱えてるか分かったもんじゃないからねぇ」

 ケイリーはこくりと頷いた。戦争に慣れた老人の忠告は傾聴に値する。魔女戦隊はたった2年前に編成されたばかりなのに、ソロモンス中佐の戦略眼は歴戦を潜り抜けてきたセントジョン将軍に比肩する。先ほどの会話からして、肝の座りようは彼に勝るようにも映る。その不自然さを、ケイリーは自然に受け流した。

 やって当然の仕事ができるのなら、彼女はそれでよかった。空を飛んで敵を墜とす。シンプルだ。

 軍議から1週間後、作戦が開始された。


 ケイリーは飛行機が苦手だ。この不安定で脆い鉄塊がどうして飛べるのか、いつも不思議に思う。離陸に際し、竜の魔女の異名を冠する女はぎゅっと目をつぶった。

「俺たちからしたら、あなたが飛べる方が不思議なんですけどね」

 朝焼けに煌めく海峡へと近づく最中、偵察を担う機銃手が暇つぶしに話してくれた。人間の背中にどんな羽根を生やしても絶対に自力では飛べないらしい。空力特性だか適性だかなんだか。戦前、田舎で猟師をしていたケイリーにはまるで理解できなかった。

「私は魔女だ。魔法で飛んでいる」

「じゃあ翼を生やさなくても飛べるんじゃないですか?」

「空を飛べる姿になる魔法だ」

 ケイリーは適当に答え、持ち込んだ対戦車ライフルの点検を始めた。機銃手は釈然としない顔で銃座に戻った。

 魔法について問われると面倒だから、適当に切り上げただけだ。彼女自身、その本質を理解しているかどうか怪しいものがある。ただひとつ確かな事実として、ケイリーは空を飛べるだけで「竜」の魔女と呼ばれているのではなかった。


 天気は快晴、だが暗雲の予兆は確実に海峡へと流れ込みつつあった。同時刻にジャバルタリクから発進した偵察機のいくつかと連絡が取れなくなったと、無線手が不安げに操縦士と相談していた。無線の信頼性は低く、問題が付き物だ。しかし音信不通になった偵察機が飛んでいたのは、いつも帝国飛行船が半島を迂回するために通るルートだった。

 ケイリーには、ふっと一瞬だけ機内が暗くなったように見えた。何か大きな影が太陽を横切った。鳥よりも大きく、雲よりも速い影だ。

「今の、見えたか?」

 機銃手が慌てて高空を見渡す。

「……いえ」

「探せ。飛行船かもしれない」

「しかし、快晴で隠れる雲なんてありません。それにまだジャバルタリクを出発して30分です。要塞から出した戦闘機がほぼ燃料満タンで戦える距離ですよ? 敵飛行船に出くわすとは考えにくい」

「隠れる場所はある。太陽の中を探せ」

 ケイリーは自身のライフルに弾倉を叩き込み、長大な銃身を担いで勢いよく立ち上がった。嫌な予感がした。こちらは守る側だと思い込んでいた。本島爆撃、対艦爆撃、どちらも帝国飛行船隊が本気で狙っている戦法だろう。敵船が王女の乗る輸送艦を目当てに遊弋していると見越し、こちらも王女が襲われた際の邀撃を主眼に置いて哨戒に当たるつもりだった。だが、今回に限ってブラフを掴まされた気がする。

 本命は、こちらだ。

「居ました、戦闘機だ!」

 太陽を背にした急降下攻撃だ。機銃手が叫んだ直後、輸送機の右主翼が機関砲に穿たれた。遅れて輸送機が回避運動に転じる。すれ違いざま、帝国軍の戦闘機が翼を翻した。悠々とこちらの機体の背後に付くべく、位置エネルギーを流すように大きく旋回している。操縦手が悲鳴のような反論を叫ぶ。

「こんなところに敵戦闘機が居るか! 新型か何かか!?」

「いや、敵主力機、アイゼンフォーゲルだ」

 まともに見えたのはケイリーだけだった。

「アイゼンフォーゲルの航続距離は220キロだぞ! うちの要塞線を迂回したとしても、海峡まで届くはずがない!」

「だが現にここにいる。機長、哨戒任務の中断を要請する。ジャバルタリクに引き返せ」

 機銃手が仕事を始めた。自衛用の後部機銃が吠え始めたが、成果は芳しくない。銃声に負けないよう、操縦士が罵声を飛ばす。

「こちらの機体では振り切れないぞ! 竜の魔女だけなら逃げられるか!?」

 ケイリーが答えようとした寸前、再び敵の機関砲が輸送機を捉えた。金属板の破砕音に混じってなにか水っぽい飛沫が聞こえた。尾翼は無事だが、振り返って確認すると銃座に被弾していた。頭を吹き飛ばされた機銃手が、肩口から真っ赤な肉片をこぼしながら倒れ込んだ。無線手が悲鳴を上げながらも敵機急襲の報を打電し始める。

 ケイリーはさっきまで無駄口を叩いていた仲間の死体を引きずり降ろし、代わりに銃座に着いた。牽制射撃を続けようとして即中断。相当運が悪かったのか、給弾ベルトが被弾によって断ち切られていた。

 アイゼンフォーゲル、帝国の黒い単葉機が旋回を終えて再加速に転じた。最高時速200キロを誇る帝国科学の結晶だ。鈍重な輸送機はもちろん、竜の魔女でも届かない速度である。だが、逃げに徹すればケイリーだけはジャバルタリクに引き返せる。

「私がヤツを墜とすから、貴機だけで引き返せ」

 それでもケイリーには確信があった。

「ヤツの狙いは私だろう」

 操縦士が何か反論したげに振り返る。魔女は振り返らない。

 愛銃の対戦車ライフルを掴み直す。長くて邪魔な銃身を差し出すように、銃座から外へ出る。冷風に銀の髪が巻き上がった。


 ケイリーは魔法の呪文を唱えない。彼女にとって在るべきものは、すでにこの身に宿っている。

 一歩、虚空に身を投じる。瞬間、背に竜のそれとしか形容しようのない翼が顕現する。力強く風を裂き、蒼穹に魔女が舞う。

「来い」

 呟きが風に掻き消される。だが、挑戦をしかと受け取った帝国の単葉機は、機首をずらしてケイリーに狙いを定めた。お互いの殺意が不可視の糸で結ばれたのを感じる。魔女は、「いい仕事ぶりだ」と感じた。

 刹那、竜の魔女は翼を翻し、慣性飛行から横方向へ爆発的に加速する。最高速度までおよそ2秒。速力で届かなければ機動力の差で勝てばいい。航空力学の一切を無視した無法な空戦機動マニューバ、これぞ魔法だ。

 機関砲がケイリーのいた空間を飛び去る。異常な回避に度肝を抜かされた敵戦闘機は逡巡し、ケイリーへの追従を試みた。しかしケイリーは回避運動からそのまま極小の旋回半径で敵機へと向き直る。翼をいちどだけ羽ばたかせ、速度を殺し切って背面から自由落下。魔女は風に抱かれながら、対戦車ライフルを構える。急激に射線を外された敵機の照準は完全に逸れ、咄嗟に放たれた機関砲弾はまたも虚しく空を切った。

 追従を透かされ、上空を通り過ぎる敵機の腹。ケイリーの対戦車ライフルは敵機の投影面積が最大になる瞬間を捉えている。照準器は無意味なので使わない。まさかこの長銃の設計者も戦闘機を撃ち落とすために使われるとは夢にも思うまい。

 頼るは技量、縋るは勘。狙うは一撃必殺。腰だめに、ほとんど明後日の方向へと偏差射撃。トリガーを絞る。


 普通に撃てば銃身が腕からすっぽ抜けるほどの反動も、竜の魔女は宙で巧みに受け流す。対戦車ライフルの上げた轟音に反して、着弾の衝撃はケイリーの耳に届くことなく、静かに敵機のエンジン部を撃ち抜いた。小さく咲いた火花と遅れて噴き出す黒煙、機軸を傾けて緩やかに高度を下げてゆく黒い影が撃墜の証になる。パイロットはまず死ぬだろうが、運が良ければ着水に成功し、そこからさらに奇跡でも起こればジャバルタリクから発進した邀撃機が見つけてくれるだろう。

 できれば死んでくれたらいい。捕虜になれば戦時国際法に則った対応をせねばならず、最悪生きて帝国軍に返されてしまう。そうなればケイリーの空戦機動に対する研究が進むだろう。

 ソロモンス中佐は、帝国軍が対魔女戦への対策を始めつつあることを危惧していた。それについてはケイリーも同意見だ。彼女はなるべく手の内を見せないように戦っている。先ほどの戦闘も、最低限の回避だけでやり過ごした。戦闘機に対する狙撃など、そう何度も通用する手ではない。魔女は戦場の女神などではないと、ジャバルタリク駐留軍は重々承知している。


 とはいえ、なりふり構っていられない状況がこの戦争の常である。輸送機を2機使った哨戒作戦が御破算になった以上、ここからは自らの翼ですべての危機に対応する必要に迫られる。ケイリーは獲物の最期を一瞥もせず、本島方面へと全速力で飛ぶ。敵戦闘機がケイリーを狙って海峡に現れたのなら、王女の輸送ルートにも襲撃を掛けてくる可能性がある。敵部隊の目的はケイリーを王女の護衛に行かせないことだとみた。竜の魔女がいなければ、空の敵がやりたい放題できるタイムリミットは格段に伸びる。

 そして、本来なら足が届かないはずの敵戦闘機が海峡に現れた要因にもケイリーは思い至った。軍議で渡された新型飛行船、LL級の存在がケイリーの脳内に浮かぶ。あれには謎の懸架装置があった。


 あの新型飛行船は、戦闘機を搭載できるのではないか。さきほどのアイゼンフォーゲルは、LL級から発進してこちらを急襲したのではないか。


 飛行船が飛行機の空中母艦プラットフォームになる。そんな空想科学じみた妄想が、現実味を帯びてケイリーの焦燥を煽る。王国海軍は、水上機用の航空母艦でさえ運用試験を始めたばかりだというのに。帝国軍には先日襲撃してきたナハツェーラー部隊のような改造人間までいるのだ。連中の科学技術はおそらくこちらの遥か先を行っている。空戦の常識を塗り替える軍事技術が発明されていても驚かない。

 それでも、ケイリーはやるべき仕事をやるだけだ。


 *


 アイラは連合王国の王女なんかより、魔女に生まれたかった。


 私に力があれば、愛する祖国を、臣民を、守れるのに。


 幼い頃から、そう語っては家臣団を困らせていた。魔女と連合王国を結ぶものが何であったのかを知らずに。

 甘い、夢だった。

 潮と鉄の匂いがする。艦橋の硬い床は伏せた頬に冷たくて、割れた窓から吹き込んでくる爆風は反対側の頬を熱くなぶる。

「殿下、アイラ殿下!」

 血まみれになった輸送艦の艦長が、おのれの傷を顧みずアイラを助け起こした。されるがままに肩を担がれ、下層に通じる階段をほとんど踏み外しながら降りていく。艦長いわくアイラを脱出艇に乗せるらしい。

 脱出? 逃げる? 逃げるって、どこに?

 視界の片側をオレンジ色の爆発が染める。護衛として本島の海軍基地から付いてきた駆逐艦に、魚雷が命中したらしい。2発目だった。あれはもうダメなんだな、と素人目にも分かった。たくさんの水兵が傾いた甲板から投げ出される。1発目の命中ですでに重油が流れ出て、艦周辺は炎の海だ。

 アイラは耳を塞ぎたかった。断末魔が鳴り止んでくれない。まだ、前線にさえ辿り着いていないのに。ジャバルタリクの同胞たちを勇気づけるために覚悟を決めて旅立ったのに。現実はこれだ。足が挫けて、艦長に引きずられるままに甲板をのろのろと進んでいる。

 ひときわ大きな絶叫がアイラの耳朶じだを貫く。船体を横から真っ二つにされ、駆逐艦が轟沈する。火の海が輸送艦の間近まで広がって、灼熱の中で燃え尽きた水兵たちの死体が流されてくる。

「アイラ殿下、走って! 逃げるのですよ!」

「逃げるって、どこに?」

 艦長は答えなかった。


 帝国軍は空からジャバルタリク半島を迂回して海峡へ来た。本島とジャバルタリクの、丁度中間地点だった。連合王国軍の本営が予想できたのはそこまでだった。

 随伴していた偵察機が発見したのは飛行船の3隻編隊。すぐさま本島から6機もの邀撃機が発進した。硬式飛行船を撃墜するためにロケット砲を搭載した、主力複葉攻撃機ジャベリン。本営はこれが対帝国飛行船の切り札になると考えている。敵船襲来の報に青ざめたアイラをなだめるべく、輸送艦の艦長はそう説明した。

 だが、アイラが期待したように連合王国のエースパイロットたちが帝国の巨鯨を墜としてくれる光景には至らなかった。

 敵飛行船の弾幕密度が異常だと、水兵たちはざわついていた。生まれてこのかた空戦など見たことがないアイラにはピンとこない感覚ではあったが、実際、彼女の目には海峡上空に瞬く火箭かせんが全天をきらめかせているように映った。

 3隻の飛行船は莫大な対空掃射を以て相互に死角を補い、ジャベリン攻撃機を寄せ付けなかった。ロケット砲で撃墜しようにも、3隻は編隊飛行じみた巧みな空戦機動で射線を躱し、こちら側の攻撃の機会をことごとく潰してしまう。アイラの乗る輸送艦へと迫りくる巨鯨に対し、果敢に追いすがる王国軍機はまるで羽虫のようだ。

 空の要塞を攻めあぐねたジャベリン攻撃機たちは一度距離を置き、自由攻撃から編隊へと再集結しようとした。だがその機を狙っていたかのように、太陽を背に高空から襲い掛かる黒い影がふたつ。双眼鏡を手にした艦長が「アイゼンフォーゲルだと!?」と叫んだと同時、曳光弾が小さく閃く。味方のうち2機が煙を吹いて失速した。ジャベリン編隊と交差し、海面スレスレで体勢を立て直したのは、艦長の見立て通り帝国軍の黒い単葉戦闘機。

 もはやアイラには何が異常なのかすら分からなかったが、いきなり降って湧いた敵戦闘機が味方を殺したことだけは読み取れた。

 そこからの展開は、早かった。もとより対飛行船を主眼に置いた攻撃機であるジャベリンと、帝国軍の主力戦闘機であるアイゼンフォーゲルでは圧倒的な機動力の差がある。飛行船からの猛烈な弾幕と戦闘機の急襲に挟まれた連合王国軍のエースたちは完全に体勢を崩され、1機、また1機と墜ちていった。そうして本島からの邀撃をパーフェクトゲームで討ち返した飛行船編隊は、輸送艦を護衛していた駆逐艦にも狙いを定めた。ワイヤー式の誘導魚雷を投下され、駆逐艦は回避運動もむなしく大破炎上。

 ここに至るまでアイラは、弾が飛んでくるのは最前線だけだと思っていた。弾薬庫へ誘爆した駆逐艦の、燃え盛る破砕片がこちらに飛んでくるまで、どこかで自分が戦争の暴力にさらされるなんてあり得ないと思い込んでしまっていた。

 接敵から半時と待たずして、王女を守るものは何もなくなった。挫けた足を奮い立たせる意思も、床に叩きつけられたときに放り出してしまったようだ。

 アイゼンフォーゲルが、アイラを嘲弄するように上空を旋回している。ごうごうと音を立てて、飛行船編隊が輸送艦を取り囲む。艦長は王女を人質に取られる前に僅かばかりの時間を稼ごうと、脱出艇を降ろし始めた。アイラはそれを脇目に巨大な飛行船の腹を見上げ、甲板にへたり込む。

「あはっ」


 私が魔女に生まれていたら? 冗談じゃない。

 

 夢の甘さが失望の味だと知った時、アイラ王女は自分をただ嘲笑った。


 *


 火の海に沈もうとしている連合王国軍の駆逐艦。周囲には本島から邀撃してきたらしい攻撃機の残骸。

 遅かったと悔やむのは後でいい。今、この危機を最速で切り抜ける。空を疾駆するケイリーが3隻のLL級飛行船と2機のアイゼンフォーゲル戦闘機を目視した時、彼女は自らの「性能」の縛りをひとつ解放する決意を固めた。ソロモンス中佐の危惧する通り、手の内を晒せば今後の戦いはより厳しくなる。それでも連合王国の第1王女を守る。軍人の仕事だ。

 パキパキと、ケイリーの首筋から頬へかけて硬質な鱗が現出する。それは彼女の軍服の下にも生え、関節を除いて全身を覆い尽くす。そのかたちは爬虫類にも似ていたが、色は陽光をまばゆく跳ね返す白銀。実体はこの世のどんな生物とも異なる流麗な竜鱗鎧ドラゴンスケイルだ。決して速度を損なわず、それでいて魔女を機関銃の雨や爆炎から守ってくれる。のみならず、常人を遥かに超えた異形の怪力すら与えてくれる。

 魔法による形態変化を進めると、彼女は幻想上の竜に近づく。存在し得ない生物にどこまで近づけるのか、近づきすぎたらどうなるのかは全くの未知数だ。確かなのは、自己のかたちを変えるほど消耗が激しくなり、元の人間に戻りづらくなること。何かの代償だとは感じているが、ケイリーは自分自身も知り得ないものを腹に抱えている。

 それでも、やるべき仕事を確実にこなすのが彼女の生きがいだった。


 竜の魔女が高空を駆け上がる。陽光の反射が目立つのか、飛行船の機銃が射程圏外から撃ち始めた。動きを見極めようとしているのだ。構わない。飛行船より上に昇り、敵の様子を俯瞰する。気嚢上部にある銃座は通常の帝国飛行船なら1か所で3基。だがこのLL級には3か所で計9基。飛行船全般の弱点が気嚢下部の艦橋ゴンドラや機関部にある以上、これらを狙う必要はない。しかし後方側面から急降下攻撃を仕掛けるにあたって、横っ面を機銃掃射に叩かれると不味い。竜鱗鎧は翼までは守れない。たとえ空力特性上の意味がなくとも、ケイリーにとって魔法の翼は空を飛ぶために必要だ。過度に傷つけば墜落する。

 飛行船隊が眼下の無防備な輸送船を包囲するような陣形を取っている。拿捕するつもりだろうか。逡巡する暇すら惜しかった。

 ケイリーは編隊の一角、最も高度の高い『グナイゼナウ』と刻まれた船に狙いを定めた。腰ベルトから特注の大型銃剣を引き抜いて対戦車ライフルに装着。長槍のように構え、急降下。その時速は水平飛行時の倍、300キロに及ぶ。

 銃座に構える帝国兵の動揺が曳光弾の軌跡に現れる。3基同時に撃たれようが構わない。一直線に最後部の銃座へ突撃、最低限の回避で翼への被弾を躱す。避け切れないぶんは竜鱗鎧で角度を付けて弾く。懐に飛び込んだ。1秒で減速、相対速度を合わせる。

 眼前の帝国兵が自衛用の拳銃を構えようとしながら何事か叫んだ。ケイリーは帝国語を話せない。無言で銃剣を敵の腹に突き入れる。力が強すぎて銃身の半ばまで貫いてしまった。そのまま銃身を回して2人目へ対戦車ライフル弾を叩き込む。上半身を消し飛ばした。3人目は銃座から降り、竜骨上のデッキへと逃げようとしたので、串刺しになった1人目を蹴ってぶち当て、動きを止める。死体と折り重なった敵兵を、死体ごと銃剣で貫く。

 ひとつ銃座を制圧したら後は簡単だ。死体から手榴弾を拝借。3人目が逃げようとした経路から飛行船の内部に侵入し、竜骨に沿って突き進む。内部は飛行船の骨組みを支えるための張線が張り巡らされていたが、いちいちこれを破壊せずともいい。目的は竜骨中央下部、指令ゴンドラ。司令官と舵と無線を一度に爆破できる。エンジンゴンドラを狙ってもいいが、エンジンは通常複数あるので全て破壊するのは時間が掛かる。

 伝声管から指令ゴンドラにこちらの侵入が伝わっていたらしく、ちょうど中央部に到達したところでゴンドラのハッチが跳ね上がった。拳銃を構えた将校が半狂乱で乱射してくる。ケイリーは落ち着いて銃弾をはじきながら、ライフルで肩から上を木っ端微塵にする。都合よく開いてくれたハッチから手榴弾を投げ入れる。爆発の直後に飛び込む。血の海だ。司令官と、ゴンドラに居合わせた無線手と航法士の死亡を確認。設備類が本当に破壊されたかは外装だけでは分からないので、舵と無線機、ついでに発見した発電機を念入りに拳で砕いておく。

 これで、『グナイゼナウ』は風に流されるだけの気球に成り下がった。ひとしきり大暴れしたらゴンドラの壁を蹴破って空に再度躍り出る。僚艦が戦闘不能に陥ったことを察した残り2隻が、下方から猛烈な対空砲火を浴びせる。計18門の機関銃がケイリーに襲い掛かる。舌打ちしながらも、冷静に回避。最初の1隻を沈めるためかなり無茶な位置取りをした。即座にLL級の防空網から飛び出すと、狙っていたかのようにアイゼンフォーゲル2機が背後に着く。


 喰い付かれた。

 未だ1対4。だが、護衛対象はまだ生きている__と仮定する。敵飛行船は最終的に王女の身柄を拿捕するつもりのようだが、ケイリーを捕捉してからは彼女を墜とすための位置取りを絶えず試みている。これでは海上の輸送艦へと捕縛要員を降下させたりはできないはずだ。

 ならばまだ負けていない。

 ケイリーは水面直下まで急降下し、2機のアイゼンフォーゲルを挑発する。やはり乗ってくれた。機関砲が波飛沫を立てる。一手誤れば即海面に激突する超低空機動で、竜と鉄鳥が舞い踊る。

 ケイリーは敵機のレティクルが己の背に合わさるのを感じた。それが殺意だ。速度差で徐々に距離を詰められ、いずれは致命打を喰らう。普通は最高速度に50キロ近い差があれば、勝負にならない。初めから分かっていた。敵が魔女狩りを念頭に置いてくれたのが、今のケイリーにとって唯一の勝ち筋だ。

 水面を蹴るように跳躍。尋常ならざる急制動で速度を激減させる。魔女はそのまま宙返りの要領で水面へと向き直り、対戦車ライフルを腰に構える。またも瞬息のチャンスを掴み取る。追従を躱された敵機は、ライフルの銃口の直下にある。あらゆる偏差の計算を収束し、涙型のガラスに覆われたコックピットを撃ち抜く。ぱっと機内に咲いたザクロの花は、すぐに海面へと激突して潮流に消えた。2機目のアイゼンフォーゲルを撃墜。

 最後の敵戦闘機はケイリーを追い抜いたはず__いや、いない。頭数を減らすのに集中し過ぎた。小半径の旋回機動を取りながら索敵する。


 最後の黒い機影は、ケイリーの後方上空で急降下を始めていた。はっとする。おそらく奴は挑発に乗ったと見せかけて高度を取っていたのだ。急激なピッチアップによる減速を経て、縦方向に180度ロールしてUターンする空戦機動がある。帝国軍のエースパイロットが発明したことからインメルマンターンと名付けられた。一応、こちらの急制動への対抗策が編み出されつつあることはケイリーも警戒していた。だが現在位置からすると、相手はロールを中断せずそのまま360度旋回し切った。ケイリーが僚機を急減速からの反撃によって墜とす、そう見越して追い抜かさずに後方を取れるよう合わせてきた。相当な手練れ……いや、このような下手すれば空中分解しかねない機動を可能とする帝国の科学技術に、魔女は戦慄した。

 曳光弾が視界を切り裂く。回避が間に合わない。竜鱗鎧で大半は跳弾させたが、翼に数発当たった。そしてなにより、唯一の火力である対戦車ライフルをはじき飛ばされてしまった。最後の敵機はケイリーを確実に仕留めるべく、殆ど激突するようなコースで突撃してくる。

 今からでも横っ飛びに避けることはできる。だがライフルを失った以上、撃ち墜とす手段がない。次に距離を取られたらケイリーは逃げ回るだけで手一杯になる。そうなれば敵飛行船を墜とすどころではなくなる。


 竜の魔女はこの仕事を気に入っている。

 やるべきことも、在るべきものも、すべてがこの空に揃っている。本当にシンプルで清々しい、天職だ。

 まだ、墜ちてやるものか。


 ケイリーは竜鱗鎧を新たに励起させる。骨格を強化するように、腕、背、肋骨に、軍服を突き破って美しい装甲が瞬時に生成される。飛ぶ方向は後ろ。機関砲を耐え、引き付ける。プロペラの羽音がかつてないほどけたたましい。

 彼我の距離は10メートルを切る。敵パイロットの、限界まで撃ち続ける覚悟がコックピット越しに映る。

 いい仕事だ。ケイリーはただ素直に敵を讃えながら、必殺の機動を繰り出す。

 バレルロールからの敵機の胴に着地。脚先に生やした竜鱗を喰い込ませて無理やり組み付いた。風にあおられ倒れる勢いそのままに、コックピットを拳で叩き割る。怪力に任せてパイロットの頭を掴み上げ、機外へと投げ出す。アイゼンフォーゲルの乗っ取りに成功した。

 達成感に浸る暇はない。とりあえず操縦桿を引き上げて機首を上に向ける。割れたガラスから塩辛い飛沫が飛び込んでくる。ケイリーは航空部隊と作戦を共にするため、最低限の航空機の動かし方は知っていた。帝国製であろうと、操縦桿を傾ければだいだい思った通りの方向に進むのは一緒だ。航空機に乗るのは苦手だが、やむを得ない。

 進む方向は敵飛行船。胴体に『ヒンデンブルク』と記されている。流石にケイリーがアイゼンフォーゲルを乗っ取ったことまでは観測できていなかったらしく、対空砲火が押し寄せることはなかった。味方機の軌道が飛行船への直撃コースであることに『ヒンデンブルク』船員が気付いた頃にはもう遅い。ケイリーはフットペダルをミシミシ音を立てるまでベタ踏みし、主翼が悲鳴を上げるまで加速。これが人間なら悲壮感溢れる特攻となるところだが、彼女は竜の魔女なので衝突寸前で脱出する。どてっ腹に時速190キロで鉄塊を突っ込まれた飛行船は船体を大きくひしゃげさせ、気嚢内の水素に引火、次々と誘爆を起こしてゆっくりと沈んでいった。


 残る1隻、おそらく『クラウゼヴィッツ』が闇雲な機銃掃射を行う。だが、元々『ヒンデンブルク』と近すぎる距離で編隊飛行を行っていたために、爆炎が機銃手たちの目をくらませていたようだ。爆風にあおられて船体そのものが揺さぶられていたこともあり、照準の精度もかなり甘い。ケイリーは空を染め上げる黒煙を盾に最後の敵の懐へと潜り、一直線に指令ゴンドラの窓ガラスを割って転がり込む。

 指令ゴンドラのクルーたちはすべての手を止め、愕然と立ち尽くした。

 抵抗する者はいなかった。生身で戦闘機3機と飛行船2機を墜とした魔女なら、徒手空拳であろうとここにいる全員を瞬時に壓殺してのける。そんな無力感が帝国兵たちを支配し、その場に縫い留めていた。

 唯一、飛行船指令の将校が進み出て、なまりの強い連合王国語でケイリーに話しかける。

「竜の、魔女か?」

「そうだ」

 王国人と帝国人は異なる民族だが、人種に大した違いはない。銀の甲殻と幻想の翼に身を包んだケイリーの方が、よほど怪物じみている。ケイリーは劣勢の戦争の中で初めて、敵の恐れを間近に感じた。

「見事、だった。敬意を表する」

 だが将校は静かな決意をたたえて、ケイリーに相対した。その手には長いケーブルに繋がれた、起爆装置のようなものが握られていた。

「だから、すぐに離れろ」

 ハッタリなどではないと、すぐに分かった。前方の空で、大爆発が起こった。襲撃作戦の失敗を悟った『グナイゼナウ』が今になって自爆したのだろう。連合王国軍に鹵獲されないように。

 ケイリーは最高速度で飛び退った。将校が起爆装置を押す瞬間、僅かな微笑んだように見えた。それはあまりにも儚く、指令ゴンドラを覆う炎のきらめきの中に灰と消え、船と人とが織りなす断末魔に塗り潰された。エンジンゴンドラ、魚雷槽、ガソリン槽、各気嚢へと順に誘爆して、巨大な空の要塞が墜ちる。

 熱い風に乗った絶叫を背に受けながらも、ケイリーは振り返らずに離れる。敵は仕事を完遂できず、こちらはなんとかやりおおせた。とてもシンプルな理屈で、連合王国軍は今日もを守り通した。

 今はそれでいい。


 ケイリーが輸送艦に降り立つと、汗だくの艦長の熱烈な出迎えを受けた。彼は爆風の被害を免れた水兵たちを伴って、直前まで脱出艇の準備やら負傷者の手当やらで忙しかったようだ。彼らが時間稼ぎの算段を止めたのは、ケイリーが周辺空域のクリアに5分ほど費やしてからだった。

「よくぞ殿下をお助け下さいましたあああああああ!」

 感極まって抱き着こうとする壮年の艦長の頭を片手で抑えながら、ケイリーは冷静に諭す。

「殿下だけを救いに来たわけではない。他に生存者は?」

「本艦は直接攻撃を受けませんでしたが、護衛は全滅です。うちの水兵を救助に出すことも考えたものの、本来の任務を……優先して……」

 艦長はやや口ごもったが、何かを飲み下した後のようにはっきりと述べた。

「見捨てました」

 撃沈された駆逐艦から漏れ出た重油は、未だ燃え盛っている。投げ出された乗員がいたとして、もう確実に息絶えているだろう。邀撃機のパイロットも生存は絶望的だ。戦火に穢されたまま、海は静寂を取り戻していた。ケイリーは艦長の頭から手を離した。

「そうか。では貴艦の仕事を果たせ。私もこのまま護衛として同行する」

 休息のため、魔法を解く。強く念じて、徐々に、徐々に翼と鱗を銀色の粒子へと霧散させる。竜の魔女から人に戻ったケイリーは、長身を頼りなく揺らして甲板をふらつき、艦橋に背を着けて腰を下ろした。

「大丈夫ですか、魔女どの!?」

 艦長がまた駆け寄ろうとするのを、片手をかざすだけで制する。

「魔法を使いすぎただけだ。少し休めばまだ戦える」

「ですが……」

「私に対してあなたができることは、皆無だ。必要になったら呼べ」

 指先で追い払う仕草をすると、渋々と艦長は踵を返した。

 同じ編成の部隊がもういちど空襲を仕掛けてきたら、今度はケイリーが墜ちるかもしれない。その時、この艦長は必要とあらば竜の魔女を見捨ててでも仕事を果たしてくれるだろう。それでいい。人は墜ちたら死ぬのだ。この空はシンプルなことわりで満たされていて、それがケイリーには清々しい。


 輸送艦が再び動き出した。波に揺れるに任せてしばし、目を閉じようとした。

「あの……」

 か細い少女の声が、遠慮がちにケイリーの耳に入り込んできた。

「ありがとうございました。助けてくれて」

 重い瞼を無理にこじ開け、横目に窺う。煤だらけの旅装に身を包んだアイラ王女が、ケイリーと似た体勢で海を眺めていた。豪奢なプラチナブロンドはあちこちが焦げ、頬には血のにじんだ湿布が張られ、けれど彼女の手は傷ついていなかった。

 戦闘の最中、王女は何も成さなかったのだと、ケイリーはすぐに察した。だからあの横顔は虚ろなのだ。

「魔女さまは、とても勇敢なのですね」

 上辺だけ素直な賞賛には、王女の卑屈な自嘲が大いに込められていた。ケイリーはうっとおしさを隠した平坦な声色で答えた。

「仕事を果たしたまでです」

 仕事。役目。使命。天命。責務。およそ全ての連合王国人の中で、王族とは己の存在意義に最も忠実であるべき者だ。

「殿下も、仕事のためにジャバルタリクに行くのでしょう」

 魔女は勇敢だから戦うのではない。そういう時代に生まれたから、出来ることをやるために戦地へ向かうのだ。アイラ王女がどれだけ無力な少女であろうと、彼女が立場に背いて屈することなど決して赦されない。

「なんだか、自信がなくなってしまったのです。前線は……ジャバルタリクは、ここよりもっと恐ろしいところなのですか?」

 なおも空虚に波を見つめるアイラ王女。ケイリーは会話を打ち切ろうか迷った。年頃の少女を慰めるのは苦手だ。同じく波に目をやって十数秒も答えあぐねて、連合王国軍人としての責任ある言葉をようやくひねり出す。

「同じですよ」

 多くの同僚の魔女たちにとっては、ジャバルタリク要塞の第一塹壕線が前線と言えよう。一方、今のケイリーにとっては、辛うじて維持されている制空権の瀬戸際が前線だ。同じようにアイラ王女にとっては、彼女の存在を欲するあらゆるところが前線となり得る。

「どこでも変わりません。あまねく連合王国領が、殿下の前線です」

 突き放したように聞こえるかもしれない。口に出してみると、思ったより残酷な響きになった。ケイリーは王女がヒステリーを起こしたりしないか少し心配になって、その横顔に目を戻す。

「……そう、ですか」

 アイラ王女もケイリーを見ていた。王女の瞳は澄んだ空のように美しい青色で、涙を拭い去った跡がまだ濡れていた。虚ろであっても、濁ってはいない。彼女は薄い曇り窓を1枚破ったように、わずかばかりの現実を直視したようだ。

「逃げ場はないのですね」

 新聞記事を一枚隔てた先に、戦火は燃え広がっている。空から本島に火の粉が降りかかって初めて無力感に打ちひしがれるより前に、アイラ王女は幸いな経験をした。彼女は今ここで、ありのままを見た。それが諦念であれ、ひとつ見通したのだ。


 ケイリーはこれ以上の問答は不要と判断し、目を閉じた。ジャバルタリク半島の方角から、聞き知ったエンジン音がかすかに聞こえ始めた。ケイリーが乗っていた輸送機からの初報を受け、味方の戦闘機が護衛として合流し始めたようだ。しばらくは休めそうだ。

 本島とジャバルタリク半島を繋ぐ風に揺られ、魔女と王女は束の間の安寧に身を預けた。寝ても覚めても、きっとそこは前線だろう。それでいい。己の仕事に向き合うことのできる者は幸いであると、ケイリー・カーライルは思いつつ眠りに落ちる。


 誰だって人には言えない秘密を腹に抱えている。ケイリーだってそうだ。彼女は夢の中で、子供の頃に思い描いた最高に格好いいドラゴンになって世界中を飛び回っている。鋭い角と牙、それと長い尻尾が生えて、翼は今出せるものより何倍も大きく、火を吹くことだって出来て、どんな飛行機よりも速く飛ぶのだ。

 その姿で何を成すのかと言えば……ただ、ケイリーは呑気に遊び回っている。仕事が大好きな魔女の、くだらない夢だ。

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